よいどれひこまひ 熱と眠気で波打ち始めた視界の中、見慣れた緑と白の背中が遠のいていく。薄いノイズのかかった脳がそれをぼんやりと補足し、咄嗟に手を伸ばしたが、まだ中身の残ったジョッキに爪が当たって小気味いい音が鳴っただけだった。
復興事業が板についてきたここ最近の未来機関において、月初めの土曜は飲み会という暗黙の了解が広まりつつある。今日も例に漏れず、その二次会としてやってきたこぢんまりとした居酒屋で、日向は酔いに酔っていた。カン、とジョッキとジョッキの合わさる軽快な音が響き渡る。隣のテーブル――弐大、終里、花村、そして酔い潰れて寝てしまった田中たち――からだった。
その和気あいあいとした喧噪を横目に、日向の横でちびちびと酒を舐めていた左右田がぼそりと口に出す。
「そういやオメーら、付き合ってるくせに別々の方向に帰ってくのな」
「おいお前、オレの居る前で突っ込んだ話するなよ」
うげ、と左右田の向かい合わせの位置に座っていた九頭龍が顔を歪ませた。
「いやァだって気になるじゃん」
「じゃんとか言うな」
付き合ってる、オメーら……ああ、俺らのこと。
ぼけた思考の中、なんとか自分たちのことかと思い至る。今やもう77期生の中では周知の事実となっていることだが――数年程前から、日向は同期の狛枝と恋仲にあった。プログラムから目覚めた直後はあの西園寺すら真っ青になるほど険悪だったふたりがこれほどの仲にまで進展したのは話せば長くなるので割愛するが、まあ端的に言えば日向が吠えて狛枝が折れた。心理的にも物理的にも。
「んで、どうなんだよ日向」
「あーーー……」
ぐびり。
真っ赤な顔でひっつかんだジョッキを傾ける日向に左右田は期待の眼差しを向け、そんなふたりへ九頭龍は「もう知らん」とでもいうように日向に倣って手元の日本酒を飲み干した。
ぐびり。
何度かその健康的に日に焼けた喉仏が上下して、やっと日向が言う。
「……お前らに免じて、だ。友情に免じて言うぞ」
「? おう」
空席となった前方をじいと見据えながら、声は続く。
「アイツは隠した気になってるんだけど……実はこうなる前に同棲してたんだ、一か月だったかな」
「あイヤ、そういう話は良いデス。惚気は余所でどうぞ」
「ただの前振りだっつのホントにやめてやろうか?」
「さぁせん」
冗談だって、と左右田が笑う。惚気がダメなら別れ話でも聞きたいのだろうか。そんなことを九頭龍は思ったが、喉元までに留めておいてお猪口に酒を注ぐ。晩酌をしようと迫ってきた辺古山のことを思い出した(説得し、今は同期女子と話を弾ませている)。
「それにアイツ、同棲の件については隠す気ナシ……あぁそうじゃなくて。そんときに気づいたんだ」
日向の目がどこか遠くを見るような眼差しに変わる。
「アイツ、毎朝俺より先に起きては怯えながら寝てる俺の脈測ってんの」
すい、とジョッキの置いた手で反対側の手首をなぞる。
「多分ほぼ無意識の内に、半強制的に、泣きながら、震える手で一生懸命俺の手首持って、触って、動いてることに安堵して部屋から出ていくんだ」
俯いた日向の生え際から、だいぶ薄くなった手術痕が覗く。
前代未聞のプロジェクトによる後遺症は、現代の医学をもってしても未知数であると言われて久しい。定期的な検診を欠かさず行っていてもなお、診察のほとんどがまだ憶測の域を出ないものだった。
本人があまりにもあっけらかんとしているので77期生の中では緊迫感が薄れつつあるが、あれほど凄惨な人生を送ってきた狛枝には、未だ胸をざわつかせる出来事であることには違いない。
違いない、のだが、日向にはそれがいまいち、毎朝寝ぼけまなこで仰ぐあの顔の原因だったとは思えなかった。
――汗ばんで震えた手、涙で濡れた灰色の目は伏せがちに日向を見つめ、うやうやしく手首に触れては安堵し、脱力して情けなく眉の下がった微笑みのまま背を向ける。おのれの手から離れようとする狛枝をその度に引き寄せ、同棲にまでこぎ着けておきながら、日向は自分にはそこまでの表情をさせる理由になるのか、と今の今まで疑っていた。
「それがなんかな、やられてる側からするとこう、やるせなくてな。その話は伏せて俺の方から別居を提案したんだ」
「それ別の方向に拗れてないか? 今」
思わずといった様子で九頭龍がツッコむ。それに乾いた笑いを返しながら、また日向はジョッキを持って
「それでも、な……」
今度はそれを飲み干す。心なしかすこし迷いの消えた顔で。
「いいんだ、恋人の死に顔見ちまったせいで目覚めることがトラウマになるよりかは、ずっと」
南国での風景を思い出す。未だにあの息絶えた狛枝の姿を夢に見るくらいなのだ。
「俺が死んじまう前に別々の朝が迎えられるようになって良かったと思」
「ッそんなことないじゃないか、キミの死に目に会えないくらいなら怯える朝なんて幾らでも迎えてやる!」
目の前に白いふわふわの長髪が現れた、かと思えばその端正な顔立ちが日向の至近距離にまで近づいて冷たく黒光りする左手が日向のそれを掴んだ。
「キミの最期を看取れるなら、嫌われたって、もう一緒に暮らせなくたって、構わない……」
「忘れてた、狛枝は酔いを醒ましに出てっただけで戻って来るぞ、って」
「でもこれ悪化してね? アッ日向、オレらお邪魔虫だろうしこれで」
ザッ、と蜘蛛の子を散らすように色合いも背もかけ離れたふたりがわちゃわちゃと小突き合いながら足早に去っていく。ご丁寧に、四人分の食事の代金を置いてまで。
「…………」
ふたりだけ――隣のテーブルの面々もいつの間にか消えていた――になった空間が沈黙で満たされる。
それを破ったのは、狛枝が鼻をすする音――待て、泣いている?
恐る恐る日向が狛枝を見る。たしかに涙ぐんでいる。その表情は否が応でも早朝の記憶を思い浮かばせるもので、ここまできてようやく、日向は自分が狛枝の中でそれほど大きく重い存在なのだと理解した。
「……明日、お前んちの鍵返しに行こうな」
「……うん」
返ってきた声は小さかったが、日向の耳にはっきりと届いた。
「あのね、ほんとは日向クンに嫌われたくないし、ボクなんかでいいなら、一緒にいるから」
「おう」
「ううん、違うよね……ボクと、一緒にいて、くれませんか」
「……逆に訊くけどなあ。俺が断るとでも思ったか?」