【飯P空P】りんごの庭と鳴けぬ鳥/05.めじろ 書生として家を出てからも、縁側に腰掛けるピッコロさんの姿を思い出さない日はなかった。冬枯れた庭を静かに見つめ、ひたきの声に耳を傾けていた横顔。真っ直ぐに伸びた背中と、抜いた衿から無防備に晒されるうなじ。
家を出た時は、まだ初秋だった。既に真冬となり、空は晴れていてもどこか重い。こんなに長いこと実家を離れたのは、初めてだ。
開け放たれた縁側には湯呑みの乗った盆があり、二つの座布団がぴったりと寄り添っている。冬の陽射しは弱々しかったが、それでも縁側にはあたたかさが蹲っているようだった。
大通りで買った大袋の蜜柑を抱え直して、僕は玄関扉を開いた。ピッコロさんが奥から早足に出てきて、僕を迎えてくれる。久し振りに見るピッコロさんの微笑に、やはり気分が高揚してしまうのを感じた。墨色の袖から、若葉と紅の対照が美しい手首が覗いている。
「ただいま、ピッコロさん」
「おかえり……なかなか帰って来ないから心配した。息災だったか?」
「もちろん。昨日偶然に会った時、お父さんにも言われました。たまには帰って来いって」
話しながら仏間へ差し掛かると、床の間を掃除していたお父さんが軽く手を上げる。僕のための座布団を押し入れから取り出して、縁側へ並べてくれた。
「お土産です、蜜柑……」
「なんだァ、自分の家に帰るのに気を遣うことねェんだぞ」
「よく熟れてて、美味しそうでしたから」
座布団へ腰を下ろすと、ピッコロさんが淹れ直したお茶を出してくれる。ここへ住んでいた頃は毎日使っていた、僕の湯呑みだ。受け取る時に、ピッコロさんの指先にほんの少し手が触れて、たちまち心拍が高まってしまう。細く、冷たく、なめらかな指先だった。
あの指先を、美しい手を、今はお父さんが独占している……言葉にできない思いでいると、僕の隣の座布団へお父さんが掛け、その向こうにピッコロさんが座った。
縁側から見渡すと、庭にはずいぶん植物が増えていた。何年ものあいだ、何もない庭だったのに。僕が家を出る直前に植えられたりんごの樹を囲むように、水仙や椿、福寿草が華やかに咲いている。明るい色合いが増えると、白茶けた土の地面までもが生きて感じられるとは思わなかった。お父さんが、こうしたのだ。いつも縁側へ掛けているピッコロさんの目を、楽しませるために。
「悟飯、書生の暮らしはどうだ?」
お父さんは身を乗り出し、いつもの調子で尋ねてくる。ピッコロさんはその向こうで、蜜柑を袋から取り出し、ゆっくりと剥きはじめた。ピッコロさんは物を食べない。掃除をしていて手の汚れているお父さんに、剥いてあげているのだろう。
「……住ませてもらう代わりに、先生のおつかいや家事で忙しいです。でも、昼間先生に教わりに来る人たちには同年代もいて……いい刺激になってます」
「お前は頭がいいからな、我が子とは思えねェ。なぁ、ピッコロ」
「そうかもな。少しは息子に学んだらどうだ?」
からからと笑いながら、お父さんはピッコロさんの肩を軽く小突いた。僕が家を出る前より、ずっとずっと気安く打ち解けている様子に、心のざわつきを抑えられない。こうなることは分かった上で、家を出たはずなのに。
暗澹と黙り込みそうになる僕に、ピッコロさんが剥いた蜜柑を差し出してくれる。蜜柑の橙に、新芽色のあでやかな手はよく映えていた。お父さんの向こうから腕を伸ばして、ほら、と受け取るよう促す。
「ありがとうございます……」
「なんだ、悟飯のかよ」
「お前は手を洗って来い」
構うもんか、と笑い、お父さんは袋から蜜柑を取り出した。ピッコロさんはほんの少し眉根を寄せたが、咎めたりはしなかった。汚れた手で蜜柑を食べるくらいで、身体を壊したりしないことは、「頑丈」が服を着て歩いているようなお父さんが一番よく知っている。
「庭がずいぶん明るくなりましたね」
「悟空が色々と植えたんだ。鳥もよく来るようになった」
椿の枝に、一羽のめじろがとまっている。あざやかな若葉色の身体に、よく動く目が可愛らしい。ふと思い立って、蜜柑を一切れ千切って、庭に向けて投げると……全く同じ折にお父さんの投げた一切れの蜜柑も、その隣に転がる。
「おっ、勝負だな、悟飯。めじろに好かれた方が勝ちだ」
「……いいですよ、めじろに選んでもらいましょう」
昔からお父さんは、何でも勝負にしたがった。勝ちにこだわると言うよりは、競うことそのものを楽しんでいるのだ。
蜜柑に気付いためじろが、椿から跳ねるように飛び下りて、庭石の上にとまった。慎重に首を伸ばし、辺りを見回す。小さな足を揃えて跳ね、少しずつこちらへ近寄ってくる。
食べはじめるまでに驚かせれば、きっと逃げてしまう。三人とも黙り込んで、微動だにしなかった。そのせいで、ほんの戯れの勝負が、異様に真剣な空気を帯びる。柔らかな冬の陽射しの中で、跳ねるめじろ以外の物は、みな凍りついてしまったようだ。
二つの蜜柑を前に、めじろは迷っているように見えた。しかしほどなくして……最後の一足を僕の蜜柑へ向かって跳ねると、明るい橙の果肉をつつきはじめた。
「勝負あったな……悟飯の勝ちだ」
ピッコロさんが静かに言うと、緊張していた空気がほどける。
「あーあ、負けちまったな!」
お父さんは無邪気に笑うと、ピッコロさんの肩に手を回した。着物越しの体温が、二人の間の距離を容易くかき消すのが分かる。二人分の衣擦れの音が、完全に溶け合っていた。
「自分で言い出しておいて……残念だったな」
「めじろは悟飯の方が好きかァ」
蜜柑をつつくめじろを眺めながら、お父さんの手が、ピッコロさんの身体を自分の方へ力強く抱き寄せた。ピッコロさんは身体が触れると同時にお父さんの顔を見たが、その距離の近さに驚くように、まなざしをすぐ逸らして地面へ向けた。あとは特段抵抗するでもなく、されるがままになっている。その穏やかな面差し、抱き寄せられた肩から腕へ、なめらかに繋がる線。すぐ近くで眺めているのに、何度も何度も見たはずなのに、何故こうも遠く感じるのだろう……いいや、分かっている。あの人の輪郭までもが、お父さんの腕の中に収まっているからだ。
小さな勝利が、ほんの少しも嬉しくなかった。勝ったはずなのに、敗北感だけが重苦しかった。
手に残った蜜柑が、やけに冷たく感じられる。
僕はきっと、お父さんには勝てない。ずっとずっと、そうだろう。
めじろは、一通りついばんだ蜜柑から離れ、椿の枝へ戻っている。嘴で羽を整えたかと思えば、楽しげに囀る。
お父さんはピッコロさんを抱き寄せたまま、他愛もない何事かを話していた。密着した二人の身体、よく響くお父さんの声に、控えめなピッコロさんの相槌。そこに僕が入り込む隙は、一分もない。
僕はもう一度、蜜柑を庭の真ん中へ投げてみる。今度は驚いたのか、めじろは椿から飛び去ってしまった。
「……めじろにまで、振られちゃったな」
思わず言葉が溢れると、ピッコロさんが顔を上げてこちらを見た。ひとみの中に、戸惑いが揺れている。しまった、と思ったが、口から出た言葉はもう戻せない。僕は慌てて、座布団を手に立ち上がった。
「今日は帰ります。お茶、ごちそうさまでした」
「泊まって行けば良いじゃねェか」
お父さんが、名残惜しそうに見上げてくる。本当に、僕と違って屈託がないのだ。もし僕が逆の立場なら、息子とはいえ恋敵と分かっている相手に「泊まって行け」などと言えるだろうか?
「先生にそう言ってませんから……また、その内に」
「おう、いつでも帰って来いよ」
「……玄関まで送る」
ピッコロさんが立ち上がる。座布団を片付け、玄関へ着くまでの間、僕らは一言も話さなかった。何を話せばいいのか、分からずにいたのだ。
靴を履いて振り返ると、ピッコロさんは口を開きかけてすぐに閉じ、逡巡するようにまなざしを彷徨わせ、結局何も言わなかった。
「では、ピッコロさん、また」
「ああ……寒くなるから、暖かくしろよ」
「ピッコロさんも……お父さんは気が利かないから、何かあったら遠慮せずに言ってやってください」
二人して玄関を出ると、縁側に胡座を組んだお父さんがすぐに見えた。片手を軽く上げて、笑顔で僕を送り出してくれる。
飛び去ったかに思えためじろがまた舞い降りて、蜜柑をつついていた。どちらが投げた蜜柑かは、分からなかった。