ナマエが京から片田舎に引っ越したのは、お腹がふっくらとしだす前だった。村はスーパーが一軒しかないような片田舎だったけれど、隣に子どものいない老夫婦が住んでおり、ナマエが挨拶に行くと目を丸くさせて歓迎してくれた。便宜上晋助は夫ということになり、京や江戸に単身赴任しているのだと言うと、老夫婦は「何か困ったら言ってちょうだいね」と笑って答えてくれた。
片田舎ということもあり、晋助とはなかなか会えなくなった。それでも暇を見つけては晋助は京や江戸からせっせと帰ってきてくれて、ナマエは次第に大きくなるお腹を見せた。
つわりはなかなか治らなかった。ナマエは繰り返し嘔吐し、村の小さな診療所にかかった。晋助がいない間は、一人つわりと孤独との戦いだった。けれど晋助は、ナマエが果物なら食べられそうだと言うと、帰ってくるたびにどこからか調達してきてくれた。
いつだったか、ナマエがぽつりと「メロンが食べたい」と言ったことがあった。もちろんメロンの季節ではなく、そんなものは江戸にも売っていない。ナマエは何気なく呟いたつもりだったのだけれど、次の週、晋助が片手にメロンを携えて帰ってきて、ナマエは驚いた。
「晋助、それ、どこで手に入れたの」
立派な大きさの、マスクメロンだった。晋助は「買った」とだけ言うと、厨でメロンをざっくりと切り、ナマエに差し出した。
「……ありがとう」
メロンは甘くて冷たくて、つるんとナマエの胃に落ちた。あの時食べたメロンが、人生の中で一番美味しいメロンだった、とナマエは思う。
次第にお腹が膨らみだすと、ナマエは胎動を感じるようになった。日毎に大きくなるお腹を見て、毎朝会う老婦は、いつも「膨らんできたわねえ」喜んでくれた。
「おはよう。今日も順調ねえ」
「おはようございます。胎動がすごくて、夜中に目が覚めるんです」
「あらあら、元気な証拠。これで旦那さんがそばにいてくれたら、心強いのにねえ」
うちの子も胎動がすごかったのよ、と老婦が笑う。触ってもいい? と尋ねられ、ナマエはどうぞ、とにこやかに答えた。
「まあ、立派立派。うちの子の時が懐かしい」
老婦はお腹を優しく撫で、かつての子育てを懐かしんだ。
「次はいつ、旦那さんは帰ってくるの?」
「いつでしょう。忙しいから、あの人」
「そうねえ、お忙しそうねえ。何からあったら言ってちょうだいね。お隣さんなんだし」
「ありがとうございます、いつもお世話になっています」
ナマエは深々と頭を下げた。
ある、夜のことだった。その日は特に胎動が多く「元気ね」とナマエはお腹をさすっていた。片田舎にもなると夜中は静かで、ナマエは一人、縫い物をしながら時間を過ごしていた。
そろそろ床に就こうかという頃。玄関の扉が、ゆっくりと開かれた。ナマエはぱっと顔を上げた。
「晋助、おかえりなさい」
重たいお腹を持ち上げながら、ナマエは立ち上がった。晋助は小さな声で「ただいま」と呟いた。
「ご飯は食べた? お風呂は? ヤクルコ買ってきてある……」
けれどナマエが言い終わる前に、ナマエはそっと手を掴まれた。優しく引き寄せられ、晋助の腕に包み込まれる。
「晋助? どうしたの?」
晋助は何も言わなかった。ただナマエを抱きしめるだけで、微動だにしない。
ナマエはふっと笑った。
「今日は晋助が甘えたなのね」
晋助の胸に、ナマエは顔を埋めた。背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。元から口数の少ない人だったけれど、今日はやけに少ない気がした。
ナマエは臨月に入る直前だった。それなのに、これではどちらが子どもなのか分からない。
「おかえりなさい、晋助」
返事の代わりに、晋助は抱きしめる腕に力を込めた。
それから晋助は風呂に入り、二人して寝床に就いた。僅かに開けた窓の隙間から吹き通る風が、心地よい夜だった。
眠りについてしばらくした時、ナマエはお腹に振動を感じて、目が覚めた。はっとまだ眠っている晋助の手を取り、お腹に当てる。
「晋助、動いてる」
胎動はまだ続いていた。まるで今日は父親がそばにいることを分かっているかのように、動き続けていた。
「動いてるの、分かる?」
晋助は目を細めて、ナマエのお腹を見つめていた。ナマエは胎動を感じる晋助の姿に、にっこりと笑った。
「ふふ、よく動いてる。お父様が帰ってきてるの、分かってるのかな。胎動、初めてでしょう?」
ナマエは晋助の手に手を重ねた。お腹の中の命が、愛おしくてたまらなかった。
「よかった、晋助が帰ってきてる時で。ちゃんと大きくなってるよ。ねえ、名前は……」
考えてくれた? とナマエが尋ねようとした時だった。晋助がナマエの手を引き、ナマエを抱きしめた。
「晋助」
晋助はやはり何も言わなかった。強くナマエを抱きしめ、頑なに口を開かなかった。
「……どうしたの、晋助」
流石のナマエも、そう尋ねざるを得なかった。何か様子がおかしい、と気づいたのはその時だった。
晋助が、徐に口を開いた。
「……しばらく、帰らねえ」
ぽつんと一言、それだけだった。それだけでナマエは、すべてを察した。
「いいよ」
何か――きっと何か、紅桜の時のような大きな何かがあるのだろう。ナマエは微笑んでさえいた。全て、覚悟の上だった。
「私は一人で産めるから」
晋助は腕に力を込めた。ナマエには、すまない、という晋助の心の声が聞こえるかのようだった。この人は何も言わない。愛おしいくらい、不器用な人だった。
「私がこの子を護るから」
ナマエは静かに晋助の唇に口づけた。これが最後の接吻になるかもしれない、とナマエは思った。
あくる朝、晋助と共に朝食を取った後。ナマエは再び江戸へ行く晋助の肩に、羽織を掛けた。この羽織が晋助を護ってくれるように。寒さからも暑さからも、敵の刃からも護ってくれるように。晋助は帰って来た時と同じように何も言わずに家を出た。ナマエは「行ってらっしゃい」と朝日の中消えていく背中に、声をかけた。
それからしばらくしてから、将軍暗殺事件が、新聞の一面を飾った。ナマエが軒先で新聞記事を読んでいると、家から出てきた老婦に声をかけられた。
「大変なことになったわねえ」
「あ、おはようございます。江戸では大騒ぎみたいですね……」
「江戸にいる旦那さんは大丈夫なの?」
「多分、大丈夫だと思います。何も知らせはないから」
「こんな時くらい、そばにいてあげてもいいのに。ほら、子どもももうすぐでしょう?」
「忙しい人なので。でももう、慣れましたよ」
「そう? 何かあったら教えてね。力になるから」
「はい、ありがとうございます」
じゃあね、と老婦が畑に向かっていく。ナマエは新聞記事を握りしめながら、家へと戻った。
ナマエが破水をしたのは、夕飯の支度をしながら、テレビの緊急速報を聞いた時だった。アルタナ解放軍、という聞き慣れない宇宙連合と地球が全面戦争に発展したというニュースキャスターの声を聞いていたら、ナマエの足を、生温かいものが伝った。
破水だ、とナマエはすぐに気がついた。村の産婆を呼びに行こうと玄関を出ると、ちょうど老婦が、煮物の入ったタッパーを片手にナマエの家を訪れようとしている時だった。
濡れたナマエの着物を見て、老婦は目を見開いた。
「大変、ナマエちゃんは家にいて。すぐ産婆さんを呼んでくるから」
「すみません……。お願いします」
ナマエは産気づきながら、ニュースの知らせを聞いていた。きっと晋助が率いる鬼兵隊も、どこかで戦っている。ナマエはまた子と晋助とお揃いで買ったお守りを握りしめた。だんだん感覚が狭くなってくる陣痛を、老婦や産婆に励まされながら耐え続けた。
子どもはなかなか産まれなかった。ナマエは激痛の中、ニュースの知らせをかろうじて聞き取っていた。晋助も戦っている、私がこの子を護るのだと、とナマエは繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせた。
三日三晩、ナマエは苦しみ続けた。ナマエが産声を上げる我が子を胸に抱いた時、ニュースは戦争の終結を知らせていた。赤子は三千グラムほどの至って健康な男児だった。ナマエは我が子の顔を見た途端、それまでの痛みなどすべて忘れて、思わず笑みを浮かべた。男児は、晋助と顔立ちがそっくりそのまま、瓜二つのように似ていた。
間違いようもなく、晋助との子どもだった。ナマエは力の入らない腕で、おくるみに包まれた我が子を、しっかりと抱きしめた。
「頑張ったわねえ、ナマエちゃん」
老婆は涙ぐみながら、ナマエの頭を撫でていた。老婦は出産中ずっとナマエの手を握り、風を扇ぎ、背中を擦り続けてくれた。ナマエはようやく終わった出産に半ば気を失いかけながら、新しい命の重みを、抱き留めていた。
晋助が帰ってきたのは、それから一週間経ってからだった。ナマエは泣き声で目を覚まし、朝の光の中、我が子を抱き上げてあやしていた。
「よしよし、どうしたの」
我が子はなかなか泣き止まなかった。何かをナマエに知らせるように、大声で泣き続けていた。ナマエが泣き続ける我が子に眉尻を下げ始めた頃、玄関のドアが、がらりと開かれた。
晋助だった。
晋助は玄関から、ナマエと我が子が抱き合っているのを、放心したように見つめていた。
「晋助」
ナマエはそっと、微笑んだ。
「おかえりなさい」
晋助は何も言わずに家に上がった。ナマエのそばに膝を突き、ナマエの腕の中を覗き込んだ。
晋助は、気が抜けたような表情をしていた。
「一週間前、産まれたの」
大怪我をして帰ってくるのではないかと思っていたのに、晋助は不思議と、全く怪我をしていなかった。ナマエは晋助に見せるように、晋助へ我が子を差し出した。
「晋助、抱いてあげて」
晋助は泣きじゃくる我が子を、ぎこちない腕で抱いた。晋助と我が子の視線が合い、その途端、ぴたりと我が子は泣くのをやめた。涙に濡れた顔で、真っ直ぐに晋助を見上げていた。
「晋助にそっくりでしょう?」
晋助はじっと、包帯を巻いていない顔で我が子を見つめていた。どんな顔をして晋助は我が子を抱くだろう、とナマエは思っていた。晋助はしばらく、信じられないものを見ているかのように我が子を見つめると、それから俄かに、口元を緩めた。
晋助がそんな表情をするのを見るのは、初めてだった。悲しいような、嬉しいような、幸福なような、けれどどこか――泣いているような、諦めがついたような顔をしていた。
けれど確かに――僅かな違いではあったけれど、晋助は微笑んでいた。ナマエは晋助に身を寄り添い、尋ねた。
「ねえ、名前、考えてくれた? 晋助がなかなか帰って来ないから、この子をなんて呼んだらいいか、ずっと分からなかったんだよ」
ね、とナマエは我が子に指を差し出した。きゅ、と握られ、お松お姉さんの子を、ふと思い出す。
晋助は我が子を見つめながら、静かに言った。
「……一の付く名が、いい」
「一の付く名前?」
「……ああ」
素敵だね、とナマエは頷いた。ナマエはずっと考えていたことを、口にした。
「私ね、男の子なら晋助の名前から、一文字取った名前がいいと思ってたの」
晋助が父親だと分かるのか、我が子は、晋助の腕の中ですやすやと眠り始めた。眠った顔もそっくり、とナマエは笑った。
「……晋一。晋助から一文字取って、一を付けて、晋一」
晋助はやはり何も言わなかった。黙って微笑みを浮かべたまま、我が子を見つめていた。
それが我が子の――晋一の、名付けられた瞬間だった。
しばらくして、やがて晋助が、唐突に話し始めた。
「……やらなきゃなんねえことが、ある」
それは家族を差し置いてでもしなければならない事なの、とナマエは聞かなかった。聞いたとしても、晋助は、やらなければならないことをするだろう。直感的に、ナマエは、それは松陽先生に関係のあることかもしれない、と思った。今のこの顔をしている晋助が、世界を壊すために、動くとは思えなかった。
「……分かった」
ナマエはゆっくりと頷いた。晋助はいつだって、晋助の道を行っていた。きっとそこには、未来には、家族の姿はないだろう。それでもいい、とは言い切れない。けれどナマエにとってナマエの使命は、晋一を、護ることだった。
「……この子は、私が護る。だから晋助は、やらないといけないことをして」
すまない、という晋助の心の声が、再び聞こえたようだった。晋一は安心したように、晋助にあやされながら眠り続けていた。
それから晋助は、以前より家にいる事が増えた。時折ふらりと出掛けて二、三日いなくなることはあるものの、何週間も帰って来ない、ということはなくなった。
晋一は夜泣きが激しい子だった。その度に晋助とナマエは起き上がり、何時間でも晋一が眠りにつくまで抱いて揺すり続けた。幸いなことに田舎だったから、なかなか眠りにつかない時は泣き続ける晋一を抱いて村を一周することもあった。ナマエは授乳と夜泣きでほとんど眠る事ができず、いつまでも泣き続ける晋一の声を聞き続けて、老婦が様子を見に来てくれることもあった。
晋助が家を開けている時のことだった。その日も晋一は夜泣きで眠りにつかず、途方に暮れた気持ちでナマエは晋一を抱きながらあやしていた。
玄関の扉が開かれる音がして、ナマエは玄関の方を見た。そこには晋助が立っていて、履き物を脱ぐところだった。
「おかえりなさい、晋助」
普段だったら立ち上がって晋助を出迎えるところだったが、ナマエはその気力さえなかった。泣き続ける晋一を右に左に揺らしていると、晋助が晋一を無言のまま一瞥した。真一をナマエの腕から抱き上げ、そのまま家を出て行こうとする。
「晋助」
「俺が見る。お前は寝ろ」
「でも……帰ってきたばかりなのに」
晋助は振り返って、ちらりとナマエの顔を見た。
「寝てねえだろ」
その一言で、ナマエは涙が溢れそうだった。ぐっと堪え、家を出ていく晋助と晋一を見送った。
ナマエが晋一の夜泣きに力尽きて起き上がれない時は、晋助が晋一を抱いた。授乳は流石に出来ないけれど、晋助は慣れない手つきでおしめを変え、泣き続けて寝ない晋一をあやし続けた。その表情はいつもと変わらなかったものの、晋一がハイハイをするようになる頃には次第に手慣れてきた。
ある朝のことだった。ナマエは目が覚めると、太陽の光がいつもより高いところに登っていることに気づき、はっとした。部屋には味噌汁の匂いが漂っていて、急いで厨を除く。
するとそこには、晋一を抱っこ紐でくくりつけた晋助が、朝食の味噌汁を作っていた。
「晋助、ごめん、私寝てて」
ナマエは寝癖を抑えながら晋助に駆け寄った。晋一はご機嫌な様子で、晋助に抱っこ紐で抱かれていた。
「いい。寝てろ。今日は俺が見る」
「晋助、いいの?」
「寝てねえだろ。こいつの腹が減ったら起こす」
晋助は冷蔵庫からシャケを取り出した。グリルを引き出し、シャケを並べていく。
ありがとう、とナマエは呟いた。ナマエは布団に戻って、包まった。
晋一はすくすくと成長した。初めて晋一が立った時は、晋助も家にいる時だった。
家具に掴まりながら、よいしょと晋一が立ち上がった途端、ナマエは「晋助!」とそばにいた晋助を呼んだ。晋一は踏ん張るように数秒立ち上がると、すぐにその場に尻餅をついた。
「ねえ、晋助見た? 初めて晋一が立ったね!」
ナマエは晋一を抱き上げた。晋一は訳も分からずきゃいきゃいと嬉しそうに声を上げていて、晋助と共に晋一の成長の瞬間を見届ける事ができたのが、何よりも嬉しかった。
その年の五月、晋助は江戸から鯉のぼりを買って帰ってきた。晋助が大荷物を抱えて突然帰ってきたものだから、ナマエは最初、何事かと思った。晋助は澄んだ五月の空に、大きくなびく鯉のぼりを上げた。庭における小型のもので、それでも、風が吹くとぱたぱたと泳ぐ、立派な鯉のぼりだった。
ナマエの成長した家には、鯉のぼりどころか雛人形もなかった。初めての鯉のぼりに、ナマエは歓声を上げた。
「ありがとう、晋助」
晋一は手を叩いて鯉のぼりを喜んでいた。家族三人で並んで縁側から鯉のぼりを見上げ、ナマエと晋助は、柏餅を頬張った。お茶を啜っていると、不意に晋一が晋助を指差しながら「とーと……と、と」と言った。
「……今、『とと』って言わなかった?」
晋一はにこにこしながら、再び晋助に「とと」と言った。晋助は突然のことに、ぴしりと固まっていた。
「とと!」
晋助は、嬉しさを押し隠すように晋一の頭を撫でた。
『とと』が晋一が初めて喋った言葉だった。次第に話せる言葉が増え、次に喋ったのは『かか』だった。それが自分のことを指しているとナマエが気づくと「そうだよ、母様だよ」と晋一を抱き上げた。
晋一が生まれて二年が経つ頃。晋一の、魔の二歳児が始まった。あれは嫌、これは嫌、と暴れる晋一に、流石のナマエも手を焼いた。嫌嫌と言い続ける晋一にどうしたらいいか分からず、思わず声を上げてしまうこともあった。その度に晋一はさらに大声で喚き散らし「あらあら、どうしたの」と老婦が顔を出してくれることも増えた。
その頃から、晋助の不在が増えた。ナマエは言うことを聞かない晋一にほとほと疲れ、晋一を別室に残し、蹲る事もあった。その度にナマエははっと「私が晋一を護らなければ」と思い直し、気を奮い立たせて立ち上がった。
いやいや期、まっさかりのそんな時。ナマエは朝から「靴下いや!」という晋一を宥めすかして靴を履かせ、村の隅にある小さな公園へと出掛けた。晋一が満足するまでブランコを押し、滑り台を滑り、ジャングルジムに登った。公園内を走り回りそろそろ晋一もへとへとになっただろう夕方、ナマエが「そろそろ帰ろうか」と声をかけると、晋一は地団駄を踏んで「ブランコ!」と言い張った。
ナマエは仕方ないと思いながら「あと一回だけね」と晋一に笑いかけた。
けれど、あと一回ではやはりすまなかった。晋一はブランコを飛び降りると「砂遊び!」と砂場に走って行った。
「晋一、一回だけっていうお約束だったでしょう?」
「いや!」
「とと様、帰ってるかもしれないよ?」
「砂遊び!」
「晋一……」
そんな問答をしている間にも、日はどんどん傾いてゆく。はやく帰って夕飯を食べさせなければ、今日も寝るのが遅くなってしまうのが目に見えていた。
「晋一、お腹減ったでしょう?」
「減ってない!」
「おうちで積み木しようよ?」
「砂遊び! かか様もする!」
晋一は着物が汚れるのも気にせず、砂に触っていた。帰ったら、着物も着替えさせなければならない。まだまだ、山ほどやることはある。
ナマエは声を荒げたいのを、ぐっと堪えた。堪えて堪えてやってきたのは、虚脱感だった。ナマエは途方に暮れた。
「晋一……」
どうしたらいいのだろう、もう、この子をどうしたらいいか分からない――とナマエはうなだれた。それでも連れ帰るのを諦めるわけにはいかず、ナマエが晋一に再び声を掛けようとした時、公園に、人影が現れた。
「晋助、帰ってたの」
晋助だった。晋助は暗くなっても砂遊びに熱中している晋一に近寄った。ご機嫌な様子で砂遊びをしている晋一の手を掴み、その小さな手についた砂を、ぱんぱんと払った。
「とと様」
「帰るぞ」
晋助はそう言うと、晋一を有無を言わさず担ぎ上げた。晋一は絶叫した。
「いやあああ! 砂遊び、したい!!」
けれど晋助はそんな晋一を意に介さなかった。有無を言わさず暴れる晋一を担ぎ上げ、帰宅して手を洗わせ、着物を着替えさせると、床に大の字になって泣き喚く晋一の相手をした。その間ナマエはさっと夕飯の支度をし、風呂を沸かした。
晋助は泣きじゃくる晋一をテーブルの前に座らせた。
「飯だ」
「とと様嫌い! 嫌い!」
「そうかよ」
「晋一、そんなこと言わないで。ご飯食べよう?」
「いやああああ!」
晋一は皿をひっくり返した。作った食事が、床に溢れる。
ナマエはかっとなった。息を吸い込み、吐き出しそうになった瞬間。晋助がぴしゃりと低く「ひっくり返すな」と言った。
晋助が床にしゃがみ込み、ひっくり返された皿をテーブルに戻す。ナマエは慌てて雑巾を手に取った。
「晋助」
ナマエはひっくり返された食事を片付けながら、ぽたり、と涙が溢れてくるのを止められなかった。晋一の前では泣くまい、泣くまい、と決めていたのに、その時ばかりは、堪えきれなかった。
「ごめんなさい、晋助」
ナマエは顔を覆って泣いた。うまくいかない育児に、晋助に申し訳なかった。自分が護ると言ったのに、自分は、晋一をきちんと育てられているのだろうか。
「謝んな」
「でも……でも……」
久しぶりに晋助が帰ってきてくれたこともあり、涙は堰を切ったかのように流れ続けた。晋助は雑巾で床を綺麗にすると、厨に向かった。雑巾を洗っている音がし、戻ってくると、晋一を見下ろした。
「ナマエを泣かせるな」
「とと様……」
晋一が、しゅんとした顔をする。晋一はナマエの顔を覗き込んだ。
「かか様、痛い痛い?」
「お前が泣かせたんだろ」
晋一が、再び顔を歪め始める。ナマエは慌てて、涙を拭った。
「違うの、晋一のせいじゃ、ない」
「かか様、痛い痛い……?」
晋一が、ナマエの前にしゃがみ込んだ。ナマエや晋助がいつもするように、ナマエの頭を、小さな小さな手で撫でる。
「晋一……」
「かか様……ごめんなさい」
ナマエは「大丈夫だよ」と晋一を抱きしめた。
晋一は大人しく夕飯を食べた。それでも、ナマエがお風呂に行こうか、と言うと、さっきまでの反省が嘘のように、またぐずり出した。
ナマエはすかさず『とっておき』を取り出した。
ナマエが声音を変え『とっておき』を操る。
「晋一くん、僕ととと様と一緒に、お風呂入ろうよ!」
とっておきは、お風呂の黄色いアヒルだった。晋一は喋り出したアヒルに、ぱっと顔を輝かせた。
「とと様とね、アヒルさんと入る!」
晋一はナマエの手からアヒルを奪い、晋助に握らせた。そのまま晋助の手を握り、自分から風呂に向かう。
「晋一がシャンプーにぐずったら『アヒルさん』してあげてね」
晋助があからさまに「本当に言ってんのか」という顔をした。晋助が『アヒルさん』を晋一にしてあげたのかどうかは、晋一がにこにこしながら風呂から上がってきたのを見て、ナマエは察した。
その日は、流石の晋一も疲れたらしい。布団に入ると途端に眠ってしまい、親子は三人で川の字になって、横になった。
ナマエは晋一の寝顔を見つめていた。普段はあれほど頭を悩まされ、手を焼かれていても、寝顔だけは穏やかだった。
愛おしい、と思う。普段は悪魔のように見える時もあるけれど、やはり、我が子は愛おしい。
「晋助、今日は帰ってきてくれて、ありがとう」
「……お前は毎日あんなのなのか」
「まあ、うん……。大変だけどね、でもね、寝顔を見てると、そんなのも吹き飛んじゃう」
ナマエはふっと笑った。晋一の口元の涎を、浴衣の裾で拭ってやる。
「可愛いね。晋助にそっくり」
「俺はあんな聞かず屋じゃねえよ」
「そうだけど……笑った顔とか、晋助にそっくり」
これから晋一は、どんどん大きくなっていくのだろう。どんな大人になるのだろう。その時自分達は、どんな親になっているだろう。どんな家族になり、晋一もまた、どんな家族を作るだろう。考えただけでナマエは、笑みが浮かんできた。
「ね、晋一はどんな人になるのかな。晋助みたいに、立派な男の人になるんだろうね」
その時まで、晋一と晋助のそばに、ずっといたい。ナマエがそう思っていると、晋助が晋一に布団をかけ直しながら、ぼそりとナマエの名を呼んだ。
「……どうしたの」
「……また、しばらく、帰らねえ」
晋助がそう言うということは、長い期間になる、ということだった。ナマエは、そっか、と頷いた。言わずもがな晋助がすまないと思っていることは、やはり分かっていた。
「無茶、しないでね。晋一と、帰ってくるのを待ってるからね」
「……ああ」
「帰ってきたら、また晋一が大きくなっててびっくりするよ、きっと」
「……そうだな」
「……晋助」
ナマエは晋助の名を呼んだ。なんだよ、と晋助が答える。
「私がこの子を護るから、大丈夫」
晋助が上体を起こす。そのまま口づけられ、ナマエは瞼を閉じた。
朝になると、ナマエは晋一と共に、晋助を見送った。「とと様、ご用事があるからしばらく帰らないんだって」とナマエが言うと、晋一は一瞬きょとんとした顔をした後、晋助に駆け寄った。
「とと様、いってらっしゃい」
晋助はにこにこと笑う晋一の前にしゃがんで、視線を合わせた。そして真剣な顔つきになって、晋一を見つめた。
「……お前がナマエを護れ」
「とと様?」
「俺がいない間は、お前がナマエを護れ」
晋一は首を傾げた。それでもにっこりと笑うと「うん!」と元気よく頷いた。
「おやくそくね!」
「……ああ」
「とと様、大好き!」
晋一は晋助に抱きついた。晋助は晋一を、両腕で抱きしめていた。
ターミナルの爆破事件が起こったのは、それから一週間後の事だった。やはりナマエは、事件をニュース速報で知った。
ナマエの胸は不安に駆られた。また晋助は戦いに赴いたのだ、と思った。ナマエは晋一を、強く抱きしめながらニュースを見ていた。
それから一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、晋助は帰ってこなかった。
こんな長い不在は、初めてだった。それでもナマエは辛抱強く、晋助を晋一と共に待ち続けた。
三ヶ月経った頃。ナマエは決心して、晋一の手を引いて江戸へ向かった。復興したばかりの新幹線に乗り、見慣れない駅のホームに降りたった。晋一は見たことのない街並みや列車に、きょろきょろとするばかりだった。
ナマエは人に尋ねながら、かぶき町にある万事屋を探した。かぶき町を歩く頃には晋一がぐずり始め、ナマエは晋一を抱き上げながら町を歩いた。
「とと様、会える?」
晋一が、腕の中で不安そうな顔をする。ナマエは晋一に微笑んだ。
「会えるよ、きっと。とと様は江戸にいらっしゃるの」
「とと様!」
晋一が、無邪気に笑った。
万事屋は、スナックの二階にあった。階段を登り「ごめんください」と声をかける。中から銀時の声が聞こえて、がらがらと玄関扉が開かれる。
銀時は、ナマエと晋一を見て目を見開いた。
「突然ごめんなさい、銀ちゃん」
「……ナマエ」
「晋助が、帰ってこなくて。銀ちゃんなら何か知っているかと思って、来たの」
「そいつは……」
「私と晋助の子。晋一」
銀時は晋一を見つめた。そして手のひらで顔を覆うと「アイツは……!」と苦々しく吐き出した。
その反応に、ナマエは胸に嫌な予感がした。
「銀ちゃん……」
「……とにかく中、入れよ」
銀時はナマエ達を促した。ナマエは万事屋に入り、ソファに腰掛けた。
晋一が「ここはどこ?」とナマエに尋ねた。
「かか様のお友達の家だよ」
「この人が?」
晋一は銀時を指さした。ナマエは優しく、人を指さしちゃだめ、と晋一を窘めた。
ナマエは、向かいのソファに座った銀時と向き直った。銀時は柄になく神妙な顔をしていた。
それでも、銀時に聞くしかなかった。ここに来る以外、晋助の手がかりを掴む方法は、なかった。
「銀ちゃん。晋助は……どこにいるの、何をしているの」
銀時は俯いたまま何も言わなかった。やがて頭をがしがしと掻き、腰を上げて引き出しから何か取り出した。取り出したそれを机に置き、ナマエに差し出す。
それを見てナマエは、途端に世界の色を失った。
それは、血まみれになったお揃いの、お守りだった。