Mirror 日差しに春の気配が漂い始めた三月の初め、それでも日が落ちると冬のように冷え込んだ。就寝準備を整えて横たわった子供部屋のベッドに、もう一つ、同じ体温が我が物顔で潜り込んでくる。
「自分のベッドで読みなよ」
うつ伏せで半身を起こし持ち込んだ本を開いた兄に、狭い、と口先だけの文句を言ってみる。本当は布団の中で触れ合う腕や足の先から柔らかな熱が移り合う感触は、決して嫌ではなかったのだけれど。
「僕の布団冷たいんだもん」
僕をちらりと横目で流し見てくすりと笑い、同じように口先だけの言い訳を返す兄には、僕が嫌がっていないことなどお見通しだろう。
当たり前のように定位置に収まり、本の続きを読み始めた兄にはもはや何を言っても無駄だ。仰向けに転がったまま、触れ合う体温をこっそり堪能しつつ、紙面を追う兄の横顔を眺める。
僕に焦点が合っていない時の兄の目が好きだった。
何を読んでいるのだろう。左から右へと流れるように動く眼球、夜更けにもかかわらずすっきりと冴えて聡明さの滲む目元、時折思い出したように瞬く長い睫毛の影。
ふふ、とこちらを見ないままにまた一つ笑った兄は、細く長い指先でぱらりとページをめくりながら、もう眠いの、と問いかけてくる。紙面の文字をその青の瞳で追いながら、おざなりな会話を繋ぐ兄の声はとろとろと甘い。
「眠い」
欠片も訪れてなどいない眠気を装うことすらせず兄の問いを肯定してみせれば、ちらりと視線を上げた兄は僕と目が合うなり声を立てて吹き出した。
「全然眠そうに見えない、その目」
こちらを覗き込むようにくすくすと笑い続ける兄は、布団の中、触れ合っていた足の甲を擽るように擦り合わせてくる。
「いいから本読めば」
「ここで読むなって言ったり読めって言ったり」
肩を竦めるようにしてささやかな嘆きを零す兄の唇は、甘く綻んだまま。ぱたんと本を閉じてしまった兄は、雑にそれを枕元に押しやり、僕と向き合う形で横たわると頭が隠れるほどまで布団を引き上げた。どうやら今夜はこのまま眠るつもりらしい。
「寝るなら明かり消して」
僕のささやかな注文は簡単に脇に置かれ、ランプのやわらかな光を瞳に宿した兄は、僕はね、と秘密を打ち明けるかのようにひそめた声で囁く。
「僕を見てる時のお前の目が好き」
読書をする兄の横顔を穴が空くほど見ながらぼんやりと考えていたことは、兄には見抜かれていたようだ。兄は額をこつんと合わせ、鼻先が触れる距離で、こうするとね、と嬉しそうに笑う。
「お前の目の中に僕だけが見えるんだ」
僕の瞳に映っているだろう同じ姿形の兄、その兄の瞳に映るのもやはり揃いの目をした僕。合わせ鏡のようにどこまでも続く世界に、二人きり落ちていく。鈍く耳鳴りがする感覚に目眩がする。
大好き、という甘やかな囁きとともに兄は僕の瞼の上に誓いのように唇を落とした。同じ色の瞳を分け合って、お互いだけをその目に映して。なんということもない夜にふと落ちたやわらかな祝福は、どこか永遠を思わせた。引き寄せられるままに唇を重ねる。
ずっとこうしていたいね、と一つの布団の中で秘密を分け合うように笑った兄に、僕は何と返したのだったろう。
「随分と派手にやってくれたものだな」
セバスチャンと契約を交わし帰還した屋敷で、着替えの最中に鏡が目に入り、改めて近付いてみる。朝焼けを思わせる紫にはっきりと刻まれた逆五芒星の契約印は、これ以上ないほど目を引いた。
「どこでもいいと仰られましたので。契約印を目立つところに入れるほど、契約は強固なものになります」
袖を通す途中だった僕の上着を持ってゆっくりと後ろに立ったセバスチャンは、契約時にも述べていた口上を繰り返した上で、お気に召しませんか、と鏡越しに嫌味な笑顔で問いかけてくる。
「別に構わない」
ふん、と鼻で笑っていなすやりとりにも大した意味などなかった。
実際のところこんな瞳一つ、印が刻まれ色が変わった程度のこと、なんということもなかった。視力には影響しないらしく、いざというときに不自由を感じることもなさそうだ。
揃いの顔を、二つの青の瞳を、嬉しいと口付けてくれた兄はもういないのだ。鏡写しのよう、とはよく言われたものだけれど、今こうして鏡の前に立ち姿を映してみたところで、見返してくるのは青と紫の瞳。どう見たって兄には見えない。鏡越しにも会えない兄は、僕の記憶の中にしか存在しない。
「本当なのか。契約がより強固になるというのは」
「ええもちろん。私は嘘は申しません」
それならいい。それでいい。復讐を遂げることだけが、今の僕の全てだ。
契約が無事完了したとして、悪魔に魂をくれてやった後の亡骸からは契約印も消え、元の青の瞳に戻るのだろうか、と一瞬頭を過ったけれど、問いかけは飲み込んだ。兄も僕も消えた後の世界に残った青は、もはや別の色なのだろうから。