【ネイP】解剖台で夢を見た/07.消毒液の匂い 二時間近く車を走らせ、深夜に辿り着いたのは、地方都市の端に位置する小さなアパートだった。二階の隅、ダイニングキッチンと寝室だけの間取りに、物干し程度には利用できそうな小さなベランダがある。
「あまり広い部屋ではないが……急ぎだったからな、辛抱してくれ」
「上等な部屋だ。窓があるし、照明もあかるい」
「そうだな……仮眠室に比べたら、豪邸だ」
ネイルの荷物は、既に運び込んであった。最低限の調度と、テーブルには水差しとコップ。
「水道はここ、捻るだけだ。気候は良い季節だが、空調はこれ。仮眠室にもあったから使い方は分かるな?」
「分かる」
「疲れただろう? まず眠ると良い。仮眠ベッドよりずっと寝心地がいいはずだ」
寝室は居間に比べて殺風景で、ベッドの他には小さな段ボールが置かれているだけだった。カーテンは取り付けられておらず、嫌でも日の出と共に目が覚めそうだ。けれどそれすらも、石室から標本ケースへ移され、更に地下の仮眠室で長く暮らしたピッコロには、ずいぶん清々しいことのように思われた。
促され、ピッコロはブランケットを捲って横たわる。確かに、仮眠ベッドとは比べ物にならない寝心地だった。広さもあり、二人横になっても折り重なる必要はなさそうだ。
「ネイル、寝ないのか?」
壁際に寄ったピッコロが見上げると、ネイルは横にならず、捲れたブランケットを整えた。
「私は一度、向こうへ戻る」
「戻る? 今から?」
ピッコロは咄嗟に起き上がり、ネイルの手首を掴んだ。たった今まであった眠気が、たちまち雲散する。
「少し後片付けがある。五日以内に戻るから、待っていてくれ」
「……必要なことなのか? 危ないことか?」
「危なくない。危ないことをなくすために、必要なことだ」
しばし、沈黙があった。開け放った扉から居間の照明が射し込んでいて、寝室はほの明るい。ピッコロはじっと押し黙っていたが、掴んでいた手首を引き寄せ、ネイルの背中へ手を回す。甘えるような抱き方なのに、妙に切実な力加減で、ネイルは反射的に抱擁を返す。
「私が戻るまで、まだ外へは出るな。研究員の住む地域ではないはずだが、万が一ということもある」
「帰ってくるんだよな?」
「当たり前だ」
きっぱりと言い切るも、すぐには返事がない。やがて、胸に額を埋めたままのピッコロが、消毒液の匂いだ、と呟いた。
「……わかった、五日だな」
「必ず五日以内に」
顔を上げて、ピッコロはネイルの唇に唇を押し当てた。ほんの一瞬の接触だったが、熱く、重く、互いの魂に触れたようだった。言葉はなく、まなざしだけが絡んだのち、ピッコロはネイルの肩をそっと押した。
ネイルは再びピッコロを寝かせ、ブランケットを引き上げる。ベッド脇に膝をつき、額に手を当てると、かち合ったまなざしは不安に満ちていた
「ずっと狭い仮眠室にいたのに急に動き回って、身体は限界のはずだ。今日はもう寝て、明日起きたら、そこの箱を開けて」
ネイルが床の段ボールを指すと、ピッコロは目線だけを動かして頷いた。
「水も飲んで……くれぐれも無理しないようにな。私が戻った途端に、看病させないでくれよ」
「お前も無理をするなよ……」
「私はただ出勤するだけだ。必ず五日以内に戻る」
ゆっくりと立ち上がると、ピッコロは何か言いたげに口を開いた。けれど言葉が見つからないらしく、戸惑いの視線だけが注がれる。
――今すぐ口付けを返し、いつものように抱きしめて眠れたら、どんなに楽だろう。
だが今はまだ、そうはいかない。研究所へ戻り、最後の『嘘の報告』を上げる必要がある。ここで二人、不安なく生きていくために。ほんのひととき目を合わせて、これ以上の名残惜しさの湧かぬ内にと、ネイルは踵を返した。
逃亡の数日前……〝研究棟の幽霊〟の話を聞いた日の深夜、ネイルは仮眠室を抜け出て、第四処理室にいた。処理室とは名ばかりで、実際は「解剖及び検査前」か「火葬処理前」のもの、つまり、検体を安置するための部屋だ。
不動産屋が、とあるマンションで見つけた無縁仏……異臭の苦情からの発見であるため、当然、腐敗が進み、一目では性別も年齢も分からない。何日か前にネイルが検査を行い、「事件性なし」の判断が下った。明日には、他の検査済みの遺体と共に、合同火葬を行う民間業者へまとめて引き渡される。白布に密閉され、何体かの検体と共に一塊の荷物とされていた。
倫理に悖ることだとは、分かっていた。しかし職業倫理を語るならば、検体が目を覚ますという異例の事態を報告せず、個人的な感情から匿い、偽りの報告書を上げ続けた時点で、既に道を外れてしまっている。
それでもネイルは、検体袋に覆われたその身体に頭を下げた。
地方都市からまた車を走らせた翌朝、ネイルは何事もなかったかのように出勤した。着慣れた白衣に袖を通し、共用スペースでコーヒーを淹れる。
寝癖もそのままの若い研究員が入ってきて、ネイルに会釈した。コーヒーメーカーにマグを置きながら、豆の挽き具合を最小に絞る。喧しく音をたてながら、コーヒーが注がれる。
「先生、今日はあの石室の標本の解剖……今回は臓器を取り出すんでしたよね? よろしくお願いします」
「ああ、貴重な検体だから慎重に頼むよ。……そういえば、手帳を落としただろう、警備室にあるそうだ」
「本当ですか! 探してたんですよ、よかったぁ」
コーヒーを片手に、二人して研究室に入る。一歩踏み入った途端、研究員は眉をひそめた。
「あれ、空調が……暑いな。それになんか、匂いません……?」
「空調か換気の不具合かな……日報を読んでみる。君は標本ケースを確認してくれ」
ネイルは日報のファイルを確認する体で、敢えて研究員にケースを開けさせる。何年ものあいだ、毎日読み続けたこの日報ファイルも、今後は見ることがないのだと思いながら。
研究員の悲鳴が上がる。ネイルもすぐに駆け寄り、ケースの温度調整の設定が誤った高温になっていることに気付く。いや、気付いた振りをする。
「先生……どうして、温度確認はいつも先生が……これ、これ、あの石室の標本ですよね もう何も、分からないけど……」
「……このケースの管理責任者は私だ、ムーリ殿か……管理部の誰か、呼んできてくれ」
「はい……はい、先生、大丈夫ですよね? 検査はほとんど済んでたし……!」
研究員は狼狽えて部屋を飛び出して行く。大丈夫ではないことは、彼も冷静になれば分かるだろう。あれほど異質な検体が、温度管理のミスなどという、単なる不注意で失われたとなれば。
ネイルはすぐさま、机に向かう。騒ぎが、混乱が、収まらない内に事を済ませるべきだ。退職届、の文字を書く時は、ほんの少しだけ手が震えた。
「……研究員の誰かを、庇ってはいないか?」
「いいえ……日に三度の温度確認が、惰性となっていました。私の責任です。ムーリ殿にはご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
研究棟が混乱に覆われた、その三日後だった。ムーリは力強いまなざしで、ネイルの肩に手を置く。
「君がこんなミスを起こすとは、どうしても信じられん……誰かを庇っているとしか……君には十分すぎるほど実績がある、私も口添えをする。降格は避けられないだろうが、辞めることはない」
ネイルはムーリに頭を下げる。この礼だけは、演技でも誤魔化しでもなく、本心から出たものだ。同じナメックだからということもあるだろうが、ムーリはいつも自分を気にかけ、味方になってくれた。石室の標本のような、難しい仕事を振られることも度々あったが、それは信頼に依るものだと理解できる。そのムーリの顔に泥を塗りそうなことだけが、ネイルには気がかりだった。
「ありがとうございます……ですが、もう、受理されました。本日付けで退職となります」
ムーリはため息をつき、静かにかぶりを振った。
「若い奴らからも、君を引き留めるように泣きつかれたんだがな……。転職先の相談があるなら、いつでも連絡してくれ。最大限にいい職場を紹介する」
ネイルは深々と頭を下げる。肩を落としたムーリが研究室を出ていき、ゆっくりと廊下の奥に消えるまで見送った。
未練がないと言えば、嘘になる。だが、後悔はなかった。こうすると決めてから、決意が揺らいだことは一度もない。
ネイルは研究室へ戻り、自分のロッカーを空にする。複写した資料、付箋を貼った医学誌、メモ帳や文具、懇親会の写真、読みかけの本……私物はほとんど捨て、愛用のペンと、革表紙のノートだけを鞄に入れた。
研究室の机に、社員証、全フロアを移動できるカードキー、ロッカーの鍵、そしてあの仮眠室の鍵を並べる。最後に白衣を脱いで、椅子の背にかけると、衣擦れの音がやわらかく響いた。想像していたよりも、ずっと凪いだ心持ちだ。
これでやっと、アパートのあの部屋へ帰れる。まだ一泊もしていないアパートが「帰る」場所に思えるのは、そこでたった一人、待っている者がいるからだろう。
無理に振り切ってきた体温を、あと少しで再び感じられると思うと、道のりも苦にならない気がした。