わんこ蕎麦100杯食べるまで出られない部屋『わんこ蕎麦100杯食べるまで出られない部屋』
「──ってあるが、蕎麦か……」
月島の蹴り、尾形の三八式歩兵銃、菊田のナガンをくらっても尚、かすり傷すらつかない扉の上へ掲げられた文言。
三人はそこから視線を真横へとずらし、一人は深く、一人は長く、一人は鼻でバラバラなため息を吐いた。
二脚の椅子と長机。そして恐らく蕎麦が入っているであろうお椀。赤と黒のお椀が天高く積まれた光景に、三人とも無い記憶『わんこ蕎麦』が脳内へと駆け巡る。
なんとも摩訶不思議な現象だが、出る為には仕方がない。
普段から無茶ぶりを捌いてる菊田と月島はすんなりと受け入れた。
「……」
「あ? なんだ尾形、何見てんだ」
何を考えているか分かりずらい大きくて真っ黒な目が、何やら三本の棒が入った筒を見つめている。
「……くじ引き、か?」
筒には【食べる】【食べる】【入れる】の文字。
「さっさと引きますよ。──尾形」
「はい」
「あ、おい待て待てッ! こういうのは同時にっ、て……。あーもー……。なんで残りもン引かせるかねコイツらは……」
一応この中じゃ上官なのよ、俺。という菊田の嘆きなど二人の耳に入る訳がなく、月島が【入れる】、尾形が【食べる】、そして必然的に菊田も【食べる】役となった。
『──では【入れる】役の方はあちらで着替えを願います』
「「「──ッ!?」」」
突如流れた男とも女とも取れない不思議な声にバッと背と背を合わせ、三人が三人とも自前の銃を構えて警戒する。風車の陣形で全方向死角なく、いつでも射撃出来る構えでいたが、ポワンと現れたのは『更衣室』と書かれた衝立が一つ。
「……。着替えてきます」
「なんかあったらすぐ声をあげろよ」
暫く様子を伺っていたが他に何も起きないと分かると、菊田の配慮を全無視して、月島はチャッと銃を下ろし衝立の向こうへと消えて行った。
「……俺、嫌われてる?」
「菊田特務曹長殿」
「え、なに、なんでお前ちゃっかり座ってんの?」
一人項垂れてる間だろうか。尾形は猫のように気配なく二脚のうち片方へ座っていた。しかも、前掛けまでして。
「食べる、とありました」
「いや、そうだけどさ……。はぁ、分かったよ俺も座ればいいんだろ、座れば」
大事なナガンをコートの下へ納め、菊田は尾形の隣へ腰掛けた。
「お待たせ致しました」
「おう、おかええッ!?」
「ははぁ、洒落がきいてらっしゃる」
衝立から出てきた月島の姿──ほっかむりを被った給仕姿に、菊田は驚き、尾形はさすが師団の母と言われるだけありますなぁと頷いた。
「似合っとりますよ、月島軍曹殿。その乳房は自前ですか?」
「不敬」
「がふッッ!!」
容赦の無いゲンコツを尾形へ落としながら「詰め物だ」と律儀に答えるのが月島らしい。
「月島、なにもそこまでしなくても……」
「任務を遂行するには必要だと着替えの籠に書いてありましたので」
「あーーーー……」
そうだった、コイツ、任務の為ならなんでもやる奴だったわ。と、菊田は天を仰ぐ。
その間に月島は二人の間へ立ち、両手に蕎麦入りのお椀を持って構える。
『──準備完了。それでは箸と椀をお持ち下さい』
「はいよ……」
「……」
いつの間にか復活した尾形は無言で、菊田はげんなりと、箸と椀を構える。
『では。──はい、じゃんじゃん!』
「はい、じゃんじゃんッ!」
「ぶ〜〜〜ッッッ!!!」
「……ッ!」
口へ蕎麦を頬張った次の瞬間、月島の腹から出された野太い合いの手に菊田と尾形の口から蕎麦が吹き出た。
「っ、げほッ、えホッ、あ、なんだその掛け声はァッ!」
「必要事項です」
「あンだって!?」
『降参する時は蓋を閉めて下さい。繰り返します。降参する時は蓋を閉めて下さい』
「尾形上等兵、脱出する為に食べろ。はい、じゃんじゃんッ!」
「ケホッ……、はい」
「〜〜ックソ! 食えばいいんだろ食えば!」
こうして給仕姿の月島の野太い合いの手に合わせ、どんどん蕎麦を入れられて胃に流し込む二人。
時に両手で時に拍子を付けて、蕎麦をお椀へ入れ続ける月島の額に汗が光りだす頃。
「はい、じゃんじゃんッ!」
「んっぷ……」
菊田の顔色が悪い。
「待て、頼む月島。待っ「はい、じゃんじゃん!」てくれねぇのな……」
注がれた蕎麦を見つめる菊田の腹から幻聴だろうか、『歳を考えろよ』という悲鳴が聴こえる。
項垂れる菊田を他所に、隣では尾形が黙々と頬を膨らませながら蕎麦を胃に流し込んでいた。
「はい、じゃんじゃんッ!」
「……ん」
「はい、じゃんじゃんッ!」
「……ん」
阿吽の呼吸で蕎麦を食べては入れる二人。
見る見るうちに高く積まれていた蕎麦の椀が減っていき、反対に一定のリズムでもぐもぐと咀嚼しては減った数だけ尾形の周りに空の椀が天高く積まれていく。
「おーおー、すげぇなァ。尾形お前、意外な特技があるもんだ」
菊田は箸が止まってもなお、月島の高速で蕎麦を入れる手から逃れる為立ち上がって椀へ蓋を閉めた。射撃以外にも特技があるじゃないかと、兄心満載な菊田は後で弟殿にコッソリ教えてやろうとほくそ笑む。
月島は自分の身長では届かない椀を一瞬恨めしそうに睨みつけるが、この部屋から脱出する任務のため通常通り菊田の事は無視して尾形へと蕎麦を運ぶ。
「はい、じゃんじゃんッ!」
「……ん、う、」
少し食べる早さが落ちてきた尾形。
だが、月島の「集中集中!」という激にもぐもぐと頬を膨らませながらなんとか食べ進めていく。
この時尾形の脳裏に、露西亜語を覚えるまで寝るのを許されなかった日々が過ぎった。
あの時も月島から激を飛ばされた。そんな尾形へ机を同じくした菊田がそのデカい手で握ったのだろう大玉の握り飯を寄越し、今と同じく頬を膨らませながら食べたのだ。
案の定腹が満たされて眠気に負けた尾形が拳骨を落とされた所まで思い出して、先程食らった頭頂部の痛みにハッと我に返る。
そんな走馬灯もどきを見ながら、残り十杯。
「尾形、気張れ。──はい、じゃんじゃんッ!」
月島の腕捌きにも力がこもる。
「……ん」
そして最後の一杯が、今、尾形の椀へと入る──!
「はいッ! じゃんじゃんッ!!」
「んっ、ぐ、」
お見事。
最後の一本までチュルリと腹へ納めた尾形は、流石に腹が膨れキツいのか「ヴェッ」と鳴いた。
「若いっていいねぇ……」
菊田はどこかやりきった感を滲ませる月島と口元を蕎麦汁で汚した尾形を肴に、勿体ない精神から椀に残っていた蕎麦をなんとか飲み込んだ。
『おめでとうございます』
「あ、開きましたね」
謎の声と同時に扉が開く。
月島はさっさと給仕姿から軍服へ着替え、出入口周囲の安全確認をする。一つ頷いて「では、仕事があるので」と一足先に部屋から出ていった。
「はぁ〜、釦一つ二つ外して歩くかねっ……。って、おい尾形。お前さん動けるか?」
「……ヴェッ」
腹を擦り身動きが取れない様子の尾形に、菊田が仕方ねぇなと引き起こし肩を貸す。
「食ったもん吐くなよォ〜」
菊田は自分の代わりにより多く蕎麦を腹に納めた部下を労わる。なるべく揺らさないよう歩き、不可思議な部屋からようやく三人は脱出した。
「──菊田特務曹長殿、尾形上等兵」
「〜〜っ、今度はなんだッ!」
部屋を出てすぐの所で気配を消して立っていた月島に話しかけられ、菊田は盛大に肩を跳ねさせた。
「夕餉は通常通り一人米二合です」
「〜〜ッ、ッ、ッ! いまッ! めしのッ! はなしをッ! するなーーーーーーッッッ!!!!!」
「……ヴェッ」
かくして。
夕餉時には普段通り米を大盛りでかき込む月島と、胃薬を求めに医務室へと腹を押さえ向かう菊田に、なんだかんだきちんと完食した尾形は「今日は顎が疲れた……」と普段より幾分も膨れた腹を擦りながら眠りについた。