【play-biting】「〜♪」
家主の名を呼ぶ上機嫌な声。それから、でたらめな鼻歌がリビングまで響いてくる。ガラは寛いでいたソファから立ち上がり、やれやれとため息を吐くと玄関へと足を向けた。
壁掛け時計の針は丁度真上、シアトルの夜空を指している。ハイドがこのアパートに足を踏み入れる時、彼は大抵酒に酔った状態でやって来る。玄関まで迎えに行ってやらなければ酔いどれの吸血鬼は上等なジャケットを脱ぎもせずにソファやベッドに転がり込んであっという間に皺を作ってしまう。善良なるこの家の主はそれを見るに耐えかねて、千鳥足の来訪者の上着を都度引っ剥がすのだった。
ハンガーを片手に見たこともない構造の衣服と格闘しているガラ。それを置き去りに、ハイドは我が物顔でリビングへと上がり込む。しばらくはファブリックソファに背を委ねていたが狼男が隣に腰掛けるや否や、今度は体重を掛ける先を恰幅の良い肩へと移した。
「なあ、ガラ」
ハイドがガラに向け、手のひらを差し出す。何のことだと困惑する大男を前に吸血鬼は無邪気に笑む。
「Shake.(お手)」
「……お前さん、相当酔ってるな?」
期待の眼差しを一身に受け、ガラは頭を掻いた。アルコールに侵されたハイド氏のじゃれ合いには大人しく付き合っておくのが得策である。適当にあしらうと面倒臭さがじめじめと加速することを彼はこれまでの度重なる経験上知っていた。事実、部屋のスペアキーを渡して以降、こうした状況に陥る度に上手くいなそうとしては失敗し続けて来たのである。
「はいはい、やればいいんだろ……」
言われるがまま手を重ねれば、命令に従ったことに満足したようでハイドは良い子だと大きな仔犬の頭を反対の手でぐしゃぐしゃに撫でた。
そう、いつもなら酔っ払いのお遊びはそれで終わるはずだった。
「ん、?」
終わったはずの「お手」は飼い主の意思ではなく仔犬自身によってまだ続けられている。ハイドよりも一回り大きく傷だらけの手が細い指の一本一本へ、その輪郭を確かめるように触れる。指を絡め、熱を持ってなぞる。
「おい……」
むず痒さに体をひねるが絆創膏だらけの乾いた指がハイドの指と指の間に強引に割り込み、捉えて離さない。密着する手と手の間は互いの体温で汗ばんだ。それはともすれば不快感に繋がるであろうものだったが、ガラに手を離す素振りはない。
「ガラ、もういい。離せ……」
「何言ってる? お前が言い出したことだろう」
ハイドの指先が無駄なことと知りながら、それでも不安げにもがく。堅物なこの男をちょっとばかり揶揄ってやるつもりが、何やらまずいことになったと赤い目が宙を泳ぐ。仔犬はその視線を追いかけ逃さない。指を擦り合わせ、次の指示を仰ぐ。
「次はどんな芸を見せたら良いんだ? ご主人様」
「Down(伏せ)!」
焦るような吸血鬼の声が次のコマンドを告げる。ガラはソファから腰を上げると長い脚の間を割ってハイドの面前、フローリングの床に膝をつく。そして彼の腰元へ手を伸ばすと──ブランドの革ベルトを引き抜いた。
「おい! 言うことを聞け駄犬!」
「飼い主の躾がなってないんじゃないか?」
「……こ、の……」
それ以上を言い淀み、ソファに沈むハイドを柔らかな力で押さえ付ける。吸血鬼という種族。彼が本気でこれを望まないのであれば、元軍人相手と言えど抵抗することは難しくないはずだった。が、今もなお彼の腕に力が込められる様子はない。
利口な仔犬は仕方のない飼い主だと主のスラックス、そのファスナーを焦らすように、落とした。