ねこのきもち冬弥がゾーンアウトを起こしてから、かれこれ一週間くらいが経過した。
こういうことは予後観察が大事だ。元に戻れているか、その後も強いストレスを抱えていないか、そういったことを管理するのはガイドの仕事である……と、彰人は思っている。
今日までのところ、冬弥に変わった様子は見受けられなかった。なので、もう大丈夫だろうと思っていた。その矢先のことだった。
夜、メッセージアプリに冬弥からのメッセージが送られてきた。そこまでは、まあよくある事だった。しかし、そのメッセージがあまりにも不穏だったのだ。
『あ』
『あああ』
『あきと、』
『助けて』
連続で送られてきたそれに、彰人はアウターを掴むとそのまま家を飛び出した。幸い、ぶれまくってはいるが、写真が添付されていた。暗がりの空を写し出したそれには街灯が写っている。その特徴的な形から、冬弥の居場所は近くの公園だとすぐにわかったのだ。
全速力でその場所に向かいながらも、できることといえばただ、無事でいてくれ、と願うばかり。
そうして辿り着いた公園に、冬弥の姿は見当たらなかった。さほど大きな公園でもないから、すぐに見つかりそうなのに。一体どこにいるんだと思って、ブランコ近くに落ちているものが目に付いた。
それは、冬弥のものと思われる服だったのだ。
「これ……っ、冬弥!」
最悪の想像をしてしまい、思わず大声で名前を呼ぶ。それでもしも、冬弥の方から声でもあげてくれれば気がつける、そう思って。
「みゃあ」
けれど、聞こえてきたのは冬弥の、聞きなれた涼やかな声ではなく、可愛らしい鳴き声。そして、冬弥の代わりに彰人の前に現れたのは、冬弥のスピリットアニマル――尾の分かれた猫だった。
「おい、冬弥はどうしたんだよ」
「にゃあ、みゃー……」
猫はそう悲しそうに鳴く。それと同時に、なぜか彰人の頭の中には、猫の声が人の声に変換されて聞こえてきた。
「え、お前……冬弥なのか?」
「にゃ」
『そうだ』
「何があってそんな……どうしてこんな事になってんだよ」
「にゃあ、みぅ」
『わからない。帰り道で急に動悸がしたと思ったら、こんなことに』
冬弥(というか猫)は、悲しげに俯いて「このままでは家に帰れない」と嘆いている。ちらりと見れば、服の他に荷物も落ちていた。その中には、今日冬弥が買ったのであろう小説もある。
「みゃう……」
『彰人、どうしよう……』
そういわれても、どうしようもない。彰人に出来ることといえば、冬弥を家に連れて帰ることくらいだった。
彰人は冬弥の荷物を全部拾うと「行くぞ」と一言だけ猫に声をかける。
「にゃ、にゃあ?」
『どこに行くんだ?』
「どこって、オレんちに決まってんだろ。寒いし、これからどうするかは帰ってから考えようぜ」
そういうわけで、彰人は捨て猫もどきを拾って、家へと戻るのだった。
とは言ったものの、彰人にはどうすればいいのか検討もつかなかった。スピリットアニマルと同化してしまうというのが何を意味しているのか、どうすれば戻れるのかもわからない。ただ、最近起きた大きな出来事から推測するに、恐らくは先日のゾーンアウトが関係あるような気はした。直感だが。
冬弥の家への連絡は、冬弥のスマホから彰人がしてしまうとあまりにも不審なので、冬弥のスマホから司センパイに事情を伝え、司センパイから連絡してもらうことにした。というのも、司センパイは、冬弥がセンチネルであることを昔から知っているとのことなので。冬弥のことを心配しつつも、司センパイは快くその仕事を引き受けてくれた。
「とりあえず、家はこれで大丈夫だな」
『彰人、すまない……』
「いいって。それより、本当になにも心当たりとかはないのか? 些細なことでもいいから」
彰人の言葉に、冬弥は首を横に振る。見た目が猫なので、なんだか水を嫌がってる時の仕草に似ていた。
『本当にわからないんだ。でも、ゾーンアウトしてしまったことに関係があるというのは、俺も納得出来る……あの日のゾーンアウトは、思いの外軽くて済んだから』
「あれが軽いのかよ……お前ほとんど意識とんでただろ」
最初にシールドがなければ自分の命は一週間ともたない、と話していたときも、冬弥はどこか他人事のように話していた。なんというか、重い言葉なのに、妙に軽々しいというか、なんでもないように聞こえるのだ。あるいは、冬弥、ひいてはセンチネルにとっては、本当にそれが当然のことなのかもしれないが。
「とりあえず、今晩は様子見だな……」
『そう、だな……すまない、迷惑をかける』
「気にすんなって。もしかしたら、オレのガイディングが足りてなかったのかもしれねーだろ」
そう言って、彰人は冬弥(猫だが)の頭を撫でる。それが心地よいのか、猫は大きなその瞳を細めて喉を鳴らした。
***
『駄目だ』
朝一で猫に説教される人間、そうそういないと思う。
朝目が覚めても、冬弥は猫のままだった。にゃーにゃー喋ってるのも変わらないし、なぜかその内容が理解出来てしまうのもかわらない。
というわけで、今日は学校をサボ……休んで、冬弥のこの現象について調べてみようと思ったわけだが、それを冬弥に伝えたところ、ぺしんっと尻尾の攻撃をくらった。
『学校には行ってくれ』
「つっても、お前一人であちこち移動もできないだろ」
『それは……でも駄目だ。彰人、学生の本分は勉強だ。俺のせいで、彰人にそんな大事なことを疎かにさせたくない』
しゅんとした声色(に聞こえる気がする)でそう言われてしまえば弱かった。いや、実際は多分、にゃーにゃー言ってるだけなんだろうけれど。
「別に、一日くらい……」
『彰人』
「……わかったよ」
とどめの冷ややかに名前を呼ぶ声。これはいけないやつだ。自身の往生際の悪さを自覚していた彰人は、この辺りで引くことにひた。冬弥のことは本当に心配ではあるが、まあ、冬弥ならば大丈夫だろう。
学校へ行ったところで、冬弥のいない学校はいつもより面白くない。それどころか、あちこちから冬弥のことを尋ねられる始末だ。なんでオレに聞くんだよ、とは思うが、そうされるだけの自覚もあるので、結局彰人は文句を言えなかった。
「あれ、冬弥は?」
「お前もかよ」
「あはは、ごめんごめん。でも、彰人なら知ってそうだし」
「あー……」
少し考える。学校の奴らならともかくとして、杏に本当のことを言わないのはどうだろうか。チームメイトである杏は、長らく冬弥のセンチネルのことを知っていたし、色々と世話にもなっているし。
「冬弥は、その……信じらんねぇかもしれねぇけど、今ちょっと、人型をしてねえっつーか……猫になってる」
「え、は? ちょ、どういうこと……?!」
「こはね以外の奴らには絶対いうなよ。原因はわかんねぇけど、多分あいつのセンチネル関連でちょっとな。今はうちにいるから、とりあえず元気ではある」
猫だけど。
「そう、なんだ……?」
彰人の言葉に、まだ戸惑っているような表情を見せつつも、杏は素直にこくりと頷いた。
今日はもちろん、真っ直ぐに帰宅だ。バイトなどが入っていないことが幸いした。
「ただいま」
『彰人、おかえり』
冬弥は相変わらず猫の姿で、にゃあと返事をする。
「元には戻れてねえみたいだな」
『……ああ』
不安は募るばかりだ。それは、きっと冬弥の方がそうに違いない。このまま戻れなかったら、このまま猫のままだったら。そんな考えは、彰人にだって当然過ぎった。
「……まあ、なんとかなるだろ」
だからといって、諦めるという選択肢は彰人にはない。
『……それで、その、彰人』
「ん、どうした?」
冬弥が彰人の足元まで歩いてきて、体を擦り寄せてくる。可愛い、と喉元まで出そうになった言葉を、何とか飲み込んだ。
『……』
「いやそこで黙るなよ」
冬弥が、何か遠慮している。それはわかった。彰人はしゃがんで、なるべく冬弥に視線を合わせようとする。けれど、そうすると今度は、冬弥の方がじりじりと後ずさった。
『やっぱり、なんでもない』
そんな言葉と同時に、きゅるる、と小さな音が聞こえてきた。これはもしや。
「ったく、遠慮すんなって。ちょっと待ってろ」
そういって、彰人は部屋を出ていく。向かう先はもちろんキッチンだ。しかし、そこでひとつ、ひっかかった。
「……猫って、何食べるんだ?」
そもそも、あの冬弥を猫とイコールで扱っていいのだろうか。まさかあの猫の姿でもコーヒーが好きなのだろうか。猫にコーヒーってダメな組み合わせにしか見えないんだが。
「……乳製品とかならいけんだろ、多分」
これ幸いに冷蔵庫を開ければいちごヨーグルトがあった。これを皿に移せば、今の冬弥でも食べられるはずだ。
というわけで、いちごヨーグルト片手に自室に戻った。そういえば、このヨーグルト、絵名の名前が書いてあった気がする。……まあ、大丈夫だろう。
「冬弥」
『……彰人? それに、それは』
また、きゅう、と音が鳴る。思えば、冬弥は昨晩から何を口にしていたのだろうか。何も食べていないのかもしれない。
「お前、嫌かもしんねーけど」
冬弥を手招き、膝の上に乗ってもらう。いちごヨーグルトをスプーンで掬って口元に差し出せば、冬弥は小さな舌でちろちろと舐めた。
「悪いな、これくらいしかなくて」
『そんなことはない。……ありがとう、彰人』
「気にすんなよ」
そのまま、冬弥はぺろぺろとヨーグルトを綺麗に平らげた。その様子を見て、彰人はほっとする。これで一応、食事面に関しては安心だろう。
「よし、ちゃんと食えたな」
随分と小さくなってしまった冬弥の頭をまた撫でる。すると、冬弥は嬉しそうに目を細めてごろごろとのどを鳴らした。その仕草は、もうすっかりと猫だ。
「さて、これからどうすっかな……」
センチネル関連のことを相談する先が見当たらない。この手のことに関しては、いつも彰人は冬弥から教えてもらっていたし、その冬弥は家に代々伝わる言い伝えを守ってきたらしいし。そして、そんな冬弥が現状をどうにかする方法を知らないのだから、こちらはもう手詰まりだ。
『……っ』
びくり、と冬弥が震える。しまった、と思ったときには既に遅い。彰人の抱える不安を、悟らせてしまったのだ。どうやら、猫になってもセンチネルとしての能力は健在のようだった。
「……心配すんなって、絶対なんとかする」
『だが、今のままでは歌うこともろくにできない。それじゃあ、俺は、』
「冬弥。そっから先は、オレが聞きたくねぇから」
『……』
ぎゅうっと抱きしめる。冬弥は何も言わなかった。ただ、腕の中で大人しく丸まっているだけだ。
***
そして、四日が経過した。
冬弥の主食はヨーグルトやら桃やら、ダイエット中の女子みたいなメニューばかりになっている。さすがに猫缶は人としてどうかと思ったし(猫だけど)、かと言って猫にとって危なそうな食べ物を渡すのもどうかと思ったし。ちなみに、初日のいちごヨーグルトはやっぱり絵名のものだったようで、帰ってくるなり「名前も読めないわけ?!」と怒られた。絵名も彰人のとっておいたスフレを食べたことがあったので、それを引き合いに出せば大人しくなったが。
それはそうとして。
「……早く戻らねえと、そろそろやばいな」
今日は土曜日で学校は休み。つまり、一日中冬弥の猫問題に時間を費やせる日になる。バイトの方は四日前の時点で調整をつけさせてもらった。シフトを減らしてもらう代わりに、次週普段よりも長く働くことで許してもらったのだ。逆に言えば、この土日を逃すと、ここまで融通の効く生活は送れなくなる。
「冬弥」
ソファに座っていた冬弥に声をかける。すると、ぴくぴくと耳を動かしながらこちらを見上げてきた。
『……彰人』
名前を呼ぶ声は疲れ切っている。冬弥の方もだいぶ限界のようだった。主に、精神の方が。
あの家が冬弥にとって居心地がいいかどうかはともかくとして、家にも帰れないし、人としての生活も送れない、会話相手は彰人くらいだし、それに何より、歌えない。そんな生活は、あっという間に冬弥を追い詰めてしまった。
それに、元に戻れない時間が長いというのは、それだけ、このままなんじゃないかという不安を増幅させていく。
「……大丈夫か?」
大丈夫なわけがない。それでも、聞かずにはいられなかった。
『……大丈夫だ』
「嘘つけ」
『…………』
「冬弥」
もう一度、名前を呼んでみる。すると、冬弥はゆっくりと彰人に近付いてきて、その膝の上に座った。この四日の間で、すっかりと定位置になったところだ。
『彰人。俺に、触れていてくれないか』
「いいけど……どうして急に」
『……不安、なんだ』
「……わかったよ」
両手を伸ばして、冬弥を抱き寄せる。にゃあ、と鳴く声は小さくてか細い。
『彰人の手は、大きいな』
「今のお前が小さいだけだろ」
『……それもそうか』
すり、と頬を寄せてくる。彰人は冬弥を撫でながら言った。
「もしこのままでもさ、オレはお前が相棒だし、恋人だ」
『……あきと、』
「だから、安心しろ」
そう言うと、冬弥は少しだけ身体を起こして、彰人をじっと見つめた。よじ登ろうとする体を抱き抱えてやると、おもむろに顔を近づけてきて、ちゅ、とキスをする。
「おま、え……」
『……嫌、だっただろうか』
「……別に、嫌じゃねえよ」
『なら、よかった』
冬弥は、ぴょんと腕から抜け出すと、再び彰人の胸に顔を埋める。
『猫は、不便だな』
「……そう、かもな」
『彰人と、こうして抱き合うこともできない』
「……」
『もし、このまま猫になってしまったら、精神まで猫になってしまったら。俺は、彰人に思いを伝えるすべもなくなって、やがてはこの思いも、忘れてしまうのだろうか』
冬弥の睡眠時間が、この二日間ほどの間にどんどん延びていることはわかっていた。多分それ以外にも色々と、冬弥は猫になりかけている。それはきっと、彰人よりも冬弥自身の方が自覚的だろう。
嫌だな、なくすのは。そう、冬弥が小さく呟く。それは、冬弥の本音、そして、めったに吐かない弱音だ。
「なくなんねーよ」
ならば、彰人が言うべきことはひとつだろう。
「オレが、なくさせねえ」
正確には前足なのかわからないが、冬弥の手をぎゅっと握る。根拠なんてなくても、それが彰人のできる、冬弥への精一杯だった。
***
翌、日曜日。
やたら狭く感じたベッドの妙な寝苦しさに目を覚ますと、隣に眠っていたのは相棒であり、恋人だった。
「……」
ぼんやりとした意識のまま、彰人は目をこする。まだ寝ぼけているのかもしれない。あるいは夢か。
しかし、目の前にいるのは紛れもなく青柳冬弥で、昨夜一緒に眠りについたのも彼なのだから、そこに眠っていることはなんら不自然ではない。ならば、なぜこんなに現実感が? ああそうだ、昨日の夜まで、冬弥は猫の姿をしていて……猫の、姿を……していない?!
目の前にいる冬弥は、人の姿をしていた。いや、元は人間なので、人の姿をしていた、というのは少し変かもしれないが。
「おい、冬弥! 冬弥、起きろって!」
「ん……あきと? おはよう……」
「ああ、はよ。じゃなくて! お前、その姿……」
「……っ!?」
覚醒したのか、勢いよく飛び起きた冬弥は、自分の身体をぺたぺたと触り始めた。まるで確かめるように、何度も何度も。
「彰人……俺は、戻れたのか……?」
「多分……」
なんとも言えなかった。ただ、目の前にいるのは元の姿に戻った冬弥である、ただそれだけが確かなことで。
「よ、かった……」
冬弥はそのまま彰人に倒れ込んでくる。安心して、力が抜けてしまったらしい。それを受け止めて、背中をぽんぽんと叩いた。
「もう、戻れなかったらって、ずっと……俺は……」
段々と声色に涙が滲んでくる。やがてそれは、小さな嗚咽となって、言葉にならなくなっていった。
それから。
いざ落ち着いてみると、今度は冬弥は何も身につけていないということに気付いてしまい、慌ててあの日公園に落ちていた服(上手いこと誤魔化してこっそり洗った)を引っ張り出した。冬弥も彰人が慌て出す頃には同じように自分の状況に気がついたらしく、おろおろと視線を左右させていた。
当然と言えば当然だが、冬弥を家に泊めたとは家族の誰にも言っていないから、冬弥はこっそり家から出してやる必要がある。申し訳ないが、久方ぶりの人間の朝ご飯はその後どこか適当に、カフェにでも入って食べるしかない。
「それはそうとして、結局どうしてこんなことになったんだよ」
「それは分からない……が、戻れたのは多分、彰人のお陰だと思う」
冬弥曰く、スピリットアニマルに関係がある以上、これはセンチネルとしての現象で、それなら解決にはガイドの力を借りる必要があるはずだから、とのことだった。彰人としては自分が何をしたのかさっぱりわからないのだが。してやれたことといえば、なるべく傍にいてやることくらいで。
「そうだ、司先輩にも元に戻れたことを話さなければ」
「あ、あー……そうだったな、お前ん家の方を誤魔化してもらうように頼んだんだった」
着替えを終えた冬弥は、今度こそ本当に、いつもよく見るあの冬弥だ。ぴんと立った耳も長いしっぽもない、身体だって彰人より少し大きい。全身がふわふわとはしていないけど、でも抱きしめたら腕を回して応えてくれる。そんな冬弥だ。
「じゃあ、何か食べて練習するぞ。まさか猫やってる間に鈍ってたりしてねーよな」
「ああ、俺も早く歌いたい。遅れを、取り戻さなければな」
事務連絡は一通り完了したようで、スマホをしまいこんだ冬弥に声をかければ、冬弥はそう力強く頷いた。
外は快晴。
今日は久しぶりに、絶好の『いつも通り』だ。