【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/サイドカー 元々あまり酒を飲まないから、カクテルというものにこんなにも種類があることに驚いた。ネイルは「覚える必要はない、レシピを確認して作っても構わない」と言うが、よく出るカクテルは嫌でもレシピを覚えてしまう。サイドカーも、そうだ。
ネイルの店へ立つようになって、四ヶ月経った。あいつは元々、この街へ出てきた時からずっとバーテンダーをやっていたが、おれはまったくの初心者だ。それでも、開店前にあれやこれやと教わって、一通りのことは出来るようになったつもりでいた。実際、これまで客から褒められこそすれ、苦言を呈されたことなどなかった。
「このサイドカー……なんとなく、味が尖ってる気がする」
そう言われたのは半月前だ。甘い、苦い、ぬるいなら分かるものの……尖っている? そもそもこの客が、ただの感想を言っているのか、文句のつもりで言っているのか、判別できなかった。なんと答えていいか分からないところに、ネイルが横合いから口を出す。
「では、次の一杯はバランスをとって、やわらかめにお作りしましょうか」
「へぇ、それはいい。どんなカクテルになるかな」
客は明るく笑って、サイドカーを一口飲む。やはり、不味い、ぬるいという話ではないのだ。
……それから毎日、閉店後にサイドカーを作ってみていた。酒に弱いおれを気遣って、一口飲んだあとはネイルが味をみる体で飲み干してくれる。
今日も最後の客が帰った。カウンターを拭き終える頃、CLOSEDの看板を扉へ下げたネイルが戻ってくる。洗い終えたグラスを片付けながら、サイドカーに使うブランデー、ホワイトキュラソー、レモンだけを残していると、カウンターチェアに掛けたネイルがふっと笑った。
「毎日頑張ってるな」
「レシピ通りにやってるのに……」
「バーテンダーの技術は、正確さだけじゃない」
自分用に出していた、ミネラルウォーターへライムの切れ端を入れたものを飲みながら、ブランデーの瓶を手にとって眺めている。
「なぁ、ネイル。客が甘いとか苦いとか、ましてや尖ってるだなんて言うのに惑わされるべきか? 味覚なんか主観だろう。主観で味を変えないために、レシピがあるんじゃないのか」
「……確かに、そうかもな」
ネイルは微笑んで、けれど顔は上げなかった。
「でも、その主観へ……相手の心へ寄り添うのがプロだ」
ネイルの言うことは、分かるようで分からなかった。それでも、そうかもしれない、と思わせる何かが、ネイルの接客にはある。「尖っている」と溢したあの客に、「すみません」ではなく「次の一杯はやわらかく作る」と返したように。
ため息をつくと、ネイルがブランデーの瓶を差し出す。受け取る時に触れた指先がやけに熱い気がして、思わず顔を覗き込んだ。いつもと同じ、穏やかで、どこか微笑を滲ませたような面差し……「マスター」の顔だった。カウンター越しに手を伸ばし、額に触れる。
「……熱くないか?」
「まさか」
「いや、考えてみれば開店前も口数が少なかった。今だって、いつもは片付けの途中でそこへ座ったりしない」
ネイルは否定の言葉を探しているようだったが、言い抜けることは不可能だと判断したのか、軽く肩を竦めるに留めた。それでも、大したことはない、と言って立ち上がる。
「……今日は練習はしない。片付けもやっておくから、早く帰って寝ろ」
「心配しすぎだ」
カウンターの内側に入ろうとするのを、無理に押し返す。やはり、身体が少し熱い。
「いや……練習にも付き合うし、一緒に片付けるよ。奥のキッチンがまだだろう?」
「練習はしないし、片付けくらい一人で問題ない! 子ども扱いをするな」
尚も働こうとするネイルに苛立って、語調が強くなってしまう。邪険にするように店の入り口まで押して行って、ジャケットを握らせて追い出す。
「帰って寝ろ」
「……わかったよ。今夜も、お前の部屋で寝ても?」
「ああ、何でもいいから早く寝ろ」
窓つきの扉を閉めると、やっとのことで諦めたのか、ネイルは軽く手を上げてから階段へ向かって歩き出した。
キッチンを片付けながら、営業中に気付けなかったことを悔やむ。今朝、昨夜は布団から出てしまって寒かったと言っていたから、そのせいだろうか……。
おれが夜あまり眠れないことを察して以来、ネイルはおれの部屋で寝るようになった。子どもでもあるまいし、と初めは突っ撥ねた。けれど、誰かの体温を近くに感じると、驚くほど簡単に眠りに落ちることができた。とはいえ、決して広くない寝床に二人で寝ているから、どちらかが布団に収まらないようなことがたびたび起きてしまう。
キッチンを片付け、店内に戻る。カウンターの真上ひとつだけを残して、照明を落とした。
ホワイトキュラソーと、レモンジュース。ブランデーは、ネイルが選んだもの。レシピの通り、慎重に計量してシェイクする。脚つきのグラスに、あめ色に光るカクテルが満ちる。ホワイトキュラソーの華やかな香りと、レモンジュースのひそやかな舌触り……。尖っていると言われれば、尖っているし、そうでもないと言われれば、そうでもない。
ネイルは夜に来る時も、おれのためにやっているという言い方はしない。「寝る前の話し相手がほしい」とか「お前の家の方が静かだから」とか、適当な理由をつけて来る。多分これも、ネイルの言う「相手に寄り添う」ということなんだろう。
何も入れないミネラルウォーターを飲み、もう一度、ブランデーとホワイトキュラソーを計量する。シェイカーの銀色に、カウンターの灯りが滲んでいた。シェイクの速度や、時間の問題だろうか? 少し変えてみたが……ちびちびと飲んでみれば、さっきよりやわらかい気もするし、変わっていない気もする。
チェイサーを挟んで、再度計量からやり直す。シェイカーを振ると、静かな店内に氷の音が喧しく響いた。
ネイルはそろそろ、布団に入っただろう。先に帰れと言うにしても、もう少し、優しい言い方があったかもしれない。お前が心配だ、身体を大事にしてほしい、と、思っているままに口にするだけでいいのに……。
この店へ誘ってくれたネイルには、言葉で表せないほどの恩がある……店の評判を落とすようなカクテルを、客に出すわけにはいかなかった。
グラスにカクテルを注いでいると、当然ながら酒が回ってきたことを感じた。胸の底が熱く、指先は妙に軽い。たったいま作ったものを、すぐ飲める気がしなくて、先にシェイカーを洗う。カクテルの温度が変わってしまうが……いずれこれほど酔ってしまっては、正確な味など分からない。やはり、一人で挑むのは無謀だった。
洗ったシェイカーを伏せ、カクテルを湛えたグラスに手を伸ばす。するとグラスが後ずさりするように遠退く。いや違う、自分がよろめいたのだ。
「……今日はここまでだな」
自らに言い聞かせるように呟くと、終わりと決めたためか、急激に酔いが強くなった。カクテルの倍以上も水を飲んでいたのに……これでは歩いて帰るどころか、半屋外の階段を無事に下ることすら出来るか怪しい。
少し休もうと、テーブル席のソファへ掛けて脚を投げ出した。薄暗い店内には、何の音楽もない。カウンターでは空のグラスが二つと、手をつけていないサイドカーがスポットライトを浴びている。口の中に、レモンの香りとブランデーの風味が残っていた。
氷の崩れる音が静かに響き、とうとうソファへ身体を倒した。背中にやわらかい座面を感じた途端に、睡魔が爪先から這い上がってくる。
ネイルは、きちんと眠れているだろうか……。明日、ドラッグストアが開店する時間になったら、風邪薬を買いに行こう……。
ふと、水音で目が覚めた。
やけに重い身体を起こすと、カウンターの向こうでネイルがグラスを洗っている。自分が何故、店のソファに横たわっていたのか分からず、しばし呆然とした。
コリンズグラスを片手に、ネイルが歩いてくる。炭酸水に……ミントと、軽く潰したライム……モヒートだろうか。
「飲めない……」
「当たり前だ、ラムは入れていない。バーテンダーが飲みすぎて潰れるなんて……水分をとれ。アルコールを薄めろ」
呆れたように笑われて、記憶が蘇ってくる。咄嗟に時計を見れば、横になってからずいぶん経っていた。
「ネイル……体調は?」
「三時間近く寝て、起きたら、すっかりよくなっていたよ。でも、お前がまだ帰っていなかったから……一人で練習しているのかと思って。案の定だったな」
グラスに満ちた炭酸水に、ライムとミントの清々しい香りが溶けている。少しずつ飲むと、身体がわずかに軽くなる心地がした。
「……美味いな」
「ヴァージンモヒートだ。本来のレシピでは砂糖を入れるが……お前は、入れない方が好きかと思って」
ネイルが隣に掛けたので、額に手を当てる。確かに、先程のような熱さはない。今度はネイルの方が手を伸ばして、耳の後ろに触れてくる。普段、人から触られる場所ではないので、思わず硬直した。ほんの数秒間、冷たい指先が肌の上に留まる。
「ずいぶん熱いな……私より、お前の方が不健康だよ、今は。熱心なのは結構だが、無理をするな」
「ああ……ネイルには助けられてばかりだな……」
自分でも驚くほど、素直に言葉が出た。しばらく眠ったとはいえ、まだ酩酊の名残がある……ソファの背凭れに体重を預け、グラスに口をつける。炭酸水の涼やかさが、酔ってはっきりしない頭に染み入るようだった。
カウンターは、既に片付いていた。眠る前に置いたままだったグラスも、最後に作ったサイドカーも……。
「飲んだよ、サイドカー。口当たりがやわらかくなっていた。人に、寄り添える味だった」
顔を上げると、ネイルがじっとこちらを見ていた。いつもより近くで目が合い、こんな色の瞳だったかな、とぼんやりと思った。酔いで焦点がぐらつくのに、まなざしから逃れられない。
「……お前のこと、考えながら作った……お前がいるから夜も眠れる……お前がいてよかった」
「なんだ、珍しく素直だな」
「酔ってるんだ……」
ネイルは空になったグラスを渡すようおれに促し、ソファから立ち上がる。カウンターの中でグラスを洗う、俯いた面立ちを眺めていると、不思議なほど安らいだ気持になる。耳に心地よい水音が薄暗い店内に響き、夜の海底に漂っているようだ。
グラスを置いて、ネイルが戻ってくる。立ち上がろうとした瞬間、ふらついたおれを片腕で支え、腰に回った手がしっかりと背を押さえた。肩越しに感じる吐息が、妙に甘い。
「悪い……」
「いい。一人で歩けるまで、支えてる」
二人して外に出ると、半屋外の廊下を、ビル街に汚された風が吹き抜けた。ネイルは殊更ゆっくり歩きながら、独り言のように溢す。
「サイドカーに乗る者は、ハンドルは握らない。ただ隣にいるだけ……けれどその存在が、運転手を救うこともある」
「それが〝寄り添い〟か……?」
「どうかな……いずれにしても……悪くない仕事だよ、バーテンダーってのは」
では、そのバーテンダーには誰が寄り添うんだ? ……思ったが、口にはしなかった。かわりに、触れあっている腕が妙に熱いことを、かすかに身体に伝わる鼓動が、いつも寝床で感じているものと同じであることを、ただ確かめていた。