ジェ監中年期ジェ監中年期(某お題『傘』より)
大雨だった。
降りしきる音は耳が痛いほど大きい。隣を二本足で立つ黒猫が、ずっと耳を伏せてしかめっ面をあらわに重そうなバックパックを背負っている。
黒猫というには人間とほぼ同じ大きさで、品の良いベストとハーフズボンをはいており、両耳からは蒼白い燐光がほのかに溢れていた。
信号が青に変わり、黒猫よりも少し背の高い少女は、黒猫が濡れないように傘を持ち直して歩調を合わせた。
少女──フロウと、黒猫──グリムはひと言も交わさず信号を渡り終え、小高い丘へ続く一本道へ入った。
舗装されていない道は大雨ですっかりぬかるみ、一歩一歩が重い。フロウは特に制服の革靴のため忌々しく歩を進めた。
暗い空は今にも落ちてきそうなくらい雲が垂れ込めていて、風の精霊が楽しげに絡め取っては散じて遊んでいる。のんきなものだ。
やや息を切らしながら、ようやく、ぼんやりと見えてきた目的地の小さな家からは温かい光が窓から漏れ出していた。
小さな家はグリムとその母親の住まいである。
フロウはつと、足を止めた。
「グリム、待って」
グリムが足を止めてこちらを見上げた。
「なに? どうしたの?」
「だめ、今は戻らないほうがいい」
「なんで。あと少しじゃないか」
「締められたいの? 今近寄ったらあんたなんか簡単に潰されちゃうわよ」
「なんでそういちいち物騒なのさ。ボクはもう帰りたいよ。お腹も空いたし早くシャワーを浴びたい」
「気持ちは解るけどダメなものはダメ。ちょっと戻ればカフェがあるじゃない、行くわよ」
「ちゃんと説明してくれなきゃ、やだね」
「……ああもう。においがするのよ」
「におい?」
「そう」
「もしかして、前にフロウが言ってたユニーク魔法かい?」
「うん」
「どんなにおいなの?」
「……悲しいにおい」
グリムは小首を傾げた。
「悲しいって、どういう──」
フロウは構わずグリムの片手を掴んで踵を返す。
「詳しい説明はあとで! 放っておいてもあんたのお母様は大丈夫。それよりわたしたちのほうが危ないわ、行きましょ」
グリムが小さく唸った。
「なんだかなぁ」
カフェテリアはさほど大きくないものの、席数はテラスにまで及び、軽く三十人ほどは座れるゆったりとした空間だった。
テラス側の赤と白のパラソルが目立つ席のひとつへ腰を落ち着けたフロウは、注文した紅茶を待つ間もグリムの納得いかない様子にたまりかねて口を開いた。
「むりやり連れてきて悪かったわ。荷物、濡れてない?」
「仕入れた物は魔法で守ってあるから平気。で、その……悲しいにおいって」
「父さん」
間髪入れず答えると、対面に座る黒猫の双眸が細められた。その深い青を灯した瞳が、いつになく明るく光っているように見える。
「父さんね、前にも似たような時があったの」
「あのジェイドさんが?」
「そ。びっくりするわよね」
「びっくりもなにも、フロウには悪いけどボクから見たら君のお父様は極悪非道にしか見えない」
「否定はしないわ。わたしたちの一族は特に祖先の血が濃いから事実だもの」
視線を落とす。薄汚れた木のテーブルの、ちょっとしたシミをなぞりながら。
グリムが辛辣な語調になるのも無理はなかった。それだけのことを父さん──ジェイド・リーチがグリムの目の前で彼のお母様にしでかした事件は記憶に新しい。
「でも、心がないわけじゃない」そうはっきりと言ったのはグリムだった。「ボクだってそれくらいは理解できるさ。フロウがいなかったら知る機会なんてない。だから教えて欲しい」
グリムは肉体が猫そのものだから、ちょっとした感情の機微は読み取りづらい。ただ、今この瞬間のように、これまで接してきたどんな人間よりも聡い表情がいくらか見え隠れするのだ。だからこそ、話してみても良いんじゃないかと感じた。
そこへウェイターが声をかけてきた。ふわりと香る紅茶の豊潤な刺激が鼻をくすぐる。テーブルに紅茶が二つ、砂糖とミルクも添えられて置かれた。庶民的なカフェならではである。
手元の紅茶へ砂糖を入れながら、フロウは意を決した。
「絶対に誰にも言わないって約束できる?」
こんな質問、無意味なのは重々承知している。それでも投げざるを得なかった。
「約束を破ったら地の果てまで追いかけて喰い千切ってやるけど、その覚悟はある?」
するとグリムの眼尻が柔らかく変化した。
「お互いさまなんじゃない」
フロウはハッとした。
「それもそうね、ふふ」
グリムに言われて気付かされるとは。
これだからグリムは興味深い。もっともっと早くに出会いたかったとさえ思える。
フロウは紅茶へ口付けた。
「……父さんにもね、グリムみたいに兄弟がいるの」