ある日の夜、重苦しい空気の中で、ヒトラーは微かに震えた指先で、扉の鍵穴に細い針金を差し込んだ。
──今日こそ、こんなところから逃げ出してやる。
そんな固い決意を胸に、鍵穴を慎重に探る。金属が金属に触れる小さな音が、とても大きく聞こえた。
やがて、カチャン、と音が響いた。扉の錠が外れたのだ。思いのほか大きな音がなってしまったが、もう後戻りはできない。
ヒトラーは意を決して、扉をそっと押し開けた。部屋を抜け出し、寝静まった衛兵の間をすり抜け、廊下を駆ける。その瞬間。
「どこに行くつもりだ?」
背後から、冷徹な声が彼を刺した。振り向く間もなく、大きな手がヒトラーの肩を掴み、容赦なく壁へと叩きつけた。
「ゔっ……!」
鈍い衝撃が頭に響き、視界が一瞬白く霞んだ。痛みと共に、意識が揺らぐ。目の前に立っていたのは、スターリンだった。彼は彫刻のように無表情だったが、その目には底知れぬ闇が宿っていた。
「ふん、随分安っぽい脱走劇だな。」
スターリンは鼻で笑い、嘲るような口調で続けた。
「いつも言っているだろう、逃げるなと。私の言葉が分からなかったか?愚か者め」
「やめろ!離せ……!」
「黙れ」
抵抗しようと掠れた声を上げるも、スターリンが片方の手で無造作にヒトラーの口を塞ぎ、言葉を封じ込める。
やがて、スターリンはヒトラーの足に目を落とした。
「もし、次逃げようとしたら……」
口を塞いでいない方の手でヒトラーの太もものあたりを撫でながら、低く冷ややかな声で続けた。
「これ、切り落とすからな」
ゾクリとするほどの静けさで発せられ、ヒトラーは思わず身を引いた。言葉とは裏腹に、その手つきは異様なまでに丁寧で、優しさすら感じさせた。しかし、その優しさが逆に不気味で、鉄の棒で殴られたりするよりも、遥かに恐ろしかった。
スターリンは口元に冷たい笑みを浮かべた。
「分かるな、アドルフ?」
冷や汗が背を伝い、体が震え、心は締め付けられた。口を封じられているため声は出せず、ヒトラーはただスターリンを睨みつけながら、小さくこくりと頷くことしかできなかった。
「いい子だ、最初からそれくらい素直だったらよかったんだがな」
スターリンはヒトラーの口元から手を離して言った。
「ほら、早く戻れ」
憤怒と屈辱、そして逃げられなかった自分への自己嫌悪が頭の中で渦巻く。ヒトラーはスターリンに連れられ、無言で部屋へと戻った。
ヒトラーはベッドの縁に腰を下ろした。冷たい空気が肌を刺す。彼は大きく息を吐き、わずかに肩を落として言った。
「……おい、なんでついてきてるんだ。消えろ」
「そう睨むなよ、アドルフ」
スターリンは当然のように部屋に入り、当然のようにヒトラーの横に腰を下ろす。日常の雑談のような軽い調子で話し出すその態度が、まるで挑発するかのようで、ヒトラーの神経を逆撫でした。
「まるで私が悪いことでもしたみたいじゃないか」
「実際してるだろう!」
ヒトラーは顔を上げ、怒りを込めて憤りをぶつけた。
「私を閉じ込め、侮辱し、今度は足を切ると脅すとはな!」
スターリンは真顔で首を傾げる。
「脅しだと?本気だ、私は」
淡々とした口調と揺らぎのない目に、空気が一段と重くなる。ヒトラーは言葉を失い、目を逸らした。その顔を、スターリンはじっと覗き込み、笑みを浮かべる。
「ははは、いいな、その顔。もう少し堪能したい」
「……貴様、本気で頭がおかしいのか?」
静かな声で返すヒトラー。その声はもはや怒りではなく、呆れと恐怖が入り混じったような不安げな響きを帯びていた。
スターリンははっきりとした口調で言った。
「おかしいのはどっちだ?民族の選別だとか、生存圏だとか、戦争をふっかけてくるとか、馬鹿げたことをしたのは誰だ?」
「馬鹿げてなどいない!」
ヒトラーの胸の内が複雑に揺れ動き、声が反射的に強まる。
「私の行いには意志があった!理想があった!」
「それを正当化と呼ぶんだ。悪党のな」
スターリンは冷たく言い放った。何かを言い返そうとしたが、ヒトラーは口を閉ざし、睨み返すことしかできなかった。
「だからこそ見届けてやる」
スターリンは笑みを浮かべながら言った。
「お前が自分の過ちを認めて命乞いをする、その瞬間をな」
拳が震える。怒りからなのか悔しさからなのか。自分でもよく分からない感情に押しつぶされそうになりながら、ヒトラーは奥歯を噛みしめ、吐き捨てるように言った。
「チッ……くそったれが……」
薄暗い部屋の中、二人の間に張り詰めた緊張は、しばらく続いた。