In case of himきゃああ! と高い声が街中に響いて、驚いた彰人達は思わず足を止めた。
振り返ればそこにはバイクに乗って走り去っていく人と、そのバイクを指さしながら「引ったくり!」と叫ぶ女性がいる。見れば、バイクに乗っている人はその体躯に似合わないブランド物の小さなカバンを手に持っていた。
こういうとき、冬弥のとる行動はいつも決まっていた。いわく、それが義務だとかなんとか、彰人にはよくわからなかったが、とにかくそういうことらしい。
「彰人、追えるか?」
「冬弥が音を追えるんなら」
彰人と冬弥は互いに目を見合わせて合図する。「警察呼んどいてください」と通りかかったサラリーマンに頼んだら準備完了だ。互いのスマホで通話を開始し、彰人が真っ直ぐバイクの向かう先に駆け出す。その場に残った冬弥は、場の混乱に見合わないほど静かに、すぅっと意識を集中させた。
「冬弥、どうだ?」
「バイクの音は右に曲がって、今は歩道橋のあるところの近くだな、方向的には三丁目交差点に向かってる。歩行者の音から多分、ちょうどその信号で止まると思う」
「はっ、大回りしやがって馬鹿なヤツ、しかもあそこ信号なげーんだよな」
「ああ、だが向こうはバイク、こちらは何も無いから止まっているところを狙うしかない。気付かれると信号を無視されるかもしれないから、チャンスは一度だ」
「油断すんなって? んなの、わかってるって。三丁目交差点なら二本前の裏通り抜けたら近道だな」
通話の合間に彰人のスマホからは、先程のサラリーマンが冬弥に話しかけている声が聞こえてくる。どうやら、バイクのナンバーを知らないかという内容のようだった。もちろん、冬弥の常人離れした視覚はそれだって完璧に捉えていたし、出来の良い頭はそれを瞬時にインプットしていた。通りをぬけながら、さすがだなと彰人は笑みを零す。その声が漏れていたのか、あるいはその吐息すらも拾ってしまったのか、冬弥の怪訝そうな声が電話口から聞こえてきた。窘めるように名前を呼ばれる。
「くれぐれも、気をつけてくれ」
「へいへい、無茶はしねーよ。お前こそ、キツくなったらすぐにシールド張れよ」
「わかってる」
どーだか。冬弥が無茶をする性分なのは重々知っていたので、心の中でそんなふうに漏らす。とはいえ、自分自身も無茶をしないとはとてもじゃないがいえない性質なので、そこをつつくことはやめておいた。そんなことを言えば、冬弥は無茶ばかりするのはそっちだと、じとりとした視線を寄越しながら彰人を叱るだろうから。
「さすが冬弥、ぴったりのとこに居るじゃねーか」
狙い通り、三丁目交差点で目的のバイクは信号に捕まっている。逃げようにも車の通りが多いこの場所じゃ難しい。それに、こんな大回りをしたということは、この辺りの地理に詳しくないということ。
つまり、鞄を取り返すなら今がチャンスだ。
「ったく、それ他人のもんだろうが、返してもらうぜ……っと!」
「なっ……お前どこから!」
どうせプロテクターを付けてるんだ、遠慮はいらないだろう。
裏通りに落ちていた鉄パイプを拝借していた彰人は、真っ直ぐそれを目的のバイクに向かって振り上げた。
***
「本当にありがとうございました……っ!」
「いえそんな。それより、中身は全部無事でした?」
「はい、はい……おかげさまで。助かりました」
「君たち、お手柄だったね……と言いたいところだけど、無茶なことはこれきりにして、こういうときは大人を呼びなさい」
「はい、すみません……」
結局、彰人の一撃にカバンを取り落としたひったくり犯は、逃亡を図るも失敗。慌てていたせいか電柱と正面衝突してしまったところ身柄を確保されたらしい。
彰人が冬弥の待つところまで戻ったとき、冬弥はやたらと青い顔をしていた。どうした、と問えば、あの人事故にあったかも、と青ざめた表情のまま答える。最後まで追えばよかったと、彰人はすぐさま後悔した。
けれど、すぐに冬弥はひったくり犯の音を捉えて、ほっと胸を撫で下ろした。いわく、ちゃんと生きてて、喋ることも歩くこともできているようだ、とのことで。バイクの事故でそれは幸運だったと言わざるを得ない。
彰人としても、少しでも関わった相手が、仮に悪人だったしてもそんな形で大事に遭うなんてことは目覚めが悪いのでほっとする。
それから、ぽかんとその光景を見ていた女性に鞄を返すと、ほぼ同時に警察官から声がかかったのだった。
センチネル、それが冬弥の持っている特殊な能力だ。
センチネルである冬弥は、極度に発達した五感を有している。特に聴覚の発達が目覚しく、人間では通常聞き取れない音を聞き取ったり、遠くの音を正確に聞き分けることができる。
しかし、そんな便利な能力は、便利だからこそ当然と言えるのかもしれないが、それなりにリスクもある。まず、センチネルの能力は心身の疲弊を生じさせやすい。要は、インプットされる情報量に体や心が追いつかないのだ。そして、その心身の疲弊は能力の暴走を生じさせやすくなる。そういうわけだから、センチネルが放置された状態での最期は狂死、とほぼ運命付られている。
その運命を変えることができるのが、ガイドの存在だ。
「お前、ゾーンには入ってないみたいだけど大丈夫だったのか? 事故の音とか聞いちまってただろ」
「ん? あ、ああ、そうだな、まだ問題はない」
「いつでも一緒ってわけじゃねえんだ、少しでも体調がおかしいとかあったらすぐに言えよ、ガイディングなんて、それこそいつでも出来るんだから」
「ああ、その時には頼む」
ガイド。それはセンチネルの心身を癒す存在だ。原理としてはサイコキネシスの一種を用いた共感(シンクロニシティ)によって、センチネルを癒す。彰人は、偶然にも冬弥のセンチネルに呼応するように、その能力が発現した。
以来、二人は定期的なガイディングを行う関係となっている。
どうやら、冬弥にしてみると、そのガイディングという行為はあまり気持ちの良いものではないらしい。とはいえ、ゾーンアウトしてしまい昏睡状態に陥る、なんてことになったらそれこそ笑えない。
だから、彰人はいつだって冬弥に負担の少ないガイディングはないかと考えてきたし、山ほど調べてきた。
結果として、今の方法は比較的楽という評価を貰っている。楽になったというのなら、調べた甲斐があったというものだ。
「だが、その……手を繋いでもらってもいいだろうか」
「ん? オレは別にいいけど、お前はいいのかよ、往来のど真ん中だぞ」
「ガイディングはいらないが、少しだけ回復したい、から……」
「ああ、そういうことか。なら、ほらーー」
普段節度がどうとか言ってくる冬弥から珍しくそんな誘い。何かと思えば、先程の能力解放で消耗した分の回復だった。ちょっとだけ期待した分、他意はなさそうな言い分にがっかりしないこともなかったけれど、それはそれで役得というものだ。
彰人は控えめに重ねられた手をしっかりと絡めた。結び付きの強いセンチネルとガイドなら、そんな些細な触れ合いだって治癒効果が働くのだ。
それはつまり、もっとたくさん触れ合うようなことがあれば、もっと冬弥の回復に役立つということなのだろうけれど、それはまだ試せていない。彰人としても、言うのが恥ずかしいし、何より、そんな利害関係で関係を進めたくはなかった。
そんなことを考えていると、ぎゅっと握られた手に僅かな力が入る。見れば、冬弥はそれはもう蕩けるようにふわりと微笑んでいた(そう見えるのは、ごく一部なのかもしれないが)。
「……なんだよ」
「彰人の手は暖かいな、と」
「お前が冷たいだけだろ」
「そうだろうか……あ、今心拍数が上がったな」
「確信犯かよ」
くつくつと楽しそうにしている冬弥に、本当に厄介な奴、とため息をつく。嫌ではない。むしろ冬弥のその特殊とも言える能力は、自分達の活動でも大きく役立ててきたし、今日のようにこうして誰かの役に立つのまあ、悪い気はしない。
とはいえ、こんな風に能力を利用される日がくるとは、出会った頃は思っていなかった。絵に描いたような真面目バカの癖に、随分とイタズラを覚えてしまったものだ。
「ったく、どこでそんな意地の悪さ覚えてきたんだか」
「自分の胸に手を当てて日頃の行いについてよく考えてみるといい」
「はは、なんの事だかさっぱりだな」
素直に自分の胸元に空いた手を当てて、少し芝居がかった言い方で答えてみる。誰のせいかといえば、それはもちろん彰人自身のせいなのだろうけれど。
「彰人にも、わかればいいのにな」
「……ん? どうした、冬弥?」
ふと聞こえてきたひとりごとのような呟きを問い返すも、冬弥はなんでもない、と首を横に振る。ひどく穏やかな表情をしているから、何か思い詰めているということではなさそうだ。とはいえ気にはなる。
「なんだよ、気になるだろ」
「いや、お前だけじゃないということだ」
「や、それじゃわかんねぇよ」
そうは言うものの、冬弥はそれなら内緒だとやっぱり楽しそうに言うものだから、彰人ももう深く追及するのをやめておいた。こうなった冬弥は、絶対に口を割らないことをよく知っていたから。
「ところで冬弥ーー」
けれど、ひとつ気がついたことがある。彰人はにやりと悪戯っぽく笑って、冬弥のある一点を指しながら続けた。
「……お前、耳赤いぞ」
「え、」
ーー意趣返しになっていればいいのだけれども。