Living やたらと隙間風が肌に冷たくて、目を開ければ横にいるはずの身体がなかった。
「……」
薄っぺらな毛布をそのままマントみたく巻き付けてベッドから降りる。ベッド、と呼べるような代物じゃないかもしれない。スプリングのぶっ壊れた、がちがちの硬い塊。床よりはいくらか上等だが。
立ち上がるとよけいに寒さが沁みる。ろくに暖房も入らない石造りのボロいフラット。雨風が凌げるだけマシか。
ぎいぎい軋むドアを開ければ、たいして物もないがらんとしたリビングに、やっぱりその身体はあった。窓辺の、これまたバネの緩んだ長ソファの向こう端で、片膝を抱えてこっちに背中を向けている。気づいてないはずはないのに。
「寝ないのかよ」
無視。
いつもはうるさいくらい喋り立てるこいつがこうな時は、めちゃくちゃにムカつきすぎて何もかもを突っぱねてるか、むしゃくしゃに気分を乗っ取られるのを抑えつけようとしてるかだ。今回はどっちだろうな、と思いながら、もう一度声をかける。
「機関車だって夜は機関庫で眠るんだぜ」
「……俺は人間だ」
不機嫌な声が、背中越しに答える。返事があったことにホッとして、ゆっくり近づく。これは、まだ手に負えそうなときの反応だ。癇癪持ちの相棒を、放っておいてもいいんだが、そうしたくない理由があった。
「人間だったらベッドで寝ろよ」
「……眠くねえんだよ」
本当は、「眠れねえんだよ」なんだろう。最近ようやく軌道に乗り始めた仕事の後、たまに、こいつはこうなる。今日の仕事は、思いの外ターゲットの悪あがきがひどくて苦労したとはいえ、ちゃんと依頼はこなして報酬もばっちり頂戴して、何の問題もないはずなのに、何がそんなに気掛かりなのか。
「寒いだろうが」
「……別に。寒くねえ」
嘘なのは、かすかに震えてる肩で分かる。俺の視力ナメてんのか。
「俺が寒いっつってんの」
二十歳前のいい図体した男が二人、狭いベッドでくっついて縮こまって一枚の毛布にくるまってんのもどうかと思うが、現状、いちばん現実的にこの寒空の夜を乗り切る方法はそれしかなかった。今日もらった報酬だって、きっとひと月も持たずに消えちまう。「早いとこ名を上げてがっぽり稼いであったけえ部屋に住みてえよなあ」と言いながらソファに乗り上げて、羽織っていた毛布ごと冷たい背中に覆いかぶさる。ぴく、と一瞬強張った体は、でも抵抗しなかった。俺よりは筋肉質で細身の体を、両膝を開いて後ろから抱え込むようにする。両腕を回して毛布をうまいこと整えて、どちらの身体もはみ出ないようにすれば、厚みを犠牲に大きさだけはたっぷりある毛布は、世界一小さなシェルターになった。
シェルターの中で、くっついたところからじわじわあったかさが戻ってきて、俺はほっと息を吐く。こいつはどうあれ、俺は眠いんだ。とろとろと戻ってきた睡魔に、かくんと頭が揺れる。
「っで! 痛ってえ」
勢いで目の前の肩にぶつかった顎の下から、信じられないくらい鋭い痛みが走って、一気に目が覚める。
何だ、今の。こいつ肩に電気でも流してんのか?
俺の独り言に、腕の中の体が上半身を捻って振り返る。ばっと音がしそうなその勢いに、癖のあるブルネットの髪が俺の顔をくすぐって、むずむずした。
いきなり、がっと両頬を挟まれ、ぐっと上を向かせられる。
「ふぁいすんらよ」
「痛えに決まってんだろうが」
顎の下から凄まれても、お前に顔固定されてこっちは何も見えねえんだよ。
「ふぁいが」
苛ついた声が答える。
「顎、つうかこれもう喉だろ、刺されたよな」
ああ……と、言われて思い出す。刺されたとは大袈裟だが、今日の立ち回りで軍用ナイフみたいなでっけえ刃物で確かに傷をつけられた。皮膚が薄いから血はあっさり出たが、そのわりに傷は浅い。一応貼ってたはずの絆創膏は寝てる間に掻きむしったか、もう付いてないみたいだった。
頬の手を掴んで下ろさせながら「そういえばそうだったかもな」と答えると、意外にも抵抗すらせずあっさりと、まるで脱力したように指は離れていく。
代わりに、鋭い眼に睨みつけられた。明かりのついてない部屋の中で、窓から入る通りの淡い電灯を映して底光りして揺れている碧い瞳。やたらときれいだな、と思ってたら、視線よりも尖った声が投げつけられる。
「そうだったかもな、じゃねえんだよ」
まだ寒いのか、震えている。声が。
「喉だぞ。ブッ刺されたら死ぬんだぞ⁈ なんでそんなに平気なんだよ!」
「だって、ブッ刺されなかったし」
ほら、こんなにピンピンしてるじゃねえか、と両手を広げて見せる。ぜんぜん生きてる。生きてるから、寒いし、眠い。
「そういうことじゃねえっつってんだ‼︎」
いよいよ苛立った声にどやしつけられる。
「なんなんだよ……」
どうやら、相棒の不機嫌の原因はこれか? と察したものの、その理由までは分からない。
別に、一瞬足留めは喰らったが、すぐに反撃して相手は仕留めたし、そのせいでこいつを危険な目に遭わせた覚えもないし、なんでそんなに怒られなきゃいけねえんだ?
「クソッ、“相手の心が読める”だかなんだか知らねえけど、すぐああやって無茶なとこ突っ込んで行きやがって、ほん……っと何考えてんだよ‼︎」
興奮しすぎて目を潤ませながらギャンギャン吠えてる。“いやいつもすぐ突っ込んでいくのはお前の方だろうが”と言おうかと思ったが、その先どうなるかも読めたので止めた。廃屋手前のボロフラットでも、いちおう隣人とやらはいる。ここを追い出されたら、いよいよ野宿だ。宥めるように両肩を押さえて、気持ち絞った声で返事する。
「ちゃんと勝算はあったって。無茶じゃねえと思ったからやっ──」
「でも怪我した」
途中で遮られちまった。
冴え冴えと青く見開かれた眼と、それよりも蒼ざめた顔が俺を見てる。
「死んでたかもしれなかった。あと……あと、0.5秒でも違ったら」
「あー……」
まあ、それはそうかもしれない。タイミングがズレれば軽快な車輪もレールから外れる。事故はいつでも起こりうるもんだって、トーマスも言ってた。
「でも俺、死なねえよ」
事故は、時々起こるかもしれねえけど。アーサーの無事故記録だって破れる日が来たんだし。
「は」
宝石みたいな瞳が落っこちるほど、目を見開かれた。
「馬鹿言うな、死なねえ人間はいねえだろうが。それこそ機関車じゃねえんだからよ」
相棒がトーマスの喩えを使ったのが嬉しくて、俺は声を弾ませる。
「そうかもしれねえけど、俺は死なねえって」
「口だけなら何とでも言えんだよ」
「いや口だけにはしたくねえけど」
「じゃあ適当なこと言うんじゃねえ」
なんでこいつはこんなにカリカリしてんだろう。それがどうしても分からなくて、とりあえず俺は言われたとおり口を閉じる。
俺は死なねえよ?
だって、俺が死んだら、おまえ、一人になっちまうじゃねえか。
昔っから、俺がいないとお前は喚いて、どこまでも探しに来てたよな。ひとりぼっちだとお前泣くだろ、俺はお前が悲しいの、好きじゃねえんだ。他の奴らはどうでもいいけど、お前にはずっと楽しい顔しててほしい。たまに、うるせえけど。
まだ震えてる身体を、今度は正面からもう一回抱き締める。
薄っぺらな毛布で、シェルターを作る。俺とお前だけの、世界一小さなシェルター。児童養護施設でも、里親の家でも、何度でも二人きりで潜り込んだシェルター。
ふたつの心臓のリズムが、だんだん馴染んでって、ひとつになる。
俺はこれが好きだった。薄っぺらな毛布なんて世界の何からも守っちゃくれねえけど、このおんなじ音の心臓があれば、永久機関にだってなれる気がした。
震えていたもうひとつの体も、もうすっかり落ち着いて、体重を半分こっちに預けてる。たぶん、こいつもおんなじ音を聞いてるんだろう。
とくとく、どくどく。
ほらな。生きてる音だ。
まただんだん身体があったかくなってきて、腕の中のこいつのせいで内側も外側もポカポカするから俺はうとうとする。
「──お前、もっと鍛えろよ。ナイフでブッ刺されても跳ね返すくらい」
眠りの手前の耳元で、いつの間にかトゲの取れてる声がする。世界一耳に馴染む声。あっちも眠いのか、少しだけ子供のころの高さが混じった声。
「無茶言うな……それに体質ってもんがあんだよ」
お前みたいになんでもかんでも筋肉にならねえの、と呟くと、笑いなのか溜息なのかわからないものが、俺の耳をくすぐる。
「しょうがねえな、じゃあ俺がお前の分も鍛えるからよ、お前、俺から離れるんじゃねえぞ」
どこか得意げな、すっかりいつもの自信家の声。
“だから、いつもすぐ突っ込んでくのはお前の方だろ”と言う前に、俺はたぶん安心して、夢ん中に落ちてた。