仮題:ライラックSide 長義
月の明るい夜だった。
なかなか寝付けずにいた山姥切長義は、寝ようとするのを潔く諦めた。
夜風に当たろうと思い立ち、部屋を出る。
爽やかな風が緑を揺らすこの季節、本丸のとある一画に甘い香りの花を咲かせる木がある。気になりだしたのはいつだったろうか。
事務仕事中、執務室に面した庭から漂う香りに気付き、気に掛けて見ればそれは薄紫色の花で。
彼の目の色みたいだな、と対面で机に向かう仕事仲間の顔をこっそりと盗み見た。
それからなんとなく、この香りが漂い始めると彼を連想してしまう。
それを直接伝えたことはなかったけれど。
藤の花を家紋に持つ黒田の刀である彼には、本来なら藤の方が似合いなのだろう。
おかしな関連付けをしてしまったものだ、と思う。
しかしその花の香りを、どうにも気に入ってしまっている。
どうせ夜風に当たるならばと、香気を求めて足を運んだ。
本丸の奥まった一画、主の部屋と近侍を務める長谷部の部屋と執務室が並ぶこの近辺は、日中はそこそこ往来がある。
が、深夜ともなればよほど危急の出来事がない限りは足を向ける者もない。
角を曲がって出くわしたのは薄紫色の花ではなく、その花から連想する彼だった。
思いもしなかった鉢合わせに心臓が跳ねる。
寝間着にしているのだろう浴衣の乱れを整えもせず、はだけた足や首筋には情事を伺わせる痕や歯形が生々しく残っていて、思わずごくりと喉が鳴った。
明るく冴え冴えとした月が、見なくて良いものまで照らしてしまう。
視線を巡らせれば奥には主の部屋と、その手前に長谷部が使用している部屋。
相手が誰かは容易に察しがついた。
廊下に座ってぼんやりと庭を眺めていたようだった彼、へし切長谷部は、こちらに気付くと一瞬驚いたような顔をした。
向こうが何か言う前に、自然と皮肉が口をついて出る。
「自分の格好を顧みたらどうかな。人目につくようなところにいられては目に毒だ」
「ふん、自分から毒気に近づいておいてよく言う。こんな時間にこんなところまで来るの、現にお前だけだろう」
はだけた胸元を直すだけにとどめて、開き直った様子で皮肉に皮肉で返してくる。
気安い相手への遠慮のない口ぶりは、それだけ信頼されてはいるのだろう。
ため息で短く答え、長谷部の後ろ側に腰をおろしてその背中に寄りかかった。
「眠れないから夜風に当たろうと思ってたけど、今夜はあなたの毒気にでも当てられてやろうか」
「なんだそれは」
「そのままの意味だよ」
「……どうしてこんな所まで」
「花の香りに誘われて、かな」
濃密な甘い香りが夜風に乗ってふわりと漂う。
とりとめのない話をぽつりぽつりと交わすなかで、花に興味があったのかと長谷部が口にしたものだから。
なぜだろう、言うつもりのなかった言葉がぽろりと出た。
「誰かさんの瞳の色と同じだから」
月が明るい夜だった。
たぶん、そのせいだ。
見なくていいものまで、照らしてしまう。
「……今日は随分喋るな」
「何か喋っていなくては、当てられた毒気で俺も毒を吐いてしまいそうになるんでね」
「吐いてしまえばいいだろう、言いたい事があるならハッキリ言え」
はあ。大きなため息ひとつ、やりきれない思いと共に吐き出した。
主と夜を共にして、どうして寂しげにひとりで夜風に当たっているのか。その理由は分からない。
それが無性に腹立たしくて悲しかった。その理由も分からない。
「……ばかだな、あなたというひとは」
遠慮なく重さをかけて、長谷部の後頭部にこてんと頭をもたれて寄りかかる。
なんなら力を込めて、頭をぐりぐりと押し付ける。
長谷部は、何も言い返さなかった。
◇◇◇
Side 長谷部
あの夜、傍にいてくれたのは長義だった。
いつのことだったろうか。
主に求められてなだれ込むように至った情事の最中、絡めた指にいつも嵌めている装飾品が目についた。
「いつも身に付けていますね、これ」
何気なくそれを指先でなぞりながら、問いを口にする。
「気になるかい?」
ちょっと困った顔をしてから主は、
「結婚指輪だよ」
と言った。
「結婚……主には伴侶となる方が?」
「ああ、現世に」
「……なぜ、俺とこんなことを?」
主は困ったような曖昧な微笑みを浮かべて、言葉を濁す。
「恨むかい?」
ずるい人だと思うのに、拒むことはできなかった。
「俺は、あなたの刀です……お好きなように」
それから、いくら体を求められようとも心は満たされなかった。
望んでも得られないものを欲することに、少しだけ疲れた。
ある晩、寝入ってしまった主を部屋に残して、ひとり夜風に当たりたくて廊下に出た。
ふわりと花の香りが漂っている。
月明かりに照らされた庭に視線を投げていたら、誰かが歩いてくる気配がした。
毎日のように執務室で顔を合わせている相手、山姥切長義だった。
ありえない時間帯に向こうから来たにも関わらず開口一番、目に毒だなどとのたまう。
その容赦のなさに、遠慮など一切せずに皮肉をぶつけることができた。
すると長義は何を思ったのか、後ろに座り込んで体重を預けてくる。
こちらの事情には一切触れず、互いが視界に入らない背中合わせで。
「眠れないから夜風に当たろうと思ってたけど、今夜はあなたの毒気にでも当てられてやろうか」
「なんだそれは」
「そのままの意味だよ」
一瞬、見透かされたのかと思った。
どうにも抱えきれない虚しさに眠れそうもなかった。
「……どうしてこんな所まで」
「花の香りに誘われて、かな」
濃密な甘い香り。
それは長谷部が今しがた、香りの元を辿って眺めていた花木だった。
「ああ……この香り。それで」
「確か…ライラックと言ったかな。日当たりの都合で植えられているのはここだけらしい」
「詳しいな」
「以前、畑当番のとき延々と桑名に語られてね」
「聞いてやる姿勢を見せるからだろう」
植物のこととなると際限なく語りだす桑名と、それをずっと聞かされていただろう長義の図を思い浮かべた。それはちょっと面白い。
そんな様子を思い描きながら呆れた声音で返せば、
「話を振ったのは俺なんだ」
と、意外な答えが返ってきた。
「花に興味があったのか?」
「誰かさんの瞳の色と同じだから」
思いもよらない言葉に、少しだけ言葉に詰まった。
「……今日は随分喋るな」
「何か喋っていなくては、当てられた毒気で俺も毒を吐いてしまいそうになるんでね」
「吐いてしまえばいいだろう、言いたい事があるならハッキリ言え」
はあ。長義はこれみよがしに大きなため息ひとつ吐いて。
「……ばかだな、あなたというひとは」
こてん、と頭を寄りかからせては力を込めてぐりぐりと押し付ける。
飾り気のないそのたった一言に、涙が出そうになった。
遠慮なく重みを掛けてくる長義の温かさにいつしか、虚しさなど消えていた。