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    音羽もか

    @otoha_moka

    書いたものとか描いたものを古いものから最近のものまで色々まとめてます。ジャンルは雑多になりますが、タグ分けをある程度細かくしているつもりなので、それで探していだければ。
    感想とか何かあれば是非こちらにお願いします!(返信はTwitterでさせていただきます。)→https://odaibako.net/u/otoha_moka

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    音羽もか

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    過去Twitterにて掲載していた記憶喪失?退行ネタ?の彰冬。長編なのでお時間ある時にでも。

    #彰冬
    akitoya
    ##彰冬

    歩くような速さで連絡を受けてすぐに言われた病院へ向かった。
    どうやら、最後の通話履歴にあったのがオレの名前だったから、話を聞きたいということらしい。

    冬弥が事故にあった。

    冬弥の家の近くにある、少し脇道に逸れた通りの横断歩道で車にぶつかったらしい。
    オレの焦る声が電話越しにも伝わったのか、事務的なその声は命に別状はないこと、詳しい検査は終えていないが、簡易検査上は大きな問題はないこと、一番大きな怪我は左腕の骨折だということ、その骨折も決して酷い状態のものではないということを教えてくれた。
    それから、現在冬弥の父親が病院に来ているということも、その父親がオレの証言を求めているということも。
    慌てて部屋を出たから、たまたまドアの近くにいた絵名とぶつかりそうになったが、今はそんなことを気にしていられない。
    「っ、ちょっと! 危ないでしょ?!」
    「ちょうどいい所に! どうせ今から寝るんだろ? 部屋戻る前に朝飯はいらねえって伝えといてくれ!」
    「はあ? こんな早くにそんなに慌ててどこ行くのよ、今日は日曜……」
    「中央総合病院!」
    靴に履き替えながらそれだけ伝えると、オレは玄関を飛び出した。

    病院に着くと、待合室にはまだほぼ人はいなかった。受付時間は九時からで、今はまだその時間よりも前だからだ。けれど、一人だけ、そこに座っている人がいる。気難しそうな顔をした人だった。
    その人はオレの姿を認めると立ち上がり、こちらへと向かってきた。
    「君が、東雲彰人くん……か」
    「……そうですけど」
    知らない人なのに、知っている気がする。そう考えて、ピンと来た。テレビにだって出ている有名人だ。
    それから、それだけじゃなくてもうひとつ。
    「冬弥の親父さん、ですか」
    「ああそうだ、息子が世話になっている」
    そう苦々しく返される。冬弥はちゃんと話せたみたいだったけど、それはそれ、これはこれ。やっぱりオレは好きにはなれそうになかった。
    「それで事故の件だが……ひき逃げでね、犯人がまだ捕まっていない。少しでも手がかりがほしい。警察の方に連絡するから、証言を頼まれてくれないか」
    「それは、いいですけど……それより、冬弥は無事なんですか」
    「ああ、電話で聞いていると思うが外傷は――」
    冬弥の親父さんから聞かされる冬弥の様子は電話で聞いたものと大体同じだった。まだ目を覚ましてはいないから、それまでは自分か妻(つまり冬弥の母親だ)が、病院にいるつもりだとも言う。
    思ったよりも親らしいところがあるものだ、と言い方は悪いけれど、そんなふうに思った。

    冬弥と最後に連絡を取りあったのは、昨日二人で練習して、わかれたあとのこと。夕方頃、オレは遅めのシフトでバイトがあって、冬弥は自主練に行った。それで、ちょうどバイトが終わるくらいの時間に「通話いいか?」とメッセージが送られてきた。
    話の内容自体は次のイベントでのセトリについての意見で、メッセージでもやり取りが可能だったものだった。それを指摘すれば、冬弥からは「声が聞きたくなって」だなんて返ってきて、こっちがなんだかむず痒い気分にさせられた。
    事故の発生日時はその通話を終えた直後、ほんの五分くらいあとのことだったらしい。
    昨日のこと、普段の冬弥がその道を通るかどうか、何か変わった様子はなかったかどうか、などなど、警察官から矢継ぎ早に質問され、わかる範囲で答えていくと、それだけでも結構な時間が経っていく。冬弥はもう目を覚ましただろうか、無事だろうか、そんな焦りばかりが募っていった。
    そうしてやっと解放された頃には、太陽はもうてっぺんまで昇りきっていた。

    警察署から戻ると、病院の受付に杏とこはねがいた。どうやら二人もまた、謙さんを通じて連絡を受けたらしい。冬弥の病室を事前に聞いていたオレは、二人に声をかけて一緒に病室へ向かうことにした。
    「東雲くんはどこか行ってたの?」
    「あー……ケーサツ」
    「え? まさか、なんかやらかした?」
    「違ぇよ、冬弥の最後の連絡相手がオレだったから、話聞きたいってさ」
    病院なので、少し声を抑えながらもそんな軽口を叩きつつ冬弥のいる部屋へと向かう。冬弥の病室は入院患者用の部屋が集まるB棟の三階にあった。目を覚ましていたとして、窓の外から下なんかを覗きこんでしまい、そこから動けなくなってなければいいが。あいつは高いところは苦手な割にそういうことをしだすから少し心配だ。
    「先に連絡貰ってたなら、彰人は冬弥の様子とかって詳しく聞いてる?」
    「んー……いや、多分お前らに説明いった通りの内容しか聞いてねぇと思う。精密検査の結果出るのは午後一って聞いたしな」
    「そっか……じゃあもうすぐわかるのかな」
    こはねが時計を確認すると、時刻は午後一時を指そうとしていた。


    病室の前までくると、誰か女性と男性、それから冬弥のものと思われる声が聞こえてきた。ネームプレートは冬弥の名前だけ。どうやら個室のようだ。入ってもいいのかな、と躊躇うこはねに、許可はされてたしいいだろ、と答えて、オレはゆっくりと扉を開けた。
    その音に気がついたのか、女性がこちらに目を向けると椅子から立ち上がる。その所作の一つ一つが丁寧だということはオレにだってわかった。
    「あなた達、冬弥さんのお知り合い?」
    「ええと……私たち、冬弥の仲間でさっき電話した父の……」
    「あら、お友達! じゃああなた達が、杏さんとこはねさんね?それから、あなたが彰人さん」
    「ええ、まあ、そうですけど……」
    女性は一瞬嬉しそうに目を輝かせてみたものの、すぐに深刻そうな表情に戻ってしまい、こっちへ、とベッドのある方へとオレ達を促す。オレ達はどうしたのだろうかと互いに顔を見合わせて、それから促されるまま病室の奥へと歩みを進めた。

    ベッドには左腕をギプスで固めて、頭と、それから病院着から覗く身体のあちこちに白い包帯を巻いた、痛々しい姿の冬弥がいた。
    「とう、」
    冬弥、と声をかけようとしたところで、気がつく。冬弥はオレ達を見てこんな表情を浮かべるやつだっただろうか。いや、無表情がデフォルトで、表情にあまりでない奴だから、実際のところさほど違いはないのかもしれないが。
    なんだか嫌な予感がする。女性は深刻そうな顔を崩さないし、医者と思われる男性もまた、似たような顔をしているし。
    「あの、」
    息が詰まったオレ達の代わりに、冬弥が口を開く。

    「司さんの、ご友人でしょうか」

    ***

    医者と女性――予想はしていたが冬弥の母親だった――いわく、冬弥は精密検査上の異常はないものの、事故のショックにより一時的に記憶を失っているらしい。
    より正確にいうなら、単純に記憶が無いというわけではなく、冬弥は今、大体十から十一歳の頃の冬弥に戻っているのだという。検査に異常がない以上、これは精神的なものだろうとのことだった。たとえば、ひき逃げ犯が見知った人だったりだとか、そういうことが今回の件の引き金になっている可能性が高いらしい。
    冬弥本人はといえば、最初目を覚ました時はもっと取り乱していたらしいが(他ならぬ母親が、あんな息子は見たことがないと感じるほどの状態だったらしい)、ある程度状況の説明をしたところ、そうですか、と納得し落ち着いたとのことだった。なるほど、その切り替えの早さはいかにも冬弥らしいな、と思う。
    しかし十一歳、その年齢に杏やこはねも難しい顔をした。それもそうだ、だってその頃の冬弥は、オレ達の知らない、話でしか聞いたことのない、その頃の冬弥は。

    医者と冬弥の母親は今後についての話があるということで、一時的にオレ達だけが病室に取り残される。冬弥はオレ達のやり取りを淡々とみていたのだが、突然知らない人が三人も増え、知っている人が部屋の外へと消えてしまったことで、どこか困っているようにも見えた。
    姿形は高校生の冬弥なのに、そうやって作られている表情はずっと幼くて、何だかどこをとってもアンバランスだ。けれども、それよりも。十一歳という年齢にはあまりに不相応なほどに、色を失った目をしているように見えることの方が、ずっと違和感があった。能面のよう、と言えばいいのか、なんだか不気味に思う。
    何を話すべきだろうか、今のオレ達の話をしたところで今の冬弥にとっては何一つわかりはしないだろう。けれど、初めましてと言うには躊躇いがあった。どうしたものかと考えていると、こはねが一歩、二歩と冬弥のもとへ歩き出す。何をするつもりなのか見ていれば、ベッドにいる冬弥に視線を合わせた。
    「えっと、青柳くん、こんにちは」
    「その、はい、こんにちは……」
    冬弥はこはねの言葉にも無表情のまま、抑揚のない声で返した。オレの知っている初めて出会った頃の冬弥だって、さすがにもう少し表情があった気がする。ましてや、オレや杏とは異なり、こはねが知っている冬弥は高校生になってからの冬弥だ。そのせいか、オレ以上に面食らっているように見えた。
    とはいえ、顔には出ていなくても、抑揚のない声でも、戸惑いがみてとれる。取り繕えないのは幼さゆえのことでもあるんだろうが、この状況では好都合だ(嘘をつくのは苦手なくせに、その気になった冬弥が存外上手いこと誤魔化せるのを、オレはよく知っている)。こはねにも冬弥の戸惑いが伝わったようで、ぐっと堪えるように握る手に力が入って、それから何かを決意したような表情になった。
    「私は小豆沢こはね、だよ。青柳くんの仲間で、私は青柳くんに沢山助けてもらってたの」
    「僕が……?」
    「うん。だからね、今度は私が青柳くんの力になりたくて、ここに来たんだよ」
    こはねの言動は同い年の人に対するそれより、少し幼い人に向けてするものに近い。こはねの態度に冬弥も少しは警戒をといたようだった。
    こはねの言葉を皮切りに、オレと杏も合わせるように自己紹介を始める。同じチームを組んで歌ってたこと、オレとはその前から組んでいたこと、今通ってるのは神山高校だということなんかを織り交ぜながら。
    「じゃあ、高校生の僕の仲間……知り合いなんですね」
    「ま、そういうことになるな」
    「そう、なんだ……仲間……」
    不思議そうにぽつりと冬弥が呟く。それもそうだろう、オレ達の音楽は、十一歳の頃の冬弥が触れているものとは全くの別ジャンルだ。自分に何が起きて、五年後の自分がその世界に身を置いているのかなんて知らないわけだから、首を傾げるのは道理だ。
    けれど、同時に。冬弥はどこか嬉しそうにしているようにも見えた。
    嬉しく思ってくれていればいいと、そう思ったオレが都合よく冬弥の表情に意味をつけただけかもしれないけれど。

    ***

    結局、冬弥は再検査ということになり、さらに一週間入院することになった。怪我自体は左腕の骨折を除けば、一週間の間にだいぶ良くなったようだ。その骨折についても、本来なら入院の必要はない状態らしい。つまり、本当に検査のためだけの入院ということ。これは冬弥の記憶がまだ戻っていないことを意味していた。
    オレはもちろん、杏やこはねも、次の日も次の日も見舞いに来ていた。冬弥も早くオレ達のことを思い出したいと言い出したので、その翌日はお互いに何か冬弥に関係のあるものなんかを持ち寄ることにした。以前参加したイベントのフライヤーだとか、冬弥の好きだったメーカーのクッキーとか、以前貰ったゲーセンの戦利品とか、本番前にと録画していた練習風景だとか。けれど、どれも決定打にはならないまま、冬弥は十一歳の冬弥のままだった。
    「あとこっちは昔渡したおすすめのリストが入ってる……冬弥? どうした、疲れたのか?」
    「あ、私達で話しすぎちゃったかな、ごめんね」
    「違う……違うん、です」
    冬弥からのリアクションが急になくなって不思議に思うと、冬弥は暗い表情のまま俯いていた。確かに急かしてしまっていたかもしれない、そう思うも、こはねの言葉には首を横に振って否定する。
    「……あの、ごめんなさい」
    「どうして冬弥が謝るの? 悪いのはひき逃げ犯じゃん」
    「……事故のことじゃなくて……、……いえ、なんでもありません……」
    「どうしたんだよ、そんな切られ方したら余計気になるっての」
    こうして言い淀む癖なんかは、最近こそだいぶ改善されてきたものの、冬弥らしいと思わせるものだった。口調こそは今と全然違うけれど、なんやかんや冬弥は冬弥だと思う。
    いいから言えって、と黙り込む冬弥にもう一度いえば、冬弥の瞳は所在なさげに揺れた。
    「……気持ち悪く、ないですか」
    「え? どうして?」
    「十六歳の僕が小学生のような振る舞いをしてるなんて、変、だし……なのに、無理して付き合わせてしまってる……から……」
    そう言うと、右手でぎゅうっとシーツを握りしめて、冬弥は俯いてしまう。なんだか、泣きそうなのを堪えているようで。冬弥の背丈自体は変わらないのに、大きな身体が、その時はなぜだか小さな子供のような姿に見えた。
    「なんだ、そんなことか」
    「……え?」
    「オレ達、無理してるとか変だとか、そんなこと一回でも言ったか?」
    「あ……」
    オレの言葉に、冬弥はふるふると首を横に振る。オレはそんな冬弥の頭を遠慮なく、くしゃりと撫でた。
    「そりゃあ最初は驚いたけど、そんなことくらいでお前のことを気持ち悪いだとか変だとか、そんな風に思ったりはしねえよ」
    「そうそう! それに、慣れてくるとなんか可愛いしね」
    「もう、杏ちゃんってば……でも、うん、私としては、青柳くんの治療の邪魔しちゃってないかってことの方が心配かな……その、青柳くんこそ無理とかしてない?」
    「……そんなことは」
    「まあ、そういうこった。ったく、細かいこといちいち気にすんな」
    口々にそう言えば、冬弥は少し目を見開いて、それからぽろぽろと静かに涙を零しはじめた。肩を震わせていることに気がつけなければ泣いていることなんてわからないくらい静かに。
    「え、おい、冬弥? どうした? 怪我が痛むのか?」
    驚いてそう尋ねるも、冬弥は首を横に振る。
    それがあまりにもそう、綺麗で。怪我に障らないようにしながら抱き寄せてやると、シーツを握っていた右手がオレの服を掴む。違う、ごめんなさい、と嗚咽混じりのくぐもった声が小さく聞こえてきた。無意識に冬弥に回した腕に力が篭もる。
    恐らくは、目が覚めてからずっと不安だったんだろう。それもそうだ、心が十一歳の冬弥にとっては、いきなり成長した体で、しかもわけもわからず大怪我を負っていて、自分は本当は十六歳だと告げられて、果ては知らない人がいきなり現れて仲間だと名乗る……キャパオーバーにならないはずがない。
    それなのに、早く記憶を取り戻したいと言い出したのはきっと焦りがあったからだ。冬弥のことだから、きっと記憶がないらしい自分というのを客観的に自覚していて、そのことで自分を責めていたのだろう。
    それなのに、オレはそのことに気が付けなかった。最近の冬弥は何かあれば話してくれるようになってきていたから、そのつもりでいたんだ。今の冬弥はオレだって知らない五年前の冬弥なのに、とんだ勘違いをしていた。
    優しく背中を摩ってやるとあとはもう、我慢していた分、ダムが決壊したみたいにぽろぽろと雫が溢れていくようだった。

    「本当にごめんなさい、泣くつもりはなくて……」
    「あーもう、袖で目元擦んなよ、赤くなるだろ」
    しばらくして落ち着いたらしい冬弥はオレの腕から離れた。もう大丈夫、と言いながら自分の袖で目元を擦ろうとするのでそれを止めていると、すっと隣から可愛い桜模様のハンカチが差し出される。
    「青柳くんこのハンカチ使って?」
    「ありがとう、ございます……」
    「ううん、どういたしまして」
    冬弥は少し遠慮がちに受け取ったハンカチで押さえるように目元を拭う。ふと時計を見れば、結構いい時間になっていた。
    いい加減帰らないといけない。今の冬弥を置いていくことに抵抗がなかったわけじゃないが、オレ達は持ってきた荷物をカバンにしまって病室を出ることにした。こはねは明日は用事があること、明後日の退院のときに手伝えることがあるなら呼んでほしいことを伝える。オレは明日も来る予定だったから、また明日、と告げて病室の扉をくぐった。
    オレ達が病室を出るタイミングで冬弥の親父がこちらに歩いてくるのが見えた。目が合い、お互い軽く会釈する。そのままオレ達と入れ違いで冬弥の親父さんは病室に入っていった。
    「具合はどうだ」
    「なんとも……いえ、変わり、ありません……その、ごめんなさい、左手、怪我……」
    「……、……構わない」
    少し気になってドアの前で少し耳をそばだてると、そんな会話が聞こえてくる。冬弥の声はオレ達といるときより少し緊張しているみたいだったが、それでも思ったよりも穏やかで、ほっと胸をなでおろした。
    「大丈夫そうだね」
    「うん、私達は帰ろっか」
    それは杏やこはねも同じだったようで、小声でそう言い合うとエレベーターに向かって歩き出した。
    病院の自動ドアを抜けて外に出る。風に当たると少し肌寒さを覚えた。夕焼けが空を染めている。少し病院を振り返って、ふと、今日の冬弥の涙を思い出した。
    「………何とか、してやりてぇけど」
    医者でもなんでもない自分には、何ができるんだろう。

    ***

    退院後も、中身が十一歳の冬弥を学校に通わせるわけにはいかないとのことで、学校に事情を説明してしばらく休むことになったらしい。冬弥のクラス担任からプリント類なんかを受け取って、そのまま冬弥の家へと向かう。インターホンを鳴らせば、病室にもいた、冬弥の母親の声がした。
    「すんません、これ、学校のプリントです」
    そう言って差し出すと、冬弥の母親がそのプリントを受け取る。
    「それでその、冬弥は……」
    「……東雲、さん?」
    冬弥の様子を聞こうとしたところで、玄関に冬弥本人がやってきた。未だにオレのことを『東雲さん』と他人行儀な呼び方をしてくることに、ツキ、と小さく胸が痛むことには気が付かないふりをする。そうこうしているうちに、冬弥の母親はプリント類を持ってリビングの方にいってしまい、オレ達はふたりになった。
    「よ、冬弥。今プリント持ってきたとこなんだけど、調子はどうだ?」
    「そう、だったんですか。……記憶……は、……」
    「別に戻ってなかったからって怒ったりしねぇよ。オレは具合の方を聞いてんだ」
    「……はい、さすがにわかってきました。怪我の方は大丈夫です、丁寧に処置をしてもらったので」
    あ、少し笑ってくれたかもしれない。今の冬弥よりもさらに輪をかけて表情筋の死んでいる冬弥も、接していくうちに少しずつ柔らかい表情を見せてくれるようになっていた。それは、すごく嬉しいことで。
    「……あの、東雲さん」
    そんなことを思っていると、改まったような声色で冬弥がオレを呼んだ。
    「ん? そんな改まってどうした?」
    「今日は普段僕が行っていたところとか、連れて行ってくれませんか」

    ***

    WEEKEND GARAGEに冬弥を連れてくなら、杏から謙さんに説明しておいてもらわないといけないだろうし、これと言って関係のあるイベントをやっていないライブハウスに連れていくのもどうかと思い(頼めば準備中でも中には入れそうなツテはあるにはあるけれど、迷惑だろうし)、今日はとりあえず、学校や普段練習に使う公園あたりを案内してみることにした。
    つまりは学校へとんぼ返りだ。
    「あれ、彰人忘れ物? ……って冬弥もいる、どうしたの?」
    学校へ着くなり、今から帰ろうとしている杏とすれ違った。杏は冬弥が学校を休んでいることを知っているからか、あるいは放課後にも関わらず校外から校内に向かうオレに疑問を持ったのか、あるいは両方か、目をぱちぱちと瞬かせて不思議そうにする。
    「冬弥が自分に関係ある場所に行きたいって」
    「なるほど、そういうこと……私、いる?」
    「……あー……いや、お前も今日は手伝いとかあんだろ」
    じゃあ今日はうちには寄らない? 寄らない、明日か明後日には連れていくから謙さんに冬弥のこと伝えといてくれ、と会話を交わして杏とは別れ、冬弥の下駄箱へ向かう。
    「……青柳、ここが?」
    「そ、ここがお前の下駄箱」
    「自分のだと言うのはわかるのに、覚えがないのは、少し変な感じです……」
    冬弥は自分の苗字が書かれている下駄箱をまじまじと見つめる。違和感があるのはまあ、そうだろう。
    引っ掛かりを覚えつつも、冬弥は大人しく上履きに履き替えてこちらを見てきた。
    「東雲さんは……別クラスなんですね」
    「そうだな。オレのはこの一列向こうだ」
    「白石さんは僕と東雲さんがいつも一緒にいたって言ってたから、同じだと思ってました」
    「……言われるまで、疑問に思ったこともなかったな」
    組んでからというもの、あの時を除けば隣にいるのが当たり前だったし。一緒にいられることは、決して当たり前のことではなくて、一緒にいるための努力を惜しんではいけないとは十分わかっているけれど。


    学校を一通り見て回ったあとは、いつも練習に使っている公園へ向かうことにした。
    公園に近づくと歌声が聞こえてくる。よく知っているその歌声は、こはねのものだった。
    「よう、こっちで自主練してたんだな」
    「あ、東雲くん、青柳くん、こんにちは。今日はお店混んじゃいそうだったから、落ち着いたら杏ちゃんと合流する予定なんだ。えっと、東雲くんと青柳くんは?」
    普段なら当然練習、と言いたいところだ。そもそも、わざわざこはねもそんなことを聞いたりはしない。けれど、今は冬弥に記憶がない。その冬弥を引き連れていたから、練習だとは思わなかったのだろう。オレは先程杏にしたものと同じような説明を繰り返した。
    「そうなんだ。私にも手伝えること、あるかな」
    こはねの言葉に反応したのは冬弥だった。オレの服の裾を軽く引いて、しばし視線をさまよわせる。どうしたのかと問えば、「あの、」とおずおずと言葉を切り出した。
    「迷惑じゃなければ、ふたりの歌を聞きたいです」
    「え? 私達の?」
    「はい……練習風景は映像で見たけれど、実際の音とはまた違うし、病院にいる間は聞けなかったので」
    冬弥は、駄目でしょうか、と続けながら、まだ何も返事をしていないというのにしょもりと勝手に落ち込んでいく。どうしてこいつは、と思いつつも、落ち込んで俯いてしまうその頭をぽんぽんと撫でてやり、冬弥の顔を上げさせた。
    「駄目じゃねーよ。あんま完成してねえものは見せびらかすもんでもねえと思っただけだ……でも、まあお前だしな。こはね、さっき練習してたやつ、もう一度頭からいけるよな?」
    「うん、もちろん! それじゃあカウントは東雲くんにお願いするね」
    「おう。冬弥はそこのベンチ座ってろ、病み上がりに歩き通しで疲れてるだろ。――じゃあ始めるぞ。1、2、3、4……」
    冬弥がいる時はいつも冬弥がとっているカウントを、オレがとる。それを冬弥は興味深そうに見ている。それは少し不思議な感覚で。
    目の前にいるたったひとりの観客を楽しませられているか、こはねと目配せしながら歌い上げていく。そうして、一曲を一通り歌い終えた。
    「ふぅ……東雲くんごめんね、Bメロちょっと走ったところ合わせてくれて」
    「オレもサビの高音がまだ甘かった。やっぱこの曲はまだ完成度低いな……」
    すっかりいつもの練習のつもりでそんな話をしていると、パチパチと拍手が小さな公園に響いた。見れば、冬弥はいつになくきらきらと瞳を輝かせている。楽しんでもらえたことは明らかで、こはねと二人、とりあえずはよかったと頷きあった。
    「悪ぃ、いつもの調子で話しちまって。どうだった?」
    「えっと、上手く言えないんですが、良かったと思います。力強くて、自由で、伸びやかで、惹き込まれるような……」
    「えへへ、そう言って貰えると嬉しいな」
    もともと、冬弥は他人の歌をそう悪く言ったりはしない。根本的に優しすぎるところがある冬弥は、なにせ、自分が体調を悪くするようなひどい演奏に対してオレが「下手くそな」と要約したのにだって、やんわりと否定しようとしていたくらいなのだから。
    けれど、そんな冬弥の耳がとんでもなく優れていることも(そもそも、ひどい演奏で不調になるなんて経験はオレにはないし)、しようと思えばかなり細やかな指摘をできることも、オレ達はよく知っている。だから、冬弥の真っ直ぐで嘘のない褒め言葉はどうしたって嬉しいのだ。
    「……いいな」
    「ん? 冬弥、どうした?」
    羨望か、あるいは諦観か、そんな色を含んだ声。ぽつりと、そう呟いた声をオレは聞き逃さなかった。
    「自由な音楽は、いいなと、そう思ったんです……ごめんなさい、今の僕は皆と歌っているんですよね、なのにこんな風に思うのは、変なのに」
    「……冬弥、」
    オレには五年前の冬弥をどうすることもできない。だから、どの言葉も気休めにしかならないような気がして、言葉を続けられなかった。けれど。
    「できるよ、青柳くん」
    「……え?」
    オレが躊躇った言葉を、こはねは躊躇わなかった。
    「確かに私達は直接五年前の青柳くんに会いに行くことはできない。でも今、私の目の前にいる青柳くんが、私達と歌うことはできる。だから、青柳くんもできるよ」
    それも、そうだ。今目の前にいるのは見た目は今の、中身は五年前の冬弥だからと言い聞かせすぎて、根本を見失っていた。悩んでいるのは五年前の精神を持った、けれど今目の前にいる冬弥だ。
    「えっと、あの、ご、ごめんね……っ! よく知りもしないのに、偉そうなこと言っちゃって」
    「いや、むしろ……」
    むしろその逆だ。こはねの力強い言葉で目が覚めたようだった。見えて聞こえて触れる、それなら一緒に歌うことだってできる。
    「なあ、冬弥、オレと……いや、オレ達と歌ってみねぇか?」

    ***

    三人で歌った翌日には、今度は杏から明日WEEKEND GARAGEに来ないかと誘われた。正確には、冬弥を連れてこないかという提案だ。隣にいる冬弥に問題ないか確認をとってすぐにOKし、謙さんについての話をする。なんだか、二年前、初めてWEEKEND GARAGEに案内した時のことを思い出した。
    ビビッドストリートで歌っているというのに、冬弥は謙さんのことも、RAD WEEKENDのこともあまりよく知らないようだった。元よりいかにもワケありですといった様子だったけれど、まさかそこまでとは思わなくて驚いたんだったか。

    「この人が謙さん。昨日も話したけど、RAD WEEKENDをやった人で、杏の親父さんだ」
    「はは、なんだか二年前みたいだな。杏から話は聞いてる、傷はもう障りないのか?」
    「はい。一応折れてるので大袈裟な処置になってますが、痛みは本当にそんなにないんです」
    挨拶を交わしたあと、謙さんからの言葉に固定されている左腕をさして、冬弥は存外しっかりとした態度で答える。
    「骨が折れてるってだけで重傷なんだ、ちゃんと治すには大袈裟な処置なんかじゃないさ」
    十一歳の精神状態とはいえ、体が1十六歳だからか、昨日試したところ冬弥はブラックコーヒーを何の抵抗もなく飲んでいた。それどころか、美味しいと感想が返ってきたくらいだ。とはいえ、レンもブラックで飲めるようになったと豪語していたし、そんなものなのだろうか。ひょっとして、オレが甘党なだけ? そんなふうに、ここ数日訪れていない向こう側について考えながら、いつものメニューを注文する。

    謙さんと入れ違いにカウンターにやってきたのは杏だった。聞けばこはねは委員会で遅くなるとのことで、一昨日とは対照的だな、なんてこと考える。杏はといえば、冬弥は一昨日ぶり、とカラッとした表情で冬弥に声をかけたかと思えば、コトン、とクッキーの盛られた小皿を冬弥の前に置く。
    「これは……?」
    「私からのサービス! 前に冬弥が昔からクッキー好きだったって言ってたから作ってみたんだ、遠慮せず食べて食べて!」
    ココアとプレーンがチェック模様も象った四角い形や、渦を描いている丸い形のクッキー、マーブル模様が入っているものまであり、手が込んでいるのだろうことは容易に想像ができた。
    冬弥は促されるまま、そのうちのひとつを手に取る。口にしてみれば、サクッとした軽い食感と共に、ふわりとバターの香りが口いっぱいに広がった。
    「どう?」
    「……美味しいです、とても」
    そう言う冬弥の視線はすっかりクッキーに釘付けだ。余程美味しかったのだろう。そんな冬弥の素直な反応に、杏も「そんなに喜んでくれるなら、作った甲斐があったよ」と嬉しそうに返す。もうひとつとクッキーに手を伸ばす冬弥に、沢山作ったから、遠慮せずに食べてね、と言い残して、今度は彰人の前にもクッキーの乗った小皿を置いた。
    「それで、こっちは余った卵白で作ったメレンゲクッキー。冬弥にはちょっと甘すぎる気がするから彰人が処理しといてよ」
    「オレとあいつで扱い違くねぇか? ……まあ、貰えるんなら貰っとくけど」
    彰人の前に置かれたクッキーは、冬弥の方にあるアイスボックスクッキーとは別で、金口から絞り出したような形状をしている。ひとつひとつの大きさもやや小さめだ。口の中に放り込めば、それはともすれば綿菓子のような甘さを伴って、しゅわしゅわと溶けていった。
    「……メレンゲ?」
    「あれ、冬弥知らない? 卵白を泡立てて、えっと、こう、白いふわふわになるやつ」
    「白いふわふわ……」
    どうやら、クッキーという固いものから、メレンゲの柔らかさを想像できないらしい。不思議そうにメレンゲクッキーを見つめている。
    「言うより食べた方が早いだろ、こっち冬弥にやってもいいよな?」
    「もちろん。元々、作ったはいいけど冬弥には甘すぎるかなあと思って彰人にあげただけだしね」
    「ってわけだ、食べてみろよ」
    そう言ってひとつ差し出す。口の中でしゅわ、と溶ける感覚に驚いたのか、ぱっと瞳を見開いて、驚いたような表情を見せた。
    「……クッキー、なのにとけた……」
    「ふふ、面白いでしょ」
    「……?」
    なおも不思議そうに冬弥は首を傾げる。そういうお菓子なんだと言ってしまえばそれまでのそれに、冬弥はやけに興味を持っているようだった。もうひとつ貰ってもいいですか、と尋ねてくるので、いくらでもと返す。もうひとつ食べて、もう一度首を傾げた。
    「……前にも、こんな感じのところで、こういうのを食べたような」
    「こんな感じって、WEEKEND GARAGE?」
    「もっと、賑やかだったような気がします。そこで、こんな感じの物を……ううん、違う、もっと、白石さんが言っていたようなものを……」
    食べたような気がする。そう言って、冬弥は考え込む。なにかの手がかりかもしれない、と杏も一緒になって考え出した。
    けれど、言われてみればそうだ。幼い頃の冬弥に、このようなライブスペースのあるカフェ&バーに行く機会など、限りなくないに等しいだろう。それは予想でしかないものの、確信が持てる事だった。つまり、このような場所の記憶というのは、冬弥が失った五年間の記憶ということになる。
    「メレンゲをそのまま食べることはないし、似た形状だと……あ、生クリームとか?」
    「生クリームとクッキーじゃ味が全然違うだろ。それに、フワフワでもねえし」
    言いながら、記憶を辿る。冬弥はあまり甘いものが好きではない。かといって極端に苦手というわけでもないから、生クリームの乗ったお菓子の類が全て食べられないというわけでもない。
    「味かあ……でもメレンゲクッキーの原材料なんて、卵白と砂糖くらい……」
    自分がクッキーを焼いた時のことを思い出しながら杏が呟く。その言葉を聞きながらオレもひとつ、思い出した。杏も同様に思い出したようで、あ、と小さく声を上げる。
    白くてふわふわで、砂糖の味がして、口の中でしゅわしゅわと溶けていく、ここよりも賑やかなカフェで食べたもの――。
    「「わたあめだ!」」
    お互いの声がぴったりと重なった。
    「そうだ、わたあめ! 文化祭の時に作ったのを向こうでもって、わたあめ機借りてきて作ったよね」
    「言われてみれば、わたあめも砂糖だし、似た味がするかもしれねぇな」
    見た目も原理も全く異なるから、すぐには結びつかなかったが、言われてみれば確かに似ているように感じる。わたあめは当然、メレンゲクッキーとは異なりサクサクとした軽い食感はないけれど。
    「冬弥、わたあめ食べたことってあるか?」
    「わたあめ……お祭りとかにある?」
    冬弥はオレの問にしばらく考え込んでから、静かに首を横に振る。どうやら、聞き覚えはあっても食べた覚えはないようだった。やはり、そう簡単にはいかないらしい。
    そんな風に思っていたのが伝わったからか、冬弥は不安そうな視線をこちらに向けてくる。オレ達は、文化祭のこと、それから少しだけ、名前も場所についても、その全部を伏せつつ、こことは違うけれど少し似ているカフェ、crase cafeのことを話すことにした。
    「じゃあ、今の僕はそこによく出入りしていたんですね」
    「ああ、今度連れて行ってやるよ……まあ、なんとかなるだろ」
    あまりに非現実的なあの場所を説明する方法が思いつかないけれど、とオレは心の中で呟いた。

    ***

    ぱちりぱちりと二回瞬き。それから、冬弥は頭にはてなマークを浮かべてこちらを見た。
    「……初音ミク?」
    「おう、それは知ってたんだな」
    あれから一週間ほど。
    それからも、公園で歌ったり、もう一度WEEKEND GARAGEに行って話をしてみたり。色々としてみたけれど、冬弥の記憶は戻ってこなかった。
    そういうわけで、今度は少しファンタジーめいているから混乱させるかも、と避けてきたセカイへ向かうことにした。Ready Steadyを再生するときらきらとした光が舞って、目の前の景色が一変する。どこかビビッドストリートを思わせる路地の中、目の前にミクが現れた。
    それから、やあ、しばらくぶり、と挨拶を交わすミクに冬弥が返した反応がこうだった。
    カフェへと向かう道中で、ミクには冬弥の現状についてを伝えつつ、冬弥にはセカイについて、いつだったかしたのと同じようなことを説明する。冬弥はといえば、いつだったかと同じようにあっさりと納得していた。オレは未だに飲み込みきれてないってのに、これは何の差なのだろうか。納得がいかない。
    そうしているとあっという間にカフェに着いてしまった。
    「難しい話だし、こっちもフォローはするよ」
    「ああ、助かる」
    そんな心強いミクの言葉で、オレはOPENと書かれているカフェの扉を開けたのだった。

    「えっ、じゃあ今の冬弥はオレ達のこと覚えてないの?!」
    カフェに移動すると、メイコさんにリンとレン、カイトさんまでそろい踏みだった。リンとレンはカイトに遊んでもらっていたらしいが、オレ達を見るなり、ぱあっと顔色を変えて駆け寄ってくる。ミクいわく、最近来てなかったから心配してたみたい、との事で。
    道中で説明したミク以外の四人にも、冬弥の状態を説明すると、各々深刻そうな顔をしたり、心配そうに見つめてきたりした。
    「そういうこと。だからあんま負担になるようなことさせんなよ」
    「わかってるって。って、冬弥くん怪我もしてる! 大丈夫? すっごく痛そう……」
    「え、あ……えっと、あまり痛くはない、です」
    「腕をこうやって固定して、骨をくっつけてるんだよね、だから触ったらダメだって」
    「へえ、レン詳しいじゃん!」
    リンが心配そうに訊ねるのを、冬弥は慣れない様子で答えている。とはいえ、適応力の高い冬弥のことだから、あまり心配はいらないだろう。その輪の中にレンも混じって、三人でそれなりにうまくやっているようだった。
    ひとまず連れてきたこと自体が間違いにはならなかったことに、ほっと一息つく。カタンと小さく音がして、メイコさんが淹れてくれたコーヒーが置かれた。
    「五年分の記憶がないなんて大変ね……今は学校とかはお休みしているの?」
    「そりゃあ、まあ。プリントとかはこいつの母親に預けてます」
    「一時的といっても、もう二週間も経つんだよね。精神的な理由、だっけ……うーん、そのひき逃げ犯がその五年間に関わっているのかもしれないね」
    「はい……オレも、そう思ってて。でも、人通りの少ない通りでのことだったので、事故の目撃者がいないらしいんです。冬弥が倒れているのをたまたま通行人が見つけたみたいで」
    「記憶もそうだけれど、犯人も早く捕まるといいわね」
    そうですね、と相槌をうちつつ、冬弥達の方を見遣る。冬弥にリンとレンが懐いているのはいつものことだった。目に見えている景色はいつも通りなのに、冬弥の受け答えだけがちぐはぐにずれている。それでも、リンもレンも気味悪がることなどはせず、普段通りに接してくれている。それがとてもありがたかった。
    「じゃあ冬弥、今は歌ってないの?」
    「ん? いや、記憶のこともあるけど何より病み上がりだからな、練習自体は前みたいにはしてねーけど、全然歌ってないわけじゃねぇぞ」
    「ならさ、オレとも歌ってくれる?!」
    「あっ、レンずるい! リンも冬弥くんと歌いたいのに!」
    ミクの問いに答えると、すかさずリンとレンがそんなことを言い出す。カイトさんが「ほら、無理をさせるようなこと言っちゃだめだろう」と軽く窘めるも、冬弥がその言葉を遮るように、「僕でよければ」と答えた。
    そのまま二人に引っ張られながらカフェ内にあるライブスペースに向かう。どの曲を知ってるのか、どれが歌えそうか、なんて話をしながら曲を選んでいる姿はとても楽しそうで。
    「やっぱり好きなのね、音楽」
    メイコさんがそのように言葉を漏らした。
    言われてみればそうだ。話を聞く限り冬弥にとって、十一歳くらいの頃といえば音楽が苦痛だった頃のはずだ。実際、初めて病院に訪れた時はその暗い表情に杏やこはねだけでなく、オレすらも驚いた。それでも、今はあんなに楽しそうにしている。それは、もしかしたらこの一週間と少しの時間でそう思えるようになったのかもしれないけれど。
    そうしている間にも、今度はリンとレンの間で歌いたいものがバラバラになってしまったらしく、仲良さげに言い争いながら、どれにするか冬弥に訊ねている。冬弥のことだから、このままだと全部採用しかねない。それは冬弥の体調を考えるとまだ避けた方がよさそうだ。
    「おい、冬弥に無理させんなってさっき言っただろ」
    「わかってるって。冬弥がいっぱい歌えない分、彰人も歌うから大丈夫! そしたらリンの選んだやつもオレが選んだやつも歌えるし!」
    「勝手に決めんな! ……ったく。じゃあ、メイコさん、向こう借ります」
    「ええ、好きに使ってちょうだい」
    早く早く、と急かすレンにちょっと待ってろ、と言いながら、オレは飲み終えたコーヒーカップを置いて三人のいるライブスペースへと向かうのだった。

    ***

    「冬弥、体調は悪くないか?」
    「いえ、どちらかというと気持ちいいくらいです」
    あれから結局、リンとレンだけでなく、カイトさんが「僕も参加したいな」と言いだし、面白がったミクまでもライブスペースに来て、結構長い時間歌って過ごしてしまった。オレ自身も楽しくなってしまい、冬弥も平気そうだから、と止めることはしなかった。メイコさんが「一度休憩にしましょう」と言ってくれなければ、まだ歌い足りないと続けていたかもしれない。
    それから時計を確認して、冬弥を家に帰す時間が近いことに焦って、慌ててセカイから戻ってきた。幸い、冬弥の家はすぐ近くだから問題はなさそうだ。
    「歌うのは、楽しいから」
    「そっか」
    「はい。……ありがとうございました、色々と」
    「なんだよ、改まって」
    楽しんでいるなら何よりだ。冬弥のやりたいことをやってほしい、そう思っているオレからすれば、冬弥のその言葉はオレ自身を嬉しくさせるものだった。
    「……あの、僕、今はもうピアノもヴァイオリンもしてないんですよね」
    「ん? ああ、そうだな」
    冬弥がピアノやヴァイオリンを弾いているところを、オレは見たことがない。冬弥と出会った頃には、もう冬弥はどちらもやめていたから。思い出すことで苦しい思いをするようなら、と冬弥自身が話し出さない限りは、なるべく話題にも出さないようにしていた。
    「どっちも辞めちゃったら、僕には何が残るんだろうって、考えていたんです。今の僕には、何が残っているんだろう、どうして東雲さんや白石さんや小豆沢さんは、僕を必要だと言ってくれているんだろうって」
    ちかちかと点滅を繰り返していた信号が赤に変わる。オレ達は横断歩道の前で立ち止まった。
    冬弥はそのまま話を続ける。
    「だって、僕にはそれしかない。それなのにやめてしまったら、僕に残るものなんて何もない。それなら、何もない僕に、何を求めているんだろうって、そう考えていたんです」
    日も落ち始めて、まだ明るさの残る橙の空の下、パッパッと一斉に街灯がつき始める。オレは黙って冬弥が続ける話に耳を傾けた。
    「でも、違った。僕にはずっと僕の音楽があって、それを分かち合える仲間がいるんですね。僕は何も捨てずにそんな宝物を手に入れた――だから僕は、もう十分に幸せ者なんだと、わかったんです」
    信号が青に変わる。一斉に人々が歩き出して、オレ達もその波に飲まれていく、はずだった。
    歩き出そうとする腕引いて、オレは冬弥を引き止めた。人々の中で立ち止まっている異質なかたまりがふたつ、流れに取り残されていく。
    「……東雲さん?」
    腕を引かれて立ち止まった冬弥は、不思議そうにこちらを見てくる。それもそのはずだ。自分の行動が不可解であることには自覚があった。だから、何か言わなくては、どうしてこんなことをしたのか言わなくてはいけないと、そう思って。
    「オレは絶対にお前を諦めねえからな」
    そんな言葉が、するりと口から出てきた。
    「オレはお前を諦めたりなんかしない。どこにだって付き合うし、できることなら何だってしてやる。お前の記憶が戻っても戻らなくても、どんなお前だとしても、お前はオレの相棒だし、オレはお前と歌いたいことに変わりはねぇ」
    そう、なんとなく嫌な予感がした。このまま向こう側に渡れば最後、二度と冬弥に会えなくなるような、冬弥がどこかへ行ってしまうような、そんな予感。だから、なんとしてでも引き止めたくて。どこにも行かないでほしくて。
    「だから、お前もお前を諦めんなよ」
    言っていることが支離滅裂だ。自分でもそう思った。ただ、このもやもやを、不安を、伝わるような言葉にできそうにない。
    「あークソ、上手く言えねぇな……って、冬弥?」
    急に暗くなり始めた空に人工的な光が強くなり始める。そんな光を鋭く写しこんだアイスグレーが、大袈裟に揺れた。
    「……っ、なんで、わかったんですか」
    俯いてしまったため、前髪に冬弥の表情が隠れてしまう。けれど、今にも泣き出しそうな声で、嫌でもこいつが今どんな顔をしているのか、簡単に想像できてしまった。
    なんでわかった? 何が? オレはよくわからないでいるのを、冬弥はわかっていないようで。
    「本当は、あと一週間って決めてたんです」
    冬弥はそう続ける。
    一週間前といえば、あの日だ。学校へ連れ出して、公園でこはねと歌ったあの日のこと。オレが、また歌わないかと誘った日のこと。あの日から、一週間経った。
    そういえばあの日、オレが歌わないかと誘うも、冬弥の返事は曖昧だった。あんなに歌いたそうにしていたのに、肯定はしなかった。きっと真面目に馬鹿がつく冬弥のことだから、自分の記憶のことを気にしているのだろうと思っていたのだ。けれど、きっとそういうことだけじゃなかった。約束めいた言葉に肯定できなかったのは、そんな未来を肯定できないからだ。
    状況は全然違うのに、ふと、いつかの光景を思い出した。セカイと初めて関わりを持ったあの時のことを。
    「もしそれで駄目なら、僕はもう、記憶を探すのも、皆と関わるのもやめようと、思ってました」
    「は、なん、で……」
    「元の僕なら同じ目線で夢を語れたのかもしれない。けれど、記憶のない僕は、貰うばかりで皆に何も渡せないから――これ以上、こんな状態の僕ができることはなにもないから」
    リフレインするのはあの日の言葉。
    『俺は……これ以上お前の夢に、何もしてやれない』
    冬弥が、離れていこうとしたあの言葉だった。記憶にもまだ鮮明に残っている、あの日のことば。あの日の冬弥。中途半端なのは自分だと、だから隣にいるべきは自分ではないと、そう言い出した冬弥だった。
    冬弥の言葉は、少し形こそ違うけれどまるであの時の再演のようで、オレは背筋が凍るのを感じた。密かに不安はあった。次に冬弥が離れようとしたら、その時にオレはまた止められるのか、オレにはわからなかったから。だから、オレはいつも冬弥がまた何か悩んでいないか、溜め込んでしまっていないか、不安にさせてはいないかと気にかけるようにしていた。同じ過ちを繰り返さないために。
    「冬弥、お前……まさか、」
    「なのに……っ」
    それだけは聞きたくない、そんな言葉を想像した。けれど、冬弥の言葉は想像とは異なるもので。
    「そんな風に言われたら、諦められなくなる……っ」
    泣きそうな声だった。いや、泣きそう、じゃない。光をいっぱいに取り込んだその瞳に湛えた雫が一筋、もう頬を伝っているのが見えたから。

    どうして冬弥は、こうやって諦めたくない本音をひた隠しにして、諦めようとしてしまうんだろう。音楽が好きでしょうがないくせに、あんなに楽しそうに歌うくせに。ついさっきまで、歌うのは楽しいって言って、あんなに穏やかに笑えてたのに。
    どうして、そんなに大切なものなのに捨てようとしてしまうんだろうか。どうして、捨てることを選ばせることが残酷なことだって、わかってくれないんだろうか。
    「……なんで、そうなるんだよ」
    「え……、」
    「なんで、どんなお前だって、ちゃんと必要なんだって、わかんねえんだよ……っ! 記憶のあるお前じゃなきゃダメとか、そんなはずないだろ。そんなつもりで、オレは……オレ達は、この二週間お前と接してきたわけじゃねぇ!」
    オレだけじゃない。杏だって、こはねだってそうだ。
    杏は昔から好きだったと言っていたからと言ってクッキーを焼いた。昔の冬弥を知らないなりに、昔も今も変わらず好きな部分を探し出してきて、今ここにいる冬弥に喜んで貰えるものを考えてくれたんだろう。
    こはねは、今ここにいる冬弥が歌いたいと思うなら歌えばいいと、今の冬弥が望むなら、手に入れたいと思うものなら、手にしていいんだと言ってくれた。そのための協力は惜しまないとも。それは、決して昔の冬弥だとか自分の知ってる冬弥だとか、そんなことは関係なくて。ただ、今目の前にいる冬弥に向けられている言葉だった。
    なのに、それが伝わっていなかったとでもいうのだろうか。いや、きっと伝わってはいたはずだ。けれど、冬弥にはそれだけでは足りなかったのだ。むしろ、そうやって肯定されていくことで、何も出来ないのに、と余計に自罰的にさせていったのかもしれない。
    「不安なことがあるなら全部言え、否定してやる。逃げたくなるならそれも言え、オレが逃げ場になる。怖くてたまらないんだったら、そうじゃなくなるまで手でも何でも握ってやる。だから、諦めんな、諦めさせようとすんな、捨てさせようとすんな、頼むから……」
    それはもう、ほとんど懇願だった。自分より少しばかり背が高い冬弥の両腕を掴んで縋る。冬弥は明らかに動揺していた。けれど、オレを突き放そうともしなかった。
    「……頼むから、また、離れるとか言わないでくれ」
    また、なんて言ったところで、今の冬弥にはなんのことだかわからない。あの日の記憶は冬弥の中のどこかに、五年分のほかの記憶とともに蓋をして、冬弥自身も知らないところへと沈めてしまったから。けれど、冬弥は聞き返さない。記憶にはなくても、どこかでわかっているのかもしれなかった。
    静かに、静かに、冬弥は口を開く。二週間の間で慣れた、いつもの冬弥の心地いい低音が、その声に不釣り合いな少し幼い発声で空気を震わせた。
    「……きっと、続けるほどに迷惑をかけます」
    「かけろよ、相棒だろ」
    「記憶がないことで、貴方を傷つけます」
    「お前がいなくなるよりは数百倍マシだ」
    「今までの信頼を、僕では作れないかもしれない」
    「心配ねぇよ、オレがお前の分も信じてやる」
    「五年分の遅れは、皆の夢の枷になります」
    「取り戻せるだろ、オレ達なら」
    「記憶だってそのまま戻らないかもしれない」
    「どっちだって冬弥に変わりはねぇよ」
    「どうして、言い切れるんですか……僕はもう、東雲さんの知る青柳冬弥じゃないのに」
    揺れていた。
    冬弥の瞳も、その声も。それからきっと、心だって。
    その不安定な天秤はオレの言葉で傾くことが明らかだった。冬弥はまるで、そうなることを拒絶しようとしているようで、けれど、期待しているようでもあって。
    「もう知りあってるだろ、二週間も前にな」
    オレの言葉で耐えきれなくなった分が溢れていく冬弥の瞳を、誰にもみられないように自分に引き寄せる。冬弥は泣きながら、けれども少しだけ可笑しそうに、小さく笑った。
    「……ずるい」
    そんなふうに言われたら、何も言えなくなってしまう。
    消え入りそうなくらい小さな小さな声でそう言って冬弥はオレの服を弱い力で掴む。くしゃりと丸い頭を撫でてやると、冬弥は僅かに身じろいだ。嫌だったか? と聞いて手を離そうとすれば、冬弥は首を横に振って、自分の頭をオレの肩に預けてくる。
    「東雲さんにこうされるのが、好きだった気がします……もう、ずっと前から」

    サラリーマンの舌打ちと、くすくすとした女性の笑い声がふいに聞こえてきて、そういえば横断歩道を渡ろうとしていたのだったということを思い出した。
    急に今の今まで自分がやってきた言動の数々が気恥ずかしくなって、冬弥の手を引いてもう何度も信号が切り替わっているのだろう横断歩道を渡る。ちらりと見れば、冬弥もどこか居心地が悪そうにしていた。
    「東雲さん」
    「……おう」
    「家に着くまで、話をしてもいいですか」
    商業施設のエリアを抜ければ、いかに繁華街近くの住宅街とはいえ、一般的な住宅街同様、一気に街は静かになる。煌々と照らす街明かりは街灯と家庭から漏れだす光になり、なんだか突然暗くなったように錯覚してしまう。
    そんな中、結局繋いだままの手に少しだけ、力が込められた。冬弥は、少し迷ったように一瞬足を止めようとして、けれど手を繋いでいるオレが歩いているからか、結局また歩き出して、それから口を開く。
    「……本当はずっと怖いんです。確実にある空白が、確かにそこに空白があることはわかるのに、そこになにがあったのかわからないのが、」
    もう冬弥の家が見え始めている。オレか、あるいは冬弥か、どちらが最初かは分からないけれど、まだ家に辿り着いてしまいたくなくて、どちらともなく歩調を緩めた。オレは冬弥の手を引いたまま、黙って冬弥の話の続きを促す。冬弥は、恐る恐る続きを口にした。
    「皆が知ってる僕の知らない僕が怖い。僕じゃない僕が、僕のふりをして生活してるみたいに感じて」
    それは、掛け値なしの冬弥の本音なのだろう。どれだけ気丈に振舞おうが、楽しそうに見えていようが、心の奥底にあるのは不安だった。きっとそれこそが冬弥の本心だ。
    「だから、早く全てを埋めたくて、でも埋めようとするほどに空白が拡がって、どうしようもなくて、その虚ろが僕を見てくるのが、堪らなく怖くて……っ」
    「冬弥……」
    「……逃げようと、したんです……目を逸らしたくて」
    冬弥の抱えているものはどのくらいのものなんだろう。元々あれこれと抱え込んでしまう奴だったから、やっぱり今も、あれこれと抱え込んでは碌でもない方向に考え込んで、頭を悩ませているんだろう。
    けれど、それをくだらないだとか、心配しすぎだとか、そんな風には言えなかった。冬弥がそれだけ真剣に悩んでいるからというのもそうだったし、何より、オレには記憶をなくすというのがどれほどの恐怖なのかわからなかったから。
    だから、自分にできることを伝える。オレがお前の隣にいるだろ、と気づいてほしくて、冬弥の手をしっかりと握りなおした。
    「言ったろ、怖くてたまらないなら、手でも何でも握ってやるって」
    言ってから、自分でも少し格好つけすぎただろうか、と思ってしまった。顔が熱い。冬弥の方を見れない。
    そんなことを考えていれば、斜め後ろから小さく笑いを堪えるような声が漏れてきた。
    「ふ、ふふ……ごめんなさい」
    「お前なあ……オレは真剣に……」
    「はい、東雲さんは優しい人ですから」
    「優しくはねぇだろ……これはあれだ、お前だから……」
    「東雲さんにはそうでも、僕にはそう思えません」
    「なんでだよ、本人が言ってるんだからそうなんだよ」
    冬弥のやつ、毎度毎度こんな風に人のことを過大評価してくるんだよな、だなんて。以前もこんな会話をしたことに懐かしさを覚える。
    冬弥はすっかり気を持ち直したらしく、どこか嬉しそうにも聞こえてくる声色をしていた。

    玄関前で手を離し、冬弥はその扉に手をかける。窓から僅かに明かりが見えるから、きっと家族が家にいるのだろう。
    このまま挨拶を軽く交わして、冬弥を見送ろうかとも思ったけれど、先程の会話を思い出して、一言挨拶に付け足す。
    「何かあったら……いや、何もなくてもいい、思うところがあるんなら、あれこれ考え出す前に電話しろよ、必ず出るから」
    言いたいことを言い終えて、オレ駅の方へ戻ろうと冬弥と冬弥の家に背を向ける。冬弥にノーと言われるかもしれないから、返事は聞かない。有無を言わせたくなかった。
    けれど、ガチャンと開けかけた扉が閉じる音がして。
    「あの……っ!」
    冬弥のいつも話をするより少し大きな声に足を止めた。振り返ると、冬弥は手をかけていた玄関からは手を離し、歩き出したオレの方に向き直っている。
    「僕も、もう少し頑張ってみます! 東雲さんの隣に、相応しい自分になれるように……!」
    それじゃあ、おやすみなさい。
    そう言ってぺこりと頭を下げた冬弥が家に入っていく。オレは冬弥が玄関の扉を締め終わるのを確認してから、来た道を戻るべく踵を返した。
    「オレの隣に相応しい自分になれるように、か」
    以前もそのようなことを言っていたな、と思い出す。とっくに、オレの隣はお前だって決まっていると言うのに、何を言っているんだか。
    冬弥は、オレの方がよほど必死だったことなんて知らないんだろう。記憶のない冬弥なら、尚のこと。そのことを冬弥に教える気はないし、むしろ知られたくもないから、それでいいのだけれども。
    「ははっ……本当、くそ真面目馬鹿」
    思わず笑みが溢れる。少し自惚れてしまいたくなるくらいは、まあいいだろう。

    ***

    あれからというもの、急いで冬弥に縁のある場所を案内することはやめて、半ばいつも通り、新しいパンケーキの店だとか、参加を見送ったイベントだとか、個人的に気になっていた服屋だとか、冬弥がCDを欲しがっていればCDショップだとか、そういった所へ行くようにした。なにせ記憶がないので、冬弥との歌の練習は元通りとはいかないが、練習も少しずつ再開して、歌うことも増えていった。中身が何歳だろうが抜群なセンスは健在で、今の状態の冬弥でも、冬弥さえよければイベントに参加させても問題ないかもしれないくらいだ。
    そんな冬弥だが、勉強ならば事情を伝えた上で家庭教師をつけることもできると言った父に断りを入れて、学校で授業を受けたいと申し出たそうだ。いわく「今までより、理解に時間がかかるようになっただけ」とのこと。適切な学年の勉強ですら危ういオレには、とてもじゃないが言えないセリフだ。
    とはいえ、オレや杏、あるいは学校にあまり来ない暁山ならばともかく、あの冬弥が連日補習を受けているのは少し不思議な光景だった。五年分の内容をなんとか追いつこうとしている冬弥は、やっぱり真面目だと思うし、諦めが悪いとも思うし、何より強いと思う。
    最近少しずつ話すようになったというクラスメイトにも事情を話したところ(これにはオレも協力した)、なんだか妙に可愛がられているようだった。
    というのも。
    「前、青柳に数学の小テストについて聞いたら、すげえ丁寧に教えてくれたし、だからこんなのお返しみたいなもんだよ」
    「冬弥くん、前具合が悪い時に日直の仕事代わってくれたから、私も恩返しじゃないけど、力になりたくて」
    などなど、そんな言葉を冬弥のクラスメイトからいくつも聞いた。つまりは、冬弥は自分の人望に救われているというわけだ。だから決して悪いことではないのだけれど、クラスメイトに囲まれている冬弥を見ると、複雑な気持ちになってしまうのが正直なところだった。さすがにあまりにも心が狭いので何か言うことはしなかったけれど。

    そんな毎日にも慣れてきた帰り道。転機の日は突然に訪れた。
    シブヤの駅前、巨大スクリーンには有名アーティストの広告が映っている。クラシック音楽を取り入れたとかなんとか言うそのアーティストの新曲についての広告だ。
    ガヤガヤとした雑踏の中で、わざわざ真剣にスクリーンを見つめる人など誰一人としていない。けれども、その光は日の落ちたこの街では、その存在感を交差点を渡る全ての人に見せつける力があって。
    「……ぁ、」
    「ん、どうした?」
    ぱちぱちと瞬き。ほんの少し前、オレが冬弥を引き止めた交差点で、冬弥は呆然と立ち尽くした。見れば、冬弥は例の巨大スクリーンに目を奪われている。
    ひょっとして、取り入れたとかいうクラシック音楽が何かのトリガーだったりするのだろうか。冬弥にとってのクラシック音楽は、オレが簡単に立ち入っていいようなものではないほど、複雑なものがあるのだろうから。
    そう思いつつ呼びかけてみると、冬弥はオレの方を見て、あまり表情を表に出さない冬弥にしては珍しいくらいに、これでもかと言うほど目を見開いた。
    「あ、きと……?」
    「え……?」
    それは掻き消えそうなほど小さな声だった。
    けれど、たしかに今。
    今、こいつはオレの名前を確かに呼んだ? それも、『東雲さん』という呼び方ではなく、『彰人』と。
    ということは、つまり……。
    「お前、記憶……っ」
    「……ああ、全部、思い出せたみたいだ」
    すぐにわかる。そのくらい一緒にいた。その口調は、表情は、全部全部、オレのよく知る冬弥のもので。
    堪らなくなったオレは、ここが往来のど真ん中だってことも、この前のことも、全部忘れて思い切り冬弥を抱きしめた。
    「ったく、心配、かけさせやがって……!」
    「すまない……みんなには本当に迷惑をかけた」
    「オレ達のこと全部忘れやがって。何が司センパイの友達ですか、だよ。あの人のことは覚えてるとかずりぃだろ」
    「本当にすまない……でも、司先輩は昔からよくしてもらっていたから昔の俺が覚えているのは自然……」
    「そうだけどそうじゃねえよ」
    ああこれだ、と思う。あの冬弥だ。
    離れていかないようにぎゅうときつく、抱きしめた腕に力を込める。冬弥が苦しいとかなんとか言ったような気がするが、今は無視だ。少しは人の気も知ってほしい。
    それから、何よりも大事なことを冬弥に言おうと口を開く。少しだけ、泣きたくなったのを必死で堪えて。
    「……おかえり、冬弥」
    「うん、ただいま、彰人」

    ***

    「それにしてもびっくりしたよね、ひき逃げ犯がまさかあの有名アーティストだったなんて」
    「有名だからこそ、大事になるのを恐れてしまったんだろう。それに、父とも関わりがあったし、見知った人物で気が動転していたのかもしれない」
    「有名人の息子、しかも知り合いをひいちゃって焦ったってこと?」
    冬弥のひき逃げ事件は、冬弥の名前は一切でてこないものの、昨日だか一昨日だかのニュースになっていた。
    犯人は冬弥の記憶が戻ったあの日、スクリーンに映し出されていたアーティストだった。あの日たまたま映し出された広告が、記憶を思い出すトリガーになったというわけだ。
    冬弥いわく、その人は冬弥の父親の知り合いなのだという。ここ三、四年の間何度か家に出入りしている人物で、冬弥自身も何度か話をしたことがあったそうだ。クラシック音楽を取り入れただとかいう新曲には冬弥の父親が関わっていたらしい(そこはニュースでは伏せられていたので、どうやらアドバイス程度の関わりだったのだろう)。
    冬弥は事故時に犯人の顔もしっかり見ていて、車のナンバーも覚えていた。ゆえに、記憶を全部飛ばす羽目になったとも言えるが。記憶を取り戻してから犯人の逮捕までは本当に秒読みだったそうだ。
    「親切で、いい人だったんだが……」
    「まあ酒飲んで人が変わるみたいなのもたまにいるっていうからな」
    「冬弥のいい人認定が甘すぎる可能性もあるよ」
    「言えてる」
    「もう、杏ちゃんも東雲くんも、その辺にしておこうよ……」
    ニュースによると飲酒運転をしていてスピード違反、ゼロ対百で犯人が悪い事故だったということになる。いい人だと思っていたらそんなことになったわけだから、冬弥もそれなり以上にショックを受けたのだろう。
    冬弥本人はといえば、まだ左腕の方は完全には治ってはいないものの、あとはすっかりいつも通りの冬弥に戻っていた。

    「それにしても、昔の冬弥ってあんな感じだったんだね」
    「昔の俺?」
    「うん、喋り方とか、全然今と違ったよね」
    「そうそう、すっかり彰人に染まってるんだなあって」
    杏がまたしても聞き捨てならないことを言い出す。
    「は? オレと初めて会った時には冬弥はもうこんな感じだったぞ。それどころか、もっとドライな奴だと思ってたくらいだし」
    「人が掃けた頃合いを見計らって、突然馴れ馴れしく話しかけられたら誰だって警戒するだろう」
    「あはは、彰人の猫被りが怪しまれてるだけじゃん」
    「うっせ」
    そこまでキャラを作って話しかけた覚えはなかったが、当時の冬弥にはそう見えていたらしい。手負いの猫のように警戒心が強そうだとは思っていたけれど、単純に自分の言動のせいだったとは。
    「私は東雲くんを最初に見た時は、親切な人だなあって思ったかなあ……あ、今の素の東雲くんも優しいなって思うけどね」
    そんなことを考えているオレを他所に、こはねがまた話を斜め上に飛ばしてくる。素直な人間って皆こうなのだろうか、と冬弥をみれば。
    「そうだろうか。俺には、素の彰人の方が……」
    「その話もうやめねぇ?」
    オレが話を強制終了させると、冬弥はしゅんと落ち込んだ。なんだその妙に残念そうな顔。それとこはねと杏はその私達はわかってるよ、みたいな顔をやめろ。冬弥、そこで花飛ばすな。
    いたたまれなくなったオレは誤魔化すようにペットボトルに残っていたミネラルウォーターを飲み干した。それすらにやにやと見てきた杏には、今度野菜サラダのプチトマトでもプレゼントしてやろうと心に決めておく。
    「じゃあもう一度さっきの歌おっか」
    「話し合った通りにやり直すぞ」
    「うん、特にサビ前に注意、だね!」
    「……じゃあ、相棒、カウントよろしく」
    「ああ、わかった」
    心地いい低音がカウントをとる。4人の歌声がいつもの場所で響きだした。
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