地下隘路にて(1)くだる
「縄讞達」とかすれた文字の看板を潜り、急な下り階段を進むと、白日照らすアスファルトの下に暗がる道がまっすぐ伸びていく。目的の地下道に辿り着けたのだ。
噂程度の場所を無事に見つけられたことへの安堵、この先でやらねばならぬことの恐れに息を呑み、しばらく入り口の前で立ち尽くす。先程まで背を叩いていた風がすっかり止んでいる。溌剌たる蝉の声も遠く、風景と自分が布1枚を隔てたかのように、どことなく切り離された不安感が忍び寄る。
ざり、
もうひとつ、自分でない足音が前進した。少し背丈の高い、学ランに竹刀を負った、同じ部活の先輩。怖じる態度は微塵も滲ませず、階段を下っていく。低くなっていく頭部を慌てて追いかけた。
幅の狭い階段を、シライ先輩に続いて下る。踏み外さないよう、1段ずつ慎重に。踏み外して怪我をしても、下りきったら最奥に着くまで決して帰れない決まりなのだから。安定感が欲しくて側面に手をつくと、手首にひっかけたビニール袋がかさかさと鳴った。
(2)すすむ
緩やかにくねった隧道は先が見通せず、2人が並んで歩ける程度の幅しかない。天井も、シライ先輩が思いっきり背を伸ばせば手が届くくらいに低かった。若干の閉塞感が息苦しさの錯覚を生んだ。
通路に落ち葉や土ぼこりは存在せず、上下左右を人工的な白い石壁が囲んでいる。光源は何もないのに、なぜだかほの明るい。隅が微かに暗がって見えるくらいで視界に影響は及ぼさなかった。地下だからか、外のうだるような暑さは感じられない。熱くも寒くもない。気温や湿度に意識が向かない、まるで空調で管理された空間のようだった。
とん、とん、た、とん、とん、た、た、
4足の学生靴が微かな音を立てて隧道を進む。音も、温度も、風も、どれも知覚を満足に刺激するものではなく、隣で歩いているシライの存在ばかりがやたら濃厚であった。目元に影を落とし、軽々しくダジャレを吐き続ける口は一文字に結ばれて開く気配がない。背を丸めて前傾気味に、敵対者を威嚇する顔つきを薄めに薄めた無表情。話を切り出しにくい。だけど、クロノにはどうしても言わねばならないことがあったのだ。ここまで来て覚悟が決まっていない弱虫だと、告白しなければならないという意思があった。
「なあ、シライ先輩。やっぱり……」
「もう戻れねえ。そういうルールだろ。それとも、家に持って帰んのかよ」
「……………」
クロノは無言で視線を手元へ落とす。視線の先には、2人が各々の手に下げたビニール袋が2つ。袋自体は特筆することもない、そこらの店のありふれたものだ。特異なのは中身だった。袋の中身は全て、簡素な便箋に入れられた手紙だ。便箋を大量に詰め込まれたビニール袋が膨らんでパサパサと掠れた声を上げている。便箋には宛名だけが書かれており、差出人も住所も記されていない。当然だ。中学校の下駄箱、机、ロッカー、鞄の中へと、差出人の手で直接放り込まれたものなのだから。
2人はこの手紙の山を処分するべく「縄讞達」を訪れた。家や学校には持ち帰れない。呪われた不幸の手紙を安全に捨てるには、ここを頼るより他になかった。
……世は何度目かのホラーブームの最中だった。
短針市およびに短針中学校にも、流行りの波は届いていた。短針中学7不思議など50を超えるほど語られて、心霊スポットや怪しい動画に都市伝説、新たな噂が泡沫のように浮かんでは弾け、すぐに消えていった。中には昔々の怪談や妖怪が引っ張り出されることもあり、「不幸の手紙」もその中のひとつだった。
不幸の手紙というものは、ざっくり言うと昭和に流行ったチェーンメールだ。内容は単純で「この手紙を読んだ人は7日以内に同じ文面の手紙を10人に出さないと不幸が訪れる」などと受取人を脅かすものであることが多い。そのほぼ全てが単なるいたずらや悪質なデマの類であり、不幸の手紙への最も正しい対処は一瞥してすぐ捨てることだ。
短針中学校で出回っているものと、先に述べた不幸の手紙の類型には違いが2つある。
ひとつは、手紙を出す人数。一般的な不幸の手紙は、受取人を鼠算式に増やすため複数人に手紙を出せと書かれている。だが、短針中学校においては1人でいい。いたずら目的のものが新たに書かない限り、手紙の総数は増加しない。
もうひとつは、実際に不幸になったものが──死者の存在が確認されてしまっていること。「男がずっと見ている」と言っていた2年の女子生徒が踏切に飛び込んでしまったのだ。その女子生徒は、不幸の手紙を鼻で笑うと教室で破り捨てて踏みにじり、その日以来あたりをずっとキョロキョロ見回し続けて、最期にはそうなったのだ。多くの学生がそれを見ていて、噂の末尾が結実する。
短針中学校の不幸の手紙には本物が混じっている、と。
そんな噂が立って以降、手紙の押し付け合いは活発化した。同じところをぐるぐる回り続けていては人間関係も悪くなろうもの。そこで生贄の羊に選ばれてしまったのが、たった2人の剣道部員であるクロノとシライであった。
お互い以外に友人のいない2人は格好の的で、50通以上の不幸の手紙が下駄箱・机・鞄の中・体操袋に放り込まれていたのだ。何人かが初めに示し合わせて嫌がらせをし、それに他の生徒も便乗し、不幸の手紙の終点にされてしまった。常に人目があるような状態では不幸の手紙を押し付け返すことも困難だ。手がつけられなくなり、早いもので手紙の1部は期日まであと1日と差し迫っている。
加えて、クロノとシライには、悪戯・嫌がらせであると切って捨てられない事情もあった。
「あれ、まだいるんだろ。家にも帰れてねえのに、戻って何ができんだ」
「…………ごめん。その通りなんだけど。他に──ッ」
「ないよ、なんも。どうせ今日も邪魔してきやがる」
鋭くも大きくはない声がクロノの迷いを遮って吐き捨てられ、手首をがしりと強く握られた。皮膚の分厚いところが乾燥していてチクチクと手首に当たる。日頃は竹刀をグリップしている指が強く食い込み、圧迫感に言葉は途切れた。背後から常に感じる視線よりも、正体不明の地下道よりも、横にいる先輩の方が濃く暗い影を負っているように思えた。
「おれたちには時間がない。他の道はねえんだよ」
もう入っちまったんだからと呟いて、そこで互いに言葉は途切れる。クロノにもシライにも色濃くクマが浮き出ていた。人の悪意にずっと晒されて参っていることもある。なにより、夜に安眠できなくなってしまったことが響いていた。クロノが本物を引いてしまったせいで。
とん、とん、とん、とん、
学生靴が地下通路の床を叩いて鳴る。意識を集中させて──あるいは意識せずにはいられない状態で──2人の不揃いな足音の間隙を見つければ、そこに軽い足音が潜んでいることに気付くだろう。体重が軽く、跳ねるように歩く、こどもの足取りを思わせる音。その源を探ればすぐに答えに辿り着く。
クロノも無視できず、シライに腕を掴まれたまま、顔だけで背後を振り返った。たた、た、た、と不安定なリズムで枯れ枝のように細く細く引き伸ばされた足が地に触れる。手足、動体、首、指のすべてが縦に長い男が、2人の背後からついてきていた。それは、一人の人間の頭と足首を掴んで捻りながら引き伸ばしたような形状をしており、長くのたくって絡まり、細く長い首を前後左右に引き倒しては起こしながら、跳ねるような動きでクロノの背後にずっとついて回った。顔の半分を埋める巨大な右目と、不釣り合いに矮小で縦長な左目が、頭は四六時中ガクガク揺れているというのに、絶えずクロノを眺めているのだ。
細く捻れた男が現れたのは、大量の不幸の手紙を受け取ってから。そして、期限の日が近付くにつれて、男もクロノににじり寄ってきていた。最初は遠くから眺めていたそいつが、いつしか部屋の中にまで現れるようになって、クロノは本物の手紙を受け取ってしまったのだと確信した。踏切に飛び込んだ女子生徒の「男がずっと見ている」という状況に合致してしまっている。
それが家に入り込むようになってしまってから、クロノは家に帰っていない。家族には害や影響はなく、見えてもいない様子なのだが、それでも気味の悪いあの世のものを近付けたくはなかったのだ。野宿も覚悟して家を出たいいものの、その日のうちにシライに捕まって家へと連行された。同じ被害に遭ってしまった、挙動不審な後輩を案じていたのだと言って。
「悪いな、クロノ。おれの巻き添えにしちまって」
「────!!」
後ろの気配のことを考えている途中、不意にシライがこぼしたのは、クロノが思っていたのと全く同じ言葉だった。長い前髪が影を落としていても、目元の険までは覆えない。深い自責に眉間が寄り、クロノが否定を挟むより早く言葉を紡いだ。
「神社の前に陣取ってたのは、おれが喧嘩を買った連中だ。そもそも、手紙を押し付けられたのだって、おれが目をつけられてたから。おまえを巻き込んだのも、おれに嫌な思いさせたいやつらの仕業だ」
「違う! 先輩のせいなわけない! だって、おれが本物を引いたから、先輩はここに来なくてもよかったのに、それはおれのせいだろ!」
「だからその手紙が……はあ、堂々巡りだな。いまの無しにしようぜ」
「…………わかった」
クロノは責任のすべてを負いたがった。シライはそれを許さなかった。シライの布団から抜け出して別の部屋で寝ようとした時もすぐ起きてきて連れ戻された。お祓いをしてくれるところを探すのも、神社に行く道を塞いでニヤニヤ笑っていた上級生と喧嘩になった時も、シライが先陣を切っていた。その喧嘩騒ぎが原因で神社を出禁にされても諦めずに手段を探してくれた。縄讞達の地下道へ向かう時も、前を行くのはずっとシライだった。
「……あの、先輩。手」
「離さねえ」
「…………」
申し訳なさと迷いで遅くなる歩調を体ごと引っ張って戻される。背中を追うことにさえ罪悪感が湧いて、視線がどんどん下へ落ちていった。決めたはずであるのに、クロノはとても弱くて、まだ迷いがあった。シライがここまでしてくれたというのに、情けなくも決断しきれない。手首は強く握られたままだ。迷いを見透かされているとさえ感じた。
床も、壁も、天井も、全く同じ材質の同じ造りで、道は緩やかにくねっている。前へ進んでいるのか、退いているのか。自分が歩いているのは床なのかさえ定かでなくなっていく。背後の悍ましい気配が、クロノの立ち位置を定かにしてくれる楔のようでもあった。
足音が不自然に小さく聞こえて、どこへも響いていかない。どこかに音が吸い込まれていると錯覚しそうになる。こんな場所へ1人でやってきていたら、クロノは今のようにまっすぐ歩けなかっただろう。そして、知らぬ間に禁忌を犯してすべて台無しにしていたに違いなかった。視線とともに思考も内側へ落ちていく。
………………。
…………。
この精神が参りそうな地下道──縄讞達は、呪われた人間だけが辿り着ける地下道だ。看板に掠れかかった文字で縄讞達と書かれているのが名前の由来とされる。縄讞達は呪われた人間が自分を呪った相手へと、呪いを返す意思があるときにだけ現れ、最奥まで行くと自動的に呪い返しが行われる場所だ。入らなければもう2度と出会うことはできない。
縄讞達を利用する際、守らなければいけないルールはふたつ。
ひとつ、最奥に辿り着くまで決して来た道を戻ってはいけない。
ふたつ、呪いに使われた道具が手元にあるならば、持参して最奥にある箱に入れなくてはいけない。
あと、これはルールではないが、注意事項として「悪事の報いによる呪いは己に帰る」と「いかなる呪いであれ縄讞達は10倍にして返す」とも語られていた。ルールを破った場合、利用者は即座に縄讞達の外へ放り出され、呪いが少し強くなるという罰を受ける。
そして、縄讞達によって呪いを返された者は例外なく悲惨な最期を迎えるとされる。
クロノは最後の手段として縄讞達を訪れたものの、注意事項の2つ目によって決断しきれずにいた。不幸の手紙を押し付けられたことは許せないが、10倍で返るというのは過剰な報復だとも思ってしまうのだ。
悪戯目的でその場で手紙を書いて増やした者でさえ、10倍の力で返されてはただではすまないだろう。では、本物を送ってしまった者はどうなる?
たた、た、た、たたた
背後から聞こえる音が末路を示唆するようだった。
(3)ならぶ
クロノの足は鉛のように重たくなり、ほとんどシライに引きずられるような形になっていた。クロノの足取りが鈍るほどに手首は強く強く掴まれ、シライが前へ進む速度は早まっていく。地下道はどこも一定のほの明るさを保って無機質だ。足早に進む2人の手元でビニールが葉がこすれるみたいに鳴った。
「クロノ」
「…………ごめん」
「クロノ、大丈夫だ。わかってるから」
強く、大きく、確固たる意志を持って、先輩は前へと踏み出していく。進むごとに手首を掴む力も強くなり、神経がみちみちと圧迫されて痛むが、クロノは俯きながらほんの僅かに顔をしかめるだけで口には出さなかった。
縄讞達はどこまで行っても白い石壁ばかりが続く。緩やかに不規則にくねる道は先が見通せず、距離感も、時間の感覚も失われていくようだ。どれくらい歩いたのか、最奥まであとどれほどあるのか、すべて分からない。足が石になったみたいに重たくて、持ち上げるだけでも精神が擦り切れていく。シライと同じで、わかっていたからだ。
クロノが踏み出す1歩1歩が、故意の殺意に変わっていく。
後ろの気配も付かず離れずついてくる。
背後のものをつれて、手紙を持って、この道の果てへ辿り着けば、本物の手紙を出した下手人は死んでしまう
クロノが助かるためには、呪いを返すしかない。
クロノが助かると、手紙を出した誰かは死ぬ。
悪戯の手紙を出していたものも10倍返しのひどい目に合う。それが縄讞達のルールだ。クロノは自己防衛のために誰かを殺すのだ。
そんなひどいことをするのに、先輩を道連れにしてしまった。選択する苦しみも全て担わせて、なのにクロノは今も手を引かれるがままでいる。
「だから、おれが先に進んで引っ張ってやるって決めてたんだよ」
「っ、ごめん、ごめんなさい……!」
「おまえは悪くねえ。おれにも、誰にも謝んな」
シライ先輩は最初から、人殺しの罪を一緒に負うつもりでついてきていた。
申し訳がなかった。先輩に覚悟をさせておきながら、決断しきれない自分が情けなかった。
ぐっと腹に力を入れて息を吸う。謝ることも拒否されるならせめて。クロノは重たい足を何とか大きく動かして、つんのめりそうになりながらも、シライ先輩の隣へ踏み出した。謝れないならせめて、隣に立って歩かねば。
「……無理はすんなよ」
「してない」
「手は離さねえからな」
「うん」
先輩に強く手首を握られて、片手にビニール袋を提げ、並んで歩くのがやっとの幅の地下通路を進む。長く、くねり、終りが見えない道を、顔を上げて見つめる。シライ先輩の背中を見ていた時よりも、隣で並んで歩いている今の方が──背負う罪の重さは変わらないのに──少しだけ足が軽くなったような気がした。
「なあ、おれら結構歩いたよな」
「まだ1時間経ってもないくらいじゃないか。足の疲れ方がまだ浅いし、確証ははないけど、数時間も経ってない、と思う……」
「ならいいんだが」
スマートフォンを取り出して時刻を見ればいいだけなのだが、2人ともそうしようとは思えなかった。
先も述べた通り、押し付けられた手紙のうち、早いものは今日が期限になっていた。大きく書かれた「命日おめでとう!」という黒板の飾り文字が脳裏によぎる。
どの時刻になったら背後の捻じくれた男が迫ってくるのか、正しい情報がないのに何を確認すればいいのだろう。見たところで日付変更時刻という最終ラインでしか認識できないうえ、いまは煩わしく思えるチャットの通知を見せてくるだけだ。
目的地までの距離もわからない。期限も不明。ペース配分なんてものもなく、ただ奥まで進むだけ。ひょっとしたら先はまだまだ長くて、今からずっと全力で走り続けなければ、手紙の期限までに辿り着けないということもあるかもしれなかった。
「……………………」
クロノは胸の奥で、もしも間に合わなかった場合のことを考える。
自分は背後の男に殺されてしまうだろうが、一緒にいるシライはどうなってしまうのか。諸共に殺そうとするなんてことはないとは思う。だけれど、クロノを連れて逃げようと、シライが道を戻ってしまうことは想像に容易かった。
できるなら、クロノにことは捨て置いて、シライ1人で奥まで行ってほしい。どのように言葉をかければそうしてくれるのか、喋ることの不得手なクロノには思い付きそうにもなかった。
冷たい指と爪の先がが手首の内に食い込む。
「いっ……!」
「……何、考えてやがる」
「な、なにも……」
「そうかよ」
言外の圧を皮膚越しに浴びせて後輩の口を噤ませ、前だけを見据えるシライ。目元に落ちる影は濃く、どんな言葉もいまは届きそうにない。寝不足も相まって目つきも剣呑そのものだった。心を読まれているのだろうか……。
「前見てろ。転けるぞ」
「……うん」
それでも、内心でクロノも覚悟を決めていた。もしも間に合わなければ、自分の分の手紙も持って奥へ行ってくれと遺言を伝えよう、と。優しいシライには最後の頼み。断ることはできないだろうと、卑怯な確信をクロノは静かに苦く噛み締めていた。
その覚悟も、すぐに必要がなくなった。
(4)おわる
終点は不意に現れた。
白い石造りの通路の狭い天井が、突然2倍以上にも高くなった。幅も何倍にも広がって、突き当りは半円形の小部屋のようになっていた。ここが縄讞達の終わり、呪い返しの最奥だ。あとは手紙を収めるだけですべてが終わる。
クロノに降りかかる呪いも、差出人も。
「箱に手紙を入れりゃよかったんだよな。どれだ?」
「箱っぽいの、あそこに横倒しになってるあれくらいだけど……」
箱もすぐに目星が付いた。正確には、それ以外になにかを収められそうな物が部屋になかったのだ。通路と全く同じ材質の、色だけが異なる石製の直方体。黒みがかった深緑で、長い辺は2mほどありそうだ。直方体の3分の2ほどを同じ材質の蓋が覆っており、中によくわからないものが詰められていた。
「箱というか、石棺? みんなここに入れてるのかな」
「…………蓋されてるとこの奥までびっしり詰まってんのね」
箱を覗き込んでいたシライがすっと──後ろに下がらないよう──横にずれ、代わってクロノが縁に手をつき中を覗き込む。石材は見た目の通りに滑らかでひんやりとしていた。
まず目についたのは木彫りの小鳥だ。目だけに色が塗られていて、濡れたようなニスの加減が生々しい。その真横にずしりともたれるのは全体に山吹色の刺繍のある巾着であった。紐は固結びされていて中身はわからない。その上にちょこんと篤██工業の社員証が乗っている。社名の一部や顔写真などの情報は塗りつぶされていて、その下で黒褐色のシミが蠢いた、ような気がした。
「う…………」
メモの切れ端、ガラケー、スポーツ靴、大きな宝石のブローチ、モデルガン、試験結果通知、ヘアアイロン、お守り、骨伝導イヤホンの片方……。1つ1つを注視するとおかしなところのじわじわとにじむ、呪いの媒介にされた残骸たち。これだけの数、誰かが誰かを呪い、呪い返しがなされたのだ。世の中にあふれる人の負の感情の結晶が、石箱の中に収められている。
ここに、今からクロノたちも加わるのだ。
クロノがまごついている間に、シライは横から手を伸ばし、さっさと袋を持ち上げて、箱の中に手紙をひっくり返していた。パサパサと軽い音を立てて、暗がりに消えていく。屈みもせずにやるものだから、数枚が石箱の外に溢れてしまった。自分でも粗雑な振る舞いだと感じたのか、シライは言い訳のトーンで口を開く。地下にやってきてから始めて明るい声音を聞いた。
「いや、ビニール袋は入れらんないだろ。呪いに使われたもんじゃねえし」
「袋をひっくり返すにも、もっと近付けてやればいいんじゃ」
「……そうだな」
床に落ちたものを拾って入れてから、シライは再び横に退いた。促されている。次は、クロノの番だ。
緊張で口が乾く。指先が冷え切って震える。かさり、持ち上げられたビニール袋の中で紙が擦れた。あとは口を下へ向けるだけ。
「いいの?」
背後から声がした。シライのものではない。低く、か細く、粘着質な唾液の絡んだ不愉快な水音混じりの声音。あの捻れた男が、肺から長く伸びて絡んだ首に呼気を通して、ひゅうひゅうと語りかけてきているのが振り返らずともわかった。声が近く遠くなるのは、すぐ後ろに、肩口に頭を近付けて、首をガクガクと揺らしているからだろう。そうやって、クロノに本当に呪い返しをするのか嘲り尋ねているのだ。
「いいの? いいの? いいの?」
落とせば最後、学校にいる誰かが死ぬ。その事実を再び突きつけられ、指が激しく震えた。
背後の気配が意気地なしを嗤っている。もう時間がない。誰も傷つかない選択肢はとっくの昔に消えてしまった。クロノはどうすればよかったのだろう。妹のトキネならば、もっと温和に解決できたのではないかと、今更な言葉が浮かんで自分を責め立ててくる。熱くもないのに汗が全身を濡らしていた。呼吸が荒くなる。今にも倒れそうなほど鼓動は乱れていた。
「いいよ」
反対側から、声がした。
反射的にそちらへ顔を向ける。シライが眉尻を下げた、見たことのない顔で笑っていた。
「ここまで来たんだ。本当に効果があるのかもわかんねえ。やるだけやってみようぜ」
「しらい、せんぱい」
「それになんだ……おれはさ、顔もわからねえ誰かより、お前に生きててほしいよ」
「…………!!」
がんっ、と横から頭を殴られたような衝撃があって、脳で何かを考えるより先に、衝動的に手が動いた。傾けられたビニール袋から不幸の手紙が滑り落ちていく。それが、やけにゆっくりとして見えた。最後の1枚も石の箱の底へつき、シライのものと合わさってかさばり、小山を成した。
呪い返しの条件は成った。
は、と息が輪郭を消して漏れ出していく。
ず、ずず……、
重たく、擦れるような異音が、すぐ目の前の箱から鳴った。気付かぬうちに箱の前に膝立ちになっていたクロノを、シライが抱えて石の箱から横方向に引き剥がした。脇を下から掴まれて引っ張られつつも、足を曲げて立ち上がってみると、音の正体はすぐに判明した。石箱に被さっていた蓋が、独りでに閉まっていっている。
クロノはシライとともに、それを黙って見ていた。そんな決まりはないはずだが、静かに眺めているべきだと直感したのだ。ず、ずずず、と足元に僅かな振動を伝えながら、石の箱が閉じていく。残り僅かな隙間から、からんからんかららと摺鉦が高らかに打ち鳴らされ、袋小路にくわんくわん反響した。
生ぬるく湿った風が吹き抜ける。
2人はアスファルトの上に立っていた。日はとうに暮れ、ヒグラシの名残り声が微かに聞こえてくる。稜線を掠める赤はビル群に覆われて見えず、裾野をほんのり明るく染めるばかり。地下の最奥から地上まで一瞬にして移動させられたのだと、数分が経ってから心地がついた。頭の内側ではまだ摺鉦がかんらかんらと鳴っている。
上手くいったということだろうか。それとも、なにか間違えて追い出されてしまったのだろうか。隣にはきちんとシライも立っている。1人だけ追い返されたということもない。あとは、背後の捻れた男がどうなっているかだけ。
「…………見なきゃ」
「ああ」
何を言うでもなく、2人同時に振り返る。
そこには何もいない。
街頭に照らされてぼんやりと白線を光らせるアスファルトがくねりながら続いていた。ずっと漂っていた不吉の空気もなく、蓄えられた真昼の熱がむわりと立ち込めていた。呪いは、クロノの元から立ち消えたのだ。
「念のためだ。今日1日はこっちに泊まっとけ」
「わ、かった。家に連絡する」
スマートフォンを取り出して耳に当てるクロノを横目に、シライは腕を上へやってぐっと伸びをした。息苦しい閉塞感は去り、夜の夏風が学生服に湿った匂いを吹き付ける。頭上を遮るものはか細い電線ばかり。
見上げた空には1番星が漸く輝き出している。
蝉の声は、しばらくして止んだ。
(5)ひみつ
縄讞達へ行くにあたり、シライはとある決意を抱いていた。無事に事が済んだために伏せられ、2度と日の目を見ない秘密。
たった1人の後輩、クロノとの出会いは中学入学前まで遡る。クロノの妹は誘拐の被害にあいかけたことがあり、当時小学生であったシライもその現場に居合わせた。この頃から身体能力が異様に発達していたこどもであったシライは、竹刀1つで誘拐犯を伸した。その時からの縁もあり、クロノが踏み出した先がシライのいる剣道部であった。1人きりの部活動に、人並み外れた強さから浮いていたシライがどれほど嬉しかったか。クロノはいっぱいいっぱいで気付きもしなかったのだろう。
「おれは、強くなりたい。先輩みたいにトキネを、おれの妹を守れるようになりたいんです」
顧問も滅多に来ない、部員も2人だけの部活に入っていいのか問うと、クロノはまっすぐな目で応えた。それもまた嬉しくて、シライはクロノを強くしてやると約束した。2人での学校生活は楽しかった。部活も楽しくて仕方なかった。
浮かれていた。
人の良いクロノが、小学校からずっと陰湿な嫌がらせを受けているなんて思わなかったのだ。シライを目の敵にしている連中がクロノにも手を伸ばすなんて考えもしなかったのだ。
不幸の手紙なんてものにクロノを巻き込んだのは、浮かれていた自分のせいである。ちょっと頭を使えば防げたことであったと、シライはそう認識している。
自分への嫌がらせなら耐えられた。売られた喧嘩はほとんど買ったし、挑発には挑発を返してきたことの因果でもある。だが、何もしていないクロノが、昼休み明けの教室で「命日おめでとう〜!」や「明日から本当のゴーストくんだな」などと囃されるのは道理が合わない。我慢がならなかった。
本物の不幸の手紙を引いたあと、誰に送るでもなく対処しようと駆け回っていたクロノを邪魔したことはもっと許しがたい。嘲りながらその場で不幸の手紙を書き出し、屑籠にでも入れるように鞄に押し込んできたやつも。神社への道を塞いだやつも。もう知ったことではなかった。
だが、そいつら全員と手紙の押し付け合いをするのも不毛だし、なによりクロノがそれを嫌がった。
そんな時だ。縄讞達という呪い返しのできる地下道があると噂を聞きつけたのは。シライは効果があるのかもわからない場所であるからと、最後の手段としてそこを使うようクロノを説得した。クマを濃くしながら自己犠牲を考え始めただろう後輩に縋り、説き伏せ、辿り着けるかもわからないからと、その不確かさを建前として連れ出した。
結果、無事に縄讞達を探し出すことに成功し、効果もあったようで心底安堵した。この十数日ずっとついてまわっていた青白く引き伸ばされて捻じくれた男のようななにかも消え去った。夜中に竹刀で殴りかかっても触れもしなかったし、塩なども効果がなかったから、縄讞達によって追い払われたようで何よりだ。
「……生きてる」
おかしな男の視線も気配もない、久方ぶりの健やかな夜。クロノはシライの隣で穏やかに目を閉じて胸を上下させていた。寝息が微かに聞こえることの幸福を噛み締めながらシライも目を閉じる。
──もしもの話。
もしも、クロノに迫る期限に間に合わなかったら、縄讞達を見つけられなかったら、縄讞達の呪い返しに効果がなかったら、クロノが呪いを抱え込むことを選んでしまったら。どうあっても、クロノを1人で死なせるつもりはなかった。クロノごと本物の手紙を抱えて縄讞達を戻り、一緒くたにどこかから飛び降りてしまうつもりだった。
「生きるも死ぬも、一緒がいいっしょってな」
明日以降の学校で、送り主たちに何が起こるのかはまだわからない。ただ1つだけ確かなことは、クロノが気に病むだろうことだけ。シライだってなにも感じないわけでない。それでも、シライはクロノを生かすことを選んだのだ。余計な重荷は背負わせられない。数々の決意は秘されたまま埋葬される。
翌朝の短針中学校では緊急集会が行われた。数名の行方不明者、原因不明の体調不良で搬送された者数十名が昨晩一気に出たとのことで、校内に原因がある可能性が高いと見られ、調査のため数日間に渡る臨時休校の指示が出た。
しかし、体調不良の原因となるようなものは何も検出されなかった。行方不明者に関しても、特にイジメなど学校側に問題はなかったとされ、3日後に授業は再開された。
クロノとシライが件の生徒たちに不幸の手紙を押し付けられていたことも発覚したが、誰にも渡すことなく処理したと回答したので、その話はそこで終わった。
何者も溢れた生命を掬わぬ世界にあって、天秤が傾くことを誰が咎めようか。