パラボラ逃避行「だいじょうぶですって。なにがおこっても、俺がどうにかしてあげますから」
例えば死に直面するような事態に陥ったとき、自分の正体を明かしてまでこの人を助けられるのかと問われれば、想像の中ですら肯定と否定のどちらも断言できないというのに、甘言がすらすらと口をついて出た。
肌寒くなってきたからジャケットだけひっつかんで部屋を出る。リビングをすり抜けようとすれば「朝食は……」と雪風さんに言われたけど、「オレと練牙さんは有休なんで」なんて理由になってない返事を投げて寮を出た。
たまにオレの名前を呼ぶかすれた声を無視し、改札をくぐって四駅。新幹線が停まる以外役目のない駅に降り立つと、電光掲示板の一番上に表示されている便の特急券と乗車券を買った。売店には寄らず滑り込んで来た車両に足を踏み入れたものの、目に入る禁煙のマークに口が寂しくなり、やっぱりコーヒーくらいは買えばよかったなと少し後悔した。
練牙さんを窓際の席に押し込むと、とおせんぼするように隣に座る。戸惑いに震える視線が無遠慮に頬を撫で回してくるのには、無視を決め込んだ。
これまで不特定多数の女から向けられてきたねばついた視線には、自分でも感心するほど不感症だったのに、練牙さんの視線は肌に合わないラグでも踏みつけているようにチクチクと刺さって落ち着かない。
目を閉じて寝たふりをすることにした。これで視線を断ち切れる、そう思ったのに、バカ犬の眼差しがまだ自分に向いていることに都合のいい確信を得ていて。ここで「まあいいか」なんて割り切ってくれる奴じゃない。二番目のともだちであるオレのこととなっては、きっと心配とかそういうことを、してくれているはずだ。どれだけ好かれている自信があるんだよと自嘲が浮かんだ反面、まあ人心掌握くらいできて当然なんだけどという仕事への自信も、また笑みとなって口の端に浮かんでくる。
目を開ければ想像通り、練牙さんはまっすぐにオレを見ていた。身バレ防止のためにかけているサングラスが割れそうなくらい、まっすぐに。
「添、その……」
なにかあったのか、オレが相談に乗るぞ。そう言おうとしているのを察して、腿の上で緊張に震える指先に、オレの手のひらを重ねた。息を呑む音が本当に聞こえたことに、思わず吹き出しそうになる。
練牙さんはみるみる頬を染めたのち、俯いた。不快な視線がようやく外れたことに安堵して、再び背もたれに体重を預ける。
「仕事、ありましたよね」
申し訳なさに、ほんの僅かな好意を含ませる感じで声色を調合する。練牙さんに仕事をサボらせて申し訳ないと思ってるんです、だけどそれでも一緒にいたくて。そんな雰囲気を全力で演出する。トンネルに差し掛かってくれたおかげで、黒く塗りつぶされた窓に自分の顔が映る。うん、表情もばっちり。これで謝意は示せたから、次はまるで大切にでも思ってるような素振りを見せてやれば、充分だろう。
「でもオレどうしても練牙さんと——」
「添!」
オレの言葉を遮るなんてこと、ほとんどされたことないからびっくりしちゃった。てか声デカ。一応サングラスをかけてるとはいえ、いまや全国区といってもいいくらいに知名度が上がっちゃった有名人さんが目元だけ隠したところで、ね。
オレが唇の前で人差し指を立ててみせると、練牙さんはハッとした顔をして自分の口元を手で押さえた。
「なんですか」
「じ、じつはその、今日は完全オフにしてもらってたんだ! 会社も、有休取ってて……」
あらら。
「添も最近バイトが忙しくて、昼も夜もほとんど寮にいないって聞いてたから、その、部屋でゆっくり過ごすとか、出かけたりとか、一緒に息抜きできたらなって……」
起きてすぐそのまま連れてきたから顔も洗ってないっていうのに、肌にも唇にも艶が張っている。朝早く、俺が起きる前から化粧にいそしむ女の子たちの背中を思い出すと、天然モノって残酷だなあと思う。
「でも昨日の夜になって、予定聞き忘れてたことに気付いてさ。きっと添は大学とかバイトとか、いろいろあるだろうなって思ってたから。添も休みだったのが、うれしい……!」
どんどんと語気が強くなる。静かにしろって合図したばっかりなのにな。練牙さんのマネージャー、身バレしないような振る舞いをちゃんと躾けてくれないかな。ポンコツ度が下がっちゃうからダメかな。
ついに通路を挟んだ向こう側の席に座る乗客が覗き込んできたのを感じて、慌てた風を装って練牙さんの口にてのひらを押し当てた。ああでもこんな風に隠そうとしたらむしろ正解ですよ、って言ってるようなものか。難しいな。
「しーっ」
毎晩血を洗い流すために擦りすぎてかさついたてのひらが、練牙さんの吐息で僅かに湿り気を帯びる。良くも悪くもすこしだけ鳥肌が立ったのでそっと手を離した。
「ごめん、おれ、うれしくてつい……」
「そう言ってもらえてオレもうれしいです。でも、バレたらゆっくりできなくなっちゃうので」
そう言ってオレも、ポケットから取り出したマスクを装着する。また元カノと遭遇したらたまったもんじゃない。新幹線だから逃げ場ないし。
「どこに行くんだ?」
「あー、そういうの決めずにふらっと? みたいな」
「ザンシン、だな……!」
「ま、失敗したらそれはそれでってことで。一緒に笑ってくれますよね?」
「もちろんだ! 添と一緒なら楽しいからな!」
なんか噛み合ってないなと思いながらも指摘はせず、ポケットに入れっぱなしだったガムを噛む。空っぽの胃に落ちた人工のミント味の唾液が嫌な沁み方をするから、頬がぴくりと痙攣した。
練牙さんは、マネージャーからのメッセージだけ返させてほしいと断ってから、スマホを手に取った。一緒にいるときにどれだけスマホをいじろうと、オレは気にしないのに。
することもないから、オレも無機質な画面をぼんやりと眺める。大して知りたいとも思っていないくせに、新横浜駅の待合室で売ってるホットコーヒーの値段を調べたら、ついこのあいだ閉店したらしかった。今度任務で遠出するときは別の場所で買わなきゃいけないのかと小さく舌打ちをする。
しかし、練牙さんも休みを取ってたとは。モデルの仕事も、HAMAツアーズの仕事もサボらせて、常に罪悪感が滲む顔を見ていたかったのにな。そんなことを考えていると、頬を髪の毛がくすぐってきた。
「てん、」
「はーい」
「わ、るい、……おれ、ねち、まうか……、も……」
「いいですよー。最近すっごくいそがしかったですもんねー。ほら、オレの肩にもたれて、」「てん、……ぁ、……」
『ありがとう』?
その言葉を続ける前に、練牙さんはあっさり眠ってしまった。呑気でいいねえ。
オレも目を閉じてみるけれど、眠気はオレのことは訪ねて来てくれない。特に気のない女の子からの通知は今も鳴りやまず訪れてくるのに。
ここ二週間くらい、昼夜逆転どころか昼も夜も垣根無くオシゴトにいそしんだ結果、身体の方が先に臍を曲げたらしく、食欲も睡眠欲もオレを見放したみたいだった。
「…………」
マスク越しでもはっきりわかる高い鼻を摘まんでやると、苦しそうに顔を歪めた。眠ってても素直に反応するんだな。
くぐもったアナウンスで告げられる駅名をぼんやり聞き流すうち、ガムは味がしなくなっていた。
終点までの切符を買ってしまったけど、最後まで乗っている必要はない。てかそこまで乗ってたら帰るのが億劫になる。金はちょっと無駄になるけど、適当なところで降りるつもりだ
一般的な大学生らしく、遊ぶのに金が足りなくて泣く泣くバイトする生活を演じてみせてるけど、実際金に困ったことはない。てかあんな一等地に寿司屋出してる実家がありながら金がないなんて、説得力無いでしょ。まあ本当の実家じゃないんだけどさ。
次の到着駅がアナウンスされたところで、もうこの辺で降りておくかとガムを吐き出せば、通路を挟んで隣の席の乗客が降りる仕度をはじめた。さっき練牙さんに気付いた様子だったことを思い出し、僅かに浮かしていた腰をおろす。
向かいの乗客は、席を立つとしっかりこちらを視線で舐め回してから去っていった。アンタたちが疑ってる通りタレントの西園練牙ですよ、本物ですよー。あーでも『本物の西園練牙』じゃないか、なんて内心つっこんで。
さて。
半ば衝動的に飛び出してしまったとはいえ、どこで降りるかはそろそろ考えないと。人差し指と中指をかすかに擦らせて、透明な煙草をもてあそぶフリで気を紛らわせた。
結局、それから二駅先の、見知らぬ駅で降りることにした。
練牙さんの頬をつついて起こす。酔ったときみたいにふにゃふにゃの声で「おはよう」と袖を引っ張って来るから、やんわりとふりほどきつつ「おはようございまーす」と曖昧に微笑み返した。
改札を出る前におにぎりとサンドイッチを買って、在来線へと乗り換える。
ホームで電車を待つ間、おにぎりを齧った。腹は減ってないけど、低血糖で倒れたら笑えない。必要以上に柔らかい白米を奥歯ですりつぶして、唾液と一緒に咀嚼するだけの作業をこなしていく。サンドイッチは練牙さんにあげた。具がほとんど入ってなくて薄っぺらなサンドイッチなのに、断面に具材を寄せてかさましして見せる手法を考えた奴の心が痛むんじゃないかってくらい、うれしそうな顔で頬張っている。
自販機で買った缶のコーヒーと緑茶を、それぞれ飲み干して。それでもまだ電車は来なかったから、並んで座っていた。
ようやくやってきた電車は二両と田舎特有の短さで。「えーかわい」なんて心にもない感想を漏らしてみる。練牙さんは初めて見たと言って、目を輝かせて写真を撮っていた。住民らしき人たちが寄越す、微笑ましそうな視線にも、冷ややかな視線にも気付かないまま。
彼らにとっては日常でしかないものを、他所から来た人間が無遠慮に珍しがったら馬鹿にされているように感じるよね。なんて心のなかで冷ややかな視線の方に同意しながら、列車に乗り込んだ。
終点の二個前の駅で、さもそこが目的地だったかのように練牙さんの腕を取って電車を降りる。ガイドブックの片隅にも乗らないような、聞いたことのない地名。古き良きご立派な家屋も、潮風に煽られるがまま錆びちゃったって感じの住宅街の向こう——そう遠くないところに、灰色の海が広がっている。
東京ですら都心からちょっと離れればもう、観光とは無縁の、住宅地になってしまう。HAMAだってオレたち朝班の担当する区を除けば、ほとんどが生活区域に近い。そこに観光客を招くのって誰かが大切にしている平穏な生活を侵害するみたいだよねー、と思っているし、暇つぶしに主任への意地悪で言おうと思ったことは何度かあるけれど、まだ実行には移していない。
旅行、と称してこんな、他人の生活だけが充満した土地に足を踏み入れるなんて、ただ歩いているだけでなにかを踏みにじっているようで、気分がいい。
錆と埃と、微かな饐えたにおいが鼻をつく。町の腐臭だ。人間のように臓物が腐る匂いではなくて、生活が腐食していく匂い。
人口減少とか廃校とか。生きていくための機能を維持するので精一杯の町。観光業で争おうとしている都会の眼中にもない、ちいさな田舎町。
天気だってまるで舞台装置のようにそれを強調している。濁った色の厚い雲は、いまにも決壊して溢れ出しそうな雨を、ぎりぎりのところで抑えているようだった。
吐いた息はほのかに白くて、やっぱりジャケットを持ってきて正解だったなと思う。煙草のかわりに、潮のにおいが混ざった初冬の空気で肺を満たした。おいしくなんかない。ニコチンとアルコールに慣れた舌には、低刺激で薄味すぎる。
「どこか気になるところがあったら、言ってくださいね」
「お、おう!」
斜め後ろにくっついていた足音が隣に並んでくる。黒の濃淡だけで構成されていたモノクロの視界の端に、赤い毛先がぴょんぴょんと跳ねた。
「な、なんか、こういう旅って初めてで……その、不思議な感じだな……」
素直につまんないって言えばいいのに。言えよ。
ポイントカードをぐしゃぐしゃにして捨てるとこ見てたんなら、もういまさらオレに遠慮する必要なんてないでしょ。観光に不向きな場所を選んだっていうのに、張り合いがないな。
せっかくの貴重な休暇を不意にしてやって傷つけたかったのか、オレが隣にいるだけで楽しいなんて抜かすこの人に失望されてみたかったのか。オレにもわからない。だけどこの人の目を曇らせてみたいという気持ちから、できるだけ知らない町を目指したのは確かだった。
「猫だ……!」
「猫ですね」
「尻尾の先が曲がってる!」
「かぎしっぽ、っていうんでしたっけ」
「写真撮るから、添も一緒——」
「オレはいいですって。それより、練牙さんと一緒に撮ってあげますよ」
表情はいつもよりぎこちないけど。それでも、停滞した田舎町にさえ光を見出してしまうその目を、オレは。
角を曲がると、くすんだ緑色のフェンスが広がっていた。
その奥に見える四角い建物。横一列に並んだ窓はほとんどガラスが割れていて、たまにカーテンの名残がこびりついている。
回り込んでみると門があり、その横には『××高校』とかかれた金属板が掲げられていた。凹凸でかろうじて判読できるものの全体が黒く煤けていて、そう少なくない年数放置されているのが伺える。
「ちょっと入ってみましょうよ」
「え、おい……」
校門はそれほど高くない。柵を片手で掴んで上体を引き上げれば、そのまますんなり飛び越えることができた。オレのことを見上げる練牙さんの瞳には、やっぱり光がさしている。両足で着地すると、二人の間に門が隔たった。
てっきり俺に続いてくるものだと思ってたけど、練牙さんは眉根を寄せて戸惑った顔をしている。
「どうしたんですか」
「勝手に入ったら、犯罪にならねーか……?」
あー、めんど。そういうこと考えるんだ。まあそっか、観光区長とか西園練牙の名前とか、いろいろ背負ってるもんね。
オレも躊躇いがなさすぎたかな、一応区長ではあるし。まあでも廃墟に侵入するのは大学生特有の悪ノリってことで。
「いいじゃないですか」
躊躇いがちに柵に触れた練牙さんの指を掴む。長い指をゆっくりと辿って、手の甲の骨をなぞった。白い肌の上に茶色い線が伸びる。柵を掴んだときに、こびりついていた錆が付着したらしい。
あ、ごめんなさい、手汚しちゃいましたね。
いつもならそう続けるだろうけど、オレは気付かないふりをして言葉を続けた。
「前に話したことあるかもしれないんですけど。オレ、ちゃんと高校行ってなかったんですよ。こんな機会でもないと入れないから、見てみたいなーって」
ここ廃校だけど。それに昼班のツアーの手伝いで今後何度でも高校に入る機会なんてあるだろうけど。
っていうか高校いついては、前は違うこと話したかも。年相応に毎日楽しく馬鹿やってましたーって。うっかり本音が出ちゃったことに驚きつつも、これ以上はなにも出さないよう頬の内側をゆるやかに噛む。
これが任務なら、任務でターゲットにされるような奴らなら、ちょっと甘えた声を出して、身体を差し出すようなセリフをちらつかせてやれば、それだけで簡単に乗ってくるのに。
練牙さんはチョロい人だし、オレに対してそれなりに特別な好意を持ってるみたいだけど。性欲を煽ってもそれだけで突き動かされてくれる人じゃないから、『ともだち』という言葉の効力を悪用するほうがいい。
オレが殊更悲しそうに請えばどうせこの人は断らないだろうと高を括りながらも、必死に眉を下げてそれっぽい表情を作ってみせる。
練牙さんはオレに触れられていない方の手を口の前に当てて、俯いた。まだだめなのか。あともう一押し、なんて言えばいいんだろ。
もともと路上なんていう公共の場所でかろうじて生きていた人間が、なにをいまさら。一番吐き出したい言葉は唾液と一緒に飲み下す。あー煙草吸いたい。吸い殻そのへんに捨てると練牙さんに怒られちゃうし、運悪く携帯灰皿も忘れちゃった。
「ね。だめですか?」
ダメ押しとばかりに首を傾げ、ねだるようにできるだけゆっくりと指の腹で手の甲を撫でてやる。一番の友達の名前を綺麗なまま守ろうとする練牙さんの身体を汚していくのは、ちょっとだけ楽しい。
「それに視察もできるじゃないですか。いま廃墟って観光スポットにもなってるらしいですよ。こういう場所をどう楽しんでもらうかアイデアだけでも持ってたら、いつか仕事に活かせるかもしれませんよ」
「そうだな……!」
練牙さんはようやく唸り声を肯定の返事に変えてくれた。はー、思ったより説得に時間がかかっちゃったな。
足を掛ける場所や掴む位置を指示すると、練牙さんはあっさりと門を飛び越えた。
「オレは仕事のことなんて忘れて、練牙さんと一緒に旅行したかったんですけどね」
女にも吐いたことのない、甘えた言葉を耳たぶにふきかける。そしてわざと唇を掠らせた。それだけで、練牙さんは耳のふちまであますところなく真っ赤にさせて、首筋までうっすら色付く。オレの名前を呼ぼうと震えた唇を見て、「それじゃ行きましょうか」とパッと距離をとる。煙草を吸えないことへの腹いせ、子供じみた戯れにすぎない。
校舎に入った途端、視界はいっそう薄暗くなった。曇天でもとより明るくはなかったけれど、雲とコンクリートじゃ遮蔽率は段違いだ。
それでも、普段見つめている闇よりはよほど明るくて。鼻をつく埃や錆のにおいも、血と臓物と比べればねばついていない。
オレの歩く道はいつもぬかるんでいて、柔らかい。少しでも長く留まろうとすれば、足が沈んで抜け出せなくなるような道ばかり。だから幾多もの名前と人生を使い捨てしてきた。
練牙さんが「あ」と声を上げたので視線の先を追うと、「生徒会室」と書かれた札が掲げられていた。
行きましょうよと、ひったくるように手を掴む。指を絡めて、手のひらに残る錆を練牙さんの手にこっそりとなすりつけた。
洗い落とすことのできる、その程度の汚れ。これくらいいでしょう。オレの手はもう、いくら洗ったところで消えることのない汚れが染みついている。そんな分かりきったことを思って、だけど指先からはすうっと体温が抜け落ちていった。
練牙さんは、ただ洗える場所がなかっただけで。その手は綺麗なままで。
オレは任務さえ完遂できればいつだって身体や服を清潔に保つことはできて。外面はいくらでも綺麗にいられる分、その中身は——
「添!」
気が付かないうちに、俯いてしまっていた。幸い、練牙さんは生徒会室を見るのに手いっぱいだったようで、オレの様子なんて気に留めていなかったらしい。
ばん、と叩かれた黒板には、『今日のギ題』と書かれていた。
題は書けるんだ、そう思いながらチョークを持って、『キ』を言編に、濁点を「義」の上の点に利用して、『議』の字を書いてやる。おお、と声を上げて練牙さんは喜んだ。
「結構うまくできたでしょ」
ヘラヘラと手を振ってみせる。
練牙さんはオレと違って一生懸命勉強したはずなのにこんなのも書けないんですね、と思いながら。だけど義務教育も受けずに倍率の高い学校に入学したことは素直にすごいと思っている。オレは教育環境だけは整った場所で生まれ育ってるから。途中で死んでくやつもいるから、頑張らなかったとは言わないけど。
この人が必死になることはたぶん分かっていただろうに、置いていったキバとやらの薄情さには尊敬を通り越してオレですら薄ら寒さを感じる。
「それで、なにを話し合うんですか」
「うーん、どうやったらもっと学校が良くなるか、とか……?」
良い、の定義ってなんでしょうね。何事にも万人に通ずる正解や善悪が存在している前提で展開されるこの人の思考はやっぱり苦手なままで、頭が痛くなる。決して、ついに降り出した雨のせいじゃない。携帯で天気を確認すると、せいぜい一時間程度で止むらしい。この廃校でやり過ごすのにちょうどいい時間に思えた。
「じゃあ雨が止むまで会議しましょうか、会長サン」
「お、オレが会長役でいいのか? 添の方が、要領いいし……」
「なりたかったんでしょう」
「それは、……そうだけど」
キバならきっと生徒会長だったから、って?
はいはいもういいから。
「言いましたよね、オレ。欲しいものは欲しがっていいじゃないですか、って。なりたかったんなら、今叶えましょうよ。上手くできなくても、オレしか見てませんよ」
「じゃ、じゃあ添が副会長、ってことでもいいか……?」
「練牙さんのお好きなように」
それから始まったのは、世紀の大演説と見紛うこともない、やたらはっきりした寝言だった。
大きな身振り手振りを交えて語る施策は、どれも夢物語で。ここ何日も、オレに見向きもしなかった眠気が大挙して押し寄せてきて、あくびを噛み殺すので忙しいほどだった。
勉強ができない生徒に手を差し伸べるセーフティネットみたいな提案はただの補習だし、みんなが悩みを相談し合えるように……なんて話は聞いているだけで鼓膜が痒くなる。
校内美化のためにいろんな花を植える、っていうのはたぶんまあ現実的な案なんだろう。生徒会じゃなくて教員の仕事に思えるけど、あの高校なら生徒にも裁量があるのかもしれない。きっと当時、礼光さんが予算含めてきちんと実現させてたんだろうな。そう思うと、練牙さんの語彙のなかからできる限り気取った堅い言葉を持ち寄って繰り広げられるままごとの演説が、より哀れに思えてきた。もし本物の西園練牙のままだったら、礼光さんは生徒会長になれなかったのかと思うと、礼光さんも哀れだなと堪えきれなかった嘲笑が漏れる。その笑みを、オレが好意的に捉えたと勘違いしたバカ犬は、うれしそうに顔を輝かせた。
喜劇というには哀れで笑えないし、悲劇というには情けなくて面白い。
最前列の特等席でみるにはねむたすぎるから、壁にもたれて、そのままずるずると座り込んだ。
練牙さんはぱたりと演説をやめ、オレの傍にしゃがみ込んで来た。大丈夫か、なんて心配そうな顔でおろおろしている。
「はは、」
床に手をついて身を乗り出すと、練牙さんに倒れ込むようにして唇を重ねた。
「えっ、添……⁉」
「高校生っていったらこういうのじゃないんですか」
知らないけど。
「っ、高校じゃ、まだ、そういうのは、はやいんじゃっ……‼」
いまどき、中学生どころか小学生でしてたりしそうだけど。
その頃にはもう大人の相手をさせられていたから、キスどころかって感じだったオレには分からない常識だ。
「はは、かわい。もうないんですか、キスシーンのオファー」
練牙さんは濡れた犬がするように首を振った。
三週間前くらいのこと。社長が実家に帰っている日に、この男はやたら緊張した顔で相談があると言ってきた。断ろうかと思ったけど、見たことないくらい赤くなった顔を見て、また都合よく使えそうなネタが手に入るかもと思い、了承した。
化粧品のCM撮影でキスシーンを撮ることになり、その練習をさせてほしいと言い出すもんだから、フリーズしてしまった。そしてその一秒後には、声を上げて笑っていた。
キスシーン、といっても寸止めで終わる予定らしい。だから唇が触れるまではやらない、フリだけでいいからと何度も念を押された。
フリだけでいいなら練習なんていらないんじゃないですかと言えば、顔の寄せ方も手の添え方もわからないから教えてほしい、とのことだった。締め上げた喉から漏れるような細い声で呟いた練牙さんに、悪戯心が湧いて、フリや寸止めなんかじゃなく本当に口付けた。
これから任務続きになるから、構われないようすこし好感度を下げておこうかなと調整のつもりでもあったのに、練牙さんは耳まで真っ赤にしてすこしも嫌がる素振りを見せなかった。初々しい反応に、悔しいけどこっちが面食らわされた。この人といると、こんなのばっかりだ。面白いから「いくらでも練習台にしていいですよ」と言ってみたら、謝りながらも数度口付けられた。ああ本当にはじめてなんだなと思える拙さで。
どこまでいけるのか試してみたくなって、押し倒して舌を入れてみた。嫌がるどころか背中あたりにしがみついてきて、見上げてきた目は続きを求めているようで。既に酒が入っていたオレは「ついでにこういうキスのやり方も教えましょうか」なんて悪ノリして。
友達同士でこんなことするわけない、ってさすがにそれは分かってると思うんだけど。芸能活動に真摯なだけか、あるいは。
「添」
「なんですか」
「オレ、から、してもいいか」
「……いいですよー」
大人しく目を閉じてやる。
他の誰かなら、オレが目を閉じている間にどこかに行ってしまうんじゃないかって疑ってるところだけど、練牙さんに限ってその心配はない。そういう裏切りができない人だから。たとえばいま、オレの背後に本物の西園練牙が現れでもしたら話は別だけど。
唇がぶつかってくる。嫌がってるように見えない程度に、ほんの僅かに身を引いた。そうしないと歯がぶつかりかねない。
「ん……」
「…………」
こっちから口を開いてやっても、練牙さんは一向に舌を入れてこなかった。あんなに教えてやったのに。
ああもう面倒だな。
下唇に歯を立てた。傷はつけないように、だけどちゃんと痛みを感じてもらえるくらいには強く。
「ふ、…っん……」
ここまでお膳立てしてやってようやく、練牙さんは薄く開いた唇から舌を差し出してきた。
遠慮がちに、舌先でちろちろと舐められる。恥ずかしいのか、それとも性急に事を進めるのは紳士じゃないと言い聞かせているのか分からないけど、掻きむしりたくなるほどにくすぐったい。いまどきハジメテのおんなのこだってここまで受け身じゃない。ウブなフリしてもチャンスを逃すまいと食らいついてくるのに。
唇の隙間で荒くため息をつく。僅かに開いた歯の隙間をこじ開けて、絡めとった舌を優しく吸ってやった。
「んんっ、ん、っあ……!」
よく鳴くなあ、さすが犬。両手で頬を包んで、指先でしっかりと後頭部を固定して。ゆるく甘噛みすると、腕にしがみついてきた。
オレが「友達同士でもキスくらいすることありますよ」なんて嘘を教えたら、練牙さん、キバにもするのかな。そう思うとちょっと腹の奥が重たくなる。嫉妬なんかじゃなくて、ただの破壊衝動。キバにキスしたり触れたりして、失望した顔を向けられて傷つく練牙さんを見てみたい。もしキバが受け入れるなら、友情から歪に変質した関係がこじれるのを見てみたい。
「て、ん……」
とろんと物欲しそうな目から注がれる熱っぽい視線は、ちょっとだけ悪くない。やっぱり顔は整ってるし。不能ではないけれど人並みの刺激ではそう易々と反応しないそこが、うっかり熱を帯びそうになる。
「はは……」
「添?」
そこが本格的に反応を示して一線を越えてしまう前に、唇を離した。案外広い肩にもたれて、目を閉じる。
「ねむいのか?」
「ちょっとだけ……」
「添も忙しかったんだもんな」
「んー……」
知らない場所、他人の隣。そんな場所では眠らないよう、散々躾けられてきたっていうのに。瞼はなんのためらいもなく降りてきてしまう。
ここ——こいつの隣はもしかしたら、世界で三番目に、安心できる場所かもしれない。一番目はもちろん彼女の隣。二番目は、ひとりきりでいられる場所。
こんなこと情けなくて彼女にも話せないけど、いつのまにかこいつの隣は、息がしやすい場所になっていた。肺にまで酸素が届く気がする。
何者かが襲ってきた時に備える必要はあるけど。こいつがオレに手を出すことはない。暴力的な意味でも、性的な意味でも。後者は「いまはまだ」と付け加えておいたほうがいいのかな。わかんないけど。
「二十分くらいしたら、起こしてくれます……」
「分かった!」
もう交流の時間を減らしたところで揺るがないくらい、二番目の友達って地位は盤石になったはずだ。わざわざオレの方から誘って時間をともにする必要はない。それなのに、今日旅に誘った理由。
それは、練牙さん相手になんの警戒もいらないから。ポイントカードを丸めて捨てるところまで見られてたから、ちょっと薄情なところまで見せちゃってもいいだろうなんて慢心も追加されて。
言葉の裏を探る必要もないっていうのは、初めて体感する類の安心だった。
社長や礼光さんは論外、雪風さんはなにをどう解釈するか読めないし、主任だっておせっかいで面倒。
だけど、練牙さんは。
だからって、よりにもよってこの人に気を許すのは、近付いた目的を思えば本末転倒な気がしているけれど。
「いくらでも寝てくれ。なにかあったらオレがどうにかする!」
「わー、たのもし……」
お前になにができるんだよ。
銃やナイフを持った相手の対処なんてできないくせに。
キバが現れたら、オレを置いていくくせに。彼がオレを殺そうとしても、きっと言葉以外では止めてくれないくせに。
毒づきながらも、瞼が降りてしまう。本当に、どうしようもない。
鳥の鳴き声で目が覚めた。それはカラスのものではなく、鈴が震えたような高い声で、ひそかに安心した。
「ん……」
雨はもう止んでいる。
たった数十分とはいえ、本当にこんな状況で眠れてしまった自分がどうしようもなく恥ずかしい。文字通り血反吐はいて鍛錬を繰り返し、死と隣り合わせで任務を遂行してきた二十一年間——オレのこれまでの人生すべてが、泡と消えたような気分だった。
肩に感じる重みのせいで、立ち上がるのをためらってしまう。たおやかな寝息が首の付け根をくすぐってくる。いつのまにやらオレにもたれて眠っている練牙さんの頭を壁に預けて、窓辺によりかかった。
練牙さんが起きる前にと、煙草に火をつける。
濡れたアスファルトのにおいと一緒に深く煙を吸い込んで、そして吐き出した。
煙草は雨のせいで湿気っているし、この町の淀んだ空気も混ざっておいしくない。
あの夜の煙草の味が忘れられない。
冬の朝の煙草にも、セックスの後の煙草にも敵わない。
「…………」
まだ長さの残る煙草をねじ消して窓から捨てると、練牙さんのそばにしゃがみ込んだ。
白い頬はいつもよりほんの少しだけ青みがかっていて、目の下もうっすら黒い。二週間くらいほとんど合わせていなかった顔には、明確に疲労が刻まれている。
オレから見たって、休んだ方がいい。
オファーが急増して会社に出勤できない日が増えてるし、撮影時間は不規則だからまとまった睡眠もとれてないんだろう。酒に弱いことを知られてから打ち上げでアルハラまがいの行為を受けてるっぽいし(ある程度のところでマネージャーが止めてくれてるみたいだけど)。人間関係だって、オレはその場限り円滑に進むようへらへらしていればいいけれど、芸能界はそうもいかないから、おざなりにするわけにはいかない。
せっかく丸一日休めるなら、寝てればいいのに。
やっぱりこの人のともだちとかいう感情は重すぎる。だけどあの夜から、この人の重さは煙草よりもあつい熱を伴って、アイロンみたいにオレの背骨を撫でては軋ませる。
あの夜の煙草と、冬の始まりを告げる囁きが溶け込んだつめたい空気。
いつもよりすこしだけ伸びた背で吸いこんだそれに、初めて呼吸という言葉を知った気さえした。
「ん……」
まぶたに寄せた唇を、睫毛に撫で上げられる。すっと身を引いて、窓辺に立った。触れていたことがバレないように。
「てん、おきたのか……?」
そうじゃなきゃ立ってるわけないだろ。眉を顰めそうになったのをなんとか堪えて、雪風さんの顔を真似するみたいに、口元に柔らかい笑みを浮かべてみせる。
「はい。雨、止んだみたいですよ」
「そろそろ、どこか、つぎのとこ……」
眠いなら寝てればいいのに、練牙さんはふらりと立ち上がって伸びをした。狭くて薄汚い教室に、長い腕がすらりと伸びる。一瞬バレエでも見てるのかとおもうような風格があって、やっぱりビジュアルだけは秀でてるんだなと目を逸らす。
「行こう、添」
しなやかな指先がこちらに向く。その手はオレがさっきつけた汚れなんて消え去って、また潔白な肌に戻っていた。オレが寝ている間に洗ったのかな。
ともだちって、ある程度の年齢になったら手を繋いだりなんかしないと思うけど。まあいっか。人一人ともすれ違わないような町だし。オレにしては随分素直に、差し出された手のひらに応じてやることにした。自分の指先も、少しかさついているだけの白い肌に戻っていることに気付く。
「手……」
「あ、汚れてたから拭いておいたぜ!」
埃と錆の積もった薄暗い教室のなかで、練牙さんのわらったかおだけが、気味が悪いくらいに明るい色をしている。
「ありがとうございます」
どうせやるなら骨の髄までしみこんだものまで綺麗に拭い去ってくださいよ。中途半端に助けてその場限りの自己満足に浸ってないでさあ。
「それじゃ、行きましょうか」
オレに染み付いた汚れを落とすなんて、そんなことできるわけないのに。もし仮に、本当にそんなことされたら、もう叢雲添として生きていけないのに。
校舎を出て花のない花壇を横目に歩いていると、裏門のようなものをみつけた。錆びたチェーンが捩じ切られていて、飛び越えなくても行き来できる。
過去にも誰か、オレたちのように忍び込んだ連中がいるのかもしれない。こんな簡単に行き来できるようになってるのに、不良のたまり場になっている印象はなかった。菓子の袋や避妊具は落ちていなかったし、煙草もたぶんオレが捨てた一本だけ。
それだけ、この町はもう死に向かっている。
「今日は煙草、いいのか」
あいかわらず民家の合間を歩くだけの時間が続いて。さすがに退屈になってきたのか、ついに練牙さんから煙草の心配が切り出された。
「これ、最近現場でもらってさ」
練牙さんがポケットから取り出したのは、レザーの携帯灰皿だった。
聞けば、服に残った煙草のにおいから練牙さんを喫煙者だと勘違いしたスタッフがこっそりとプレゼントしてきたものらしい。
「練牙さん吸わないのに」
「添が使えるかなと思ってさ。かさばるから、俺が持っとく」
「…………」
今朝、準備する間なんか与えず連れ出したのに、そんなものはちゃんと持ってくるなんて。
それにそのスタッフはきっと、下心で贈っただろうに。だってそれたぶん、結構いい値段するやつだし。
「いまはいいかな」
「そうか! 必要になったら言ってくれ」
「はーい」
ばーか。ざまあみろ。顔も知らないスタッフにかける嘲りの言葉を考えながら歩いていると、いつの間にか足取りも弾んでいた。
潮の香りと、波の音が目の前に広がっている。
「行ってみましょうか」
砂の上に飛び降りると、靴が半分くらい埋もれた。あとで払えばいいやとそのまま進もうとすれば、服の裾を引かれる。
「待ってくれ!」
練牙さんはガードレールに手をついて靴を脱ぎ始めた。
振り返るのと同時に、ため息をついてしまった。
少しくらい汚れたって、濡れたっていいでしょう、という本音がこの鈍感な人にも伝わってしまうぐらい視線に滲んでいたらしくて、「うちの執事が見繕ってくれたばっかりの靴なんだ」とはにかまれた。
町も空も海も重たい灰色で塗りつぶされた景色の中、この人の頬に差す朱色だけはいやに鮮やかで。オレも靴を脱ぐことにして、視線を逸らした。
水にぬれるだけだったら、洗わなくても、乾かすだけでいいのに。ほんの一時の不快でしかないのに。
服も靴も、それなりに好きな方だと思う。だけど濡らしたくない物なんて持ってない。
練牙さん、オレがなにかをプレゼントしても、きっと同じように大切に扱ってくれるんだろうな。
あぁ、嫌だ。何を考えても、俺相手だったらって、練牙さんのなかの俺の存在の大きさと比較してしまう。そんな優越に浸って、いくらかの安心を得ている自分が嫌だ。そんなことを考えながら、ズボンを捲り上げる。
自己嫌悪を吐き出して、オレが顔を上げられるようになってもまだ、練牙さんは片足分の靴下を脱ぐのにもたついていた。
「こっち、掴まっていーよ」
「助かる、その、ありがとう……」
練牙さんの手は、酔ってなくても温かい。というか、熱い。迸る希望が体温として溢れ出ているみたい。
「よいしょ、っと……わっ、ちょっと、添!」
練牙さんが靴を脱ぎ終わると同時に、腕を引いて走り出した。練牙さんはつんのめって体勢を崩すも、ころぶことはなかった。転んで砂まみれになったところを撮ってやろうと、ポケットに突っ込んだ手でスマホのカメラを起動させていたのに。案外悪くない運動神経が憎らしい。
雨が止んでしばらく経ったからか、薄くなった雲から夕陽が透け始めた。いまさら。
もうほとんど沈みかけているのに、最後の最後に、悪戯みたいに太陽が顔を出す。ずっといないままでいいのに。
一歩一歩、砂に沈む前に次の足を踏み出して。ひんやりした砂の感触が気持ちいい。すこしずつ湿り気を帯びてきて、そして波が爪先をさらいはじめる。足の甲に乗った砂を払いのけては、また押し寄せる波が砂を運んできた。
「つめたいな!」
冷たい、って基本的にネガティブな意味を持つ言葉だと思うんだけど。それでも練牙さんが口にすると、なんか。
「もーちょっと行きましょうよ」
「え⁉ ちょ、ちょっと待ってくれ!」
屈んでズボンの裾を捲り始めた練牙さんを置いて、膝下が浸かるくらいまで進んでいく。
濁っていて、冷たくて。波に舞いあげられた砂が脛を細かく打つのが不快で、安心する。
練牙さんと行った、綺麗な観光用の海なんかとは全然違う。そういえばあれも、オレから誘ったんだっけ。
瞼の裏に光が散る。揺らぐ海面で乱反射する真夏の光。綺麗だったな。夏の海なんて、定番の景色だけど。検索して出てくる画像の方がよっぽど綺麗なはずなのに、一緒に観た澄んだ青色は、何度思い出しても素直に綺麗だと思える。
目を開ければ、断末魔のように太陽が燃えていた。
練牙さんの髪の色。すなわち、いまもどこかで息を潜めている本物の西園練牙とも同じ色。
カッと身体が熱くなって、心臓から直接吹き出しているかのような汗が服の内側を濡らしてゆく。
「っ、」
太陽が息を引き取るその瞬間、絶え間ない波の音を、鳥の鳴き声が切り裂いた。振り向くとカラスが一羽、電線にとまっていた。光のない目が告げるのは「帰れ」という警告ではなく、「逃げられないぞ」という嘲り。
吹き出していた汗が一気に熱を失って、鳥肌に抱きすくめられる。
足を止めれば、指とかかとが砂に沈んだ。いっそこのまま頭の先まで、カラスが追ってこれないほど深くまで沈んでしまいたいのに、すべてが中途半端なまま。
訪れた闇が視界を塗りつぶす。街灯がないせいで、HAMAの深夜より暗い。ずっとこれに包まれて生きてきた。これからも、ずっと。
練牙さん、本当はさ。
一日でいいから逃げてみたかったんだ。オレの「これまで」から。名前のない誰かになってみたくなったんだよ。それならひとりで旅に出ればいいのに、あんたがいたらオレは叢雲添になっちゃうのに、でも、それでも。
「なあ、見てくれ」
「…………」
顔を上げられなかった
肌寒くなったこんな季節に、頬を伝う汗なんて見られたくなかった。まして涙と誤解されたりなんかしたら、面倒なんてもんじゃない。
いいよね、練牙さんは。いつかオレがあんたを捨てたら、オレから離れられる。だけどオレは、一生オレから離れることはできない。カラスの鳴き声も、殺してきた人間の命も、一生後ろをついてくる。
かつて家のなかった練牙さんにはいま、立派なお屋敷があって。キバの消息が掴めるまでは、オレや礼光さんに守られて。会社のみんなとも打ち解けて、犬とも仲が良くて、ポンコツなところまで世間から愛されて、愛されて。それでも消える覚悟だけが燦燦と括られている。
水槽の魚が死にたがるな。
自分の出自を恨んだことはないけれど、背骨が歪むほど水圧の強い深海で、誰にも見つけられることなく、死んでも気付かれることない場所で、だけど確かに生きている。
「添」
「…………」
ああまた。こんな奴に、驚かされるなんて。
遠慮がちに触れてきた指先に、顎を掬われて。唇に、今までで一番優しくキスを落とされる。
顔なんて上げたくなかったのに、勝手に前を向かされて。練牙さんの髪の向こうに、数えきれないほどの星が瞬いている。
五秒ほどして、ゆっくりと唇を離した練牙さんは、気まずそうに目を逸らした。
「欲しいものは、欲しがっていい、って言ってた、から……」
「…………」
「せっかく一緒に旅行に来たんだから、同じ景色を見たくて」
咳払いをしたあと、また真っ直ぐにオレを見つめてきた。ほとんど身長差のないことが、こんな時ばかり恨めしい。
星の光なんか映るはずもないのに、色の違う瞳の上に、光が瞬いている。
雨風を凌ぐ屋根もない場所で、快晴も豪雨も飢餓も孤独も全てを浴びて生きてきたはずなのに、まだ希望に向く眼球。こんななにもない田舎町でも、猫やら星やらを見つけて光を帯びる、綺麗なものを見つけるのが得意な目。
太陽に向き続ける向日葵みたいで。だから、この目がまっすぐオレに向くたび、勘違いしてしまう。オレの中にも、まだ光があるんじゃないかって。
それは、叢雲添じゃなくて、二曲輪貂でもなくて。あんたがオレに見出してくれた光があるなら、それはこの世界に唯一残る、オレの生きた証になるんじゃないかって。
「キス、上手くなりましたね」
「う……なら、よかった……」
同じように空を見上げるふりをして、練牙さんの目を盗み見た。
海底から星を目指して立ち昇っていく、泡のような練牙さんの姿が、星よりよっぽど眩しい。
「明日から、また頑張らないとな」
「……ほどほどにね」
たぶんもう、この旅は終わる。いまから駅に戻れば、まだ新幹線はいくらでも走っているだろう。終電なんてまだまだ程遠くて、朝が来る前に、HAMAに戻れる。戻れてしまう。
煙草に火をつけた。練牙さんが例の携帯灰皿を取り出すから「まだ早いって」と笑って押し返す。
オレも水槽の魚に違いない。まだだれもたどり着けていない海底に沈んでいる水槽のなか。
替えられない水が濁ってずっと息が苦しかった。
だけどこの人は、そこにほんのすこし酸素を送りこんでくれる。一日ももたない程度の、だけど煙草を味わう時間稼ぎにはなるくらいの。
オレはそんな僅かな酸素みたいな時間を、この人に求めている。
「また、こんな風に計画なく旅行してみたいな」
「次はオレがエスコートする!」
「調べちゃだめですよ?」
「うっ……」
調べたってどうせ、ちゃんとした計画にならないことは普段の仕事ぶりから容易に想像できる。無意識に、唇が笑みを象っていた。
「帰ろう、添」
オレにとっては帰る場所なんかじゃないですけど。
「はーい」
絡めた指先と、おぼつかない約束がいやに熱くて、眩しくて。
『彼女』に話したいことが、今スマホのメモ帳に打ち込んでおかないと忘れそうなくらい、いっぱいになっていた。それらひとつひとつを零れ落とさないよう、まるで海水を掬い上げるみたいに、必死に指を閉じて持ち帰ろうとしている自分は、生徒会長役を嬉々として演じていた練牙さんよりよっぽど哀れで子供じみている。
駅の売店で、日本酒を買った。つまみも少々。
紙コップは数十個入りのものしかなかったから、瓶に直接口をつけて、交互に飲んだ。一口飲むごとに、練牙さんは今日の思い出を舌ったらずに語り出す。スクラップブックに飾るように丁寧に、だけど不器用な語彙で。
ふたりの腿のあいだに隠すようにして繋いだままの指先を弄ぶうち、今日はほとんどバカ犬と呼ばなかったことに気が付いた。
案の定早々に酔った練牙さんは、またオレの肩にもたれかかってきた。
小さな黒い窓。オレと練牙さんが同じ枠におさまっている。トンネルを抜ける前に、写真を撮った。オレも練牙さんも、闇に透けてぼやけている。
オレが死んだら、死体はきっと二曲輪に跡形もなく葬られる。練牙さんだって、キバが帰ってきたら跡形もなく消えるしかない。
「どうせなら死に様だけじゃなくて、遺影もお揃いにしましょうよ」
スマホにこの写真一枚だけを残したら、現代の遺影みたいじゃない?
すぐ隣にいる練牙さんにも聞こえないくらい、小さな声で提案してみた。もちろん、返事なんてない。