ななあだ アナザーエンド※十年後設定。足立さん出所後。
※ななあだシリーズの分岐ルート。
※もう堂島家みんなで愛しちゃえばいいんじゃない?編
足立さんをずっと目で追い続けていたから、だから、気付いてしまった。
あの人が見ているものに。
足立さんの視線の先にいる、人物に。
あの人は表情を隠すのが上手だから、だから中々気付けなかった。
でも、以前のように、お父さんに呼ばれてまた家にお酒を飲みに来る機会が増えて、
酔いが回ったときにふと垣間見せる、その顔に気付いてしまった。
お父さんを見ているときの足立さんは、表情が違う。
どこかくすぐったげな笑みを浮かべて。
でも、その瞳には、焦がれるような何かと、同時に諦めの色が宿ってて。
私には、絶対に向けてくれない顔。
だから解ってしまった。
足立さんは、お父さんが好きなんだって。
胸の奥が、ぎゅっと縮まった。
その痛みがなんなのかは解らなくて、ただ息苦しくて。
それでも、あの人から視線を外す事が出来なかった。
気付いてしまった事に気付かれたくなくて、私は笑顔を浮かべる。
……こんな痛い笑顔があるなんて、知らなかった。
ねえ、それなのに、どうして足立さんは笑えるの?
お父さんの目の前で、どうしてそんな風に笑えるの?
――私は初めて、足立さんの心に触れた気がした。
失恋と同時に、私は改めて、あの人に恋をした。
お父さんを好きなあの人に、恋をした。
* * *
「……どうした、菜々子」
久々に逢ったお兄ちゃんは、私の顔を見るなりそう言った。
何時だって、お兄ちゃんには隠し事が出来ない。
お父さんにだって、足立さんにだって気付かれてないのに。
お兄ちゃんの顔を見て、気が緩んでしまったせいかもしれない。
目の奥が熱くなって、じわりと視界が滲んで、慌てて瞬きする。
私はきっと、誰かに聞いて欲しかったんだと思う。
お兄ちゃんは何も言わず頭を撫でてくれると、家に上がり、私のためにホットミルクを入れてくれた。
ハチミツたっぷりの、子供の頃大好きだったホットミルク。
お父さんに内緒で、たまに作ってくれたっけ。
ソファに座って、お兄ちゃんからマグカップを受け取る。
懐かしくて、暖かくて甘いミルクがじんわりお腹を温めてくれる。
だから、思ったよりするりと言葉が出てきた。
「お兄ちゃんは……足立さんが好きな人、知ってる?」
お兄ちゃんは少しだけ目を瞠って、それから、優しい、労るような笑みを浮かべた。
「……知ってるよ」
それだけ言って、そっと私の頭を撫でる。
ああ……そうか。お兄ちゃんは知ってたんだ。
もうずっと前から。
「……どうして?」
聞きたい事が喉に痞えて、うまく言葉できない。
どうして、教えてくれなかったの? どうして、止めなかったの?
菜々子の事を応援するって言ってた、あれはどうして?
声にならない言葉を、お兄ちゃんはちゃんと受け止めてくれた。
「人を好きになる気持ちは、止められないだろう? 例え自分自身でも」
お兄ちゃんの言葉に、お父さんを見る、足立さんの表情を思い出す。
お兄ちゃんは私の隣に腰掛けると、そっと手を握ってくれた。
「それに、菜々子の想いだってちゃんと足立さんに届いてる。
足立さんも、菜々子の事は大事に思ってる。……それは解るだろう?」
「……うん」
お兄ちゃんの諭すような言葉に、素直に頷く。
足立さんが私に愛情を向けてくれてるのは解ってた。
それが恋とかじゃなく、ただの保護欲的なものだとしても……嘘じゃないのは解る。
私を見るときの足立さんは、とても優しい顔をしてるから。
「足立さんが誰を選ぶか、その時になってみないと解らない。
だから、何も出来ないのは嫌だって言った菜々子を応援したかったんだ。
……後悔しないように」
お兄ちゃんの力強い言葉が、励みになる。
そうだ、ダメでもいいからぶつかりたいって言ったのは、私だった。
揺らがないお兄ちゃんの瞳に、ふと不思議に思った事が口をつく。
「お兄ちゃんは、何時から知ってたの?」
「え? それは……」
珍しく、お兄ちゃんが言いよどむ。
じっと見つめて答えを待つと、観念したように苦笑して、口を開いた。
「高校2年のときから、かな……」
今度は、私が驚いて目を瞠る番だった。
「俺と一緒に居る時の足立さんは、掴みどころが無い人で……
笑ってるのにちっとも近づけた気がしなくて、その内に気付いたんだ。
叔父さんや菜々子の居る前では、足立さんの表情が違う事。
自然体って言うのかな……本当に楽しくて笑ってるんだなって、解った」
お兄ちゃんの眼差しが、昔を懐かしむように遠くなる。
「叔父さんも足立さんの前ではよく笑うし……
菜々子も、俺には言わない我儘を言ったり、正直ちょっと、羨ましかった。
俺の居場所が無くなるみたいで」
驚いて、息を呑む。
お兄ちゃんがそんな風に思ってるなんて、一度も思わなかった。
だってお兄ちゃんはお兄ちゃんで、他の誰にも代われないのに。
「でも足立さんの想いに気付いたのはもっと後になってからだった。
あの人が俺に素顔を見せてくれたのは、全てが終わった後だったから……」
静かに語るお兄ちゃんの瞳は、どこか痛みを孕んでいて。
でも、同時に見せる切ない眼差しが、お父さんを見る足立さんの顔と不意に重なった。
「もしかして……お兄ちゃんも、足立さんを見てたの?」
お兄ちゃんの瞳が大きく見開かれる。
長い長い沈黙のあと、お兄ちゃんはゆるゆると口の端に小さな笑みを浮かべた。
「……ああ。ずっと、見てたよ」
その声は、酷く痛くて。なのに、とても優しい笑顔で。
何故だか胸がぎゅっと痛くなる。
どうして? どうしてそんな風に笑えるの?
足立さんも、お兄ちゃんも、辛いはずなのに、どうして笑えるの?
「どうして……何も言わなかったの?
お兄ちゃん、菜々子の事は応援してくれたのに、どうして……」
色んな気持ちがぐるぐるして、上手に言葉に出来ない。
お兄ちゃんは、私を宥めるように暖かい手で頭を撫でてくれて、静かな声で言った。
「……好きだから、だよ」
「……どうして……」
解らない。
解らないよ、お兄ちゃん。
こんなに苦しいのに、お兄ちゃんの痛みが伝わってくるのに、
どうしてそんな風に笑えるの。
「俺はね、菜々子。あの人が幸せになってくれれば、それでいいんだ」
お兄ちゃんの手が、頬に触れる。
優しく拭われて、初めて泣いていた事に、私は気付いた。
「俺には……出来ない。きっと、あの人の痛みを広げるだけだから」
お兄ちゃんの言葉に、ぶんぶんと首を振る。
お兄ちゃんは困ったように笑って菜々子の頭を撫でてくれた。
違うよ、お兄ちゃん。
確かに、足立さんはお兄ちゃんにちょっと意地悪だけど、
でもお兄ちゃんの話をよくしてるの、菜々子知ってるよ。
だってお父さんとお兄ちゃんの事ばかり話すから、ちょっと羨ましかったんだから。
そう伝えたいのに、喉が詰まって言葉に出来ない。
目の奥から溢れ出す涙が止まらなくて、目の前が見えなくなる。
「だから、菜々子が足立さんにぶつかりたいって言ったとき、応援したくなったんだ。
俺には出来なかった事を、菜々子はやろうとしたから」
お兄ちゃんの言葉に、驚いて目を見開いた。
涙でかすんだ視界の中に、お兄ちゃんの優しい笑顔が見える。
「俺が怖くて出来なかった事を、菜々子は恐れずにやろうとした。
いくら傷ついても、諦めずにあの人にぶつかった。
菜々子なら、変えられるかもしれないと思った。足立さんを……」
お兄ちゃんの目が、束の間遠くなる。ここに居ない誰かを見るように。
「実際に、あの人は変わったよ。
自分では気付いていないかもしれないけど……。
足立さんが変わって行くのが嬉しい。
少しずつ、あの人が世界を受け入れていくのが、嬉しい。
……だから、俺はそれでいいんだ」
そう言うお兄ちゃんの瞳はすごく穏やかで、すごく優しかった。
いつか見た、足立さんの顔と重なる。
『大切な誰かが幸せならそれでいい。たとえ自分がそこに居なくても――
そう思えるようになったのは、君のおかげだよ、菜々子ちゃん』
ああ……そうか……
あの時、足立さんが言ってた言葉……やっと、なんとなく解る事が出来た気がした。
手の中のホットミルクを見下ろす。
甘い甘い、ホットミルク。
私はずっと、足立さんに甘くて温かくて幸せになれる物があるって教えたくて、ずっとそれを飲ませようとしてた。
でも、もしかして。
足立さんが欲しかったのは、これじゃなかったのかな。
涙がぽとりと落ちて、カップの中に波紋を作る。
足立さんがお父さんを見つめる瞳も、お兄ちゃんが足立さんを見つめる瞳も、
きっと私が足立さんを見つめる瞳も、それぞれ全部違って、
でも同じ人を好きになるって気持ちで。
同じなのに、どうしてこんなに形が違うんだろう。
手の中のホットミルクを、口に当てる。
甘いはずのそれは、涙が混じって苦かった。
でも、構わずぐっと飲み干す。
最後まで飲みきって、底の方に溜まってた甘いハチミツの味を舌に感じながら、キッと前を向く。
「決めた……菜々子、足立さんを幸せにする」
その言葉に、お兄ちゃんが目を丸くした。
「間違ってるって、思わない。
だって、ちょっとぐらい苦くても、やっぱり甘くて温かくて幸せになれる物はあるもん」
足立さんだって、知ってるはず。
お父さんを見ていた足立さんは、確かにくすぐったげに笑ってたから。
お兄ちゃんの手を握って、お兄ちゃんの顔を見返す。
「それからね、お兄ちゃんも、幸せにする」
「え……?」
お兄ちゃんがぽかんと口を開けた。
そんなお兄ちゃんを見るのは初めてだったから、思わずおかしくて笑ってしまう。
「それでね、菜々子も幸せになるの。お父さんも一緒に、足立さんとみんなで、幸せになろ?」
そう言って、お兄ちゃんに笑いかける。
自分がどんな顔をしてたかなんて解らないけど、
呆気に取られてたお兄ちゃんは、私を見て凄く優しい眼差しになった。
そして、「菜々子には敵わないな」と言って笑った。