【飯P】旅人の結末 風が渡る。長く暮らした草原の匂いが、ひどく懐かしく胸を締めつける。ここは勿論のこと、どんなところにいても、場所を移しても、悟飯は必ずおれを見つけ出した。
「これ、すごく面白かったんです! 読んで、感想を教えてください」
まだ幼い悟飯が押し付けてきたのは、各国に伝わる動物たちの童話をまとめた本だった。あまり気は進まなかったが、大した厚さの本でもない。ましてや、子供向けの童話だ。目を通すのに、さして労力は要さないだろう。
次の週、悟飯はまた別の本を抱えて訪ねてきた。
「この前の本、どうでした?」
「……お前が好きそうだな、と思った」
「えーっ、それが感想? じゃあ、次はもっと面白いの貸しますから! 今度は、ピッコロさんがどう思ったか、教えてくださいね!」
子供らしい無邪気な笑顔で、悟飯は本を押し付けて行く。
恐竜や怪物が登場する冒険譚。
英雄が国を救う武勇伝。
やがて年頃になると、身近な人間関係をテーマにした小説や、哲学書。
神殿に移り住んでよりは、カンテラの灯りの下で落ち着いて読んでいた。春のやわらかな雨音を聞き、短夜のぬるい風を感じ、時に秋口の涼やかな星空を眺め、冬の寒さに手指を痺れさせながら。地球人の感覚や考え方を理解するには、ずいぶんと役に立ったように思う。
難解すぎて、つい首を捻ることもある。しかし必ず感想を求められるため、適当に読み流したことは一度もない。感想を伝えると、「面白かった」でも「あまり好きではなかった」でも、悟飯は必ず、このうえなく嬉しそうに笑う。
「この本の物語、僕たちにちょっと似てると思いませんか?」
「そうか?」
「うん……だって、敵対していた人の子供同士が、恋仲になる物語ですよ」
恋仲、と不敵に言ってのける悟飯に、おれは何も言えなくなる。この素直さは、子供の時分から少しも変わらない。いや、遠慮がなくなった分、より一層大胆になったと言えるだろう。
「ねぇねぇ、どういうのが読みたいとか、ありますか? 僕、同じ本を読んでどう感じたか、聞きたいんです」
「そんなことが面白いのか」
「ピッコロさんがどう考えるのか知りたいし……僕と違うなって思うのが、楽しいから……次はもっと面白いの、貸しますね!」
草原を見渡す高台に、静かに座り込んだ。膝の上には、悟飯に渡された一冊の本がある。
この旅の物語は、なかなか最後の章を読むことができなかった。旅人がついに故郷へと帰るのか、荒野に空しく倒れるのか、別の場所を目指して歩き始めるのか……最後の章へ差し掛かると、読み終えるのが惜しくて、最初の章へ戻ってしまう。
西の空には、どろりと濃く熔けた夕暮れが広がっている。じき夏が終わり、夕焼けの色合いも澄んで来るだろう。このように色濃く、重く、熱を感じる夕焼けを見るのは、今日が最後かもしれない。つくづく感じる。自らの死期が分かってしまうというのは、あまり愉快なものではないと。
悟飯に借りた本は、すっかり色褪せて煤けている。大事に扱っていたが、それでも、幾百度も読み返す内に、紙は波打ち、角は潰れてしまっていた。
また、最後の章へ差し掛かった。ほんの少し迷ったが、おれは初めて、その先を読み進める。
旅人は故郷へと戻り、懐かしい家族と再会する。長い放浪の果てに、傷だらけの身で、しかし微笑みながら。会いたかった、ずっと待っていた、と、あたたかい言葉に迎えられて。
ただ、それだけの結末だった。
幾百年も読み避けた割には、あまりにも単純で、慎ましい結末。
最後の章を読まなければ、いつまでも共に読書ができるような気がして、何度も何度も頭から読み返してきた。とうとう、その最後の本さえも読み終えてしまった。
――次はもっと面白いの、貸しますから!
悟飯の声が、耳の底へ蘇る。もう、本を貸されることはないが……。
けれどこれで、あの世という場所で悟飯に会えた時、いつものように感想を伝えられる。思っていたよりも単純で拍子抜けしたと嘯けば、きっとあの笑顔が見られるだろう。そして、悟飯自身の感想もまた、嬉しそうに聞かせてくれるはずだ。旅人の物語の素朴な結末が、あの頃、死の間際にあった悟飯に、何を思わせたかを。
夕空は宵の色に変わりつつある。弱々しい月光が、はじめて開いた最終章へやわらかく注いでいた。