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    夢の中で会う柑橘双子(手直し編)。
    バラバラに上げてたものを一つにまとめて、その際いくつかアラを直しました。。。

    #🍊🍋

    See You There 青い機関車に乗ってあいつがやって来る。
     夜な夜な、毎晩、やってくる。
     だから今日も俺は眠る。うすら寒いベッドに邪魔くさい身体を置き捨てて、夢の中へと潜り込む。

    ***

    「お前が執心してるこいつ、実際乗るとぜんぜん良いもんじゃねえぞ。石炭くべんのがこんなに重労働だとはな。熱ィし煙いし臭ェし、スピードは断然遅いしよ」
     開口一番、憎まれ口のオンパレード。黙っていれば綺麗な顔は盛大に歪んで、頬には煤汚れがついている。
     幼い頃からレモンが何よりも見慣れた青色の旧式機関車のボディ。一つ違うのは、そこには一番の特徴であるはずの顔はついておらず、横腹に書かれた『1』という車体番号だけがその機関車の素性を伝えていた。
     そして憎まれ口の主は──幼い頃からレモンが何よりも見慣れた、たった一人の兄弟の姿。
    「お、まえ……機関車の運転なんて出来たのかよ」
     ──そうじゃねえだろ。
     自分で呟いておきながら、レモンは心の中で即座にツッコミを入れる。喪失感に苛まれて夜も眠れないほど焦がれた相手が目の前にいるというのに、二度と会えないと思っていた兄弟が、手を伸ばせば触れられるほどの距離にいるのに、どう考えても最初に訊くべきはそんなことではないはずだった。
     が、訊かれた当のタンジェリンは気にしたふうでもなくさらりと答える。レモンのよく見慣れた、シニカルな表情で。
    「ンな訳ねえだろ。だがどういうわけか、知らなくても知ってるっつうか。そういう世界なんだろうな、ここは」
    「……ここは、夢ン中か?」
    「まあな」
    「お前は亡霊?」
    「さあな」
     片頬を上げて小さく笑う、その頬についた煤が気になって、考えるより先にレモンは手を伸ばす。
     静かだったはずの空間が急に騒がしくなって、レモンの眉間がわずかに歪む。
     ──違う、うるさいのは周りじゃない。俺の身体ん中だ。耳鳴りに塞がれた鼓膜の内側、どっどっと暴れる心臓の音。こんなのは初めてだ。目眩さえ覚える、くらくら、くらくら。
     触れたらどうなるんだろう。そもそも触れられるんだろうか。さわれなかったら、こいつはもうやっぱり存在しないってことを思い知る羽目になる。でももしさわれたら、かつてと同じあの手触りをもう一度この指に感じられたら──
     自分の指先がかすかに震えていることに気づいて、レモンの動きがいっそう鈍る。
     『こわい』って、こういう感覚か? こんなのは初めてだ。触れたいのに、触れたくないような。
     それでもやがてその躊躇いがちな指先は懐かしい兄弟の肌に届いて──
     熱くもない。冷たくもない。触れている感触はある──と思う。でも、質感がわからない。なんだこれ。なんだ、これ。
     煤を拭う。何度も何度もなぞる。自身の指の色に吸い込まれて消えた黒い汚れ。すっかり綺麗になっても繰り返し擦るが、それでも、たった今この瞬間触れているはずの兄弟の姿が、本物なのか幻覚なのか確信を持って判断できない。
     混乱しかけて立ち尽くすレモンに、タンジェリンは擽ったそうな表情を浮かべながら呟いた。
    「分かんねえんだよな、あんまりにもびっくりしすぎて、焦ってる時ってのは。指先も足先も冷え切っちまってよ、何触っても現実感がねえんだよ。頭ん中だけぐらぐらに煮えたぎって、自分が見てるもんがリアルなのか悪い夢なのか、分かんねえよな」
     どこか遠くを見つめるようだった青い瞳が、レモンの視線をまっすぐ捉え直して、愛おしげに細められて揺れる。
     そうして、未だ頬の上にあるレモンの手に、自身の手を添える。
    「大丈夫、これは悪い夢じゃねえ。なんせ俺が出てきてるんだから。だろ?」
     その声があまりにも柔らかくて、強張っていたレモンの心身に絡みついていた緊張の糸はふっと緩まる。
    「──ああ。だな。最高の夢だぜ、これは」
    「そうだろ。俺はしばらくここにいる。眠れば会えるぜ。じゃあ、またな」
    「え……おい、嘘だろ、もう行っちまうのか?」
    「違うな、行くのはお前だ。ほら、分かるだろ、その光。そいつは朝日だ、お前寝る前にカーテンくらい閉めとけよ不用心だぞ」
     白い光に霞んで、タンジェリンの姿が見えなくなる。
     最後に耳の奥に残った、聞き飽きるほど聞き慣れた彼の小言特有のトーンを、いつまでも反芻しながらレモンはゆっくりと瞼を開いた。

    ***

     目覚めてみると確かに室内はもう明るかった。建物の隙間を抜けて部屋フラットに差し込む光は朝日と呼ぶには遅い時間のものだったが、薄曇りの白んだ色がつい先ほどまで見ていた夢の終わりの色と繋がって、レモンは一瞬どこにいるのか分からなくなる。
     カーテンを閉め忘れたどころか、ベッドではなくソファにもたれて浅い眠りに落ちていた身体を億劫そうに身じろぎさせる。そばのローテーブルに置かれた飲みつけない強めの酒の瓶がその気怠さの原因なのは間違いがなかった。
     日本でのあの出来事以降、ろくに眠れない日が続いた。初めは別に気にもしていなかったが──というより、その自覚もなかったが──睡眠不足の蓄積した心身は確実に参っていて、真っ昼間の交差点でぼうっと立ち尽くしてクラクションの嵐の中で玉突き事故の音にハッと我に返った時、さすがにこのままではいけないだろうとようやく意識した。
     睡眠薬を買ってはみたが、どうしても飲むことができなかった。そんなつもりはなくても、あの新幹線の中で飲んだ水に睡眠薬が入っていてそのせいで昏倒するように倒れたのだと黒縁メガネの商売敵に聞いたことが、どうやらトラウマになっているようだ。理性では「今ここでこれを飲んだって平気だ」と思おうとしているのに、身体が受け付けないのかすぐに吐き出してしまう。
     ──もし俺があんなところで寝こけなかったら? せめて兄弟が俺を見つけた時にすぐ起きていたら? 二人でかかればあのディーゼル女だってヨハネスの野郎だっていくらでも凌げたはずだ、そうしたらあんな惨事は起きなかったんじゃないか?
     そんな後悔は何の役にも立たない。それは分かっている。
     分かっているのに、どうにもできない。
     こんなにも自分で自分の扱いに戸惑うなどという経験はレモンの人生にはこれまで無かった。「どうなってんだ」と愚痴る相手も、「どうすりゃいいと思う?」と相談する相手も、もういない。
     苦肉の策で、アルコールの力で睡魔を引き寄せることにしたのだが、その手の眠りはどうしたって浅く不確かだ。その微睡みの中で、あの夢を見たのだった。
     ──夢、なんだよな。
     触れた質感こそ頼りなかったが、ただの夢と言い切るにはあまりにも鮮明だった。
     “眠れば会えるぜ”。
     与えられたその言葉が本当なら。
    「……」
     不自然な体勢で凝り固まった身体を鳴らしながらレモンはゆっくり立ち上がる。
     考えても答えのないことを、今ここで悩み続けても埒が明かない。分かるとしたら今夜だ。なら、それに向けてせめて少しでも身体を疲れさせておくか、と、特に当てもなく外へ出ることに決めた。

    ***

     茫洋とした空間は、擦りガラス越しの景色のようで掴みどころがない。景色と呼べるほどの印象もなく、屋外にしてはあまりにも殺風景だし、室内にしてはだだ広く感じられた。
     昨日と同じ青い機関車と、今日はなぜかフラットにあるはずのソファがその横にぽつんと鎮座している。そして、そこに腰掛けて待っている、変わらない兄弟の姿。
    「……ここって、本当に俺の夢ん中なのか? それともお前の作った幻か?」
     浮かんだ疑問をそのままぶつけるレモンに、タンジェリンは片眉を上げて答えた。
    「どっちも正解だが、どっちも正確ではねえな」
     要領を得ない回答に、レモンは顔を顰める。
    「なんだそりゃ、なぞなぞか?」
    「まあ聞けよ。お前が眠ればここに来れるって意味では、お前の夢ん中だ。でもって、俺が誂えたって意味では俺の作った幻ってのもあながち間違ってねえ」
    「あつらえた?」
    「そうだ。今お前に見えてるもんは、俺がそうと意識したせいで生み出されてる。だが、俺が用意できるのは“概念”だけだ」
    「俺にも分かる英語で喋ってくれ」
    「いま説明してんだろ、急かすんじゃねえよ。たとえば俺が座ってるこれ。俺はこれを“座り心地のいい椅子”って定義で意識した。だがそれがお前にどう見えてるのかってのは、お前次第だ。俺が“概念”を与えると、見る奴の中でその概念に最も近いイメージがそこに現れる。そういう仕組みらしい。たとえば権力に眩んでる奴にはこれが重役専用の椅子に見えるだろうし、リゾートに憧れてる奴にはビーチチェアに見えるかもしれねえ。そういうことだ。分かったか?」
    「よく分かんねえけど、なんとなく」
     『だからお前の首には傷跡が無えんだな』と、言おうとして躊躇った。浮かんだことは空気を読まず発言しがちなレモンだが、あの惨状を生々しく想起させるような言葉はさすがに簡単には飛び出してこない。
     何より、安心感さえ覚える皮肉と軽口混じりのやり取りがひどく心地好くて、この流れを止めたくなくて呑み込んだ。
    「それで十分だ。俺だってよく分かってねえよ。まあ、常識なんてもんは所変わればってやつだからな」
     賢しらなセリフをタンジェリンが吐いて、続いてレモンに問いかける。
    「んで、お前にはこれがどう見えてる?」
     と、自身の座るソファの背もたれをぽんぽんと叩く。
    「俺らのフラットにあるソファ」
     とレモンが見たままを答えれば、タンジェリンが一瞬わずかに目を見開き、それからふっと笑った。
    「俺もそのつもりだった」
     言いながら、身体を一方に寄せる。何を言われた訳でもなかったが、空いたスペースにレモンは腰を下ろした。
     今回は多少、感覚もまともに働いているようだ。座り心地も、慣れたそれと遜色なく同じだった。
     今夜は現実のレモンの体はこのソファの上ではなく、ちゃんとベッドの上に横たわっている。昼間、当てもなく街中をうろついて、歩いて歩いてひたすら歩いて、そうしていい加減くたびれ果てた頃合いを見てまた酒の力でここに来た。少しでも長く夢の中にいられるように。
    「だとして、理解できねえことが一個あるんだけどよ」
     ここしばらくは一人で座っていたソファ。その横に懐かしい身体があることに、なんだか目頭の奥にむずむずしたものを感じながら、レモンはまた率直な疑問を投げかけた。
    「なんだよ?」
    「このトーマス、何で顔が無えんだ? 俺のイメージによって俺に見えるものが決まるってんなら、こいつに顔が無えのはおかしい。俺が覚えてねえ筈あるか?」
     あー、と、何かを口籠るようにタンジェリンが視線を逸らす。どこか不機嫌にも、気まずそうにも見えるその険しい眉間の皺と逆Vの字の唇を見ていると、レモンの中に何か既視感が湧き起こった。
     ──なんか、この表情、どっかで見た覚えがあるな。こいつじゃなくて他の……ああ。
    「そのツラ、やらかしたときのゴードンそっくりだな」
     そのレモンの呟きにタンジェリンは敏感に反応する。
    「お前な、それ。それだよ。お前のそのクソみてえな喩えの引き合いに出されたくねえから、最初から“顔の無え例のクソ機関車”って定義したんだ」
     ──なるほど、定義がそうなら、いくら俺の中の記憶イメージがハッキリしてても制限がかかるのか。
     ひとつ疑問が解ければ、そこからまた別の疑問が頭をもたげる。
    「だったら何でわざわざこいつに乗ってきた? 嫌なら別に車でもバイクでも良かっただろ」
     どこから来たのかは知らねえけど──とは言わずにレモンが問えば、タンジェリンはますます憮然とした顔をする。普通の人には不機嫌な怒り顔に見えるだろうが、レモンには分かる。これは、気恥ずかしいとか決まりが悪いとか、そういう時の顔だ。
    「そりゃあ……万に一つもお前に見落とされたら堪んねえからな。こいつなら、絶対見逃さねえんだろお前は」
     意味をなさないFワードの修飾が単語という単語にことさら散りばめられているのは、気まずさを不器用に隠そうとしているのだろうか。
    「なんだそりゃ。お前って、たまにけっこうバカなこと考えるよな」
     歯に衣着せないレモンの呟きに、タンジェリンは噛み付く。
    「あ? バカはねえだろ。大体お前がしょっちゅう大事な連絡も見過ごすような真似やらかすからこっちが気ィ配ってやってんだろうが──」
     突然、レモンの視界が揺らぐ。

     ──“いいやバカだよ、そんなことしなくたって俺がお前を見逃す筈ねえだろ”。

     まだ薄暗いフラットで薄く瞼を開いたレモンには、その言葉をきちんと夢の中に残せてきたかどうか、確信が無かった。

    ***

     その日から、とりとめもなく漫然としていたレモンの生活が変化し始めた。

     初めのうち、“眠れば会える”のなら、と隙あらば目を瞑ってはみたものの、数日試すうちにどうやら日中のうたた寝ではあの場所へは行けないようだと気づいた。
     それならば、と乱れ切っていた睡眠リズムを改善しようと試みる。兄弟と違って己の肉体を省みて研鑽する習慣のなかったレモンにとって、それは試行錯誤の繰り返しだった。
     ただ眠るだけのことが、改めて意識してみるとこんなにも厄介だとは思ってもみなかった。
     闇雲に動いて疲れすぎてもうまく眠れない。適度な運動と休息を心がけ、食べ物を摂ることも睡眠欲と関係があると知ればおろそかだった食事も意識して摂るようになった。予定はなくても朝には起きて、日に一度は外の空気を浴びて、眠くはなくても夜にはベッドに入る。
     タンジェリンが生前に色々と差配してくれていたおかげで、当面暮らすに不自由のない蓄えはある。それを幸いに今は休職中だ。
     だから、ひたすら夜のために昼間を費やす。
     義務感めいた心持ちでこなす日常は薄ぼんやりとした印象しか残さず、あの打てば響くような瑞々しい会話を交わせる夢の中と比べてしまえば、どちらが現実かわからないほどだった。

    「お前、ここんとこなんか元気そうだな」
     と十数度目の夢の中でタンジェリンに指摘されたレモンは心外そうに軽く眉を寄せた。自分はどんな顔をしていたんだろう。この場所には鏡がないから確認しようもない。けれど心当たりならあった。
    「そうか? おかげさんで、ずいぶん健康的な暮らししてるからな」
     こうしてお前と会えてるからかな、と言う代わりに、そう答える。
    「そいつぁいい。ろくに食いもしねえ、眠りもしねえじゃ人間ダメになっちまうからな」
     やけに嬉しそうに肯定するタンジェリンに、レモンは目を眇めた。
    「……俺のこと見てたのか? あー、ここにいる俺じゃねえぞ、つまりだ、昼間の俺ってことだが」
    「いいや? だが最初に来た時のツラ見りゃ一発で分かったさ」
     そうなのか、とがっかりする。ならばやはり、眠るしか会う手立てはないのだ。
     現実主義者だったはずの自分が、当たり前のようにそんな思考をしていることをレモンは他人事のように“滑稽だ”と感じたが、改めようとは思わなかった。
    「割とポーカーフェイスって言われるんだけどな」
    「俺の前では無効だろそんなもん。ガキの頃から何年見てきたと思ってんだよ」
     そこで、その日の逢瀬は幕引きだった。

     レモンなりに生活を改善したとはいえ、相変わらず眠りそのものは浅い。
     時計も空もない空間では正確な時間の経過は測れないが、体感的にはいつもあっという間だ。ひとつふたつ話題を交わすうち、もうタイムアップが訪れる。
     いまだに自然な入眠は難しくて多少のナイトキャップに頼っているのだが、それだけでは十分な助けになっているとは言えなかった。
    「……」
     ベッドサイドランプだけが灯る部屋の中、買って数粒試したきり放置していた睡眠薬のケースをじっと見つめて弄ぶ。
     ──今なら大丈夫だ。
     根拠のない自信に後押しされるように、それを規定量飲み下す。
     ベッドに腰掛けて様子を見ているうち、吐き気よりも先に訪れたのは強烈な眠気だった。

    ***

    「ここってなんでこんなに殺風景なんだ?」
    「風光明媚な景観がお望みか? 出来ねえことは無えけど、ぶっちゃけ面倒臭えんだよ」
     ああそうか、こいつが“概念”とやらを用意しとかないと俺には見えないんだっけ、とレモンは思い出す。
    「いや。これでいい」
     別に周りの風景なんて関係ない。ここがたとえ煉獄でも地獄でも、目の前に唯一の兄弟がいる、という事実だけが重要だった。

     その日はいつもより長く会話を交わした。最近のイギリスのトップニュースのこと、昔二人でやらかしたイタズラのこと、ウエストハムの直近の試合の成績のこと。
     核心をつくような話題は、どちらも持ち出さなかった。
     日本でのあの出来事のことには、一切触れなかった。
     言葉にして確かめ合ってしまった瞬間、それが動かしようのない真実になることを恐れて。
     “滑稽だ”とまたレモンは思う。俺とこいつはもう違う場所にいるのだと、毎晩こうして夢の中でしか会えないことで思い知っているはずなのに、知らんぷりをしていれば何かから逃れられるような錯覚を覚えている。何より滑稽なのは──それが錯覚だと頭の片隅でははっきり分かっていながら、意地でも口にはしないと固く決めている己の心だ。
     ──でも、構いやしねえ。滑稽で上等だ。
     タンジェリンも同じ気持ちなのか、あるいは別の思惑があるのか、まるで示し合わせたかのように殊更くだらない話で盛り上がり、時には肩を叩きあって笑う。

     こうして自由に話せて、触れることもできる。自分達しか知らないはずの話も完全に通じる。AIや幻覚ではないことは確かだ。
     ──どうしてこっちが現実じゃねえんだ?
     この唯一無二の兄弟とずっと変わらずこうしていられるのなら、こっちがリアルな世界だったら良かった。フラットにあるお気に入りの服も、コレクションDVDも、潤沢な金も、己の人生も、何もかもを対価に差し出してもいいのに。
     けれどことわりは残酷だ。
     今日も、タイムリミットはやってくる。

    ***

     喪失感は、遅れて訪れる。
     新幹線の車両で血まみれの兄弟と再会した時、その体がもう命を宿していないのだと知った時、レモンの全身を一瞬で埋め尽くして蝕んだあの感覚は、後から思えば喪失感ではなかった。
     動揺、悲しみ、憤り、怒り、追憶、遣る瀬無さ、そういったものが綯い交ぜになったあの激情は、まだ空洞と呼ぶには明瞭すぎた。
     紆余曲折を経てロンドンのフラットに戻り、住み慣れた部屋で過ごし始めてからもしばらくは実感がないままで、相方の不在も今まで何度か経験した長期の単独仕事のそれのようで。
     数週間が経つ頃、たとえば支払いの督促状がいくつもポストに溜まり始めただとか、観てもいないテレビを何時間つけっぱなしにしていても小言一つ聞こえてこないだとか、キッチンの棚の一角を占めているプロテインの大袋がもうずっと皺の形ひとつ変わらないままだとか、そんな瑣末なことに気づくたび、胸の中で何かが零れ落ちるような気がした。欠け落ちたぶんだけ広がる空白を“喪失感”と呼ぶのだと、それに気づいた時にレモンはさめざめと涙をこぼした。新幹線の中での慟哭のような泣き方ではなく、空いた穴から滲み出すような、静かでとめどのない涙。

     哀しみに蝕まれても後を追おうなどと考えたことは一度もなかった。
     なぜなら、死んだところで会える保証はないからだ。信仰心に篤くはなく現実主義的なところのあるレモンにとって、死は救済ではなくただの“無”に思えた。それなら、心を少しずつ千切られながらでも、少なくとも兄弟の気配が残るこの部屋にいられる方がまだマシだ。
     けれど。
     追えば会える保証を得たのなら、行動を躊躇う理由はない。選ぶべきは死ではなく夢の中だ。なるべく深く、長く、奥へ奥へ。
     飲み続けているうちに効き目の鈍くなってきた睡眠薬を、多めに口に放り込む。これは眠りを深くする作用。
     瓶底に残っていた火酒を煽って喉に流し込む。これは眠りにつきやすくする作用。
     思いつく限りの策を使って、現実よりもリアルな世界へ。

    ***

    「最近、こっちにいる時間、やけに長くなってねえか?」
     ある日ふと思いついたようにタンジェリンに訊かれたレモンは、正直に言うのはどこか気恥ずかしいような気がしながらも、「そんなに俺に会いてえかよ」と揶揄われるのを覚悟で自身の“妙案”を自慢げに披露した。
     が、レモンの予想に反して、黙って聞いていたタンジェリンは眉間の皺をみるみる深くしていく。
    「……お前な、馬鹿か? 睡眠薬を酒で飲むって、そりゃ自殺行為っつうんだ」
    「何言ってんだ、俺は死ぬ気なんてねえよ。眠ろうとしてるだけだ、お前だってちゃんと寝た方がいいって言ってたじゃねえか」
     心外だ、というように顔を顰めるレモンに、タンジェリンは一瞬言葉を失って、それから盛大な溜息を吐く。
    「ああそうだ。俺はなあ、『生きてる奴が死んだ奴のことを想いながら眠る夜の夢の中でなら会える』って聞いて、ずっとずっと待ってたんだよ。何人、迎えを名乗る天使やら悪魔やら蹴散らしたと思ってんだ。なのにお前は全然来やがらねえから、俺のことなんてさっさと忘れたのかと思ってたぜ」
    「そんな訳……」
    「ねえよな。だから待ってた。あんなクソ機関車まで用意してよ、一瞬でも繋がったら絶対見逃さねえし見逃させるかよってな」
    「そんなこと言われてもよ……だって俺、それまでだって全然寝てなかった訳じゃねえぜ? お前のこと考えてなかった日なんてねえし」
    「眠りの深度とかタイミングとか、なんか色々あんだろ。知らねえけど」
     そんなこた今はどうでもいいんだよ、とタンジェリンが苦い顔をする。
     なぜか怒りを覚えているらしいことは察せられたが、レモンには兄弟のその反応が解せなかった。
    「ようやく会えて、そんでお前がここ来るために生活習慣改めたって聞いて、ああそりゃクソほど待ってた甲斐があったなって喜んでた俺が馬鹿だったぜ。百年眠るイバラ姫になられちゃあ本末転倒だ。……潮時だな」
    「え」
     す、と、まさに潮が引くように表情を鎮め、声音を一段落としたタンジェリンが真顔で静かに呟く。
    「俺はもうここに来ねえ。だからお前も、そんなクソみてえなことすんの止めろ」
    「は……? なんだよ、急に。俺は別にクソみてえなことなんか──」
     反論しかけたレモンに、一転して感情を露わにしたタンジェリンが食ってかかる。
    「俺が一番ムカついてんのはなあ、お前に自覚がねえってことだ。自分のやってることが危険だってどうして分からねえ? お前はそんなマヌケだったか? それとも本気でイカレちまったってか? ああクソ、信じられねえ。なんでそんな真似するか説明できんのかって訊きてえくらいだぜ」
    「だってそりゃ、お前に、会えるから」
    「っ、お……」
     深く考えもせず浮かんだままを即答したレモンに、タンジェリンは言葉を失くす。
    「……お前、そんな可愛げのあるこという性格じゃねえ筈だろ」
     ややあってぽつりと零された声は、泣いているようにも笑っているようにも思えた。レモンは思わず兄弟の顔をまじまじと見るが、歪んだ目元と小さく上がった口角は、やはり泣いているようにも笑っているようにも見えた。
    「クソ、どうせなら生きてるうちに見せろよな」
     何かを誤魔化すように毒づいて、それからきゅっと表情を引き締めるタンジェリン。
    「でも、駄目だ。そんなもんに絆されねえぞ。俺はな、お前のそういうとこがずっと怖かったんだ」
    「“怖かった”?」
     自分に対してそんな感情を持たれていたなんて、レモンは考えたことがなかった。
    「ああ。お前はある意味では勇敢だが、言い換えりゃ線引きってもんが分かっちゃいねえ。普通は本能ってもんが働くんだ、『これ以上突っ込んだら死んじまう』って。お前にゃそれが圧倒的に足りてなかった。だから俺は、お前から目が離せなかったんだ。気づかねえ内にとんでもねえことやらかして、俺を置いてどっか行っちまいそうで」
    「……お前が俺のブレーキ車だったってことか?」
    「クソが、その喩え……ああ、まあいいや。そうだ、そういうことだ」
    「でも、結局置いてったのはお前の方じゃねえか」
     またしても考えるより先に正直な言葉を飛び出させてから、レモンは滅多にしない後悔をした。
     タンジェリンの表情が、ひどく傷ついたように歪んで、それから絞り出すように微笑んだ。
    「──ああ。そうだ。俺が、お前を置いてった。……ごめんな」
     瞬間、今まで一度も感じたことのない感覚がレモンを襲った。胸の真ん中から全身へ広がる。激高とも寂寞とも違う。細胞のすべてがざわざわと囁きあうような密やかで騒がしい何か。
     顔に触れる空気が妙に冷たく感じられて、その感覚がじわじわと強くなる。むずむずとした感触が頬を通って顎から滴る。一粒、二粒、そして、幾粒も。
     自分が泣いているのだと、遅れて理解した。

     ──やめてくれ。謝るな。お前は悪くない。お前のせいじゃない。置いてったと先に思わせたのはきっと俺だ。いや、違うか? 分からねえ。何が原因とか、どれが結果とか。あそこで起きた何もかもがクソみてえだったし、何もかもが、もう。

     取り散らかった感情と思考に混乱して瞬きを繰り返すレモンの頬に、タンジェリンの手が伸びる。頬を濡らす涙を節の目立つがさついた指が何度も撫でる。
     ──ああ、こんなにも、ここにいる・・・・・のに。
     これも自分の記憶がそう見せているだけの“概念”なんだろうか。どうしても、そうは思えなかった。
     は、とタンジェリンが小さく笑う。
    「いつもと逆みてえだな」
     ──ああそうだ、宥めるのはいつも俺の方だったのに。
     こんな、自分で制御も理解もできない感情に呑まれるなどということは、想像さえしていなかった。
     感情を持て余してしまうのはいつだってタンジェリンの方で、レモンはそれをずっと横で見ていた。なんなら自分の方がブレーキ車なのだと思っていたくらいだ。
     謝罪なんて要らなかった。何か言葉をもらえるのなら、「ずっと一緒にいよう」と言って欲しかった。これまでがずっとそうだったように、そうであることを意識さえしないほど、そうだったように。
     永遠に続く“いつも”が欲しかった。それが貴重なものなのだと気づかないほどの“いつも”が。
     レモンのそんな心中の願いをまるで読み取ったかのような絶妙なタイミングで、タンジェリンが再び口を開く。
    「ここはな、あくまで緊急停車駅みてえなもんなんだよ。いつまでも留まっちゃいられねえ。『混乱と遅れは大問題』なんだろ? お前はお前の人生レールを走れ。ここが分岐ポイントだ、分かるよな?」
    「……」
     わざわざトーマスシリーズの定番文句と鉄道用語で説き聞かせる姿が余計に胸苦しかった。「そんな喩えするんじゃねえ」と不機嫌な面をしてほしかった──いつも・・・のように。
     そんなレモンの気持ちなど知らないかのように──あるいは、知っているからこそとでもいうように──タンジェリンの言葉は止まらない。
    「夜は寝ろ。薬も酒も無しでだ。そんで朝になったら起きろ。飯食ってクソしてあの機関車どものケツ追っかけて、気が向いたら危なくねえ仕事でもして、そうやって生きろ。簡単だろ? 前までのお前が考えるまでもなくやってたことだ──まあ、“危なくねえ仕事”ってとこだけは別だけどよ」
     軽口に聞こえるように殊更ふざけた口調で言い添えるタンジェリンの不器用な気遣いに、ついレモンの口元が僅かに緩む。
     ふ、と吐息のような笑いと共に、伏せた顔からかすかに震えた声が零れた。
    「……ひでえこと言うぜ。俺にお前を忘れろって?」
     ここでの逢瀬を失くして、一人現実を生きろと言うのはそういうことだ──とやけっぱちな気分で呟いたレモンだったが、タンジェリンが見せたのは意外な反応だった。
     俯いていたレモンの胸ぐらを勢いよく掴み上げ、強引に上を向かせながら自分の方へ引き寄せる。身長差が相殺され、鼻の触れ合いそうな距離で二人は見つめ合った──というには、タンジェリンの眼差しは睨みに近いほどの険しさを孕んでいた。
    「このクソボケ野郎、てめえは何にも分かっちゃいねえな」
     この上なく憎らしげな言葉で悪態を吐きながらも、その青い眼は苦しげに歪んでいる。
    「お前に、忘れられてたまるかよ」
     瞬きすらせずひたと見据える瞳に射抜かれて、レモンは何も言えなくなってしまう。
    「いいか、絶対俺のことを忘れんな。そんで、ジジイになって寿命で死ぬまできっちり生きろ」
     ──めちゃくちゃだ。
     この兄弟が、というより自分達二人がめちゃくちゃな言動をするのは今に始まったことではなかったが、それにしてもその要求はあんまりだ、とレモンは怒りたいような呆れたいような気分になる。
    「……勝手なことばかり言いやがる」
     失笑と共に漏れたのはそんな一言で、それが呼び水となったようにレモンの唇がわななき始める。
     “お前はクソみてえにひでえ奴だ、俺を置いて行っちまいやがって。ずっと傍にいたくせに一人で死んじまいやがって。俺たち二人とも長生きはしねえと思ってたがよ、死ぬ時は一緒なんだと思ってたんだぞ。だってそうだろ、一番古い記憶の中にはもう当たり前にいたお前がどこにもいない世界なんて俺は知らねえ、知らねえんだよ。なのにそんなこと言うってのか。信じられねえクソ野郎だよお前は”──
     そう、言ったつもりだった。理不尽で身勝手な本心を、これでもかと浴びせたつもりだった。「馬鹿なこと言ってんじゃねえぞどっちがクソ野郎だ、元はと言えばお前が先に死体の真似事してやがったんだろうが」などという応答を期待していたのに、それなのにレモンの喉からはライオンの唸り声のような音が途切れ途切れに漏れるだけで、言葉はすべて溶けてしまって、水の形で目の淵から溢れ出すばかりだ。
     タンジェリンは、レモンを掴み寄せた手を離さないまま、静かに目の前の兄弟の言葉にならない訴えを受け止めていた。
     深い濃黒の瞳から流れた涙をぜんぶ吸い込んだような湖水色の瞳で。
     やがて、レモンの視界が少し晴れたあたりを見計らってタンジェリンが淡々と告げる。
    「ああそうだ。だが、そうしろ。俺が勝手なのは今に始まったことじゃねえだろ」
     その言いぶりに、思わずレモンは眉尻を下げる。
     ──ズルいだろそれ。そんな言い方、俺は頷くしかねえ。お前はいつだって勝手だったし、お前のそういうとこもわりかし気に入ってたんだから。
    「生きて生きて生き切って、そしたら寄り道なんざしねえで真っ直ぐこっちに来い」
     静かな宣告に、レモンは腫れぼったい瞼をゆっくりと瞬かせる。
    「そん時ゃ、天使より悪魔より神より早く、俺がお前を迎えに行く」
     声が揺れていた。
     吸い込みきれなかった涙が、湖水色の瞳から溢れていた。
     鼻の頭と耳の先を赤くして眉間に力を込めて何かを堪える表情は、小さい頃から何も変わらない。
     きっと、レモンがこの先何十年生きた果てに再会したとしても、同じ顔をするのだろう。
     理屈を超えてそう理解した時、初めてレモンの表情が少し和らいだ。
    「……そん時は、機関車は無しでいい。お前のまんまで来い。その方がよっぽど見つけられる」
     タンジェリンは一度大きく瞳を見開き、それからふっと目尻を緩めて、心から嬉しそうに口角を上げた。
     どちらからともなく腕を差し伸ばし、ハグをする。
     きつくきつく、これまでにないほど強く。
     あの新幹線の中でも、こうすればよかった。人目なんか気にすることはなかった。運命ってものがもしかしたらそれで変わっていたかもしれなくて──やめよう。こんなこと、今更思ってもどうにもならない。
     代わりに、建設的な質問をレモンが投げかける。身を寄せ合ったままなので、タンジェリンの後頭部寄りから耳元に囁くように。
    「こんなことお前に聞いてもどうせ“知らねえ”って言うかもしれねえけどよ」
    「クソ回りくどい前置きはいいから、言ってみろよ」
    「正直、毎日毎日視界の中にお前がいねえのがしんどい。会いたくて気が狂いそうになったらどうすりゃいい?」
    「……お前、マジで性格変わったか?」
    「お前はもういねえんだから、お前の前でくらい弱音吐いてもいいだろ」
     謎かけのような言い回しだが、タンジェリンにはレモンの思うところは伝わったようだ。く、と小さく喉の奥を鳴らしてから、彼にしては珍しくゆっくりとした口調で答える。
    「そういう時はな、周りをじっくり見ろ。俺はきっとどこにでもいる」
    「現実には行けねえんじゃねえのかよ」
    「そうじゃねえ、いいか。俺たちはずっと一緒にいた。どこにだって行ったし、何だってしただろ。俺たちの中にはおんなじ記憶がある」
     タンジェリンの言葉のひとつひとつを反芻して、レモンはその真意に辿り着こうと試みる。
    「俺が用意した“概念”で、お前は俺が想定してたのと同じソファを思い浮かべた。そういうもんが、他にもいっぱいあるだろ。たとえば──」
     と、何かを思い出すような仕草でタンジェリンが虚空を見上げる。
    「たとえば、そうだな。いちばん盛り上がったサッカー中継は」
    「四年前のウエストハムのホーム戦」
    「ああ。なら、今までで最低のハズレくじ掴まされた仕事は?」
    「二年──いや、違うな。駆け出しの頃のあれだ。アイルランドの詐欺集団」
    「同感だ。二年前のはクソ仕事ではあったが、実入りはハズレってほどでもなかったろ」
    「だな」
    「ロンドン一のフィッシュアンドチップスと言えば」
    「ロニーの店だ」
    「お前はそう言うけどよ、俺に言わせりゃあのオヤジは揚げ方が甘え。もっとカリッとカラメル色にすりゃ完璧なのに」
    「気が短えんだな、ありゃ。でもあそこのソースは絶品だって言ったのはお前だろ」
    「ああ、気が短えからじっくり寝かせるってことが出来ねえんだろうな。いつでも混ぜたてで酸味の尖ったタルタルソースやサルサディップなんて、他じゃ滅多に出会えねえ」
    「ああそうだった、そう言ってお前が褒めるもんだから、いつも食い切れねえほどサービスしてくれるんだよなロニーの奴」
    「ソースだけ山盛りでどうしろっつうんだか」
     馴染みの店の店主をタネにひとしきり盛り上がり、懐かしくくだらない話題にげらげら笑って、眦に滲んだ涙を払う。
     はあ、と一息ついて、タンジェリンが平時の彼らしい不遜な笑みを湛えた。
    「まあ、そういうことだ。お前がその気になりゃ、俺の影なんてどこにでも転がってる。自殺まがいの眠りになんて頼らなくても、会いたい時に会える 。夢も記憶も、たいして変わんねえだろ」

     それは詭弁だと、わかっていた。
     奇しくもタンジェリン自身が表現した通り、それは“影”だ。今こうして、仮初めではあっても言葉を交わし合えている兄弟の姿ではない。
     けれど、胸を張ってまた二人並び合うためにはそうするしかないことも、もう分かっていた。
     生きて生きて生き切って、そうしたら迎えに来るのだと、はっきりとタンジェリンはそう言った。
     型破りなことばかりする自分達だったが、互いに対して誓ったことを破ったことはないというのは密かな自負だ。他の誰をいくら騙そうとも、お互いだけは裏切らなかった。
     うっすらと傷跡の浮かび始めたタンジェリンの首筋を、レモンの細指が名残惜しげに撫でる。
     かつて何度も委ねた急所を今も無防備に晒しながら、タンジェリンは瞼を下ろして兄弟のしたいようにさせる。
     ──もう、しばらく結んでやれないから。
     放っておくとなぜだかすぐに崩れてしまうタンジェリンのタイを、レモンはことさら丁寧に整える。
     いつからか、激昂しやすい兄弟の気分を落ち着かせるためにしていたはずのこの行為が、自分自身の気持ちも宥めていたのだと、ここへきてレモンは初めて自覚した。
     次に会えるのはいつだろう。それまでこの結び目はおとなしく待っていてくれるだろうか。
     ──無理だろうな。
     確信にも似た予想に、ついレモンは苦笑する。
     何年後、何十年後、あるいはもっと早く、それとももっと遅く。
     もう一度会えた時、このタイがみっともなく縒れていればいいなと思う。俺がいないとこいつはダメなんだなと、思い知らせてくれればいいと願う。

     なあに、たかが数十年だ。会える保証を得たのなら、行動を躊躇う理由はない。
     選ぶべきは死ではなく夢でもなく、現実だ。
     走り続けてさえいれば、線路はいつか必ず再び交わる。これはほんの一時の分岐ポイントだ。

     白い光が辺りを包む。
     誰よりもたくさん、何よりも近くで見てきた顔が片頬を上げて微笑み、懐かしい声が、鼓膜を揺らす。

    「時間だ、兄弟。出発しろ、お前の人生レールを」

    ***

     家中の酒をシンクに流し、残った薬をケースごとダストボックスに放り込む。
     アルコールの匂いが名残る空気を一掃したくて窓を全開にすると、どこからか煮込んだスパイスの香りが迷い込んできて胃袋をくすぐった。
     ──シャワーを浴びて、こざっぱりした服に着替えて、そしたら今日は久しぶりにロニーの店へ行こう。クリーム色のフィッシュアンドチップスに、酸味の尖ったソースをたっぷりつけて。いつだったか、「こいつにはエールよりキュリオスティが合う」と言ったらあいつは普段の三倍眉を顰めて、奇妙なものを見るようなツラで俺を睨んだっけ。
     そんな、覚えていたつもりもなかった記憶がどこからともなく浮かび上がってきて、レモンの脳裏に最後の夢の中での兄弟の台詞が鮮やかに蘇る。
     ああ、そうだ、お前はどこにでもいる。俺がいるところ、どこにだって。

    ***

     もう、青い機関車の夢は見ない。

     だけど、今日も俺は眠る。
     一つの身体に二人分の記憶を抱えて、夢のない夜を越えて、また朝を迎える。
     走り続けていれば、いつかは辿り着くことを知っている。俺の帰り着くべき終着駅あいつへと。
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