一ヶ月、共同生活を送ることになったひふ幻の話 吹きつけてくる風の爽やかさや、日毎強まる陽射しの中に春の深まりを感じる。そんなある日、担当との打ち合わせを終えた幻太郎は一人自宅へと帰ってきた。
打ち合わせの後はシブヤの交差点で日課である人間観察もしてきたので、時刻は八つ時を過ぎ、そろそろ夕刻に差し掛かろうという頃合いだ。それでもまだ、空は昼間のように明るい。
幻太郎は後頭部へやった手でカンカン帽の後ろを軽く押し下げ、目元に影を落とすつばを心持ち上げた。明るくなった視界の中、慣れた手つきで玄関に鍵を差し込み、解錠の手応えのなさに首を傾げる。
はて鍵をかけ忘れたか、素寒貧ギャンブラーに留守居でも任せたかしら、と考えたところで、施錠していない本当の理由を思い出した。
そうだ、今日は仕事が休みだとかで朝から彼が来ているのだった。そう、仕事。勤め人。今、幻太郎の家にいるのは、よく金や宿の無心に来るチームメイトの無職ギャンブラーではない。
未だに、何故うちに彼が出入りしているのかと思わずにはいられない男——元・麻天狼の伊弉冉一二三。彼に留守を任せて、打ち合わせに向かったのだった。
ようやく現状を把握して、無用になった鍵を手持ちの信玄袋に仕舞おうとしたとき、家の中からパタパタと廊下を進むスリッパの音が近づいてきた。
無駄に鍵を出したと彼に知られたら、絶対に笑われる。そうでなくとも、夢野幻太郎としての沽券に関わる。
幻太郎は、脚の長い彼がさっさと戸を開ける前にと、慌てて書生服の袖に両手を隠した。万が一にも鍵を握り込んで膨らんだ手を見られないよう、外套の裾を身じろぎながら整えているところへ、千本格子の引き戸が勢いよく開かれた。
「やっぱり、ゆめのんじゃん! おかえりー!」
キン、と耳に突き刺さるようなお気楽な声が飛んでくる。近所迷惑だから声を抑えろと言うのにも、もう飽きた。
どう咎めようと「そんなに響いた? 俺っちの声ってばめちゃくちゃよく通るからさぁ、人混みでも重宝すんだぜー」なんてあっけらかんと返されて終わりだ。
帝統も周囲を顧みない声量だが、一二三と過ごすようになってからは、如何に彼の声が耳に馴染むかと思い知らされてばかりだった。
こんなにも不満だらけだと言うのに、ずるずると、本当にずるずると彼と過ごす時間が増え、こうして家主不在の家に残ることすら許してしまう始末。それが何故なのか、未だに自分でも答えを出せずにいた。
「なに眉間に皺寄せてんの? 嫌なことでもあった?」
「いいえ、何にも。むしろ良いこと尽くしでしたよ、ここに着くまでは、ね」
貴方の声が騒々しいんですよ、という一言はグッと飲み込んで、幻太郎はにこやかに言葉を返した。感じたままを馬鹿正直に告げれば、無神経な笑顔と大声で一体いくつの不愉快な言葉を聞く羽目になるのやら。
幻太郎は話題を押し流そうと、立板に水とばかりにペラペラと与太話を続けた。わらしべ長者よろしく物々交換を繰り返した結果、シブヤで一番の豪邸でアフタヌーンティーをご馳走になりました、と。
「よく分かんないけど、お腹空いてない感じ? せっかくクッキー焼いたんだけどな……あ、夕食の後に食べる? ていうか何食べたわけ、やっぱスコーンとか? クロテッドクリーム、どんな味がした?」
「……知りませんよ、嘘ですから」
「またぁ? ゆめのんってば、ほんと訳分かんない嘘つくよね。意味なくない? 楽しい?」
「貴方には関係ないでしょう」
「関係あるよ、今は一緒に喋ってんだからさぁ。あ、アフタヌーンティーが嘘ならクッキー食べる? 食べるなら紅茶入れたげるよ。てかさ、いつまでそこにいんの? 中入ったら?」
「ここは小生の家なんですが」
まるで家主のような物言いに顔をしかめれば、急にどしたん?言われなくても忘れてないし脈絡なさすぎ、ウケる、なんて笑われて、思わずこめかみが引き攣った。
とにかく、幻太郎が一を口に出せば十も二十も返ってくるような彼の勢いに、どっと疲労感が押し寄せてくる。痛むこめかみを押さえる代わりに溜息をついて、くいっと上げた顎先で家の中を示した。
「そう言う貴方がさっさと入ってくださいよ。つっかえてるのは貴方のせいなんですからね」
なんとかして、彼に背を向けさせたい。うつけのような表情を晒すくせに、この男は存外鋭く目敏いのだ。そんな彼がこちらを向いている中、迂闊に鍵を袖下に落としたり、鍵を隠し持ったままブーツを脱ごうとすれば「何持ってんの?」なんて興味を示されかねない。
そして「俺っちに留守任せていったのに鍵開けようとしたの?ボケてんねー、だいじょーぶ?おつかれ?俺っちより五つも若いのに」なんて笑われるのだ。幻太郎はそこまで一人で考えて、一人で胸にむかつきを覚えた。
「すぐ、そうやって俺っちを悪者にする。俺は、ゆめのんがなかなか入ってこないから様子見に来たのにさぁ。そしたら、手を出しもしないで突っ立ってるし……あ、もしかして、またアレやるつもりで待っててくれたん? 開けてたもれ〜みたいな、お得意の姫」
姫。そうだ、彼はそのために自分に近づいてきたのだった。
幻太郎は軽く咳払いをして喉の調子を整えると、口元に笑みを浮かべて小首を傾げて見せた。そして、チームメイトの有栖川帝統をからかう時よりも入念に、麗しく可憐な姫の像を脳裏に思い描く。開いた口からは、幻太郎のものとは思えない鈴を転がすような高く柔らかい女性らしい声が流れ出た。
「そのために貴方様に留守を頼んだのですから、当然でありましょ?」
「ヒィッ……!」
途端に思い切り仰け反った一二三が、メドゥーサに睨まれた蛙のようにカチコチに硬直する。逃げ出しそびれたと丸わかりの、情けない格好と表情だ。血なんていくら抜いてもケロリとしていそうな男が、真っ青になって震えている。
うっかり拍手しそうになった手をすんでのところで押さえ、幻太郎は鷹揚に二度頷いた。
「踏みとどまれるようになってきたじゃないですか。少し前なら、五メートルは後ろに飛んでいったでしょうに」
「は……はは、ゆ、ゆめのんのおかげ、だね……ありがと」
「それは僥倖。さて——それでは、戸締まりもよろしくお願いいたしますわね」
後半を、ハートマークまでついていそうなほどに可愛らしい声音で言ってやれば、一二三は引き攣った笑みを貼り付けた青い顔のまま、ギクシャクと幻太郎に道を譲った。
三和土に踏み入った幻太郎を遠巻きにしながら、一二三が玄関の引き戸をガラガラと閉めていく。その音に紛れて家の鍵を袖下に落とすと、幻太郎はようやく肩の力を抜いた。
一二三との共同生活が始まったのは、一ヶ月ほど前のことだ。
馴染みの喫茶店のボックス席。担当との打ち合わせを終えた幻太郎が、まだ残っていたホットコーヒーに口をつけた瞬間、無人となったばかりの向かいの席に何者かがサッと腰を下ろした。
「帝統、金なら貸しませんよ」
「やあ」
相手を見もせずに慣れた台詞を口にした幻太郎は、にこやかに返されたその一言にコーヒーを喉に詰まらせた。
飲み物を噴き出すという醜態は晒さずにすんだものの、気道に入りかけた刺激物の威力は高い。涙目になりながら咽せていると「大丈夫かい?」と彼の手が伸ばされてきたので、咄嗟に払いのけた。
「気性の荒い猫ちゃんだ」
バシッと存外大きな音がしたが、彼はこの世の美という美を結集して作られた人形のように整った面立ちを崩すことなく、微笑を浮かべたまま、わずかに眉を下げただけで身を引いた。身にまとったジャケットの襟を正しながら、幻太郎が落ち着くのを待っている。
今のうちに、さっさと立ち去ってくれればいいのに。
そうは思っても、彼は幻太郎が話を聞くまで席を立つつもりはないらしい。彼の視線がメニューに向いたのに気がついて、幻太郎は何度か咳払いをしてから、じとりと伊弉冉一二三を睨め付けた。
「何用ですか」
「用がなければ話しかけてはいけないのかい?」
「ないなら帰ります」
完璧すぎる微笑に虫唾を感じて腰を浮かせると、待って、とテーブル上の手を素早く押さえられた。
指先の神経の一つ一つまで丹念に磨き上げられたような、隙のまったくない優美な仕草に、彼の手のひらが触れる甲からぞわりと鳥肌が広がっていく。サッと自分の手を取り返すと、慣れ親しんだ座席の背もたれに逃げるように身を預けた。
まだぞわぞわしている手の甲をもう片方の手で撫でさすりながら目で先を促すと、伊弉冉一二三は口元に笑みを保ったまま、礼を尽くす紳士じみた仕草でその胸元に手を当てた。
「分かった、単刀直入に言おう。僕を、君の家に住まわせてほしい」
「………………は?」
地を這うような一声が出るのにさえ、一分近くかかってしまった。それほどまでに、彼の発言は奇想天外すぎた。
住まわせる。自分の家に、伊弉冉一二三を。……冗談ではない。
「——さようなら」
「待ってくれ、夢野くん! 話はまだ終わっていないよ」
「何が何でもお断りします。はい、これで話は終わりました。それでは改めてさようなら、ごきげんよう」
「有栖川くんのためなんだよ、夢野くん!」
眉を下げながらも涼しい顔をしているくせに、幻太郎の手首を捕まえた伊弉冉一二三の握力は幻太郎を凌駕していた。利き手である右を封じられたとはいえ彼を引き剥がせない現実に歯噛みしていると、思わぬ名前が飛び出してきた。
思わず彼を見つめ返すと、今が攻め時と思ったか、伊弉冉一二三は早口で言い募り始めた。
「君のところの彼が、うちの独歩くんと——」
帝統と独歩。二人の名前が揃った瞬間、幻太郎は光の速さで伊弉冉一二三の口を塞いだ。この先を、ここで話させてはいけない。きっと、二人のプライベートに関わる内容だ。
彼のやたらと響く声を手のひらで抑え込んだまま、低めた声で彼を叱責する。
「こんなところでする話じゃないでしょう」
場所を変えますよ、と伊弉冉一二三を引っ張っていった先は幻太郎の自宅だった。
「いやー、お茶まで出してもらっちゃって、ありがとね、ゆめのん」
エアー雑巾を絞るために淹れたほうじ茶を、ジャケットを脱いだ伊弉冉一二三は嬉しそうに受け取った。
別に貴方のためじゃないですから、小生の鬱憤をエアー雑巾に込めてその湯呑みの中にぶち込むためにしたことですから。などと腹の中で返してから、幻太郎は卓袱台を挟んだ伊弉冉一二三の正面——より少し横にずれた位置に腰を下ろした。
「ゆめのんってば、ほんと素直じゃないよね。なんだかんだ言って、さっそく家に連れてきてくれるんだもん」
「勘違いしないでください。先程の話ならお断りしたでしょう」
「またまたぁ、そんなら何で家教えてくれたのさ」
幻太郎の真正面に座り直す伊弉冉一二三、再び横へずれる幻太郎、真正面に移動する伊弉冉一二三……という攻防戦を無駄に繰り返して、幻太郎はようやく己の望む位置取りを諦めた。げんなりとした表情を隠しもせず、どうあっても真正面に陣取ってくる男に冷めた目を向ける。
「教えたわけではありません。ですので今日以降、勝手にこの家に近づいたら警察に通報しますから」
えー、と子どものような声で不満を漏らす伊弉冉一二三を黙殺して、幻太郎は温かなお茶で喉を潤した。
とにかく、彼の話したいことはすべてここで話させよう。そうしなければ、彼はまた場所も選ばずに話し出すに違いない。そう思って、先を促す。
「それで、帝統と観音坂氏が何ですって?」
「そうそう、二人のラブラブハッピータイムのためにさぁ、協力してよ、ゆめのん」
「ラ……?」
「ラブラブハッピータイム」
何だそれ。およそ帝統と独歩の二人には縁遠そうな単語の出現に、幻太郎は固まってしまった。
いや、二人が一年ほど前から深い仲になっていることは知っている。他でもない帝統本人から告げられたからだ。
ヒプノシスマイクを使ったディビジョンラップバトルに参加するようになったのは約三年前。そして、紆余曲折の果てにヒプノシスマイクが自分達の生活から消えたのは、一年と少し前。
その頃から、たまに独歩と飲みに行っているとは聞いていた。それからさらに数ヶ月が経った頃、ぼーっとしている事が増えた帝統を乱数がからかった際に、あっさりと明かしてきたのだ。独歩との、一線を超えた関係を。
どういう経緯があったにせよ、帝統が今も独歩と過ごしている以上、そこには彼の意志が存在している。取り立てて祝福することもないが、彼のしたいようにさせてやりたいとは思うし、彼に請われることがあれば協力することだってやぶさかではない。
しかし、ラブラブハッピータイムとは。しかも、協力を願ってきているのはあの伊弉冉一二三である。
何だそれ、と思わず素で返してしまった幻太郎に、伊弉冉一二三は「よく聞いてくれた」と満面の笑みで身を乗り出してきた。
「実はさー、独歩ちんに奇跡が起きたわけよ。なんと、どぽちんとこのハゲカチョーが一ヶ月もの間、長期出張に行くらしくってさ」
「はあ」
「すごくね? そんで、毎日毎日残業漬けだった独歩が、定時で帰ってこられることになったわけ」
「それはおめでとうございます」
「だから、ハゲカチョーが帰ってくるまで幻太郎の家で過ごさせてほしいなって」
「意味が分からない」
幻太郎が頭を抱えながら根気よく聞き取りを続けていった結果、伊弉冉一二三の思惑がようやく把握できた。
曰く、ハゲ課長が不在となることで独歩が理不尽に言いつけられていた仕事がなくなり、家で過ごせる時間が大幅に増える。年休も多く取れるだろう。その間だけでも、帝統を家に呼んで独歩と二人きりで過ごさせてやりたい。そのために、日中を幻太郎の家で過ごさせてくれないか——ということだった。
具体的には、昼頃に帝統と独歩の夕食を作り置いて家を出、夕食と風呂を幻太郎の家で済ませてから帰宅したいらしい。
「掃除も洗濯もする。俺の仕事が終わる時間帯にはまだ起きてることが多いってコロ助も言ってたし、仕事の邪魔はしないから」
顔の前で両手を合わせて拝む彼を見つめながら、帝統はそんなことまでこの男に話しているのかと頭を抱えたくなった。
「貴方の考えは分かりました。……が、それは二人が望んでいることなのですか?」
「そりゃ勿論。だって、恋人と毎日家でゆっくり過ごせるんだよ? 嫌なわけないじゃん」
「観音坂氏はそうかもしれませんが……念のため、帝統に確認を取ってもいいですか?」
「ダメ!」
「……伊弉冉さん?」
一番引っ掛かりを覚えた点に言及すると、伊弉冉一二三は面白いほどに慌てた。五百トンほどの重みを込めた声で名を呼べば、ちょこんと正座し直した伊弉冉一二三が下から窺い見るような眼差しを向けてくる。
「コロ助には、これから話す。俺っちの独断だけど、試してみてほしいとは思ってるんだ」
「何故。観音坂氏のためですか? そのために、帝統の生活を縛ると」
帝統ならば、嫌になれば誰に何を言われようと飛び出していくだろうから心配はないけれど、向こうの意図を探るにはこれくらい言った方がいいだろう。そう思って冷ややかに問いかければ、萎れ気味だった伊弉冉一二三の背筋がスッと伸びた。
「否定はしない。でも、それだけじゃない」
「と言うと?」
「コロっちはさ、あんましたことなさそうじゃん、そういうの。好きな人と二人で、静かに過ごすってやつ」
なんて俺も独歩も言うほど経験ないけどね、と苦笑する伊弉冉一二三を前に、幻太郎は口をつぐんだ。彼のシャンパンゴールド色の瞳に、幻太郎が今まで見たことがない柔らかな光が浮かぶ。
「俺が作ったご飯、何でもめちゃくちゃ旨そうに食べてくれるしさ、何より一緒に食べること自体を喜んでくれてる気がすんだよね。よく、ゆめのんの話もしてくれるけど、そんときもゲンタローがああしてくれたこうしてくれたって、そういう話が多いし」
だから、誰かと過ごすのは好きなんだと思う。それなら、こういう過ごし方もあるんだよって伝えてあげたい。伊弉冉一二三は、そう続けた。
「コロっち、まだ二十二……三、だっけ、それくらいでしょ? できるときに、何でもしてみたらいいんじゃないかって、そう思った……ん、です、が」
子を見守る父親のような眼差しをしていた伊弉冉一二三が、再度幻太郎と目を合わせると途端に自信なさそうに肩を丸める。幻太郎はそんな彼の変化よりも、先程彼が見せた眼差しの方に気を取られていた。
この男は、こんな顔もするのか。それは、感動と呼んでも差し支えがない驚きだった。
彼に対する第一印象は最悪中の最悪だったものの、人の領域を土足で踏みにじるだけの男ではないということは、この三年の間に何度か感じてきた。認めたくはないけれど。
しかし、幻太郎にとって大切なチームメイトである帝統に対して、あんな眼差しを注がれてしまったら。自分の意地だけで、彼を突っぱねることに迷いが生まれてくる。
彼を認める気持ちと反発したい気持ちの間で揺れ動く天秤は、そのまま、彼の提案を飲むか飲まないかという選択に直結していた。
「……どうしても、ダメ……?」
幻太郎の沈黙をどう受け取ったのか、伊弉冉一二三は叱られた子犬かと思うほどに眉を下げていた。これまた初めて見る顔だ。喫茶店で見せた、いけ好かない澄まし顔より五百倍は良い。
彼への悪感情が心持ち軽くなったことを感じつつ、幻太郎は考え込むように口元に手を当てた。彼に対してはやたらと活発になる己の中の天邪鬼を存分に甘やかして、ひねくれた台詞を思いのままに紡ぐ。
「貴方のお気持ちは分かりましたが、それって小生の家は関係なくありませんか?」
「えっ」
「わざわざこんな『いつの時代〜〜?って感じ〜〜』な古びた平屋に来なくとも、高級ホテルに宿泊されれば良いじゃないですか。貴方の稼ぎなら、一ヶ月の外泊くらい訳ないでしょう」
「えっ」
三年前に彼から浴びせられた言葉を強調しながら言ってやれば、伊弉冉一二三は見るからにおろおろし始めた。おもちゃを取り上げられたチワワが飼い主の足元をうろうろしているような彼の様子に、長年の溜飲が下がっていく。
そろそろ良いかなと思いつつ、これで最後と天邪鬼の一打を許した。
「それとも、小生のところでないといけない理由でもお有りで?」
ま、それがなくとも乗ってやらないこともないですけど。そう続けるつもりだった言葉は、行き場をなくして喉の奥で消えた。伊弉冉一二三が、一瞬で間合いを詰めて幻太郎の肩をがしりと掴んできたからだ。
思いもよらない反応に幻太郎が目を白黒させていると、彼はバトルのときとも違った真剣な眼差しで「ある」と力一杯断言してきたのだった。
「——その理由が、女性恐怖症の克服とは」
居間の卓袱台に用意されたクッキーをさくりと食べながら呟くと、ティーポットを手に台所から戻ってきた一二三が「何の話?」と首を傾げた。
「貴方がうちに来たがった理由ですよ」
「ああ……」
一二三は少し罰が悪そうに曖昧に笑うと、彼が持参した高級ティーカップに紅茶を注いだ。
「何度も言うけど、それだけじゃないよ。コロ助が絶賛してた茶色いおかずも食べてみたかったし。小芋の煮っ転がしとか、肉じゃがとか」
「はいはい。どうせ小生が作る物は全部茶色いですよ」
「なんでそう拗ねるのさ。どれもちゃんと美味しかったよ?」
「お褒めいただき光栄ですう」
「めっちゃ棒読み! もう、俺っちは本気で褒めてんだからね?」
「まあ、嬉しいわ、ひふみん」
「ウギャア!」
彼がティーポットを置いたタイミングを見計らって女声を出したのだが、見事に飛び上がった彼の体が卓袱台に当たってカップから紅茶がいくらか飛び散った。適当に引き抜いたティッシュで温かい紅茶を拭いながら、居間とひと続きになっている台所まで飛び退っていた一二三に目を向ける。
「不意打ちにはまだまだ弱いですねぇ。あとどれだけ耐性をつけられるのやら……。そろそろじゃないですか? ハゲ課長が戻られるの」
卓袱台を綺麗にして、紅茶色に染まったティッシュをゴミ箱に捨てる。壁にかけたカレンダーを見れば、彼から伝え聞いた課長の出張終了日まであと一週間と少しになっていた。
この一ヶ月、帝統の様子に変わったところはなく、たまに「バカヅキ!!」と自分と乱数以外には伝わらないだろう喜びにあふれたメッセージを送ってきては、ちまちまと借金を返済しにくる程度だった。金を返せば「またなー」と足取り軽く帰っていくので、観音坂独歩との時間は悪くないもののようだ。
一二三の提案に乗って良かった。腕が確かな彼に何の気兼ねもなく家事を任せられるのは素直にありがたいし、帝統から伝え聞いていた通り、手料理も美味しい。彼の仕事柄、夕食の時間は遅くなるが、元々が規則正しい生活とは言えない作家業なので、さして問題ではない。
「……伊弉冉さん?」
一向に言葉を返してこない彼を不審に思って振り返ると、一二三はハッと我に返って「ああ、うん、そうだね」と歯切れの悪い返事をした。かと思えば、紅茶にジャム入れる?なんて言いながら、冷蔵庫を開けに行く。
最近はいつもこうだ。終わりを匂わせると、途端に妙な反応を示す。
この生活が終わることを惜しんでくれているのだろうか。それを問いかけることは、まるで幻太郎の方こそそう思っているように感じられて、躊躇してしまう。
「……別に、一ヶ月が過ぎたってまた来ればいいじゃないか……」
一二三の背中を見ながら、幻太郎は胸の内に浮かんだ言葉をぽつりと漏らした。
「ゆめのん、何か言った?」
「……冷蔵庫、一回開けるごとに百円払ってください。今月の水道光熱費が嵩んでいるので」
「えっ、マジで!?」
「嘘です」
「もお、またぁ?」
ほんと飽きないね、と一二三がけらけらと笑うのを見て、幻太郎はそっと安堵の息を吐いた。
そんな風に時折翳りを見せていた彼が、飛び跳ねる子犬のような勢いで幻太郎の家を訪れたのは、丁度ハゲ課長の帰還の前日だった。
幻太郎が玄関を開けるなり飛びついてきて「今日から泊めて!」と、はしゃいだ声で頼んできたのだ。
聞けば、ハゲ課長の出張が延びて、戻ってくるのが週明けになるのだという。それで独歩が土日を含めた五連休をもぎ取ったので、帝統が泊まり込むことになったらしい。
「二人の夜を邪魔するわけにはいかないじゃん? だからさ」
五日間、ゆめのんちに泊まらせてほしい。
一二三は、喜色満面という言葉でも足りないくらいの笑顔を幻太郎に向けた。
五日もこの男を泊めるなんてお断り。一ヶ月前だったら浮かんできただろう言葉は、彼の笑顔の眩しさの前に、綺麗さっぱり掻き消されていた。