女は一刻も早くここから離れなければいけなかった。女は亭主かぶれの男に逃げられたばかりだった。各地を転々とまわる小さな旅芝居の一座で、先日は滝の白糸を興じたばかりだった。知らない間にみんな逃げてしまって、中には二人、子供がいるだけだった。(それは知らない間に住み着いた子供で、女は子供に優しくした。)荷物をまとめていると中に人が入ってきた。
物盗りだろうか?女は手に小刀を持った。
「滝。」
開襟シャツにサスペンダーの出で立ちの男は
親しみを込めて女を呼んだ。
「滝、僕だよ。ミツだ、ミツアキ。」
「ミツアキ。」
滝と呼ばれた女は顔に安堵を浮かばせた。
男は滝の小刀を腫れ物を触るように手に取って、
そのまま放ってしまった。
「八助は?」
「逃げたよ。ろくでなしは、本当にろくでなしのままだった。」
「借金は?」
「知らない。知らないよ。今知ったもの。ああ、身売りするしかない。」
とうとう滝は耐えられなくなって、膝から崩れた。
「もう、本当に直ぐに出てしまうの。」
眉をひそめたミツアキが滝に近寄った。
しゃがんで、滝を覗き込んだ。
「今日の夜。出る。」
「この子達は?」
「どうもこうも…あんたたち、どうしたいの。」
滝はヤケになって聞いた。子供二人は縮こまって黙ったままだ。
重苦しい空気が流れた。いつもは狭く感じる芝居小屋は、際限なく広がるように思える。
すきま風がこれでもかと滝をなぶった。
耐えかねたのか、ミツアキは立ち上がった。
滝を一瞥して、視線を外に移した。
それから少しの間黙って、また来る、と出ていってしまった。
月が辺りを照らしている。外に干していた数枚の着物をまとめて、役者小物も全て売り飛ばして、銭湯にでも入って、歩いて遊郭に行かないといけなかった。今後の展望、それもあまり芳しくない展望を子らに話すのは気が引けた。
子ら二人は俯いて、畳を見つめていた。左足を右足の踵に絡ませて、所在なげにしていた。夜が遅いので、何度か寝こけている。
荷物を枕のようにしてやり、子らを寝かせた。今日くらいは甘えさせてもいい。
外で車が止まった。
「入るよ。」
ミツアキの声だった。
滝は聞き慣れた声に縋り付くように小屋を飛び出して、
ミツアキを迎えた。
男はいつもの少しくたびれたような服ではなく、
良く手入れされた暗い色の背広を着て、髪を撫でつけていた。
一見すると別人のように見える男に、滝はたじろいだ。
「まだ外は寒いよ。中に入ろう。」
小屋内には少しの灯りがあったが、それでもミツアキの姿は暗闇に紛れていた。
「滝。もう直ぐ出るの。」
「ええ、でも一寸なら…」
滝はまだミツアキを勘ぐっている。
ミツアキは滝の手を取って、祈るように自分の手を繋いだ。そのまま自分の頬に手を寄せて、野良猫の懐いたような顔をした。ミツアキのくせだった。
滝は真実にこの男が昼に会ったばかりの男ということを自覚した。そしてもう会えないのかと思うと、口惜しくなった。
気がつくと男が滝の肩に顔を乗せていた。甘える時のくせだった。
「滝。八助が憎いかい。随分と、苦い汁を飲まされたね。
往生しろと思わないの。ろくでなしは、ろくでなしのまま生きて、君は擦り切れて死んでいくのを、良しとするのかい。」
甘えた声で、背中を爪でつつくような居心地の悪い言葉を言った。
滝はだんまりしたままで、目の前に憎らしい男の姿が浮かんでは消えた。
「目の前で死なれちゃ気が悪いから、どこかでくたばってしまえばいいのに。」
滝はいつぞやの女郎蜘蛛のような声色でおどけてみせた。
ただ、心からそう思っているようにも思えた。
滝の吐露に満足したのか、男は微笑み、汗で額に張り付いた少しの髪を指ではらい、頬を撫でた。
「そう、解った。…滝、僕とおいでよ。車にお乗り。
君、きっと遊郭に行くね。途方もない時間、身請けを待つの?子供たち二人を置いて。今ここで、僕が君を身請けしようか。」
子供より子供らしく無邪気にそう言い、身請けというのは正しくない。僕は君を雇用したいんだ。とつけ加えた。
滝は突然岐路に立たされた。本当に信用すべきなのか?
ミツアキは、一座が興行している時にふらとやってきた。それこそ逃げた亭主かぶれの座長のお気に入りでやってきた。ほかの座員もミツアキを気に入った。誰が見ても目を引く二枚目で、頭が回った。鷹揚な態度は家柄の良さを感じさせた。よく手入れされた服を着ていた。子供の面倒を見て、文字を教えた。
座長は酔って吐き捨てた。
「お坊ちゃんの家出よ。お遊びだろうよ。」
座員と関係を持ち、文字通り一座との関係をものにした。
滝もその一人だった。
「君、文字が読めるね。」
懐から紙を取りだした。広げると、いろはから始まるかなが書いてあった。隣には簡単に漢字も書いてあり、苦心したあとがみえた。
「それに、頭もいい。夜になると文字を覚えていたんだろう。興行のあとに。僕が子供たちに教えたのを聞いていたんだね。」
滝はばつが悪そうに黙って聞いていた。それは秘密裏に行った悪巧みを、鼻から見透かされた後、許された子供のようだった。
「…雇われたら?」
「住まいと、食事と、子供たちの将来を約束しよう。」
滝は観念した。多くのことは伏せられていたが、何も知らない土地に行って心身をすり減らすより、見知った顔に扱き使われる方が滝にとっては幸運だった。
「乗って。楽にしているといいよ。君、一寸。」
滝と子供たちは車に乗り、ミツアキは何事かを運転手に耳打ちした。
「先に行っているといいよ。僕はあとから合流しよう。」
遠ざかっていく車に、手を上げてミツアキは答えた。
手渡された名刺には、簡単にハナノミヤ ミツアキ と書かれていた。
車が過ぎ去るのを見送ってから、ミツアキは歩き出した。
少し歩くと路地に入って、そこから大通りへ抜けた。
夜更けのせいか人気もなく、街灯も心細い。
「ミツ。」
男が話しかけてきた。中年の、赤ら顔で、周りを気にしている。忙しなく体のどこかを動かし、常に怯えているような、見栄の皮を被ったような男だった。
「上手くいったか?」
「うん。上手くやったよ。」
「お前が借金を肩代わりするなんて、なんの笑い話かと思ったが、ちょうどいい。もう、どん詰まりで。あれもどうしようかと思ったんだ。」
にやっとして、小指を折った。
「あれはお前にやるよ。俺の借金を肩代わりする代わりに、あれが欲しかったんだろう。俺は彼奴がいなくなるならなんでもいい。またどこかでやり直す。」
「そうだね。上手くいってよかった。せっかくだから、飲み直そうか。」
綺麗な畳。豪奢な襖。机には新鮮な造りが乗っている。
赤ら顔の男は酒をあおり、大きく息を吐いてから、嗄れ声で言った。
「それで、借金はどうなったんだ?」
「ああ。」
ミツアキは男の前に茶封筒を置いた。
「手打ちにすると。」
男は聞くやいなや、何本かない歯を見せて歪に笑った。
ミツアキは微笑み、男の空の杯に酒を注いだ。
「滝は?最期になんて言ってやがった?」
ミツアキはわざとしなを作り、
「目の前で死なれちゃ気が悪いから、どこかでくたばってしまえばいいのに。」
先程の滝より悪辣に吐き捨てた。
「傑作だ。」
男は酒をあおると、手を叩いて笑った。男は笑うたび身体を揺するので、机は不安定に揺れていた。
笑いすぎたせいか、視界がゆがみ始めていた。
男は声を発しようとしたが、声は出ず、気道が塞がれはじめていることに気づき、助けを求めてミツアキを見つめた。
ミツアキは男の様子を察して立ち上がると、傍に座り、男を床に寝かせた。
「水を、」
そう言ってまた立ち上がった。
男は動揺していた。自分に迫り来る唐突な死の予感に戦いた。一瞬一瞬に呼吸が苦しくなり、頭の先が重く、熱くなってくる。目玉が飛び出しそうに圧迫されているのがわかる。舌を出して息を荒く吐いたが、ただ間抜けな音を出すのみだった。体は激しく震えている。汗は所構わず吹き出していた。
ミツアキは男に一瞥もくれることなく、部屋から出ていった。
ミツアキは控えていた女将を捕まえると、流暢に
「連れが酔っ払って、立ち上がれない。人を呼ばせて欲しい。」と、示し合わせたように言った。それからこれは心付けだからと手に小金を握らせた。
女将は黙って首を縦に降り、またいらしてくださいと言った。
運転手が男を車に運び込み、ミツアキも続けて車に乗り込んだ。
「屋敷へ。荷物は裏に置いてくれて構わない。」
すぐさま車は発進した。
午前五時すぎ、物音で滝は目を覚ました。
ミツアキと別れたあと、屋敷に通され、慇懃に頭を下げられて離れを案内された。大きな屋敷で、どこも丁寧に手が入っている。たかが離れでも、畳の毛羽立ちひとつ無いのを見るとやはりいいご身分なのかもしれない。
子供らはすっかり疲れて寝いっている。
初めて隅まで綿の詰まった、畳の硬さを感じない厚みのある布団で寝たせいで体が強ばっているのか、なかなか寝付けなかった。
襖が静かに開いた音がする。
直ぐに聞き慣れた声がしたので、滝は声の主に向かって「ミツアキ。」と小さく呼んだ。
ミツアキは子供らを挟んで近くに座った。滝も体勢を起こして、ミツアキを迎えた。
積もる話は多くあったが、
ミツアキは滝の顔色が幾分か良くなっていることと、
子供らの寝顔を見て気が済んだのか、
また後に来る、とだけ言い、
部屋を後にしようと立ち上がった。
滝はさすがにこのままもばつが悪いと思い、見送ろうと立ち上がった。
髪こそ少し乱れていたが、背広を脱ぎ、ワイシャツにベストの出で立ちのミツアキは、やはりあの頃のミツアキとは似ても似つかなかった。
離別を惜しむような滝の仕草にミツアキは微笑み、頬を親指で撫でた。
滝はその時、袖口に少しだけ土埃が付着しているのが気になった。
きっと昨晩車に乗った時、荷物を一緒に乗せてくれたから、その時汚れてしまったのだろう。
手入れの行き届いたワイシャツを汚してしまったことに罪悪感を覚えたが、同時に献身的な姿が思い起こされ、滝は自身の幸福を感じた。
離れを後にして、ミツアキは自分の書斎に戻った。
窓から差し込む光が夜明けを知らせていた。
椅子に腰かけ、机に肘を付く。袖口が土で汚れていることに気づいた。ミツアキが数回それを手で払うと、すぐに汚れは落ちてしまった。
屋敷の裏山では珍しく、何羽かの烏が喧しく鳴いていた。