ぼくらの小さな戦争「そういえば、あんた達って契約したのっていつ頃なの? 組んだのは二年前でしょ、同じ頃?」
「は? なんでお前に教えなきゃ――」
「契約は一年ほど前だな」
「おい冬弥……」
練習の間に挟んだ休憩中、ペットボトルの水を飲みながら本当に世間話でもするように何気なく杏から訊ねられた。
契約、と一言でいって色々あるし、もちろん文脈にもよるが、一般的には、DomとSubによるパートナー契約のことを指していることが多い。杏のいう〝契約〟も例に漏れず、パートナー契約のことを指していた。
面倒に感じ答えたくない彰人に反し、冬弥の方は特に隠すことでもないとばかりに、素直にその問いに答える。
「へえ、その間ってどんな感じだったの?」
「……いや、俺は」
「冬弥はダイナミクスの発現遅かったんだよ」
「そうなんだ、確かにかなり個人差があるもんね」
コンディション管理の一環として、4人はそれぞれのダイナミクスを把握しあっていた。提案したのは彰人で、その当時こそは少し探るように提案したのだが、今ではすっかり気軽な話題になっている。
彰人は冬弥とパートナー契約を結んでいる。杏とこはねにとって、それはお互いのダイナミクスを初めて話し合った時に2人から言われて知ったことだった。契約を結んでいても不思議ではない雰囲気を持っていたから、杏もこはねも特に疑問に思うことなく受け入れ、今に至っている。
さらには、自分たちよりも早く契約を結んだという2人の話は、契約しようかと考えていた杏とこはねにとって、丁度いい例でもあった。
「やっぱ私も早く契約考えた方がいいかなあ、どうしよっか、こはね」
「え、うーん……でも私達、まだ高校生だし……」
「まだ高校生って……それだとオレ達どうなるんだよ、契約したの中学ん時だぞ」
「あはは、でも確かに早い契約だよね。なになに、運命でも感じちゃった?」
一般的には、パートナー契約を結ぶくらいとなると早くても高校生か、多くはそれよりも後の段階だ。ダイナミクスの発現は、多くが二次性徴が始まるのと時期を同じくするから、たいていの場合はダイナミクスが発現したからといって、すぐにパートナーを探すということはないということになる。
それもそのはずで、パートナーになるということは、Domは相手のSubの管理に責任を持つということだし、SubはDomに自分を明け渡すだけの覚悟がいる。ダイナミクスが発現したばかりで、ダイナミクスに振り回されることすらある年齢の時分に相手への責任なんて負うことができるはずないのだ。
けれど、彰人と冬弥の間には契約が結ばれている。これには、少しばかり特殊な事情があった。
「そんなんじゃねぇよ……どっちかっつーと、きっかけ自体は不可抗力だったし」
「ふ、不可抗力……?! そそ、それって……」
「多分、小豆沢の考えるようなことは起きていないから安心してくれ」
信号機みたいに赤くなったり青くなったりしながら慌てふためくこはねに冬弥が返す。それから言葉を続けた。
「発現が遅かったのもそうだが、たまたま色々と不運が重なって、それで……ダイナミクスの発現時に彰人に色々と助けてもらったんだ」
「そういえば、青柳くんはSub用のお薬も飲んでたっけ、それも東雲くんが?」
「ああ、そういうものがあるというのを彰人に教わって、病院へ行った」
「ふーん、いつも勉強教わってる側の彰人が冬弥に教えてあげてた、ねぇ?」
「うるせぇ、勉強とこれは関係ねーだろ。とりあえずまあ、そんなとこだな。この話は終わりにして、練習再開すんぞ」
彰人の言葉にああ、と返事をしながらも、冬弥は自然と契約を交わしたあの頃のことを思い出す。たった1年前なのに、とても昔のことのような、そんな不思議な感覚だった。
***
思えばその日は帰宅した頃から、いや、数日前から違和感はあったかもしれない。ただ、その違和感が確かな症状となったのは目が覚めた時だった。ズキズキと痛む頭と酷い目眩とそれに伴う吐き気。その日は、そんな最悪なもの達で冬弥の目覚めが構成されていた。
う、と小さくえずいてしまい、思わず口元を手で抑える。よろよろと窓の外を見るも夜明けまではまだ少し時間がありそうな空をしていて、時計を見れば時間は3時45分を指していた。
吐きそうで吐けない絶妙な気持ち悪さはトイレに行って吐いてしまえばすっきりするのではないか、なんて思考を許してはくれなくて、そのまま倒れるようにベッドに沈み、体を丸めて波が過ぎ去るのを待つ。
中学三年生の夏のこと、冬弥にとってのダイナミクスはそういう最悪な形で発現した。
翌朝、その後もまるで眠れず、痛む頭をおさえ、ふらふらとした足取りで家を出た。平日ではあるが、丁度夏休みだったから、彰人とは午前中から練習の予定を入れている。
家には居たくない。父と鉢合わせると言い争いになることはわかっていた。今まで音楽科高校の受験に合わせて勉強していたし、受験生の今年がどんなに大事なのかはわかっていた。だから、叱責される度にやってしまった自分の行動に罪悪感が募る。自分の選択に後悔はしていないはずなのに、それでも。
(もう、あの世界に、クラシックに戻るつもりは……)
その為には、今あるこの場所にしがみつかないといけない。彰人がくれたこの居場所に。それがたとえ、いずれは終わらせないといけないものだったとしても。
「……え?」
ひとりそう考えていた刹那、冬弥の思考とは全く関係なく、びくりと身体が震えた。
具合が悪かったから、寒気でもあるんだろうか? それとも、後ろめたいことを考えていたから? 考えてみても答えは出なくて、一体なんなんだ、と思っていると、視線を感じた。恐る恐る辺りを見回しても、いつものシブヤの街でしかない。
嫌がらせ? 勘違い? わからないなりに考えるけれど、体調のこともあってか上手く頭が回らない。
ただ、そう、この感覚は多分――恐怖、というやつだ。
それを自覚してはいけなかった。自覚した途端、縫い付けられたようにその場から動けなくなったから。早く、早く練習場所の公園に行かないといけないのに。
朝とはいえ夏だからか、それとも別の理由からか、つぅと背を伝う汗が気持ち悪い。
だから、とん、と軽い力で何気なく叩かれた肩にも大袈裟に反応してしまった。
「……ぁ、きと……?」
「……冬弥? どうしたんだよ、こんなところで突っ立って」
そこに居たのは、驚いたような表情をした彰人だった。ぱちぱちと瞳を瞬かせ、わけがわからなさそうに眉を顰める。けれど、すぐにその表情は険しいものに変わった。
「……顔色悪そうだけど大丈夫か?」
「あ、ああ……問題ない」
じっと見つめてくる彰人に、冬弥は目を合わせていられず、ばつが悪そうに目を逸らす。
そんな様子の冬弥に名前を呼びかければ、咎められることに怯える子供のように、びくりと掴んだ肩が震えた。
「……質問を変える。何があった?」
「……なんでも……ない」
「何でもないって顔してねぇんだよ、お前。話聞くから、とりあえず日陰まで行くぞ、歩けるよな?」
彰人は力なさそうに頷く冬弥の手を掴んで、元々の集合場所でもある公園へと歩きだす。掴んだ手が熱くて、けれど彰人にそれが夏のせいなのか、冬弥自身の熱さなのかは判断できなかった。
***
「……で、どうしたんだよ」
公園に入る前に自販機で飲み物を買って、木陰になっているベンチに並んで座る。すぐに炭酸飲料の入ったキャップを開けた彰人とは対照的に、冬弥はペットボトルを両手に、黙って俯いたままでいた。
このままでは埒が明かない。黙ったままだというのに、はあ、とため息をついた彰人にはびくりと小さく反応して、様子を伺うように少し視線を向ける。
何があったのか彰人には窺い知ることが出来なかったが、これが冬弥の悪いクセだということと、何もなくてこうはならないだろうということくらいは簡単にわかった。
「教えてもらえなきゃ、対処のしようもねぇんだけど……話せそうにないなら、せめてオレの言葉に頷くか首振るかくらいしてくれ」
そこまでいえば、冬弥は消え入るような小さい声で「すまない」と呟いた。
「いや、謝ってほしいわけじゃねえんだけどな……まあいいか。で、家でなんかあったのか?」
一番有り得そうな選択肢をまずあげる。今までも浮かない顔をしていたり不調そうな時に家族――もっといえば冬弥の父が絡んでいることは珍しくなかった。しかし、冬弥は小さく首を横に振る。
「じゃあ行く途中で何かされた?」
次に有り得そうな選択肢をあげてみた。人の多い場所だから、節操のない人間だって、悪意に満ちた人間だって、混じっている可能性がある。冬弥が高身長の男子だからといって、被害の可能性がないわけではない。むしろ、見るからに真面目で大人しそうな容姿は、反抗的になりにくいと判断されてしまいターゲットにされやすい要素だ。しかし、冬弥はそれにも首を振った。
それから少し考えたあと、彰人はひとつ思い出す。さっき握った手が熱かったことだ。先程は夏のせいもあると思ったけれど、考えてみれば冬弥の体温は自分よりも低い傾向にある。もしかしたら熱があって、具合が悪いのを隠そうとしているのかもしれない。
「……熱、あるんじゃねえの」
確信を持った声でそういえば、冬弥は頷くことも首を振ることもせず、ぴたりと固まってしまった。図星、ということだろうか。顔には出ない割に、こういったところでわかりやすいから、彰人は大抵それを理解の糸口にしていた。
返答を待っていると、しばらく黙りこくっていた冬弥がようやく口を開いた。ぽつり、と呟くようなそれは、彰人の言葉への肯定でも否定でもなく。
「……わから、なくて」
「え?」
「……自分でも、わからないんだ。ただ、どこかから視線を、感じて……」
「……まさかとは思うけど、ストーカーとか?」
「違う、と思う……今日急に起きたことだから……」
言いながら、その時のことを思い出してしまったのか、ペットボトルを握る手に力が入る。やがてそれはカタカタとした小さな震えに変わっていた。少し覗き込むようにして顔を見れば、焦点の合わない目は昏く、ぐるぐると澱んでいて光が見えない。はっとして、彰人はその手に自分のものを重ねた。
「余計なこと思い出させちまって悪かった」
「あき、」
「……恐かったんだろ」
少し逡巡して、目線を少し下げて、冬弥はようやくこくりと頷く。前髪に隠れてしまいそうなその表情がどこか泣き出しそうに見えて。安心させるように、こつん、と額を合わせるとやっぱり冬弥の身体がいつもよりも熱をもっているのがわかった。
「……それに、やっぱ熱はあるっぽいな。大方、不調で神経が過敏になってるとか、そういうとこだろ」
「う……すまない……」
「いいって。家にはいたくなくて出て来たんだろ? 今日は予定変更してうち行くぞ、お前は休んどけ」
***
よほど具合が悪かったのか、申し訳なさそうにしていた割には、ベッドに横にさせた途端あっさりと意識を手放した冬弥を見る。
あれからさらに熱が上がったらしく、少し息が荒い。とりあえず冷えピタでも貼っておこうか、と彰人はリビングに向かった。
「……なんだ、絵名か」
「なんだ、とは何よ」
リビングには珍しく絵名がいた。こんな午前中から起きているなんて珍しい、と思うも、欠伸をしては眠たそうに目を擦る様子からして今から寝るようだ。最近始めたというサークル活動は順風満帆のようで、一時とは比べ物にならないほど機嫌が良さそうにみえる。とはいえ、相変わらずの昼夜逆転生活っぷりに呆れそうになったが。そういえば、とひとつ思い出した。
「お前頭痛持ちだったよな、解熱剤とかって持ってるか?」
「え、あんた頭でも痛いの?」
「オレじゃねぇ……冬弥が来てんだよ、なんか体調悪そうだから、一旦は市販薬でもって思ってな」
「ああ、例の相棒くんね。でも、市販薬でいいの?」
「とりあえず応急処置っつーか……」
あまりにも寝苦しそうにしているから、と言えば、絵名はにやにやとした訳知り顔でこちらを見てきた。
「……なんだよ」
「いーや、なんでも? ただ、しつこいようだけど、具合悪いならちゃんと病院行った方がいいわよ」
「わかってる」
サブドロップとかだと薬きかないしね、と独り言を呟きながら、絵名は部屋に戻っていく。かと思えばすぐに出てきて、雑に紙箱を投げてきた。それは彰人の手前で落ちる。拾い上げると市販品の解熱鎮痛剤だった。投げたため開いている箱から錠剤のシートが出ている。
「……ノーコン」
「うっさいわね、あんたのキャッチが下手なのよ! じゃ、おやすみ」
「おう……ま、サンキューな」
今度こそパタンと閉まったドアを見てから、薬と冷えピタを手に彰人も自室に戻ることにした。
そういえば、と今さっき絵名が言っていた言葉を思い出す。
――サブドロップ。
すでにDomが発現していた彰人にとっては他人事だったが、Subがストレスや欲求不満などによって陥るパニック状態だ。具体的な症状としては、落ち込みやイライラといった精神的な症状から、発熱や頭痛といった身体的な症状まであり、その強さも症状も人による、らしい。
言われてみれば、彰人は冬弥のダイナミクスを知らない。冬弥の口からその手の話題が出てきたことはないし、話し合うという発想すらなかった。一度、トラブル防止のために彰人自身はDomであることを話したが、いつもの仏頂面で「そうか」と一言返されただけだったし、そんな反応だったから、冬弥がSubである可能性を考えていなかった。
けれど、場合によっては。てっきり暑さかなにかでで体調を崩したものと思っていたが、もしかしたら誰かにGlareに当てられた可能性だってある。そういう傍迷惑なDomもいるらしいから。
部屋に戻ると、先程までと変わらない景色がそこにあった。少し苦しげに浅い呼吸を繰り返す冬弥の口元に手の甲を近付けてみると、やっぱり不自然な熱さを感じる気がする。これでちゃんと眠れてるのか? と若干の不安が頭を擡げたが、起こすのも忍びない。彰人は冬弥を起こさないように慎重に、タオルで軽く汗を拭ってやり、次にぺり、と冷えピタの透明シートを剥がして額に貼り付けた。
改めて朝のことを考えてみる。
習慣となっていた走り込みを終え、集合場所に向かおうとしていた彰人は、その道すがらで冬弥の背中を見つけた。もしも走り込みではなく自主練をしていて冬弥よりも早く集合場所についていたら、冬弥のことを見つけられなかったかもしれないし、そういう意味では、走り込みをしていた日だったのはラッキーだったのかもしれない。
冬弥はまるでそう、ゲームによくある石化魔法にでもかけられたように固まっていて、平日の午前中という忙しない街の中、不自然にそこに立っていた。
あいつ何してんだ? というのが、彰人が最初に感じたこと。それで、声をかけた。軽い気持ちだったのだ。
それなのに、冬弥ときたらびくりと大袈裟に肩を跳ねさせて、まるで幽霊でも現れるのを警戒しているみたいに、恐る恐る彰人の方を振り返った。
そういえば、少し違和感がある。体調不良でどうこう、というのなら、その場に蹲ったりするのが普通のはずだ。冷静な冬弥なら、午前中とはいえこんな真夏の炎天下で固まったりはせず、日陰にでも移動するだろう。
冬弥が不調なのは間違いない。さっき熱を計った限りでは、少なくとも微熱程度、とは言えないくらいには高かったし、今だって多分そうだ。けれど、冬弥をああした原因は何も自身の不調だけが原因ではないのだろう。
(……絵名のおかげて気づけたのは癪だけど)
仕方ないから今度コンビニのチーズケーキを買っていってやろう。それが彰人の出した結論だった。
***
気が付くと辺りは真っ暗だった。自分以外の姿が分からない、それどころか自分の姿すら闇の中に掻き消えてしまいそうなほどの暗闇が、当たりを包んでいた。
その中でただひとり、形がわかるものが少し遠くにある。それは人の、もっと言えば、よく知る人の姿をしていた。
「……彰人?」
しかし、その人影は遠ざかって暗闇の中にとけていってしまう。
「……っ、彰人! 待ってくれ、彰人……っ」
必死に手を伸ばして、追いつこうと走るけれど、距離が縮まることはない。それどころか、彰人を完全に見失ってしまった冬弥は、今度こそひとり、真っ暗な世界に閉じ込められてしまった。
ふと足元を見ると、なにか白い紙が落ちている。こんな暗闇の中で、光源もどこにもないというのになぜか見えているその紙を拾い上げた。
「……ショパン……夜想曲第二番、変ホ長調……」
それは、幼い頃から冬弥がずっと目にしてきていたもの――楽譜だった。タイトルを読み上げた途端に、同名の曲が背後で流れ出す。
恐らく、ショパンの夜想曲の中でも最も有名であり、評価された曲だ。ショパン自身はこの楽譜の数小節を恋人への手紙に添えるほど思い入れがあった。同時に、この曲が賞賛されるにつれ、もううんざりだと忌み嫌うこともあった、と教えられた。感傷的な曲ではあるが、高い表現力を必要とし、ゆえにただ感傷的に弾いてはいけない。独りよがりになるから、と。
そう考えたところで、演奏が止まった。
「楽譜が見えていないのか」
聞こえてきたのは、ただ一言、静かに言い放つ父の声だ。ああ、そうか、と気が付く。これは過去の再演だ。
「三小節前の頭から、もう一度」
「……はい」
振り返れば、過去の自分と父の姿が映し出されていた。
甘く、最上級に柔らかく、なんて表現は当時小学生だった自分には理解も加減も難しいもので、けれど、父はこの部分の表現の甘さを許してはくれなかった。
繰り返し、繰り返し、同じところが流れては止まり、また流れる。それはまるで、今の自分と同じようで。
やがて、嘆息と共にレッスンは終わりを告げた。
出来なかった。
期待に応えられなかった。
今日だって、今だって、変わらない。どこにも行けない、失望させてしまう、ずっこのままの自分と同じ。
テレビが消えるみたいにぷつんと、過去の映像は途切れて、いつの間にこんなにあったのか、辺りには今手に持っているもの以外の、かつて投げ出したクラシックの楽曲達が、冬弥を責め立てるように散らばっていた。
「……ぁ、」
さっき消えてしまったはずの彰人の姿が遠くに見える。名前を呼ぼうとして、声が出なかった。けれど、彰人は振り返る。よかった、伝わったのだ、と思ったのもつかの間のこと。
「中途半端に、投げ出してんじゃねぇよ」
冷たい声で一瞥すると、彰人は去っていってしまう。
違うんだ、待ってくれ、と伸ばそうとした腕を誰かに引き止められた。見ればそこに居たのは幼い頃の自分で。
「ほしい言葉をくれる相手は、都合が良かった?」
「違う、彰人は……っ」
「あいつはお前を救ってくれるためにいるわけじゃない」
「それ、は……」
「見捨てないでほしいなんて、いう資格ないのに」
「……そん、なの……わかって……」
「分かってない。本当なら、お前なんて重荷でしかないんだから」
そうだ、そうだった。
自分には彰人へと手を伸ばす資格なんてない。
途端に鉛のように重くなった体では、立っていることも困難になってしまい、その場にぺたんと情けなく座り込んで動けなくなる。
辺りに散らばっていた楽譜も幼い自分も、何もかももうそこにはないのに、暗闇にひとり、進むことも戻ることも出来ないままの自分だけがそこに残されて――……。
***
別に練習ができなくたって、やることはいつも山積みだ。次の曲はどうするかとか、次に出るイベントはどうするかとか。
このようなマネジメントや交渉といった部分は彰人の領分だった。いくつかきている誘いと、参加予定のイベントと、そこに合わせた選曲をしておこうか。次のイベントまでにセトリも組み直したいから、仮案を作っておいて、起きた時の冬弥の具合が良さそうなら意見を聞くのがいいかもしれない。
音楽プレーヤーとスケジュール帳、それからメモ帳を行ったり来たりしながら、彰人は部屋でできることを進めていた。
しばらくたっただろうか。冬弥はちゃんと眠っているだろうかとふとベッドに目を向けて、すぐに様子が何かおかしいことに気がついた。最初に寝かせた時とは様子が違う。明らかに魘されている。
やばい、と直感して、慌てて無遠慮に冬弥の肩を揺さぶった。
「おい、冬弥! 冬弥、起きろって!」
「……ぅ、」
「冬弥、起きてくれ!」
「……あき、と?」
「……はあ、よかった。悪いけど、めちゃくちゃ魘されてたから起こした」
「そうか……夢……ゆめ……か」
やっぱり、何か悪い夢でも見ていたらしい。未だ覚醒しきっていないようで、ぼんやりとしている。
「寝汗気持ち悪いならシャワー……あ、でも熱ある時ってシャワー駄目だっけ……って冬弥?」
冬弥はまだ何かあるようで、難しい顔をしたまま俯いていた。顔色は紙のように白く、とてもじゃないが平常とは思えない。水と薬をすぐに飲めるよう準備をしていると、控えめに伸ばされた手が、くい、と彰人の服の裾を少しだけ引っ張った。
「彰人……俺、は……」
時折見せる、冬弥のその表情が彰人は苦手だ。思い詰めたような、何かを諦めたような、それでいて何かを決意してしまっているような、不安定で、昏い、ぼやけた表情。冬弥のそんな顔を見ると、上手くは言葉にできないけれど、なんだか、次の日にはまるで初めからそこにいなかったみたいに、冬弥がいなくなりそうな気がしてしまう。
「……冬弥、違ったらごめん」
でも、見てらんねぇから。そう続けて、彰人は一度深呼吸をする。
冬弥の不安を解消してやりたいのか、自分が不安になりたくないのか、わからなかった。わからないけど、冬弥のそんな表情は見たくない、そう思った。
これから自分が行うことが、一般的には良くないとされている行為なのはわかっている。冬弥に嫌われなければいいなんて都合よく考えて。
「冬弥、これは"命令"だ――Come」
「え……ぁ、」
その言葉を聞いた途端、すとん、とまるでそうするのが一番きまりがいいみたいに、冬弥は彰人の腕の中にすっぽりとおさまる。冬弥の方は何が起きたのかわからず、ぽかんとした表情のまま、されるままになっていた。
「ん……ちゃんと来れたな、Goodboy、偉いぞ」
「そ、その……あ、彰人? 一体何を……」
「冬弥、Stay、大人しくできるな?」
「……う、ん」
冬弥の疑問を制して、彰人は命令を続ける。冬弥は彰人の胸に頭を預けた姿勢のまま、ゆっくりとした調子で頭を撫でられている。それはまるで、幼い子供をあやして褒めてやるのに似ている。同い年の間柄でやるようなものじゃない、そう思っているのに、なぜだか、冬弥は彰人から受けるその行為に安心感を覚えた。
「嘘はなしだ、冬弥。嫌じゃないか?」
「いや、ではない……んだが……」
「冬弥、Say、だ。ほら、言ってみ?」
「……、その……さすがに、は、恥ずかしい……」
「……それはちょっと我慢してくれ」
やりはじめておいて、自分でも何か恥ずかしいことをしている気分になっている、だなんて。そんなこと言える立場じゃないのはわかっているけれど、思うくらいは許してほしい。ぽぽぽ、と頬を染める冬弥につられるようにして、彰人まで照れてしまう。けれども、さっきまでの陰鬱そうな瞳はすっかりなりを潜めていた。
「姿勢、苦しくないか?」
「……んん、へーき……」
「言ってくれてありがとな」
そう言いながら、ぽんぽんと頭を撫でてやる。その手を背中に移動し、凭れかかる冬弥を寝かせるように摩った。やがて、冬弥はうとうとと心地よさそうに微睡みはじめる。そうだ、薬。すっかりそのことを忘れていた彰人は、慌ててその手を止めて冬弥をそっと引き離した。
「落ち着いたんだったら、ほら、薬、と水。それ飲んで、寝れそうならもう一度寝ちまってもいいぞ」
そんな風にして、二人の初めてのプレイは、たよりなく、ぎこちなく執り行われた。
***
「悪かったな、こんなことして」
「なんで彰人が謝るんだ? 俺は何も謝られるようなことはされていないが……」
「あ、あー……そうきたか……」
それからまたしばらくして、起き出した冬弥に、彰人は真っ先に頭を下げた。それだけのことをした自覚があったからだ。普通、一方的に行うプレイというのは、無理矢理性交渉を持ちかけるとか、そういうものと同義だ。ましてや、セーフワードも何も決めていないなんて、とんでもないことで。
けれど、冬弥はそういうものだと知らなかったし、だから、彰人の心中を察することもできなかった。彰人がなぜか勝手に謝ってきて、なぜか勝手に頭を抱えているのを、訝しげに見ることくらいしか出来ることがない。
「ところで、さっきのComeとか、体が勝手に動いたんだが、あれはなんだ?」
「あれは、コマンドって言って……つーか、今更だけど、学校で習わなかったのかよ。検査もするだろ?」
「覚えがない……」
「マジか。休んでたとか?」
彰人の問いに、冬弥はしばらく考える。身体に関することを取り扱う授業で欠席した記憶を探った。体育の多くは見学だったが休んではいないし、保健の授業なら座学だから、コンクールなどが被らない限りは出ていた。そういえば、と全ての項目がF、測定不可になっていた体力測定の結果を思い出す。
「……体力測定の日、なら。身体測定は後日やったんだが……」
「それで先生も忘れてたパターンか、適当なことしてんな……」
なぜ休んでいたか、なんてことはわざわざ聞くまでもない。彰人は以前、冬弥自身からそのことを聞いていた。
しかし、ダイナミクスの検査漏れが放置されていたとは。学校側もどうなんだ、とか、このことが知れたらそれなりに問題になるんじゃないか、とか、そういった思いは浮かぶものの、彰人は冬弥の通う中学をよく知らないから、何も言えなかった。
「ダイナミクスについてはあとから説明するとして……冬弥、体調の方はどうだ?」
「それが、だいぶ治ってる。休んだからだろうか……」
「やっぱり……それ、多分お前ドロップしてたんだよ」
「ドロップ……? 飴……ではないよな、落ちる方か?」
「そ、サブドロップっつーパニック状態があるんだよ。お前、多分Subで、発現してからちょっとずつ溜め込んじまってたんだと思う。で、朝、他のDomのGlareかなにかに当てられて爆発したんだな」
「……彰人は詳しいな」
こんなことで感心されてもきまりが悪い。冬弥は知るべき時に知ることができなかっただけで、別に知っているから偉いとか、すごいとか、そんなことはないのだから。しかし、冬弥は彰人へ疑いの余地などひとつもない、そんな表情で見つめてくるものだから、彰人は渋々その賞賛を受け取るしかなかった。
***
幼い子供のような、プレイとも言えないプレイをしたあの日、Subが発現したあの日から、他のダイナミクスの発現者と同じように、冬弥は自身のSubに振り回されることになった。
というのも、冬弥はGlareに当てられやすい体質だったのだ。今までどうして平気でいられたのか。自覚的か無自覚的か、自分に向けられているかそうでないかに構わず、冬弥は敏感にそれを感じ取ってしまう。その度に彰人は「大丈夫だから」と沈みかけている冬弥を引き止めてくれていたし、状況次第では、あの日と同じ、ままごとのような"プレイ"に付き合ってくれていた。
病院での検査には行くことができたが、事情を話して病院へ行きたい旨を母親に伝えたところ、家族は皆DomかSwitchという、生粋のDom家系だということを語られた。
その言葉はただ事実を伝えてくれただけであり、悪意なんてひとつもないことはわかっていた。けれど、街中で浴びたGlareを思い出してしまうと怖くなって、Subと書かれた自分の診断結果を差し出すことはできなかった。元々折り合いは悪いから、どちらにせよ自身の置かれた現状を家族に話すことはなかったかもしれないけれど。
夏休みも終わりに差し掛かった日のこと。彰人は中学の登校日で午前中は学校があったため、冬弥はひとり、公園に来ていた。彰人が来るまでに声出しと、前回練習した時に甘かった部分を見直しておきたい。昨日録った音を再生して、冬弥は風に飛ばされないようクリップでとめた譜面にひとつずつチェックを付けていく。
そんないつも通りが、簡単に崩れた。
Glare、だ。
自分に向けられたものではないとわかっていても身が竦む。一度そうなってしまえば、さっきまで楽曲の方に集中していたから気が付かなかった誰かの話し声が、うるさいほど耳に入った。
「"命令"だよ、聞けないの?」
「ごめん、なさい……」
茂みの方から聞こえてくる、とてもじゃないが穏やかとは言えないその声。どうやらその一方がDomであり、SubにGlareを発しているようだった。当てられやすいとはいえ、無関係の自分ですらこれほど震えが止まらなくなるGlareだ。きっと受けているSubも望んでいるものではない。
怖い、嫌だ、怖い。
恐怖心を耐えようと、拳を握りしめたから、譜面の1番上のページがくしゃくしゃになってしまうが、構っていられない。ぎゅっと目を閉じて、大丈夫だと言い聞かせた。それから、ぐっと足に力を入れてなんとか立ち上がる。放っておくわけにもいかない、と妙な正義感で冬弥は茂みの方へと向かった。
「ほら、早くしろって。外でお仕置はいやなんだろ?」
そう言いながらSubと思われる方に近付くDomの姿を見つけて、思わずその間に割って入った。
「あの、この人嫌がってると思うんですが」
「あ? なんだよお前」
突然の乱入者にDomの男性は威嚇するような強いGlareを放つ。怖い、気持ち悪い。目眩を覚えて冬弥は半歩後ずさった。
「……すみません、セーフワードは?」
小声でSubの女性に声をかける。女性はふるふると首を横に振った。彰人が言うには、セーフワードというのを本来は決めてプレイするもので、それをしないプレイというのはプレイの強要に当たるらしい。あの日、彰人がやたらと気にしていたのはそれだった。冬弥としては、そんなことは何も知らなかったし、結果的に体調も改善したし、さほど気にしてはいなかったが。
(彰人が言っていたのはこういうことだったのか……)
ようやく納得できた。が、そんなことで納得している場合ではない。幸いにも、目の前のDomより背は自分の方が高い。力比べにはあまり自信がないが、この身長差は多少は有利に働くだろうか。少なくとも、後ろに死角を多く作れるから、彼女が逃げやすくなるのは確かだ。
冬弥が逃げるよう目配せをすると、女性は冬弥と茂みに二、三度視線を行き来させた。どうやら伝わったようだ。早く、と口パクで合図を送れば、乱れた衣類や髪をそのままに茂みから抜け出していった。よかった、と息をつく。
「あ、クソ、てめぇふざけんなよ!」
「――ッ、く」
公園の方へと抜けていった女性の後ろ姿を認め、男は構わず冬弥へと殴りかかった。背丈でいくら有利をとれても、やはり力比べとなると惨敗らしい。勢いで簡単によろめいて、バランスを崩して尻もちをついてしまう。
「自分が何やったかわかってねぇって顔してんな」
「……そっちこそ、何をしているのかわからないのか」
「あぁ? ……って、なんだお前、Glareに当てられるってことはSubかよ、そいつは都合がいい」
立ち上がろうとした冬弥に、にやりと男は悪どく口角を上げた。
「kneel……これは"命令"だ。聞けるよな?」
***
『HRが長引きそうだから少し遅れる』
そのメッセージに既読がつかない。冬弥は集中すると周りが見えなくなることがあるから、夜に送ったメッセージが翌日の昼頃までスルーされてる、なんてことはたまにある。けれど、今日は練習日で、予定に遅れたり早く行けそうなら連絡する、と事前に言っていたから、真面目な冬弥なら連絡確認を怠るなんてことはないはずだ。何か嫌な予感がした。それはあくまで予感の域を出ないが。もう一度スマホを確認して、やっぱりつかない既読に眉を顰めた。
「冬弥が行けって言うから学校行ったのに……」
それが八つ当たりであることはわかっていたが、本人も聞いていないし、少しくらいはいいだろう。読まれないメッセージについては仕方ない、もう少しで公園に着く。そこでどうせ会えるのだ。
そもそも登校日、なんていっても大したものじゃなく、HRを軽くおこなって、どうでもいい話をして、課題プリントを1枚やったらはいさようなら、というものだ。サボりの生徒も多いし、それを教師も咎めない。初めは彰人もサボる予定だったし、そんなことで咎める両親ではない。けれど、1年前に組んだ相棒は登校日があると話したら、「それは、行かないといけないな」と、それはもう真面目と顔に書いてあるような表情で答えた。そんな冬弥の学校には、登校日なる文化はないらしい。羨ましい、転校したいと思った。どうせあと半年で卒業するけれど。
そんなことをごちゃごちゃと考えながら急ぎ足で歩いていると、勢いよく走ってきた女性とぶつかった。
「あ、すみません、大丈夫で……」
「ごめ、なさい! はやく警察……っ!」
「は? え?」
「公園で、私、男の子……っ、Subの子が……!」
この先にある公園といえば、集合場所にしていた公園だ。そこにいるSubの男の子といえば。
既読がつかないメッセージを思い出す。
「まさか冬弥……?! そうだ、これ使って、警察呼んどいてください!」
お願いします! とスマホを女性に投げ渡して、彰人は急いで公園へと向かった。
走れば1分程度で目的地へと着いた。あまり人のいない、さほど大きくもない公園だ。
入口まで来てぱっと辺りを見るも冬弥の姿はない。いや、よく見ればブランコの近くに冬弥の鞄が置いてある。ということは、冬弥はここにもう来ているはずだ。
公園の中に入って冬弥の名前を呼びかけるも返事はない。ひょっとしたら、声が出ない状況だったりするのだろうか、そんな嫌な想像が脳裏をよぎってしまい、彰人は振り払うように頭を振った。
そういえば、あの女性の頭や衣類には葉っぱや土がやたらとついていた。それならまさか、茂みの方?
奥まったところにひっそりとあるそこは、公園の死角になっているところだ。少し危ないとされていて、だから、小さな子供なんかは子供たちだけではこの公園では遊ばない。
人の少ない公園ということで練習場所としては都合がよかったけれど、やっぱり場所は考えた方がよかったかも、そんなことを少し考えながら、茂みの方へと急ぐ。近づけば二人分の声が聞こえてきた。そのうちのひとつは聞きなれた声で。
「冬弥……っ!」
茂みの向こうには、座り込む冬弥と、見知らぬ男性がいた。
「冬弥、無事か?!」
「あ、ああ……俺はへい……ッ、」
急いで冬弥の元へと向かい、彰人は冬弥を支えて立たせようとする。しかし、立ち上がろうとしたところで、がくんと彰人の肩に体重がかかった。見れば冬弥はすっかり膝が笑っている。全然平気じゃないのは誰の目から見ても明らかだった。
「平気な人間は普通いきなり腰抜かさねぇんだよ」
「……彰人を見たら、安心してしまって」
「ったく……」
しゃがみこんだ冬弥が困ったような顔に眉を寄せて、そんな嬉しいことを言ってくれるから、思わずこちらまで気が抜けてしまう。けれど、そんなことをしている場合ではない。彰人は目の前の男を睨むように見据えた。
「……で、お前はなんなんだよ」
「はあ? お前こそ急に……」
あまり見せたくはないな、と思い、肩を貸したままだった冬弥を引き寄せて、ぎゅっと腕の中に閉じ込める。それから、彰人は男にGlareを放った。
「こっちが聞いてんだ、答えろよ」
「……ッ、Defense?! そいつ野良じゃねぇのかよ!」
彰人のGlareを、男は都合よく解釈してくれたらしい。パートナー付きのDomは防衛本能からフリーのDomよりも強くなる、と一説では言われている。そんな簡単にはできていないように彰人は思っていたが、少なくとも目の前の男はそんなに簡単にできていると思っているらしい。彰人と冬弥がパートナーであると勘違いするや否や目に見えて焦りだした。
よし、もう少し、もう少しGlareを続ければ……。男が後ろへ後ろへと後ずさるのも気にせず、彰人は男を睨み続ける。彰人自身、特別強いDomというわけではなかったが、根比べとくれば自信があった。
「……あき、と……っ」
しかし、あと少しというところで、腕の中にいる冬弥が、くぐもった声で彰人を呼ぶ。信じられないくらい弱々しい声音に彰人はたじろいで、腕に込めていた力を緩めた。
「あき……彰人、もういい、やめてくれ……」
「……冬弥? でも、」
「もういい、から……っ」
見れば、冬弥の顔色は白を通り越して真っ青で、目尻には涙が溜まっている。彰人の服を掴む手は強く握りすぎて震えていた。日頃緊張なんて滅多にしない冬弥がこうなったのを、彰人はほん少し前に見ていた。あの日、冬弥のSubが発現した日のことだ。
しまった、と思った。ひと月もないほどの間、彰人は時間を見てはSubについて調べては冬弥に共有していた。冬弥には自身の体について、何か異変はないか聞いていた。その中で、冬弥がどうやらGlareに当てられやすいということはわかっていたはずなのに。
「悪い冬弥、オレ……っ、しまった!」
彰人がGlareを解いた一瞬の隙をぬって、男はその場から逃走する。公園入口へと走る男の姿を見て、彰人はぬかった、と舌打ちをした。その時。
「あっ、お巡りさん、あの人です!」
女性の声が聞こえて、あっという間に男は男性警官二人に取り押さえられる。辺りは軽い騒ぎになって、近隣住民がなんだなんだと集まってきた。
「……捕まった?」
「多分……」
彰人も冬弥も、ぽかんと口を開けてその光景を眺めていることしかできない。そうしていると、がさがさと茂みに人が入ってきた。見れば、先程男を取り押さえていた警官のひとりのようだ。警官はにこりと人好きのする笑みを浮かべて手を差し伸べる。
「君たち、もう大丈夫だよ。……お話、聞かせてくれるね?」
有無を言わせないそれに、二人で顔を見合わせてからこくりと頷いて、彰人がその手をとった。
***
親を呼ばないといけない、という警官の言い分を彰人は断固として拒否した。正確には、別に彰人の母親が警察署に来ること自体は問題なかったのだが、冬弥の両親がくる可能性を考えるとまずいと思ったのだ。
彰人の母親が来るまではいい。けれど、彰人の母親は冬弥の家の事情まではよく知らない。だからこそ、別々に引き取られるようなことになれば、冬弥をひとりで警察署に残すことになるかもしれないし、もしかしたら母親が悪気なく冬弥の家族を呼び出す方に協力しかねない。だから、彰人も親を呼ぶことはできない、と答えた。
実際、冬弥は状況説明をする時には思いのほか流暢に喋っていたのに、家の連絡先を聞かれた途端に黙り込んでしまった。それもそうだ。反対されているストリート音楽の練習に行ってこんな目に遭っているんだから、バレたのならただではすまないだろう。今までだってやめろ、クラシックに戻れ、と言われ続けているんだから、やめさせるには十分すぎる理由になってしまう。
「でもね、君たちのような不安定なダイナミクスの時期はケアが大事で……」
「別に家族が必ずケアを行うわけではないです」
「それはそうだけど……でも普通は親御さんが一番子供のケアに適しているものでしょう?」
「それは一般論じゃないっすか」
「はあ……君じゃ埒が明かないな。ねえ君、冬弥くんだったね? 君の家の電話番号は?」
「……っ、言いたく、ない……です……」
「君たちが大人か、せめてパートナーなら、まだ任せられるんだけどねぇ……」
ため息と一緒に繰り出される困ったようなその声は、警察署に来てからもう何度目ともなる言葉だった。
「オレ達なら大丈夫です、自分で帰れます」
「でも君たちはまだ子供でしょう? 契約を結んでいない以上、ダイナミクスだって不安定だ。僕達はなにも意地悪で言ってるんじゃないんだよ、わかる?」
わかっている。親切心なことも、普通は大人を呼ぶべきだということも。けれど、少なくとも冬弥の方はその言葉が一番参っているようだった。愚直な程に真面目で、ストレートに言葉を受け取る冬弥にとっては、意地悪を言われているのなら、まだいいのだろう。どこまでも正論で、心の底からの親切心だからこそ重いのだ。その証拠に、さきほどから一度も頭をあげようとはしない。ずっと俯いたままで、多分きっと、頭の中はではろくでもないことを色々と考えているに違いない。
これ以上は冬弥が耐えられるか心配だ。そうは思うも、状況は堂々巡り、八方塞がりで、彰人には手立てが思い浮かばない。どうしたものかと彰人が策を練っているところに、救いの手が現れた。
「……あの、私がこの子達を家まで送り届けます」
それは、先程冬弥が助けたという、あの女性だった。
「ごめんね、私のことで二人とも巻き込まれただけなのに、こんな事になっちゃって……」
「いえ、助かりました」
いい加減面倒に感じていたのだろう。女性の提案はあっさりと受け入れられ、三人まとめて警察署から放り出されることとなった。
どうやら捕まった男は元々この女性の顧客だったらしい。女性はそういう店で働く人で、けれどサービス外の要求をされていたのだという。そういった事件だったから、警察側としても厄介払いをしたかったんじゃないか、なんて。彰人も冬弥も中学生だということを考慮してか、かなり濁した言い方をされたが、そんなふうに女性は概ねの流れを自嘲気味に語った。
まだ早い大人の世界の、できればなるべく目を逸らしたい汚い部分を垣間見てしまい、二人して何も言えずに黙ってしまう。同時に、自分たちの住む世界がいかに守られた子供の世界かということにも自覚的にならざるを得なかった。
あまりにも気まずくて、沈黙を破るように彰人は口を開く。
「……あの、さっき警察の人が言ってた、せめてパートナーならって、あれってどういうことなんですか」
「ああ、パートナーがいるとDomもSubも安定しやすいらしくてね、そういう風に言われてるってだけじゃないかな」
「……安定?」
「うん、パートナーがいるとGlareに当てられにくくなるだとか、DomのDefenseはただのGlareより強いとか……確かにそういう人もいるけど、実態は人によるから確実ではないだよね」
女性の言葉に強く反応したのは、彰人ではなく冬弥の方だった。なるほど、と冬弥は顎に手を当てて、考え込むような仕草をする。
「確実性はないんですよね……」
「うん。でも、信じている人が多いというだけで有利に働くこともあるよ。特にDomは、縄張り意識みたいなのが強いから」
そういえば、と彰人は男と対峙した時を思い出した。あの時、彰人の放つGlareを男はDefenseと勘違いした。もしもあの時、勘違いされなかったら? Glareで対抗された時に、必ず勝てるという自信が彰人にはない。彰人のDomは、決して強いものではないという自覚があったから。
世間的に強く思い込まれていることは、たとえそれが真実ではなかったとしても有用だ。勝手に思い込ませておけばいい。
「冬弥」
「……ああ」
二人で顔を見合わせる。考えていることは同じようだった。
***
自宅前で女性と別れたあと、家に帰るといった手前女性をだますようで悪いとは思いつつも、ふたりはまっすぐ近くの空き地に向かった。
「契約、しよう」
置かれたままになっている大きな角材に腰を下ろして、すぐに彰人からそう切り出した。
そう、パートナー契約だ。お互いの同意さえあれば簡単にできる。役所に行く必要もないし、親の判子も必要ない。
もしも今後、ライブハウス内今日のようなことが起きたら? Glareに当てられてしまうことで、イベントを台無しにしてしまったら? 冬弥にはそれが怖かった。だから、確証はなくとも、誰かとパートナーとなりSubを安定させられたら、と考えた。
それに、パートナーがいれば今日のように、親に連絡を、なんて言われなくなるかもしれない。
けれど、本当にいいんだろうか、とも思った。何よりもパートナーという立場に収まることこそが彰人への迷惑になるかもしれない。だって、彰人には夢がある。その夢に、ダイナミクスのパートナーなんて不要だ。重荷になりたくない。
だから、彰人から契約の話を持ちかけられて、心底ほっとした。ほっとして、それから、ふと夢の内容を思い出してしまった。
――彰人は、俺を救ってくれるためにいるわけじゃない。
わかっている。そんなことは、自分が一番わかっているつもりでいる。違う。本当は、わかっているつもりでいたいだけだ。独りよがりだ、ずっと。
「……冬弥は、嫌か? 無理にとは言わない」
それなのに、彰人は冬弥のほしい言葉をくれる。逃げ道まで作ってくれる。だから、また甘えてしまう。
「いや、じゃない……」
上手く言えていたか不安だったが、彰人はきちんと聞き取ってくれた。ひどく優しい声で「うん」と頷いて、その声で冬弥はわけもわからず泣きそうになってしまう。
悲しいわけじゃない、嬉しいのとも少し違う。その感情に冬弥はまだ、名前をつけられなかった。
「よし、それじゃ契約だ。早いとこ済ませちまおうぜ」
そう言って、彰人はおもむろに自分の首にかけられていたネックレスを外した。三角形のアクセサリーがついた、シンプルなネックレスだ。
「……? 彰人、何をするんだ?」
「首輪の暫定版。これくらいシンプルなら音もうるさくないと思うし、見せたくないなら隠せるだろ?」
つけてやるからこっちこい、と彰人は手招く。大人しく少し屈めば、さきほどまで彰人の首輪にかけられていたそれは冬弥の首にかけられた。金属の部分があたたかくて、冬弥には、つい今の今まで彰人が付けていた体温が残っているように感じる。
「じゃ、契約成立ってことで。ちゃんとした首輪とか用意してやれなくて悪いな」
「いや、構わない……嬉しい」
だから、もう少しだけ。あと少しだけ、隣にいたい。
我ながら重いな、とその言葉は飲み込んだ。
付けてもらったばかりのネックレスを握る。それは首輪としてつくられたものではないから、はっきりとそうだとは思えなかったけれど、それでよかった。彰人とずっといられるなんて思っていない。思ってはいけない。夢を語る彰人と、そんな彰人に甘えているだけの自分。天秤がつり合うはずがないのだから。
それでも。
「改めて、相棒兼パートナーとして、よろしくな」
「ああ……よろしく頼む」
ダイナミクスが安定するまでは、この我儘を、甘えを許しほしい。そんな言い訳を自分自身にして、冬弥は差し出された彰人の手を取った。彰人には、まだこの思いがバレませんように、と願いながら。
***
「あの頃は、一時的な関係だと思っていた」
帰り道。なんとはなしに冬弥は話し出す。休憩中に話題に出ていたからだろうか、"あの頃"には彰人もすぐに思い至った。冬弥と契約を結んだあの日のことだ。
「は? 契約結ぶのにそんな適当なことできるかよ」
その言葉に、彰人らしいな、と冬弥は微笑む。あの頃から彰人はずっと変わっていない。責任感が強くて、誠実で、そしてなにより、いつだって冬弥のほしい言葉をくれる。だからまた、彰人に甘えてしまう。けれど、彰人がそれでいいと言ってくれるから。
冬弥は確かめるように、あの日貰ったネックレスを握りしめる。一見するとアクセサリーの域を出ないそれは、正しくは首輪ですらない。けれども、二人の間で交わした契約が、確かなものであるという証だった。
「大丈夫だ。今は、思ってない」
「じゃなきゃオレが困る」
言いながら彰人はいたずらっぽく笑って、冬弥よりも少し低い位置から手を伸ばす。くしゃりと頭を撫でられた。たったそれだけのことで冬弥はひどく満たされる。
「ずっと続けばいいのに、と思うのは我儘だろうか」
「今度は何言い出すのかと思えば……言っとくけど、」
ぽつりと呟いた言葉に、彰人の手が止まる。呆れたような声で返したあと、ぐいと冬弥を引き寄せて、耳元に顔を寄せた。
「こっちは一生手放す気なんてねぇからな」