【ネイP】解剖台で夢を見た/02.アクリル越しの視線 この研究所で正式な「宿直」が廃止されてから、五年ほど経つ。
研究室の真下にある、地下の仮眠室。ネイルだけが鍵を持ち、時おり利用していた。研究熱心なあまり、誰よりも帰宅が遅くなることが多い。今夜も、ネイルのいる部屋にのみ煌々と明かりが灯っている。
石室の標本は、死んではいない。
そう感じるたび、ネイルは「死んでいる」証拠がいくつもあると、論理で直感を抑えようとしていた。目の前に横たわるのは、「誰か」ではなく「何か」なのだと。
その晩、予定していた検査を終えたネイルは、検査機器と記録用の端末を止めて、解剖台の上のN037を見つめた。検査機器の唸りが止むと、検査室はかすかな空調の震えだけを残して静まり返る。
記録には残さなかったが、ここ数日、検査中の指先に「脈打つような感覚」を覚えることがある。錯覚なのか、自身の動悸によるものなのか、あるいは……。
本来なら、決して行うべきことではなかった。そもそも、医療従事者でなくとも、強い抵抗を覚える行為のはずだ。そこにあるのが、死因も分からない見知らぬ遺骸であることを、疑っていなければ。
ネイルは迷わず、横たわる遺骸の胸元に……心臓の位置に、耳を寄せた。消毒液の匂いの、なめらかだが体温のない肌。指を立てればやわらかく沈み、その内の骨格をはっきりと辿ることができる。自らが刃を入れた縫合跡が目の前にあり、ひそやかな記念のようだった。
呼吸の音すら邪魔で、息を止めた。目を閉じ、聴覚だけに集中する。
……拍動も、筋繊維の擦れる音も、一切感ぜられなかった。
なのに、皮膚の内側に、微弱な圧力があるように思われてならない。確かにそこに、生命の営みと称されるべきものが、存在しているような……。さりとて、それを証拠付けるものは何もない。ほんの僅かな、血の巡りの音さえも。
――やはり、これはただの遺骸だ。さんざん検査して、分かっていたことではないか。
ネイルはゆっくりと顔を上げ、遺骸の胸元を消毒液で丁寧に拭った。では、あらゆる項目の検査をしているのに目立った異常はなく、それでいて腐敗の兆候すら見られないのは何故なのか……。
どっと疲れが押し寄せ、その日は帰宅を諦め、薄暗い地下の仮眠室で夜を明かした。頭上に眠る石室の標本と、せめて夢で声を交わせるよう祈りながら。
徐々に、ネイルは仮眠室に泊まり込むことが増えていった。初回の解剖より後は、一人で検査に臨んでいる。もともと誰より早く出勤し、誰より遅く帰るネイルが、たびたび職場で夜を明かしていることに、気付く者はなかった。
仕事は、石室の標本に関することだけではない。解剖医としての通常の仕事……身元不明遺体や特殊死の解剖と調査、死因の特定。医学的所見の記録と、報告書の作成。
日に三度の温度確認のたび、ネイルは必ず観察窓の蓋を開く。開くだけでなく、部屋に他の者がなければ、物言わぬ遺骸に話しかけるのが、彼の習慣になっていた。
本来なら、研究対象物として無機的に扱うべき遺骸だ。しかしもはや「標本」とは、思えなくなっていた。
解剖台の上で触れる時でさえ、検査とは無関係のことばかりが脳裏を過る。
――お前はこんな風に、誰かの手に長く触れられたことがあるのか?
――石室の中で朽ちていた服を、お前が目にしたら悲しむだろうか……。
閉じた瞼が開くことはなく、黒真珠を削ったような爪が伸びることもない。口を開けさせ、すみれ色の口腔を観察することは出来るものの、唾液の分泌はない。澄んだ眼球に瞳孔反射はみられないのに、その奥から誰かがこちらを見つめ返しているような気がする。
今夜も、随分と遅くなった。とはいえ、帰ろうと思えば帰れない時間ではない。ただ、「遅くなった」という理由がほしかった。地下の仮眠室へ泊まり込むための、言い訳として。
遺骸の存在を頭上に感じると、不思議と安らいで眠れた。
ケースの温度確認をして、ネイルは観察窓の蓋を開ける。澄んだ新芽色の膚を、研究室の青白い照明が照らしている……整った鼻梁の陰影が頬に落ち、精緻な彫刻のようだ。
この頬が微笑に持ち上がれば、どんな風だっただろうか。
今は軽く曲がっている指は、親しい相手の手を、どのように掴んだのだろう。
「生きているお前に……会ってみたかった……」
思わず言葉が零れた、その時だった。
遺骸の瞼が、かすかに震えた。
見間違いかと目をこらしたネイルの目前で、長く閉ざされていた瞼が、ゆっくりと開いた。
強化アクリル越しに、はじめてまなざしが交わる。
驚愕より先に、やはり生きていた、という喜びの感情がネイルの裡に去来した。そして次には、何百年も腐敗しなかった遺骸が蘇ったとすれば、検体としてどのような扱いを受けるのかという恐怖……。
ほとんど衝動的にケースを開き、目を覚ました同族に語りかける。
「ここにいては駄目だ、私の家へ……」
「……」
「立てないのか?」
頷くことも、言葉を発することもなく、石室の標本だった者は、ただ目線で答えた。あまりにも長い時間、仮死のような状態にあり、声帯も身体も上手く動かせないのだ。しかし、回復するまでこのケースの中では、明日にも誰かに見咎められるかもしれない。
身体を抱き上げるのは、ネイルにとってそう難しくはなかった。
とはいえ、研究棟を出るには警備室の前を通る必要がある。誰かを抱えて横切れば、警備員たちは騒ぎ立て、救急車を呼ぼうとするだろう。そうでなくとも、研究所の担当者へ提出する報告書に書かれたりしては……今の状態で外へ出るのは、リスクが大きすぎる。
ネイルの足は、自然と地下の仮眠室へ向かっていた。
階段を一歩降りるごとに、研究所での地位、解剖医としてのキャリアが遠ざかっていくのが分かる。
しかし、腕の中の体温と、あれほど渇望したまなざしに比べれば、地位もキャリアも、さして価値あるものに思えなかった。
仮眠室のベッドへ寝かせ、ネイルはシーツを引き上げた。まだ血の巡りが悪いのか、体温が安定していない。自分の上着と、脱いだ白衣もその上に掛ける。
真っ暗な廊下を抜けて、給湯室で水を注ぐ時、自分の手が震えていることに気付いた。恐怖からではなく、単純な精神の昂りだった。
仮眠室へ戻ると、横たわった同族は眠るでもなく、じっと天井を見つめていた。暖色の照明だけが、両の瞳に宿っている。体温を測り、脈を確認し、呼吸が穏やかなことを見届ける。
されるがままの身体に、動かそうとしているのか、時に力の入るような反応がみられた。生きている、確かに。
「水は飲めそうか?」
小さな書き物机から椅子を引いて、ネイルはベッドの枕元へ寄り添う。スプーンでほんの少しだけ水を掬い、唇へ含ませる。仰臥のまま向けられた目線が、お前は誰だ、と言っていた。
「ネイルだ。お前の担当医で……味方だ」
何度検査しても決して動かなかった瞳と、今はしっかりと、視線が合っている。呼吸のたびに上下する胸に、角のない肩。ほんの少しだけ見える、濡れてひかる犬歯。もう一口分の水をスプーンに掬って差し出せば、薄く口が開き、やわらかく湿ったすみれ色の舌が覗く。
「色々と尋ねるのは、後にしよう。まずは体力が戻るまで……。誰が味方で、誰が敵か分からないが、私は毎日、必ず来る」
言葉なきまなざしだけが是をあらわし、ひとつ深く息を吐いたかと思えば、開いていた瞼が閉じられた。標本ケースの中にある時と同じ面差しだったが、今は喉の薄い皮膚が動く。シーツの下の身体が、わずかに身じろぐ。
ネイルはシーツに手を差し入れ、呼吸のたび上下する胸に触れた。拍動と体温が伝わり、それが生きていることを知らせる……既に確信しているはずなのに、瞑目した横顔を見つめていると、手を伸ばさずにはいられなかった。医師として、研究者としての確認ではなく、もっと原始的な、欲求だった。
照明を落とし、常夜灯だけを残す。その日ネイルは、横になる気になれなかった。ベッドの傍らの椅子でうつらうつらとしては、目覚めるたびに横たわる身体の脈と呼吸を確かめる。それを何度も繰り返す内に、夜が明けた。