Twinkle Twinkle MY Star「シャツ。開いてる」
言われて、あごを引いて下を見る。殴られた頬が疼いて、口の中に鉄の味が広がる。
「ああ」
指摘された通り、上級生に掴みかかられた制服の胸元はよれてボタンが外れている。教師に見つかればいろいろと面倒なことになるだろうが、どうせ今日はこのままバックレて帰るつもりだから別に構わない。
蟻みたいに群がってきて、蜘蛛の子みたいに散ってった馬鹿な上級生連中の名前を俺たちはひとっつも知らない。知る必要もないし、興味もない。さっきまでの騒ぎを誰かが聞きつけて人を呼んでたら面倒だ。こんなとこ、さっさと立ち去るに限る。
いくら人数を引き連れてきたって、俺たち二人に敵う訳ねえのに。
「おい、待てって」
「なんだよ」
てっきり一緒に来るもんだと思ってたのに、呼び止められる。ついこの前まで同じ高さだったのに、いつの間にかちょっとだけ見上げないとならなくなった黒い瞳と視線がぶつかる。
チョコレート色の形のいい指が、俺の胸元に伸びる。あんなに容赦のない攻撃をするなんて思えないような、綺麗な手。
「あ、これボタン取れてんのかよ。閉まらねえじゃん。どこ行った?」
「知らねえ。そんなもん気にしてるヒマあったかよ」
いくら俺たちが無敵でも、数の暴力には苦戦する。正直、余裕の勝利というには苦い戦果だった。行き場なく口の中に溜まる血の味の唾を吐き出したくても、密度の高い巻毛の頭がいつまでも俺の首元あたりを覗き込んでるもんだから、それもままならない。
「なあ、もういいって。行こうぜ」
「ちょっと待てって。なんかねえか、糸とか針とか」
おまえ裁縫なんかできるのかよ、と思いながら「いいって、気にならねえから」と返す。
が、「俺が気になるんだよ」と顔も上げないまま言われて、諦めて軽くあごを上げる。
──こいつは、大抵のことには頓着しないが、気になるものや拘るものにはとことんだ。例えば、あのトーマス君。
ずうっと一番近くにいて、誰よりもその厄介さを知ってるから、こいつの気が済むまで好きにさせることにする。でも、自分だって着崩れてるし、今更ボタンのひとつやふたつ掛け直したくらいでこの有様を他人に見られたら「なんでもありません」で通じる訳ないのに。
「なんだって気になるんだよ」
「お前は、ピシッと決まった格好の方がイケてるからな」
「──」
予想もしてなかった切り返しに、一瞬、頭の中が真っ白くなる。
でも、そのあと目線だけ上げてニヤッと笑った顔つきで、いろいろ、思い出してしまう。
おんなじ里親に引き取られて、おんなじ家に住んで、おんなじ学校に通うことになって、おんなじ制服を試し着した、あの日。
並んで鏡の前に立って、こいつは、今とおんなじ顔で笑って、言った。
「こういうお行儀のいい服、お前にはすげえ似合うな」
俺はそれがなんだかひどく気に入らなかった。確かに、薄いブルーの指定シャツは俺の眼の色によく馴染んで、こいつのツヤツヤのホットチョコレートの色した肌にはあまりに頼りない色味だったけど、それでも、「お前には」という言種が何だかひどく耳についた。気のせいかいつも以上に眉の下がったその笑い顔も、気に食わなかった。
まるで、『俺とお前は別物だ』と言われたみたいな気がして。
別々のクラスになって、別々のクラブに入って、別々の知り合いが出来て、別々の時間が増えた、学校生活。
登下校も家でも一緒だけど、でも、やっぱり『別物』になってくみたいで、それが無性に嫌だった。仕方ねえことなんだろうけど、嫌だった。
「お! 見ろこれ、俺天才じゃね?」
思い出してぼうっとしてた俺の耳に、はずんだ声が飛び込んでくる。
つられて視線を下ろすと、ボタン代わりに金色の輪っかで俺の首元が止められている。
「これ、お前のピアスじゃねえか」
「そう。天才だろ。フープピアスでちょうど良かったぜ」
シャツの布地に針を刺して、ボタンホールをうまく潜らせて、確かに綺麗に止められている。けど。
「何やってんだよ」
とっさに苛ついた声が出た。
何やってんだよ。これは、お前の耳についてるのが最高にイケてんのに。こんなしょぼい使い方してんじゃねえよ。
「何でだよ。カッコイイじゃねえか」
自前のピアスとアイデアを貶されたと思ったのか、向こうもムッとした反応をする。
ああ、カッコイイよ。薄いブルーに金色は映える。うまいこと真ん中に整えられてるから、ぱっと見そういうデザインのシャツ用アクセなのかと思えるくらいだ。でも、お前の耳たぶで、その深い色の肌を背景にして光ってるときに比べたら、全然、ぜんぜんカッコよくない。
俺は、お前のつけてるそのキラキラが、好きなのに。
目の前で笑う顔の、片一方だけ物足りなくなった耳元に、思わず眉をしかめる。
「これは、お前のだろ」
ついそう言ってしまう。ますます不満げな声が返ってくる。
「やるとは言ってねえよ。ボタン直したら返せ」
言われなくても返す。その耳たぶに返す。お前が笑うたび、俺と歩くたび、キラキラ揺れるそこに返す。
「ああ返すよ。俺にはどうせ似合わねえ」
すると、きょとんとした目に見つめられた。白目がくっきりして、黒目はどこまでも深くて、こいつの眼を見てると不思議な気分になる。
「似合わなくはねえだろ」
こっちもきょとんとしてしまう。
「似合わねえだろ……」
俺の耳たぶにはちっちゃい石付きのピアスが入ってる。こいつの真似して輪っかのピアスをつけてみたこともあったけど、いつも見ているあのキラキラとはぜんぜん違って見えて、それが『別物』を思い知らされるみたいで、すぐ捨てた。
「いいや似合うぜ? ほら」
と、もうひとつ残った方のピアスも外して、俺の耳の石を取って代わりにそこにつける。
めちゃくちゃくすぐったい。くすぐったいけど、嫌じゃねえから、黙って好きにさせる。
「ほーら似合う。な?」
得意げにそんな顔で言われても、
「見えねえよ」
ここに鏡はない。
でも、満足げで嬉しそうで、どこか誇らしげなこいつの顔で十分だった。
そうか。俺にも似合うのか。お前とおんなじやつが。
ふは、と笑いが溢れた。
「そっか」
なんだか、ひどく、楽しかった。
「俺もこういうピアス買おっかな」
「小さいのが好きなんじゃなかったのか? フープ絶対つけねえじゃん」
よく見てんな、と思いながら言い返す。
「ファッションってのは変化するもんなんだよ。いいだろ」
「ああ、いいと思うぜ。買うんならな。盗んなよ」
釘を刺された。けど、そんな心配は無用だ。
「ちゃんと返すって」
だって、俺は、お前の耳についてるこのキラキラが好きなんだから。
「俺のもそうだけどよ。店からも盗んなって言ってんの」
それは約束できない。俺の手がそういう風にできてるのは、俺の意志を超えてる話だ。
でも、お前がそういうんなら。
「努力はする」
世界一信用ならねえ言葉、という呆れたような顔が、無性におかしくて俺はいつまでも笑ってた。