銀高ss*
やさしい匂いがした。冷たい世界がほわりとあったかくなる、初めての感覚。それを手放したくなくてぎゅうと掴んでしまった。
鳥の鳴く声がして、瞼を持ち上げる。柔らかい朝日が昇っていてしばしぼうっと天井を見つめた。
知らない天井。狭い部屋。
ここはどこだったかと思い出そうとしても、困ったことに一つも記憶は蘇ってこない。しかし身体は幾らか軽くなったし、思考もこうして正常に戻っていることに安堵した。あの甘いだけの匂いを嗅ぐと頭がぼうっとして、何も考えられなくなって、だんだん自分が溶けていく。前後の記憶がないのもいつもの事だから特段驚くことでもない。起きたら家じゃなかったなんて前にもあった。確かその時は更に好き勝手されて酷い目に遭ったけれど。
ゆっくりと上体を起こす。僅かに眩んだ頭を押さえ深呼吸をした。
気分が追いついた頃に布団から立ち上がれば、自分が着替えていることに気づく。普段着ているものより安そうな生地。自分に充てがわれる人間にしては随分粗末な財力だなと思いながら
、果たしてどんな奴かと襖を開けた。
「おー、おはよ」
白髪の、毛玉みたいな男がいた。
*
狭い部屋だなと思った。台所があるのに、同じ室内にソファーとテーブルがある。小さすぎるテレビも。
室内にはふわりと味噌の香りが漂っている。調理する場所と生活空間が同じなんて、不思議な部屋だ。
まあ座ってろよと箸を片手に持つ男に促され、部屋の中心にある赤いソファーに腰掛ける。布地は擦れている所があって、スプリングも安そうな反発具合だ。テーブルもクロスは敷かれておらず、所々に傷があった。
初めての場所をあちこち見回していると、盆を持った男がやってきて、箸やら茶碗を置いた。箸置きはなかった。
テーブルの上には茶碗一杯の白飯と、生卵。あと、湯気の立つ味噌汁。
「なんだこれ」
「卵かけご飯」
「たまごかけごはん……」
「は?知らねえの?」
「知らない」
「いやどんなボンボンだよ!」
「ボンボン?菓子のやつか?」
「イヤーッ!マジのやつじゃん!」
毛玉は頭を抱えて叫んだ。
うるさいなと思いながら目の前の奇妙な食べ物を見つめる。卵かけご飯。生卵を、米にかけるのか?そんなものは出された事がない。甘い卵焼きとか、目玉焼きとか。
本当にどうしたらいいか分からず、男を見つめた。
「どうするんだ」
「え〜っと、こうやります」
男は何故か顔を引き攣らせて卵を掴み、コンコンと机を叩いた。僅かに卵にヒビが入って、そのまま艶めく白米の上で殻を割ってみせた。
とろんとした新鮮そうな卵が白米の上に落とされる。……今の所美味そうには見えない。これで終わりかと見つめていれば、次は卓上に遭った醤油差しを傾けた。
「うめーんだからな。食ったらトぶから。」
「飛ぶ?」
「何でもないです」
どこに飛ぶんだ。その白い頭から羽でも生えるのか?
はてと思いつつ、また男の様子を観察する。
醤油を浴びた卵をぐるぐると箸でかき混ぜ、白飯と混ぜ合わせている。あっという間に黄色く色づいたは艶々と黄金に輝いていた。
「はい。出来上がり。」
やってみろと促され、卵を手に取ってみる。
ごくり、と唾を飲み込む。先ずは、卵を割るんだった、か。
クロスのない机で卵を叩いてみる。何度かやれば、少しヒビが入って見えた。確かこのくらいだった筈だ。
そして、卵を落とさないよう慎重に白飯の上に持っていく。
……一つ思い出した。
「これ、どうやって割るんだ?」
毛玉が再び頭を抱えた。
*
ヒビの入った卵を持って固まられては仕方なく、結局卵は割ってやった。醤油も数的垂らしてやって、さあ後はどうぞと差し出した。
ぐるぐると真剣に卵と白米と混ぜ合わせるそいつを眺める。
ーーーなんだか、またとんでもない奴を拾ってきてしまった。
でも、異様な状況の中で帰りたくないと涙を溢すこいつを見て、放って置けないと思った。よく分かんねえけど、このまま一人に出来なかった。だから、連れてきてしまった。
着替えさせてやった時から、随分上等な着物を着ているなとは思った。興味深そうに台所の方を見つめていたし、庶民の食い物を知らないし、ついでに冗談も通じなかった。
どうやらどこかのボンボンくんだった様だ。
……おぶってやった体は軽かった。そこだけ、ちょびっと気になったくらい。
これじゃあどうせ家の人とか心配してんだろと、早めに返してやんねえとなあとぼんやり思った。
って、まだ混ぜてるし。
「もう食えるってば」
「そうか」
漸く手を止めて、しげしげと卵かけご飯を見つめている。それから決意した様に箸を持ち上げた。
俺だったらかき込むところを、上品に一口分箸で掬っている。ふうふうと口で冷まして、口に含んだ。
「!」
ぱあ、と顔の色が変わった。ごくんと飲み込んで、驚いた様子で飯を見つめている。頬はほんのり色づいて、目もきらきらと輝いている。
「うまい」
卵かけご飯でここまで喜ぶかと驚いたが、悪い気はしない。
ちょっと得意げな気持ちで、ずずと味噌汁を啜って自分の茶碗に手を伸ばした