夜泣き夕餉も済ませ、おやすみなさいと挨拶し互いの寝床へ潜り込んでから数刻。ふと、土井は人の気配を感じて目を覚ました。
自分の傍に人肌を感じる。
今寝ている場所は自宅で、かつ身体の大きさ、状況からこの人肌に該当する人物は一人しか居ない。
掛けていた布団をめくると予想通りにきり丸が潜り込んでいた。
自分の左側、ちょうど腰辺りにまだ小さい身体を縮め、自分の服裾を掴んでいる。
だが、どこか様子がおかしい。なぜなら、掴む手からは微かに震えが伝わってきているからだ。
「きり丸?どうした?」
「……」
声をかけるが返事は無い。顔も伏せられ表情が窺えない。とにかく状況を確認しようと反対側の手をついて半身を起こそうとする。自然ときり丸から離れそうになった時だった。
「や、だ!先生…!」
弾かれたように顔を上げてきたきり丸から発せられた声。
上げられた顔の大きな目元は赤く、何かに怯えているようで、目が合った途端、堰を切ったかのようにぼろぼろと頰を涙が伝っては落ちていった。きり丸は口をはくはくとさせ、言葉にならない吐息が漏れている。
寝る前とは打って変わった様子。
戸惑いが隠せず、土井はただ、愕然ときり丸を見つめた。
昼間もこれといっておかしな様子は無かった。きり丸がアルバイトから帰り、夕餉もまたイナゴ入りとなったことに土井が不満を述べそれを躱されたり、他愛のない1日の出来事を話したりして。また明日からのことを二人で笑っていた。
普段と変わらぬ筈だった。
きり丸の身に何かあったのだろうか。
ようやく土井が言葉をかけようと口を開こうとする前にきり丸は服を手繰り寄せ、土井の懐へとおさまる。
今度はしっかりと抱き着き、そのまま顔を埋めてしまう。ただ、先程と異なるのはきり丸の泣き声――しゃくり上げるような声が部屋に響き、当の本人は肩を震わせている。その姿が痛々しく目に映った。
常日頃、飄々とした態度のきり丸からは考えられない様に今度は思考よりも先に身体が動いた。
自分より小さい、まだ幼い身体を抱きしめる。
腕におさまった身体ははじめはぴくりと反応示したが、すぐしがみつくように抱きしめ返してきた。
「先生、せんせい…」
泣き声の中に自分を呼ぶ声が混じる。
「…どうした?」
譫言のようにも感じられる言葉に優しく返す。少しでも落ち着くようにと頭をゆっくりと撫でてやると身体の震えが徐々に落ち着きを取り戻してきた。
「先生、やだ、行っちゃ、やだ…」
「一人にしないで…ぼくを、忘れないで……」
相変わらず顔は見えない。
どのような意図で発せられているかわからない。
だが、ぽつりぽつりと紡がれる台詞は土井にとって予想していなかった事で目を見開いた。
ただ、訴えたいこと――きり丸が何に怯えているのかは理解できた。
前に自分が記憶を無くし、皆から元から姿を消したことがある。
その時もこうやってこの子を泣かせてしまった。
共に帰ってきて、その後は何も無く、平穏に戻っていたと思っていた。
――そう、思っていたのは自分だけだった。
この子には、まだ、自分が居なくなるという恐怖が残っていたのだと。
そう理解した瞬間、頭を殴られたような衝撃に襲われた。
ただただ、この小さい身体に耐え切れぬ負担を掛けてしまったのだと、普段平静装っているだけでまだ奥底には燻っていたものがあったのだと。
気付かなかった己のふがいなさが腹立たしくなる。
「ごめん、ごめんな、きり丸…」
自然ときり丸を抱き締める力は強まった。
当のきり丸は苦しがることもなく、また、普段ならば抜け出そうとするだろう自分の行動に対して、すりすりと頰を擦り寄せてきた。
「良かった、いる…せんせぇ…」
胸元に顔が埋まっているため、表情は相変わらず窺えないが先程のような泣き声ではなく安堵したかのような声色だった。
「…ごめん…心配させて…」
素直に出てくる再度の詫びの言葉。
きり丸の奥底に潜む感情に気付かなかったこと、そして、それを引き起こしてしまったこと全てに胸が締め付けられていた。
「もういなくならないでください…」
「わかった」
「約束、ですからね。」
かけられる言葉に頷いていれば途中、くぐもっていた声がはっきりと聞こえてきた。
きり丸の方をみるとまだ目元潤む状態ではあるがどこか不安げに、縋るようにこちらを見上げながら約束を乞うてきた。
拒否する理由など無い。
「ずっと、いるよ。きり丸。おまえの傍に。」
すかさず頷けばようやく硬かった表情がふにゃりと柔らかいものへと変わった。
今度はこちらから顔を近づける。
こつりと額同士をあわせると、よかった、と小さく声が聞こえ、再び胸元へと顔埋めたかと思えば程なくして寝息が聞こえてきた。
それが規則正しいものに変わるまで、頭を撫でてやる。
あの時――きり丸たちに剣を向けた時、きり丸が「一緒に帰ろう」と言葉をかけてくれた。
自分にとっても、きり丸がいる場所が帰る場所なのだ。
それを思い出させてくれた。
だからこそ、自分は彼岸から――天鬼から戻ってこられた。
共に居ても良い場所をきり丸が照らしてくれたから、今、自分はきり丸と共にいる。
「心配なんて、しなくていいのにな。」
――離れられないのは自分の方だ。
きり丸を苦しめていることの罪悪感を感じながらも、きり丸が自分を求めていること――まだ傍に居てもよいのだと許された気がして、どこか安堵の気持ちが生まれる。
導く筈だった自分がきり丸の中に見付けた光。
憧れであり、大切であり――徐々にあった、本来芽生えてはいけない感情。
「傍にいるよ、ずっと。」
自分の中にある仄かな歓びに蓋をして、眠りに落ちた愛し子を改めて抱き締める。
聞こえる寝息につられて自分も瞼を閉じてそのまま眠りについた。