クリスタライズ・メモリー人生には一度しか聞かない言葉というのがある。
「はじめまして、七海春歌です」
まさかこんなことを言われる日が来ようとは。初対面でしか交わさない挨拶、つまり自分達にはもう二度と訪れることのないはずだった。
「えと、自分でもまだよく状況がわかってなくて……」
すみません、と頭を下げる仕草には緊張が見て取れる。カミュは胸に苦いものが溢れるのがわかった。
前回の逢瀬では熱く交わし合ったあの唇からなんと他人行儀な――
「呆然自失、Mr.カミュも可愛いところがありますネ~!」
豪華なデスクの向こうで暢気に言う早乙女をここぞとばかりに睨みつける。半ば八つ当たりなのだがこのやりきれない感情をぶつける先が他にない。
可愛いなどと成人男子が頂戴するには不名誉だ。そんな評価を誕生日に寄越したからにはその所員の可愛さを受け止めてもらおう、開き直り不機嫌を隠さない声で言った。
「このふざけた状況は一体いつ終わる?」
成り行きを見守る春歌が二人の顔を交互に眺め、肩先で揃えられた髪先が揺れる。普段はちょこまかと家のことをこなす際に見かける仕草だ。
内心可愛いと思っていたりするのだが、今はあまりの状況の差が切ない。
「今日中には終わると思うヨ! ミーの第七感が囁いていまーす!」
「セブンセンシズ……! なんと第六感を超えていて、社長すごいです!!」
「センキューセンキュー」
畏敬をもって上司を見つめる春歌はさすが学園出身者、全くとんちきな会話である。妙なタフさが身に付いているものだ。
このアクシデントに常人ならもっと取り乱したり不安になったりするのではないだろうか、たとえ期間限定とはいえ。
「氷の精もよかれと思ってやったこと、くれぐれも叱ったりしちゃダメダメヨ!」
返事をするのも疲れて黙殺で答えた。そんなことはわかっている、誰が悪いというわけではない。
春歌が記憶喪失になったのは。
「今日は先輩と一緒に過ごすことになっていたのですね」
1月23日。この一日にオフを取るためにどれだけ苦労したかというのは語らないでおく。付け足すなら努力と無茶も。
「俺とお前はパートナーだからな。次の曲のために」
嘘を言っているわけではない。二人はたしかにアイドルと作曲家というパートナーであるし、新曲が決まっているのも事実だ。
実際この朝も打ち合わせが入っていた。眠気覚ましにと窓を開けた途端、春歌にたちくらみが起こり――常ならぬ異変に社長室行きという事態になったのは予定外だったが。
「こ、光栄です。わたし、先輩のようなすごいお方と組んでいたなんて」
てくてくと歩く道すがら、はぁと息を白くさせ両手を温め話す春歌は夢見心地といった風だ。
自身が作曲家というのは覚えているらしく、業界についての基本的な知識もある。生活に不都合はなさそうというのが早乙女と共に出した見解であった。
それもそうだろう、良かれと思ってやったことなのだ。
《ごめんなさいカミュ様……》
しくしくと泣き声の合唱が甦る。今回の騒動の張本人、氷の国であるところのシルクパレスに憧れを抱いているという妖精たちであった。
女王陛下の魔力を授かった身、こういった存在とも無縁ではない。
また、植物や動物に親しい人間というのは妖精にとって好意に値する対象であるらしい。アレキサンダー、スタリオン、ストゥルーティオと絆を結んでいるカミュは好感度が天元突破状態なのだそうだ。
《あたしたち、カミュ様とハルカ様に喜んでもらいたくて……》
妖精とはどんな類のものであっても音楽を愛する。その女神の化身である春歌もやはり敬愛されていた。
つまり二人は彼らにとって夢のカップルというところで、多忙をぬって迎える誕生日――特別な日にあたって張り切りすぎてしまったという。
《今日の朝はとっても冷え込んだから》
《霜がいっぱいで。魔力も絶好調で》
《ときめきをね、増やすお手伝いをね……》
恋愛とは、恋と愛。フレッシュなときめきはやがて穏やかな安心へと変わる。その変化も決して悪くはない、悪くはないのだがミーハーを性質とする妖精にとっては恋のドキドキこそ恋愛の肝だそうで。
「気持ちは受け取っておく。だがお前達に便宜など図られずとも間に合っている」
《キャ! カミュ様ったら!》
《名言、いただきました!!》
《やーんハルカ様に聞かせてあげたい~!》
「……反省しているのか?」
《ごめんなさーい!》
思い出すと頭が痛くなってきた。とにかく妖精たちはドキドキを大切にしてほしいあまり、やりすぎてしまったのである。
付き合いたて、出会いたての新鮮さを再現するどころか、しばらくの記憶がすっ飛んでしまった。
「次の道はこちらですか?」
カミュの家に向かう道は森の中、なかなかに険しい。
故郷に近い地を気に入って借地としており、だからこそ妖精が生息しやすかったりもする訳だが、当初スパイとして滞在していたため警備の面もあった。要するに入り組んでいる。
不思議です、と春歌が微笑んだ。
「わたしにしては珍しく勘が働いているみたいです! というか、なんだか足が知ってるみたいで」
「…………」
迷いなく同じ方向を目指してくれる足先が愛しい。
大幅に予定が狂った一日で、少しいい思いをした。
「わあ、豪華なお宅……!」
「わうわう!」
アレキサンダーが駆け寄ってきた。この不測の事態をまだ知らない相棒は遠慮なく春歌に飛びつく。
「え、えっと、ちょっと待ってねっ」
急いでマフラーやコートを脱ごうとする合間に、少し離れ早口で言い聞かせてみた。
「……わん!」
「わかってくれたか。やはりお前は素晴らしい犬だ」
いつでも我らは以心伝心と、頼もしく鳴く愛犬を撫でカミュも室内のいでたちになる。
「茶でも出そう。座っていろ」
「お構いなく……! 先輩にそんなことさせるわけには」
「客人にもてなすのは最低の礼儀だ。それに」
今日は誕生日だからな、と出そうになって寸止めにした。
「それに……?」
「いや、何でもない」
日本では誕生日は祝われるものだそうだ、知ればますます恐縮させてしまう。
シルクパレスでは逆、息災であった礼を込め新しい年齢を迎えた本人がふるまうのが通例だった。
「素敵なおうちですねぇ」
ぐるりと見まわす様子に、お前もかつて住んでいた家だ、と言ったらどんな顔をするだろう。
コポコポコポ。湯を沸かす間、今日のためにと用意しておいたものに目を留め苦笑する。春歌が喜ぶよう、好みと知っている菓子が所狭しと並んでいる。
こんなものをあれこれと出してはストーカーの疑い必至かと、紅茶用の温度計を振るに合わせて未練を断ち切る。
起こってしまったことは仕方がない。今は彼女にとって初対面なのだ。恋愛感情のない者に、自分達は恋人同士だったと明かしその関係を強要しても何にもならない。
割り切って今日は同僚として過ごそう。
「いい香り……! いただきます」
ランチには早い時間だったので簡単にクッキーと紅茶を出した。うやうやしく手を合わせる姿に、そういえば昔はこんなだった、とかく控えめで畏まることが多かったと懐かしくなる。
恋人となってからも基本的な性質は変わらないが、過ごした時間に比例しての気安さはあり、ここまで丁寧すぎることはなくなっていた。
「…………」
よく考えると、これはとてつもなく貴重な機会なのではないだろうか?
出会った頃は自分にも余裕がなかった。その自覚もない程になかったと思う。
国は困窮し、されど敵は多く――そんな大勢だけでなく一人の男としても今とは決定的に違っていた。
いつも何か抑えた態度で接していたものだ。
何かというのは人の情。誰かを愛することを諦め、禁じた。冷えた監獄のように心を凍らせて、氷の鎖を幾重にも巻き、ただ立場のために生きて――
「美味しい!」
春歌の弾んだ声にはっと現実に戻る。頬張っているのはチョコレート。目を輝かせるのは当然だ、今この家には春歌の好物しかないのだから。一つくらいはいいだろう。
「紅茶に合いますねえ」
「うむ。ティータイムに最適なチョコレートとされている」
数々の王室でも好まれている老舗の、ミルクチョコレート。
カミュが最も好むのはシーソルトがブレンドされたトリュフだが、春歌はこの薄くスライスされたシリーズが一番好きだった。
金でかたどられた模様が綺麗だと、箱も集めていたのを思い出す。味に拘るカミュが合格点を出した時点で名店ではあるが、箱の収集というのはついぞなかった視点で、違う人間と共に過ごすというのは長年愛してきたものに新たな価値を与えるのかと密かに感銘を受けたりした。
「……パッケージも女子好みかもしれん。好きなら持って行くといい」
つい口にしてしまった。きょとんとしている春歌から目を逸らし、カップを口に運ぶ。
俗に照れ隠しと呼ばれる行為であることを認めたくないカミュは、多弁で誤魔化すことにした。
「この店には他にも幾つものチョコレートがございます。美味しさは勿論、その愛らしさにも定評があり、数多の王室に好まれてございます。味覚のみならず視覚でも幸福を与えようとする姿勢、頭が下がる思いがいたしますね。今回はシンプルな一品をお出ししましたが、カラフルでコロンとした形のものもございますよ」
執事モード発動である。すらすらと口上を述べ、にっこり微笑で締める。そのまま流れるような所作でキッチンを往復し、ピンクの箱を持ってきた。
ただただ拝聴していた春歌が歓声を上げる。
「わあ……! わたし、メモを取ることが多いのでクリップを集めていまして」
知っている、と内心思うが外面は微笑のままである。
「というのも曲想が浮かんだらすぐ書きつけておきたくて……」
それも知っている、と溜まったメモをクリップで留める仕草まで思い浮かべるが、外面は執事のままである。
「それで、クリップをこういう小さい箱に入れてたりして」
クリップの色ごとに箱を合わせているとも知っているカミュは、そろそろピンクを新調する頃合ということまで把握していたのであった。
「何やら高級な気配が漂っているのですが……」
渡されたはいいものの恐縮する春歌に、穏やかボイスでもうひと押し。
「中身は空ですから。このまま捨てるより余程こちらも有り難いですよ、お嬢様に引き取られてこの小箱もさぞ喜ぶことでしょう。どうぞ遠慮なく」
「ありがとうございます。先輩……お優しいですね」
はにかんで向けられる言葉に、ちくっと胸が痛むのがわかった。
かつての自分は、一体この子に何をした?
使用人などと無茶ぶりをして、家事一切を押し付けたのではなかったか。
「…………」
冷静になって当時を思い返してみると我ながら中々にひどい。
さらに突っ込んでいきたくはないが、聡明な頭は容赦なく思考を進め、当時の彼女は今以上に不安定だったはずと追い打ちをかける。
デビューできるかもわからなかったのだ。同じ出会いたてでも、一層心細かったろう。
嬉しそうに笑いかけられ、あの頃はこんな表情をさせてやれなかったと罪悪感が滲む。
「カミュ先輩?」
「……俺は」
今、改めてひとつの真理に至る。
人に優しくするには優しくされた経験がなければ。人を愛するには愛された経験がなければ。そんな言説に100%賛同する気はない。その手の愛情を与えられる環境になかった者への否定になりかねないからだ。
生まれ落ちた環境で幸不幸が決まるだなんてあまりに救いがない。自身の生い立ちがあるからこそ思う。
けれど今、かつての自分がいたたまれなくなるのは――
「わんっ!」
「あ、ワンちゃんもお腹がすいているのでしょうか? わたしだけ頂いてしまって」
アレキサンダーの一鳴きに腰を浮かせた春歌に、これをやってくれ、と高級ビスケットを渡す。
「わあ、お座りしておりこうさんだね。これ先輩がくれましたよ~、さあ召し上がれ」
「わうっ」
いつもより互いに遠慮しつつも和やかな二人を眺め、思った。今日はこれでよかったのかもしれないと。
一年に一度の、周囲に感謝する日。最もそばにいる相手には格別の愛情を注ぎたいと思う、記念の日。
どうやったってここまで実感、いや文字通り痛感することはなかっただろう、今この身を貫いている真理を。
俺は、幸せなのだと。
幸せに生きていると、気付けることが増えるようになる。
必至に生きていると、気付けなくても仕方がないような。気付いてしまえば身動きできなくなるから切り捨ててきた、そんな類の。
本当は人に優しくしたいし人を愛したい。幼い子供が自然と抱く、人間として備わった善の感情を殺してやっと、やっと成り立たせてきた人生だった。
叶わないものは願わないと、最初から遮断して振る舞っていたのはそんなに遠い昔じゃない。
この家で共に暮らし始めた頃も、まだ。
「綺麗に食べるねぇ。さすが、カミュ先輩のワンちゃんだね」
「わんっ!」
屈んでにこにこアレキサンダーと話している春歌を、後ろから抱きしめたくなった。
彼女に出会えなかったら、いや出会っただけではなく自分を諦めないでいてくれなかったら――この過去と対比する思いすら巡らないのだ。
なりたかったものを封印したまま生を終えていただろう。歴史に名が残るわけでもなく、ただ伯爵という家を繋ぐ一人として、誰とも愛を交わさず恋など言うに及ばず。まるで透明、氷のような数十年。
なりたかったもの、それは、愛し愛される自分。ステンドグラスが美しい青の間が甦る。父からも母からも貰えなかった生き方が、今はこの手にあった。
「ときめき、か」
妖精たちのお節介を思い出し、フッと笑う。彼女らの見立ても間違ってはいない、たしかに自分達の愛は深まっている。
だが――
「わうー、わうー!」
「え、ええっ? おかわりかな、もうないよ~」
甘えてせっついてくるアレキサンダーに困って両手を振る姿を可愛いと思う。ほら、愛が深まっても恋は減っていかない。朝の混乱の中でも答えたように、心配してもらわずともこの通り。
執事でも伯爵でもないただの男として、口元が緩むのをこらえるのに必死なのだ。
「それにしてもアレキサンダー、お前……」
本気を出せば時速50kmをも出して疾走するはずの凛々しい犬も、春歌の前では結局デレデレ。自身では兄貴分と思っているらしいがすっかり甘えん坊である。犬は飼い主に似る、と思い当たると複雑な気持ちであるが。
「先輩、あの、ワンちゃんのお菓子もうちょっとありますか?」
「ああ」
こんな時いつもならキスの一つでも落としていくのだが――
「今、持ってくる」
「わっ、わ、わわわ~……!」
ちらりと微笑みを見せるだけで真っ赤になってしまう、そんな姿を見ることができるというのも悪くはない。
「一日足らずのことですけれど、不思議な経験をしました」
晴れて記憶が戻り、春歌が腕の中にいる。
早乙女の予想よりも早く、半日ほどで魔法の効果は終わった。
《さっすがカミュ様ハルカ様!》
《氷の魔法もアツアツで溶かしちゃう!?》
《キャー! これからも目が離せないっ!!》
報告をしてやらねばと、窓を開けた途端にけたたましく寄ってこられたものだ。氷の精たちは修行に励むそうである。
「今日の冷え込みはこの冬一番でしたね。でもまさかこんなことが起こるとは」
森の中では自らの息で温めていた手を、今は包んでやれる。
寒い国で生まれたカミュにとって冷気は心地よい。舞い込んできたアクシデントを含め、いい祝福を貰った。
「お前は風邪なんかひくなよ」
肩を引き寄せ言っておく。リビングのソファはもう向き合って座るものではなく、肌が触れる距離で。
「思い出すと、自分だけど自分じゃないみたいですね。初対面で接してたって」
頷いた春歌がふと笑う。
「でも、よくわかっちゃいました」
何がだ、と目で問うカミュにそのまま明かす。
「かなりの非常事態だったと思うのですけど……あまり不安にならないでいられて。それってやっぱり、わたしたち魂が繋がってるからかなって」
運命を囁く唇に今は遠慮なくキスをする。
「でも、ご心配はおかけしちゃったと思います」
ごめんなさいと謝りそうになる春歌に先んじて、カミュは言う。
「貴重な経験だった」
そうだ妖精たちにも何か菓子をやってもいいかもしれない。何が好物かなど知らないが、氷砂糖くらいならある。
「まだまだ時間はあります! これからお誕生日会しましょう!」
張り切ってガッツポーズをする様子にまた愛しさがこみあげ、カミュはもう一度キスをした。
悔恨となってしまいそうな出会い頭の傍若無人も、当の春歌から一切責められたことなどない。
記憶を失ってもなお、自分を信じてくれた――
「ありがとう」
色々な想いを込めてじっと見つめ、素直な気持ちを口にした。
「……!」
カミュが浮かべていたのは微かという以上の笑みで、これには今の春歌も盛大に照れる。
「ど、どどどういたしましてっ」
愛によってもたらされるきらめく日々に、いつだって恋のときめきは続く。
人生には何度でも聞きたい言葉というのがある。
「クリスザード、大好き」
FIN