あなたに なってほしい 本物の雪をみたことがある。
だから、先生たちがいくら『これは雪という気象で……』と説明してくれたところで、見上げたそれが雪でないことはすぐに分かった。
指先にためてみたけれど、それは白くない。指の腹で擦り合わせても、消えることもない。舌で舐めとってみると、少し苦いような気がしたけれど、これといって味はないに等しい。
駆け寄ってきた先生が手を掴んできたかと思うと、慌てたように指を拭い始めた。湿らせた布巾の感触が少しだけ気持ち悪い。
「雪はね、舐めちゃだめなの」
「…………」
従順に、承諾の意を示したいのに、今日一言もしゃべっていなかったせいで、喉の内側が張り付いたようにうまく声が出ない。代わりに布巾ごと先生の指を握ってみると、びくりと体を震わせてその場を去っていった。聞き分けが良すぎて、驚かせたんだろうか。今度からもう少し、『まだこの場に不慣れで戸惑っている様子』を出してみた方がいいのかな。それのやり方は、分からないけれど。池に行って、顔のパーツをどのように動かせばそれっぽい表情になるか試してみようかな。
起き上がってみると、こどもたちはみんな芝の上に寝転んで、はじめて見る天井の向こうの景色に目を輝かせていた。さっきの先生と目が合ったから、俺も他の子たちと同じように空を見上げるフリをすることにした。
この学園には、感情をそのまま表情や態度に出す人間しかいない。空から降ってくるものがなんなのか知っていたら、誰も笑うことなどできないだろうに。
ここへ来て一番に知ったことは、人間ペットというのは空を見たことのある者がほとんどいないということだった。出自が食糧用であれ、繁殖用であれ、室内で飼われているらしく、俺のように外の世界を知っている者は稀だった。
無知でいるのは哀れで恐ろしいものだと思い、だからこそ自分はここで学べるだけのことは学ぼうと思う。セゲインや神とやらに有利すぎる話は、きっと作り話だと疑うことも忘れずに。
そんなことを考えながら空を見上げたふりをしていると、隣にいた子から「ねむいの?」とはにかまれた。みんなのように笑顔で空を見上げていたつもりだったのだけれど、まだうまく笑えていないらしい。
特に返事はせず、視線を逸らした。だけどその子の視線はまだ肌を撫でてくる。痒み以下の感覚とはいえ鬱陶しくて、寝返りを打つようにして反対側を向いた。
「…………」
灰を固めたような色の髪の毛が、淡い風に揺れていた。周囲のこどもたちと同じように天に向いた浅黄色の瞳は、雪を映していない。雪よりも、空よりも、もっと向こうにある星だけを映して、きらめいていた。
瞬くように芝の上で跳ねる指先も、洗濯したてのシーツが風で膨らむように上下する胸も、呼吸も、まるでどこかここではない場所で動いているよう。
彼はまるで雪にも先生の話にも興味がない様子で、どこか遠く——視覚で捉えられる範囲を超越したなにかを見ているみたいだった。
考えるより先に身体が動いたのは、初めてのことだった。
「あ?」
「あ……」
彼の耳についていた識別用のタグを、引っ張っていた。目が合った。それはいままで眼球の表面を舐められるような不愉快な感覚だったはずなのに、このときだけは違った。
瞳孔の真ん中を的確に撃ち合うような、そんな感覚だった。きゅうっと喉が締め付けられるのに、早まった脈拍が会話を繋げろと言葉を押し出してくる。
「君の、呼び方がわからなくて」
「…………」
彼の眉は豊かに上下して、大袈裟なまでに怪訝を表現してみせた。だけど芝居がかってはおらず、彼の感情そのままを映し出しているようだった。なるほど、自然な表情というのはこういうことなのかと、頭の奥で冷静に感心する。
彼の目は空に向き直り、もう俺には向かなかった。
仕方がないので俺もまた宇宙を見上げることにした。まだ雪は降り続いている。
エイリアンステージ。
人間ペットを使った遊戯のなかでもっとも盛況し、興行収入の高いイベント。
その予選が、昨日行われたらしい。ステージに上がることができるのは八人だけ。その内ひとりは前回の優勝者だから、予選で選出されるのは七人だけ。予選に出場する人数は知らないが、七人の枠に選ばれなかったらどうなるか。それだけは知っている。
いま一緒に空を見上げているだけでも、その四倍はいる。そしてここ以外にも、クラスがある。その全員でないにせよ、大半は予選に臨むはずで。
随分な人数分だもんなとほのかな緊張と、焼いてもここまで残るのかと驚きが湧き上がる。だけどそのどれひとつとして、顔の筋肉を動かすほどではない。
生き続けるために、いつかこの灰にならないために、これからの生活がある。
死体の燃え滓を綺麗だと感嘆する、この先の未来も知らず、外の世界で人間だけで生き延びる後ろ暗さも知らないこどもたち。
そんななかで、俺は。
過去——スラムでの生活にも、未来——負ければ即死のエイリアンステージへの登壇にも、双方が恐怖という形で急き立たててくるから、前より幾分か背を伸ばして今を生きることができる。姿勢についてはまだ、猫背だと注意されてしまうけど。
「ティル」
「え……」
「おまえは」
「え……え?」
いつのまにか雪は降りやんでいた。先生たちが次の授業に移動するよう声を掛けている。
隣の彼は立ち上がり、服を払うと俺を一瞥して去っていこうとした。目の前ではためいたズボンの裾を掴むと、俺よりもふたまわり大きな彼の身体はあっけなく傾いた。立ち上がろうとする彼にのしかかると、両肩を押さえて、右耳に唇を寄せた。
肺から押し出された空気が喉を通り、声帯を震わせて舌の上に吐き出される軌跡がはっきりと感じられた。呼吸が声に変わる瞬間、こんな風に熱を持つものなんだと知る。
「おいっ、お前……!」
イヴァン、と。その名前を自ら口にしたのは、そのときが初めてだった。
死んだらアナクト様に導かれて星になる。
それがこの箱庭での定説らしかった。休憩や義務遊戯の時間ではなく、わざわざ授業という時間の枠の中で説明されるのが可笑しくてたまらなかった。
ここに暮らす人間ペットたちは比較的裕福なセゲインたちに育てられてきた者ばかりだ。もちろんあのピンクの髪の子のように友好的に接された例は少ないだろうけれど、商品としてそれなりの扱いは受けていることが多い。そうでないと感受性の面で入園試験に落とされてしまうからだ。先日の彼——ティルはセゲインに対してとても反抗的だけど、それでもこんな高等教育機関が手放したくないくらい、他に才能があるらしい。
ともかく、ここに入れられた人間のほとんどは、同族の死など見たことがない。多頭飼いの環境で育った者は目にしたことくらいはあるかもしれないが、そのあとどう処理されるのかなんて知っているわけもない。
人間は死んだら肉と骨になるだけ。薬液で跡形もなく溶かされ、廃液として下水と一緒に排出されるのが一般的な処理方法。焼却処分されれば、薄灰色の粉になる。
生きていても、肉と骨に変わりない。じゃあ、生きていることと死んでいることの違いはなんだ。
この肉と骨を自由に操れるかどうかだろうか。じゃあ名前を彫り込まれたときのように、拘束されているあの時間は死んでいるといえるのだろうか。
そんなことを考えているうちに授業が終わっていた。顔を上げれば前面のスクリーンに投影されているページは、手元に開いたままの教科書のページとは違っている。慌てて教科書を捲って、どこまで授業が進んだのかを確かめた。六ページ分、あとで復習しないと。
とにかく、人間は死んだら星になるなんてことはない。
幼少の頃に見てきた人間の死体は、家のないセゲインに食べられるか、家のない俺たちみたいな人間に食べられるかのどちらかだった。
肉は食糧として活かされ、骨は窃盗や暴力の為の武器として活かされる。人間は死んでからの方が、生きてる頃よりよっぽど周囲の役に立つ。
食べた肉の名前も、いま手にしている武器の骨の名前も、誰も憶えてなんかいない。
星というのは死んだ後も遠くまで光を届けるものらしいが、俺たち人間の名前なんか一秒も誰の心にも残りはしない。
エイリアンステージを優勝し、人間ペットの概念を大きく変えたというあのルカという男ですら、一度負ければすぐに次から次へと開催されるエイリアンステージの歴史に覆い隠されるんだろう。
仮に死んだら星になるとして、流星にはどんな説明をつけるのだろう。
二回目の死だろうか。それともアナクト様とやらが地上に転生させてくれるから落ちてきたとでもいうのだろうか。セゲインたちがどんな苦し紛れの物語を付け足すのか、微塵も興味が湧かない。
アナクトガーデンにはいくつもの裏道がある。壁の一部が外れていたり、こどもひとりがぎりぎり通れるくらいの穴があったり。それが蟻の巣のようにあちこちに繋がっている。きっと建築不備か、あるいはなにかしらの罠か。いまのところ、いくらその裏道を使おうと、咎められることも成績が下がることもないから、たぶんきっと前者なんだろう。
そんな場所や道を知っているのは俺だけではないけれど、俺以外だいたいが教員への反抗心を持つ者たちだった。授業をさぼろうと校舎内をうろつくうちに見つけるらしい。
俺は授業に全て出席しているけれど、休憩の短い時間に見つけることができた。買い取られるまでの生活では、何かを見落とせばそれが死に繋がりかねなかった。そんなことが、この場所でも活きるとは思ってもいなかったが。
今日も三人ほどたむろしている。ひとりになりたいときにちょうどいいらしい。じっくり考え事をしたいとか、バレないように泣きたいとか。よく分からない感覚だったが、そういうものらしいので、俺も尋ねられたらそう答えるようにしている。
本当は、成績や評価を上げるための情報が得られないかと散策している。
どうにも、人間からもセゲインたちからも、距離をとられている。だけど、その原因が分からない。これまでしてきた通りのコミュニケーションはどうやら好まれないらしく、人間は恐怖を、教員のセゲインは心配を抱いているらしい。
他の生徒と活発に会話する子は教員からも好意的に見られているようだし、きっとあれができるようになれば芸能活動をするときにも有利に働くだろう。俺が表舞台に立つのがここを出てからなのか、スアという生徒のように在学中から仕事をすることになるのかは分からないが。
「…………」
食事のにおいが漂ってくる。配線を避けながら、においを追いかけるようにして進んでいくと、どうやら給食を作っている部屋のダクトに行きついた。息を殺して観察していると、教員が、食事になにかを混ぜているのを見えた。汁物にカプセルを何粒も投入している。瓶に書かれた文字は小ささのあまり判読できなかった。
毒、だろうか。今日突然入れられたのか、それともこれまでも入れられていたのか。与えられるだけましだと思っていた食事が、急に恐ろしいものに思えた。
それから、食事を摂らなくなって三日目。
先生たちがなにも言ってこないのはきっとバレないようにうまく捨てることができているからだろう。
しばらく空腹を味わっていなかったせいですっかりあまったれてしまった身体は、すぐに不調を訴えてきたけれど、バレないよう表情を押し固めて、自分の内側だけに押しとどめる。
また今日も一番早く登園して、人工の庭に足を踏み入れる。池を覗き込んだ。随分とやつれた顔が映っている。
「もっと、こう……」
両手の親指で唇の端を持ち上げ、伸ばした中指で眉をなだらかに引っ張ってみる。一般にいう笑顔、に定義される顔パーツの配置を作ってみるけれど、それは自分から見ても笑顔と呼べる代物ではなかった。
模倣対象としてミジを思い浮かべては、ため息をつく。いずれ彼女と同じ水準の笑顔を形成できるようになりたいけれど、あれはきっと最終目標だ。
スアの笑顔は、もっと無理だ。……ああ、嫌なものを思い出した。
だって彼女の笑顔は、ミジと見つめ合っているときにだけあらわれるものだから。笑おうと思って意識的に顔のパーツを動かしているわけではなく、感情が表面に出てきたもの。
短く切りそろえられた清潔な爪が、こめかみに沈む。
ティルが俺の方を向いてくれることなんてない。だから、スアの笑顔は、俺には一番真似できない笑顔だ。
ため息をつくたび、皴一つない水面にひずみが生まれ、また何事もなかったかのようにすぐ元に戻る。
視界が安定しなくて、まばたきを繰り返した。臓器が干からびて皮膚の内側にへばりついているような錯覚が、吐き気を誘発する。昔は、二週間もなにも口にできないなんてことはよくあったのに、甘やかされた途端、空腹に耐性のなくなったからだに嫌気がさす。
「っ、と」
一瞬の眩暈が、俺を池の中に突き落とした。
アナクトガーデンは莫大な入園費用を要求する代わりに、きっとこの世界でどこよりも人間を大切に扱う。だからこの池もそんなに深くないだろうと思っていた。でも、当てが外れた。
水面に向かって手を伸ばしてみても、水を切ることしかできない。しばらく食事を摂っていない自分の手はいつも以上に青白くて、ヒレのようだった。
「あ…………」
飛び込んだ拍子に巻きあがった気泡が、水面に昇ってゆく。
それは、とても綺麗だった。
逆さ吊りにされて、見上げた流星を思い出す。目の中で、空にある星がさらに上へと昇っていくみたいだった。もちろんあのときは視界がさかさまだったからそう見えただけだと分かっているのだけれど。
沈んでいくごとに、暗くなる。黒が深くなれば、白い気泡は星のように瞬いて見えた。こぽり、こぽりと、ひとつひとつ空気を唇から漏らしてゆく。
少しずつだけど笑顔ができるようになってきて、成績という数値も比例して伸びてきて。硬くなった外殻の代わりに、押し込めた本心の浅ましさが、放置された油汚れみたいに黒々と粘液を滴らせているように思っていたけれど、自分から吐き出される空気はこんなにも綺麗だ。
沈む、沈む。吐き出す、吐き出す。沈む。
からだが冷えて、息が苦しくなるごとに、うつくしいものに生まれ変わっていく気がして、いつしか体内に残る空気を吐き出すことに夢中になっていた。見惚れていた。
あれだけ死にたくないと、奥歯が擦り切れるのも構わずセゲインのすべてに服従してきたというのに、あっけなくこの生を手放してもいいと、そう思えた。
かすかな歌声が聞こえてくるまでは。
それは水中に差し込む光が囁いたように小さな声だったけれど、光よりも真っ直ぐに俺のからだを射抜いた。一番空っぽで軽いと思っていた部位が、火傷のようにじくじくと熱を持つ。
急に、生きたいと思った。
歌声を目指して、もがく。泳いだことなどなかったから、やり方はわからないけれど、とにかく腕を動かした。だけどいくらやってみても、指先は水を掻くばかり。まっとうに与えられるようになった食糧のせいで、正当に重くなった肉体が恨めしい。
さっきまで星に見えていた口から零れだす空気も、いまは歪な肉のかたまりにしか見えなくなっていた。
「ッが、っ⁉」
手を掴まれて、引っ張り上げられる。なんとか水面から顔を出して、息を吸った。視界の端に、細い髪の毛が揺らめいている。
「あ、」
さっきよりも、派手な音が鳴って。
俺がしがみついたかたまりも、一緒に沈む。
それは、ティルだった。
彼の歌声に救われたことも、彼と手を繋いでいることもうれしくて。幸福を嚙みしめようとしたけれど、彼の口から、おびただしい量の泡が飛び出して、水面へと消えていく。
しなないで。
しなないで。
あなただけは。
繋いでいない方の手で、ティルの柔らかい頬をつかんだ。必死に唇を寄せて、彼が吸いこめるように、こぽこぽと泡を零してみる。だけど俺の口から泡となって漏れ出た空気は、ティルのくちびるを上滑りするだけで、彼のからだに取り込まれてはくれない。
どうやったら彼に空気を送れる?
どうやったら彼を生かせる?
考えても考えても方法は分からず、やがて俺の口からも空気は出なくなった。
感覚が戻ってきたとき、目を開く前から、瞼の感光だけで虹彩が溶けるんじゃないかと思うくらいに眩しかった。
白い。
薬品のにおい。
無機質な機械音。
寮のものよりすこしだけ硬いベッド。
入園当初、降り注ぐ人間の灰を見上げて、雪はもっと白いと感じていたのに、病院の天井と比べれば、雪もよほどくすんだ色だったらしい。
起き上がろうとすれば腕に痛みを感じた。痛みの経路を目線だけで追ってみると、点滴が繋がれていた。
ドアの向こうからセゲインたちの声が聞こえてくる。
こうなる予兆はありましたか、いえ01-525はともかく01-0310は成績も優秀で特に従順な生徒でした、カリキュラムの見直しが必要かもしれませんね洗脳の授業をもっと低年齢のうちから組み込んでは、検討しますああそういえばあの個体は最近なぜか食事を捨てていたんですけど精神が安定していたのでそのままにしていて、だめでしょう何度も言っていますがあの食事には……。
アナクトガーデンは入園費用が多額である代わりに、預かった大切な商品である人間を丁寧に扱う。そんな場所だと、誰より理解していたはずなのに。
児童同士の諍いなどほとんど起きないこの場所で人間ペットにとって最も近い死である自殺を防ぐため——希死念慮を薄めるために、向精神薬を混ぜ込んでいる。そんな簡単な結論を、俺は導き出すことができていなかった。
もう二度とあんな生活に戻らないようにと思っているつもりだったのに。それはすこし薬を服用しなかっただけで死にたいと思う程度のものだった。自身の決意を過大評価してしまったことを恥ずかしく思いつつも、唇を結ぶ。
「もう、大丈夫だ」
二度と死にたいなんて思ったりしない。
彼の歌声と、彼の体温と。生よりも強くしがみつける理由ができたから。
「こっちのセリフだっつーの」
てっきり隣で眠っているものと思っていたティルが、口を開いた。
「俺のことまで巻き込みやがって。死にたいならお前ひとりで死ね」
「死のうとしたわけじゃないんだ」
半分嘘、だった、かもしれない。
「あ?」
「練習をしてたら池に落ちちゃって」
「練習って?」
「……呼吸?」
「はぁ?」
わけわかんねぇやつ、とぼやいて、ティルは俺に背を向けた。
それからも俺は朝いちばんに登園して、池に映しながら笑顔の練習をすることは欠かさなかった。あれから急速に笑顔が上手くなった……と思う。まだミジのように弾けるような笑みはできないけれど、スアが広告で見せるような僅かな笑みは簡単に作れるようになったし、教員や生徒たちが話しかけて来る回数が平均して十回以上増えている。
いつの間にか俺に遠慮する者はいなくなり、誰に話しかけても相手が顔を歪めることもなくなった。
「……オイ、」
ああ、そうだった。
俺に遠慮するやつは増えてきた。ティルを通じて、俺になにかをプレゼントしてくる生徒が少なくない数、いるらしい。
「これ」
俺が口を開く前に、ティルは小箱を差し出してきた。「なにか用?」と尋ねて「分かってんだろ、いつものだよ」とコミュニケーションを引き伸ばしたかったのに。
「ありがとう。ティルからもらえるなんて嬉しいよ」
「俺からなわけねーだろ」
「違うの?」
「なんで俺から貰えると思ってんだ!」
あ。これはちょっと予想外だな。ティルの返事じゃなくて、自分の感情の動きが。
包装紙が破れそうになるほど指先に力が入る。
ティルの言葉に、納得してしまった。すぐに「だって俺がいつもティルの傍にいてあげてるだろ? だからそのお礼かと思って」なんて、随分上達した笑顔で言えればよかったのに。
ティルが俺に、意識的になにかを与えるわけない。それを痛いほど理解している。
「それと、これ」
「え?」
差し出された三枚の紙に、戸惑う。斜めになった五線譜の上で、音符が躍っている。名前は書かれていないけれど、ティルの筆跡だ。
「池に沈んだことあったろ」
もう半年以上も前のことだったから、俺だけが覚えていると思っていた。
どうしよう。
覚えていると素直にうなずくのと、忘れたふり。どっちがティルの気を引ける回答だろうか。
「あん時思いついた歌。だから、お前の」
廊下の角からピンク色の髪が垂れ落ちている。きっと、ミジが言ったんだろう。「今日はイヴァンの誕生日だから、ティルもなにかあげよう」、みたいな。ティル以外にも、俺になんのプレゼントも用意してないクラスメイト全員に。
やっぱり、ティルが俺になにかをプレゼントしてくれることなんてない。
それでも、うれしかった。
「ティルのなかの俺を歌にしてくれたってこと? うれしいな」
「違ぇよ。池のなかで見た泡が、星みたいで綺麗だったから、お前とは関係ねぇ」
じゃ、とティルは片手を振って足早に去っていった。その背に飛びついて二度と話したくなかったけれど、ティルのくれた楽譜に触れている指先から全身に広がった痺れが、身体を床に縫い留めていた。
誕生日なんて、本当はなくて。
オンシャが俺の出来具合を見せびらかすだけのパーティのためにある日付だったけど。
そんななんの意味もない数字だけれど、持っていて良かったと、唯一そう思えた瞬間だった。
第三ラウンド開催に向けて、音源の提出を求められたとき、迷わずティルからもらった楽譜を音源に起こした。最後のサビの部分で、低い音が鳴り響くなかに高いピアノの音が散りばめられている。
「…………」
一回だけでも同じ景色を見られたというのなら、もう人生に思い出はひとつもいらないと言い切れる。
曲名を決めるとき、黒という単語を入れることにした。
星は暗ければ暗いほど輝くから、自分の中でいちばんくらいものを続けるタイトルにした。歌に込めた、ティルへの気持ちだけが光って届きますようにと願いを込めて。
ティルはもう覚えていないかもしれないし、俺の歌声にも興味ないだろうけど。
メロディを聞いて、池のなかでも、連れ出した日の空でも、名前を教えた日でも、なんでもいいから、俺と見た星を思い出してくれたら。俺もその瞬間だけはティルのなかで星になれる気がして。
スアが死んだとき。
いや、スアが死んだあと。
インターネットの掲示板で、彼女の死を認めない集団が根強く残っているのだと耳にした。実際に書き込みも見てみた。人間を見下しているはずのセゲインが、まるでアナクトのように彼女を信仰しているような文字列を投稿している。
スアは星になったんだ。
スアと俺は似ている。様々な面で。
そのうちのひとつは、早々にビジュアルを支持するファンがついたことだと思う。
スアの外見は、彼女のセゲインのプロデュース方針もあって、衣服との親和性も高く評価されていた。
人間ではなく、もちろんセゲインでもなく、氷から生まれたあらたな生き物のように、彼女はまるで寓話の登場人物のように語られている。
その点は、俺とは違う。俺は神聖な芸術として評価されているのではなく、一時的な性欲の対象として持ち上げられているだけ。死んでも、スアのように存在を枯らさないよう生かしてくれるファンはいない。また次の候補者のなかから自分に合う外面を持った人間を見つけ、騒ぎ立てることで性欲の解消を図るだけだ。
第四ラウンドを思い出す。スアを思うミジの有様を。
スアはファンだけでなく、ミジがいる限りいつまでも星であり続ける。
俺は、死んでも星にはなれない。
第二ラウンドで、彼が誰のためにパフォーマンスをしたかなんて明白だし、ウラクの主催する余興で暴れた姿を見ていても、ミジは星になれることが決まっている。
俺は。
セゲインからも、人間からも、ただ生殖本能が誘発するまやかしによってのみもてはやされて。
ミジにはなれず、スアと心を通わせることもできず、なによりティルと見つめ合うことができなくて。
ただ、灰になるのみ。
いつかあのステージに昇る哀れなこどもたちの上に降り注いで、そのあとは芝の肥やしになるだけ。イヴァンという名前も、識別番号すら残らず、白でも黒でもない粉になるだけ。雪のように誰かの手のひらの上にいっとき降り積もることすらできずに。
死んで残る物なんてなにもないから、せめてすこしでも楽に生きてゆけるよう、食糧と屋根のある場所を得るためになんでもしてきた。
だけど、死んでも、俺のお前への気持ちだけは残っている前提で振る舞いを考えてしまう。思わず涙が出そうなくらいに、愚かしい。
こんなことなら、もっと大切にしてやればよかった。この気持ちも、ティルのことも。
スター誕生、それはエイリアンステージの広告によく掲載される文言。優勝したら、本当に星になれる葬送が用意されるのかもしれない。
ティル。
ティルは優勝すれば文字通りスターになるし、負けて死んだとしても、星になる。
お前は前代未聞の存在として、良くも悪くもセゲインたちの印象に残っているから。きっと、スアよりもずっと長く語り継がれるだろう。
それに、反逆児としてその名が忘れ去られても、お前の歌は一生残ってくれる。ああでも記憶は聴覚から失われていくらしい。すべてが皮肉として噛み合う世界が憎らしいな。
首に掛けた指が雨で滑る。
ティルが俺を見つめている顔が見えたから、満足して身体から力が抜けていった。今度もまた、一緒に逃げ出すことはできなかった。耳が血だまりに沈んで、もう雨の音も聞こえない。これまで何度も死にかけてきたけれど、こうして本当に死ぬときになって、お前にこんな近くで見届けてもらえるのなら、ここまで生を引き伸ばしてきてよかったと心の底から思う。
何日後かは分からないけど。
脳とか喉とか、もしかしたら性器とか、そういったあらゆるパーツが実験や研究に使われたあと、俺はあっけなくアナクトガーデンに返されるだろう。名前のない、粉になって。
撒かれた芝の上から、天井が開く日を待つよ。お前が星になったら、一番最初に見つけたい。だから、授業で教えられた通り、星になってくれ。あれだけ馬鹿していた俺が、いまになって、人間が星になるなんて嘘を信じたくて祈っている。
だけどもし、お前が負けて、死んで、それから俺と同じように偽りの雪になってこの場所に戻ってくることがあったら。いつかの日のように、隣に寝転ぶことができたら。
俺はいつもティルのことしか見ていなかったけど、今度はお前が見ていたのと同じ景色を見て。それで。俺の一方的な感情をぶつけるんじゃなくて、一緒に話をできたらいいな、なんて思う。ほんのすこしでいい。
尋ねることができないから、返事を聞くこともできないのが、残念であり、幸せだ。ありがとう。