二人だけの国放課後、君を見かけた。よくある冬のことだった。寒いのが苦手な彼のために雪が降りませんように、そうマフラーを巻き直しながら願った。
テストが終わった日、かっちゃんの取り巻きのクラスメイト達が皆でカラオケに行くと大きい声で話していた。僕はかっちゃんに気づかれないようにリュックを背負って、それからお母さんに頼まれたお使いのメモをポケットの中に探した。卵とお肉と明日の朝食のパン、出久の好きなもの。メモを確認して、後ろの出口から教室をでる。
「緑谷もいちおー誘ってやる?」
かっちゃんの取り巻きが大きい声で話している。僕は一度振り返ってしまう。あ、遅かった。かっちゃんと目があってしまう。嫌そうに目を細められる。
背中を丸めて急いで教室からでる。かっちゃんがなんて言うかを想像する、結構得意だ。誘わなくていい、あいつがくるなら俺は行かない、どっちかだろう。どっちかだといいな。まだ僕にもかっちゃんのことがわかるって自信になるから。リュックの紐をギュッと掴んだ。
スーパーでの買い物は思ったよりも遅くなってしまった。途中でヴィランを倒すヒーローに会えたからだ。最近デビューしたヒーローで、個性の分析が楽しかった。スーパーを出る頃には街は暗くなり始めていた。お母さんに今から帰るとメールをして、買い忘れたものがないかを確認する。
「げ」
反対の道にかっちゃんがいた。この世の全てにムカついているというのが歩き方でわかる。雪が降りそうな冷たい空気の中、彼はずんずんと街を歩いている。そういえばこの辺にカラオケがあったな。吐いた息が白い。かっちゃんもかな。
雪が降りませんように、そう願って、かっちゃんに見つからないように走って帰った。
かっちゃんは次の日も機嫌が悪かったらしく、僕は朝と昼休みに彼に絡まれた。蹴られた机の位置を直していると、取り巻き達がひそひそと話す声が聞こえた。
「勝己、マジギレじゃん」
「お前が水代先輩の家なんて連れてくからだろ」
「だって勝己連れてきてって頼まれたんだって。前から狙ってたらしいよ」
水代先輩というのは、一つ上の学年の先輩だ。とても可愛くて優しい先輩で、いつもゆるく髪の毛を巻いている、らしい。その髪は起きた時からそんなに綺麗なんですかと聞いたら、緑谷くんは本当に可愛いねと頭を撫でられたことがある。僕はひっくり返った、本当に恥ずかしい思い出だ。
一年生の時に同じ委員会だったから、今でも話しかけてもらえる。個性は確か、幻覚系だった。詳しくは教えてもらえなかった。知っていたら意味がないと言われたからだ。
「水代先輩に誘われたのにキレて帰るなんてなあ」
「そんなにタイプじゃなかったのかなあ」
「いや、どっちかっていうと」
取り巻き達が僕の方を見ている。目があって、何度か瞬きをする。教室にかっちゃんがいないのを確認してから、おそるおそる僕の方に近づいてくる。
「緑谷ってさあ」
「え?」
「水代先輩の家、行ったことあんの」
「えっと」
「いやさあ昨日先輩が家に緑谷来たことあるって。嘘だよな?」
質問の意味を何度か考えて、頷く。水代先輩は一度委員会の後に僕を家に連れて行ってくれた。マドレーヌを一緒に食べて、それから、水代先輩が僕の学ランのボタンをはずした。緑谷くん、そう先輩の艶々とした唇が発音したのを覚えている。僕は必死に体を動かして、逃げた。
次の日、先輩のところに謝りに行った。怪我をさせてしまっていないか心配だったから、なるべく急いで。先輩はくすくす笑って僕の学ランのボタンをはずして、またつけて。そういうことを楽しそうに繰り返していた。
「あるよ」
教室の後ろで爆発音がした。クラス全員がわかる、かっちゃんだ。僕は反射的に顔を隠す。かっちゃんが僕の体を押し倒す。耳元で小さい爆発を繰り返す。僕の上にかっちゃんがまたがっている。頬をぶたれた。襟元を掴まれて、顔を近づけられる。赤と目が合う。何かを悲しんでいるような目に瞬きをする。かっちゃんがその目をやめろと力を強くする。痛い、そう反射的に繰り返しても力は弱くならない。
「ふざけんなよッッッ!」
「なっなに」
「お前がっ、お前が、誰かとそうなるなんて、許さねえ、キメエんだよ!クソデクのくせに調子乗りやがって、ふざけんな、絶対に許さねえッッ」
かっちゃんが僕の首に手を回す。体を動かして、なんとか彼から逃げる。机やら椅子がめちゃくちゃになって、他のクラスメイトがただぼんやりと僕たちを見つめている。
「許さねえぞ、絶対」
かっちゃんの言葉に頷く。怒っているし、悲しんでいる。そんなことを言ったらまた怒らせてしまうってわかっているから、言葉にはしない。かっちゃんと僕の関係を今よりよくするために一番大切なことは、僕が思っていることを口にしないことだ。
僕にまたがっているかっちゃんの顔を見つめる。未だに残る焦げ臭い匂いに、また強くなっているのだと思う。なんの抵抗もできずにこうしてただ存在しているだけ。
僕はこれ以上何を許されないのかと考える。個性を得ることすら許されなかったのに。
上鳴くんの考えてくれた語呂を口にしながら、年号を覚える。息が白い、寒さにマフラーを巻き直そうとして、かっちゃんがしっかり巻いてくれたことに気づく。単語帳を捲る指先が冷える。かっちゃんはジュースを買ってくると言ってどこかに行ってしまった。近くにある自販機ではなく、わざわざ遠い方に行ってくれたらしい。
「緑谷くん」
視線をうつす、女の人が立っていた。地元の高校の制服に身を包んでいて、栗色の髪の毛が風に揺れる。水代先輩、そう口にする前に、彼女が嬉しそうに笑う。
「久しぶり。あえて嬉しい」
頭を下げる、先輩は僕の隣に座る。かっちゃんはまだ帰ってこない。どうしていいかわからずに久しぶりだと自分も口にした。先輩の手が僕の膝に触れた。
「怪我はもういいの?」
長い爪先が白い頬をなぞる。僕達のことはやっぱりニュースで知っているらしい。もう随分前のことなのに、まだ心配してくれていたことにお礼を言う。先輩はじっと僕の顔を見つめた。
「相変わらず可愛いね」
「えっえ!そっそんなっことは!」
「でも前よりもかっこよくなったね」
なぜだかたった一歳しか違わない筈の先輩は大人っぽく見えた。女の人、だからだろうか。先輩は僕の顔の傷を見た後、制服を見つめた。
「あの時はごめんね」
「え?」
「緑谷くん、私のせいで殴られたでしょう」
殴る、そう言われて、昔のことを思い出した。かっちゃんとのことを言っているのか。あの頃の彼と僕の関係は、先輩のせいではない。あの頃の彼が僕を殴ったのは、僕がムカつくから。それだけで、そこにはきっと他の感情はないのだから。
「先輩のせいじゃないですよ。僕と彼のことだから」
昼間の残り物みたいな日差しが先輩の色素の薄い髪を照らしている。夕方の公園のベンチは昼間の残り香が多い。砂場の作りかけのお城とか、風に揺れるブランコとか。続いている日常のなかに先輩が現れた。少しだけ非日常なのに、妙に馴染む。
「そうやって」
「え?」
「すぐ二人きりになるところが嫌だったな」
先輩が僕の頬の傷にまた触れようとした。反射的に後ろに下がる。視線を先輩から外すと、かっちゃんが立っていた。名前を呼ぼうとする前に、かっちゃんが勢いよくこちらに向かってきた。そして無言で僕の手を引っ張った。僕は急いで荷物をまとめて、鞄から落ちた筆箱を急いで拾って、先輩に頭を下げる。
「せ、せんぱい、さよならっ」
また今度ゆっくり話をしましょう。そう言いかけて、なんだかもう先輩とは会う事はない気がした。かっちゃんは僕の手をぎゅっと握って歩き出す。右手でぎゅっと握って。先輩は怒ることもなく手を振っている。急いで振り返そうとして、筆箱が握られていたことに気づく。
「さよなら、緑谷くん」
風でブランコが揺れている。砂場の作りかけのお城は少しだけ崩れかけている。かっちゃんは振り向かずに僕を連れて歩き出す。
かっちゃんは立ち止まらずに歩き続ける。僕は鞄に荷物をしまいながら、何とか彼についていく。怒っているかも、そう予感がする。ずっと無言で、ただ僕の手を握って歩く背中を見つめる。手が離されない事実に怒ってるって確信する。
「かっちゃん、喉乾いた」
かっちゃんはようやく止まってくれて、ポケットに入れてくれてあったらしい缶を僕の方に投げる。手を離さないと飲みにくい。ぎゅっと握られた力は、振り払うのは簡単で、振り払いたくない理由だけが難しい。
「かっちゃんから離して、よ」
彼が仕打ちをする。指先が離れて、また掴まれて、指先を最後に撫でるようにして、ようやく手が離された。
「わ、もうぬるくなってる」
「うっせ」
「初めてのおつかい失敗だね」
「ッッせえ!!初めてじゃねえわ!」
かっちゃんの体を今度は僕が引っ張って、近くにあったベンチに座った。ぬるくて飲みやすくなったカフェオレを口に含む。かっちゃんは僕の方に自分の缶を渡す。プルタブをあけると、すぐに奪われた。先輩が見たらびっくりするだろうな。そう思って彼の横顔を見ていると、頬をつままれた。
「飲み物、ありがと」
「おい、あのクソ公園には二度と行かねえぞ」
「えー?いい公園だよ」
かっちゃんも喉が渇いてたのかすぐに飲み干している。空になった缶を彼から奪う。かっちゃんが僕の顔を見る。本当はブラックだって飲めるのに、かっちゃんはいつも甘いものを買ってくれる。
「近くの自販機、あったかいのなかったンだよ。どうなっとんだ、季節感ねえのかよ」
「そっかあ、もう寒いのにね。わざわざ遠くまでありがとう」
「だからあんなクソ女に絡まれる」
かっちゃんの顔が近づいてくる。あ、と発音する。声にもならない。柔らかいものが口に触れる。あつさが後から襲ってくる。ぬるかったんじゃねえの、そうかっちゃんが近くで呟く。先輩の悪口言わないでよ、そう仕返しみたいに呟く。また唇が触れた。
「先輩、優しいんだよ」
「あ?優しくねえわ、あンな痴女」
「ちっ、ちじょ」
先輩とかっちゃんって仲良くなかったのか。僕からしたら、ナードに話しかけてくれる優しい先輩なのに。そう思っていると、かっちゃんが体を抱き寄せる。時々車が通るから恥ずかしかったけど、抵抗するにはかっちゃんはちょっと弱っている気がして、おとなしく彼の腕の中におさまる。
「何話した」
「なに?」
「あの女と何話したか一言一句言え、再現しろ」
「喋る前にかっちゃんが来たからそんなに喋ってないよ!」
「嘘つけ!ニヤニヤクソキメエツラしとっただろうがッ!」
「もともとこういう顔!」
かっちゃんが僕の首元に顔を埋める。付き合ってはいるけど、まだこういう雰囲気にはなれない。毎回どうしていいかわからずにかっちゃんの腕の中に大人しくおさまる。漬物石、そう前に笑われたことを思い出す。
「中学の時」
「え」
「中学の時、あの女に何された」
何?何されたって、そんなの……僕の制服のボタンを外した指先を思い出す。かっちゃんにもそういうふうに触れたのかもしれないと考えて、ああ嫉妬してるのだと浮かぶ。あの日の僕のことを殴ったかっちゃんが浮かぶ。僕だって許せない。
「何にもされてないよ」
「嘘つけ」
「本当!」
かっちゃんは信じてないみたいだった。どうしたものかと思っていると、また唇が触れた。舌が入ってくる。まだ苦しい。かっちゃんの舌先を傷つけないように歯を立てないように、おずおずと舌を絡めた。
「怒んないでよ」
「無理だわ、俺はなアお前の全てにムカつくんだよ」
「恋人にかける言葉じゃないだろ」
かっちゃんが立ち上がる。満足したのか許してくれたのか、呆れたのか、どれかは横顔からは読み取れない。模試いつ、そう呟く声に模試の日にちを告げる。かっちゃんの吐いた白い息が薄暗い空気の中に溶けていく。
「出久」
「わっ」
かっちゃんが僕の腰に掴んだ。そして体を引き寄せられた。
「あの女にはもう近づくな」
「うっうん」
「あと俺もあんなのとは何もしてねえ。お前以外とはしねえ」
「うっうん?」
腰を掴んだかっちゃんの手が離れる。かっちゃんの考えていること、他の人よりもわかる気がしていた。中学の時、誰よりも君を怒らせるのも僕で、理解してるのも僕だと自惚れていた。二人きり、だったから。あの頃の僕とかっちゃんは二人きりだった。周りの人からどう見えるかなんてどうでもよかった。
「かっちゃん、寒くない?」
先を歩くかっちゃんの手に僕から触れた。願わなくても触れることの許された手に力を込める。
「さみいから握っとけ」
二人きりじゃなくなったから、君と歩くことができる。