【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/05ニコラシカ 『Veil』のカウンターには、ひとつ間を空けてもう一人、客が座っていた。長く通っているらしく、マスターと談笑しながらグラスを傾けている。
僕は作ってもらったカクテルを飲みながら、言葉少ななピッコロさんにとりとめもない話を聞かせていた。水煙草を共有して以来、ほんの時たま笑顔を見せてくれるのがたまらなく嬉しい。とはいえ先日の路地裏で見た荒んだ雰囲気など、まだ分からないことの方が多かった。
「何か飲まれますか」
残り少なくなっている僕のグラスを見て、ピッコロさんが尋ねてくれる。
「どうしようかな……」
まだ酔いは回っていないが、酒に詳しくないので何が飲みたいというものもない。いつも「甘いもの」「さっぱりしたもの」というような注文をしている。思案していると、隣の客がマスターへ、ニコラシカを、と言うのが聞こえた。かしこまりました、と答えたマスターが半身だけ振り返り、棚から小さな瓶を取り出す。
「ネイル、こっちだぞ」
マスターの腕を引き止めて、ピッコロさんが別の瓶を取り出した。マスターは自分の握った瓶と、ピッコロさんの差し出した瓶を見比べる。同じ大きさの瓶にはそれぞれ手書きのラベルで、「Sugar」「Cinnamon Sugar」とあった。
「失礼……ありがとう」
「しっかりしろ、次は塩でも入れるか?」
「おいおい、手厳しいな」
マスターは笑って答え、ピッコロさんが差し出した瓶へ手を伸ばした。受け取る瞬間、二人のまなざしが交錯し指先が僅かに触れ合う。ほんの一瞬のようにも、意図的に長く触れたようにも見えたが……深く考えるより早く、マスターは砂糖の瓶を持って客の前へ戻る。
僕は見るともなしに、先ほどピッコロさんの指先へ触れていたマスターの手元を眺めた。小さなグラスに、ブランデーがそのまま注がれる。輪切りのレモンが蓋のように載せられ、更にその上に砂糖が盛られた。不思議な見た目のグラスが客に供され、マスターが砂糖の瓶を持って振り返る。
瓶を棚に片付け、ふと、マスターがピッコロさんの背中を引いた。
「今度はこっちの番だな。襟が乱れている」
「ああ……悪いな」
ピッコロさんはマスターに引き寄せられるまま、抵抗する様子もない。背中を引いたマスターの片手が、そのまま身体の側面に回され、その場へ押し留めるように添えられる。
空いている方のマスターの指先が、ピッコロさんの首にそっと触れた。一瞬だけ息を呑んだようだったが、マスターは構うことなく、白い襟の縁を辿って整えている。長い指の背がうなじを這うのを、ピッコロさんは俯いてそのまま受け入れていた。顔を伏せているため、その表情を伺い知ることはできないが、かすかに浅く感じる呼吸の音が僕の耳を濡らす。端から端まで丁寧に縁をなぞり、引っ掛けられたまま折り目を整えるマスターの指先は、カウンターのこちらから見ていると愛撫を施しているかのようで目を奪われた。
「……ネイル」
「待て、動くな」
後ろから回された細い指がボタンの位置まで襟を整え、喉の薄い膚を辿って首元へ這い込む。内側から襟を軽く持ち上げ、タイの形を整えた。
やがて身体の脇にあったマスターの手が腰の後ろまで滑り、ピッコロさんをこちらへ軽く押す。マスターもまた、自分の客の前へ戻っていく。ほんの数秒の出来事だったが、やけに艶かしく感じられ鼓動が早まった。
「……あの、砂糖ののったのがニコラシカ?」
「はい。砂糖を口に含み、レモンを噛んで、ブランデーを飲む……」
口の中でカクテルを作るということか。一風変わった飲み方に興味が湧いた。しかし目が合った途端、ピッコロさんが首を振る。
「お客様には、まだお薦めできません。度数も高くなります」
確かに、ブランデーをそのまま飲むのだから度数は高いだろう……ピッコロさんが言っていることは当然なのに、暗に未熟だと言われたようで、少しばかりもどかしい気持になる。
「ブランデーサワーは如何です? レモンの風味も楽しめます」
「じゃあそれで……」
結局、またピッコロさんに決めてもらってしまった。何だか情けない気もしたが、色々と考えてくれるのが嬉しくもあり複雑だ。
冷たい音を響かせて、シェイカーに氷が入れられる。ブランデーとレモンジュース、それからシュガーシロップ……なるほど、構成はニコラシカとほとんど同じだ。ほの明るい照明の下で、シェイカーがきらめく。もう何度も見たはずなのに、ピッコロさんの腕のしなやかさに、僕は何度でも目を奪われる。
脚のついた背の高いグラスにカクテルが注がれ、最後にレモンとチェリーが飾られた。いかにもカクテルらしいカクテルだ。
「どうぞ」
ピッコロさんはいつも、二杯目からは一緒に「ライム入りトニックウォーター」を出してくれる。はじめに来た時の印象で、よほど僕が酔いやすいと思っているんだろう。あの時は既にかなり飲んでいたと言うだけで、人並みには飲めるつもりなのだが……。
「美味しいですね、これ。レモンのいい匂い」
「今日、マスターが仕入れてきたレモンです。あれは……」
「自分で選ぶことにこだわるんでしたよね、マスター」
先回りして口にすると、ピッコロさんが目を撓ませた。その優しげな笑顔が僕に向けられたものなのか、こだわりの強いマスターに向けられたものなのか分からず、一瞬混乱する。
ブランデーサワーは甘酸っぱく、飲みやすく、最後に炭酸水が入れられたためか度数もそう高くなさそうだ。レモンの風味は清々しく、琥珀色のカクテルに、チェリーの紅色は映えていた。
「研究は、いかがですか」
何気ないピッコロさんの問いに、僕は驚いて顔を上げた。これまで、ピッコロさんから質問などされたことがあっただろうか? こちらの話は聞いてくれるが、深く尋ねたりはして来ない……ずっとそんな風だったのだが。
「ぜんぜん、上手くいかないんですよ」
「……」
「もう、何回仮説を立てても見当外ればっかりだし、やっとまとまると思った矢先に穴が見つかるし、そうこうしていたら思わぬところから先を越されたりするし、嫌になっちゃいますよ。この前だって……」
せっかく尋ねてくれたのに、話し出すと愚痴が止まらなかった。ピッコロさんはあくまで静かに、短い相槌を打ちながら聞いてくれている。
「でも、絶対に成果を出せると思うんです。研究って孤独だし、辛い時もあるけど……何度挫折しても、何度でも立ち上がってやり遂げるつもりですよ」
「……お強いですね。おれは……」
ピッコロさんが口を開きかけて、すぐに閉じた。おれは……何なのだろう? 気になったが、今の僕にはまだ、追及できなかった。
思い出したようにカウンターの下からチョコレートを取り出し、僕の小皿へのせてくれる……つもりだったのだろう、その手がわずかに僕の指先に触れた。刹那、僕の中に妙な緊張が走る。指はすぐに離れたが、触れた感触が確かな熱を残した。それなのに、ピッコロさんは何事もなかったかのような態度でいる。それが余計に、僕をかき乱した。
「……では、今度は別の場所へ調査に?」
「ええ、だから次はこのくらいの大きさの……あっ!」
トニックウォーターのグラスに手が当たり、大きく揺らめく。倒れる、と思ったその瞬間、ピッコロさんの手が上手いことそれを支えた。
少しだけカウンターを濡らして、グラスは倒れることはなかった。自分の客とにこやかに話しながら、マスターがピッコロさんへ素早くクロスを渡す。ピッコロさんはマスターへ目線も遣らずにクロスを受け取り、すぐにカウンターを拭く。
「すみません……ちょっと熱が入っちゃって」
「よくあることです」
ピッコロさんは答えてくれたが、僕はさっきの、瓶を間違えたマスターへの軽口を思い出す。マスターの失敗は、あんなに気安くからかっていたのに……僕への優しい態度に、余計に距離を感じた。
「……それに、すみません、研究の愚痴なんて」
ピッコロさんは減った分だけトニックウォーターを注ぎなおし、僕を見て首を振った。
「お客様のお話を伺うのも、バーテンダーの仕事ですから」
「そう……そうですか……」
カウンターの内側で、マスターは振り返りもせずピッコロさんからクロスを受け取っている。何年も共に過ごしたのであろう二人の間には、言葉なくとも伝わる何かがある。
やはり振り返らず、マスターが軽くピッコロさんの腕に手をかけ引き寄せた。狭いカウンターの中で、二人はもたれ合うような姿勢になる。ほんの一瞬だったが、ピッコロさんはそれを受け入れるように身を寄せ、マスターの手へ両手で小さなコルク抜きを握らせた。
目を合わさずとも、互いが互いを受け入れる準備が常にできている。何が必要か、何を求められているのか、分かっている。その様子が、僕を疎外感で打ちのめし、重苦しい嫉妬に浸した。
ピッコロさんが僕に優しくしてくれるのは、やはり仕事だからなのだろう。笑顔を見せてくれるようになったといっても、所詮、バーテンダーと客でしかないのだ。僕はカウンターの外にいて、マスターのように近くでは過ごせない……。
胸の裡が澱に満たされ、その日はもう、さっきまで清々しかったレモンの風味すら分からなかった。