日差しがじりじりと照りつける中、ヒトラーはザヴァツキ夫妻と並んで大通りを散歩していた。眠る赤子が乗ったベビーカーを押すクレマイヤーを横目でちらりと見れば、その横顔は初めて会ったときの青ざめたものではなく、堂々とした母親の顔立ちをしている。ザヴァツキも同様に、以前の情けない面影はすっかり消え、凛々しい印象を与えていた。何ヶ月か前までは、気になる相手に対して一歩踏み出す勇気すらなかったようなこの男が。ずいぶん変わったな、と、ヒトラーの顔に思わず笑みが浮かんだ。
夫妻からふと目を離すと、反対側の歩道のベンチに、呆然として空を見上げる男が座っていた。ヒトラーは、その男に見覚えがあった。大きな目、少し茶の交じった白色の髪、そして特徴的な口髭────。
まさか、とヒトラーは思った。しかし、確信はできなかった。この時代にはコスプレイヤーという、特定の人物の姿を真似る人々がおり、それの可能性もある。また、自分が周りの人間からヒトラーのそっくりさんと思われているように、彼もただのそっくりさんであるという可能性も否めないからだ。
だが、気になって仕方がなかった。もし自分以外にあの時代から放り出された人間がいるなら、幾分か心細い気持ちは軽減されるだろう。たとえ、そいつが共産主義者だったとしても。
「すまない、少し急用ができた。先に行っておいてくれないか。後で追いかける」
「分かりました!わがソートー!」
ヒトラーが言うと、クレマイヤーは笑顔で答える。そして軽く会釈をすると、2人はヒトラーに背を向けて歩いて行った。彼らの背中を見送ると、ヒトラーは足早に横断歩道を渡り、ベンチに向かって歩いた。そして座っている男の前に立つと、ヒトラーは彼を見下ろして静かに言った。
「もしかして……お前はスターリンか?」
「……え? は?」
目の前に立つ黒いスーツに気づいた男は素っ頓狂な声をあげ、目をぱちくりさせた。
────違ったか。
「失礼、人違いでした」と言ってヒトラーは背を向けると、男は急いで立ち上がった。そしてヒトラーの腕を掴み、言った。
「ちょ、ちょっと待て! お前、ヒトラーか?!」
ヒトラーは振り向き、言った。
「ああ、アドルフ・ヒトラーだが」
「……本物のか?」
「もちろん。それで、お前は?」
男は目を輝かせた。
「ヨシフ・スターリンだ! 私のことは知ってるだろう!」 スターリンはすがるように言った。「よかった、目覚めたら全く知らないところにいたから、これからどうしようかと思っていたところなんだ」
「……」
ヒトラーは驚愕した。
────まさか、こいつが本当にスターリンだったとは。私を破滅へと導いた、あの男だったとは! ……だが、思っていたよりも随分背が低いな。
「いや〜まさか、初めて対面するのがこんなよく分からない場所になるとは、思ってもいなかった」
スターリンは感じのいい笑みを浮かべ、ベンチに再び座る。そして、空いたスペースを軽くポンポンと叩いて、隣に座るように催促した。ヒトラーは素直に従った。
「いろいろ聞きたいことはあるが、まず1つ。今は何年だ?」 スターリンは少し不安そうに言った。「そこかしこ、見たことない物ばっかりだ」
「すまないが、その前に連絡を取らせてくれ。少し待たせている連れがいる」
そう言ってヒトラーは、ポケットからスマホを取り出した。
「……なんだその四角いのは?」
「携帯電話だ。これ1つで簡単に連絡が取れる」
スターリンは怪訝そうな顔を浮かべるが、ヒトラーはそれを無視してスマホを操作し、耳に当てた。スターリンはヒトラーの手元をじっと見つめている。
「……こちらヒトラー……先ほどの急用の件だが……ああ、少し長くなりそうで……うむ……また後日ということで構わないだろうか? ……ありがとう、では」
話し終えると、画面をタップし、スマホを耳から離す。
「そんな小さな板だけで通話できるのか……どういう仕組みで……? どうやって……?」
「仕組みはよく分からないが」 ヒトラーは画面を見つめたまま言った。「ああ、そうだ。貴様は今が何年か知りたいのだったな。このインターネッツで調べてやろう」
「い、インターネッツ……?」
話についていけていないスターリンを尻目に、ヒトラーはスマホの画面をゆっくりタップし、得意げに検索バーに「今 何年」と打ち込んだ。画面が一度真っ白になった後、文字が浮かび出される。
「2012年8月30日」
「……ご丁寧に日付まで教えてくれるとは思わなかったが……」 ヒトラーはポツリと呟く。「もうこの世界に来てからちょうど1年経ったのか。早いな。」
サッカーの試合をするヒトラーユーゲントの子どもたち、キオスクの店主、クリーニング屋の……。今まで出会ってきた人々のことを思い出し感慨にふけっていると、隣に座っていたスターリンが突然、音を立てて地面に倒れこんだ。
それを見て、ちょうど1年前の私もこんな感じだったな、とヒトラーは苦笑いを浮かべた。
スターリンが目を覚ますと、彼はベンチに横たわっていた。虚ろな目で周りを見回すと、目の前に3つの人影があり、ぼんやりと会話が聞こえてくる。
「せっかく水入らずで散歩ができただろうに、呼び出してしまってすまない。私1人では厳しくて」
「いえいえ、気にしないでください。僕たちもいつもあなたに助けてもらってるので……あ、起きた」
スターリンがゆっくりと体を起こすと、3人の視線が一斉に彼に集まった。
「あなたがスターリンさん! ヒトラーさんと一緒で、本物そっくりだ……」
「は……? いや、私はスターリン本人だが……」
「カメラが回ってないときでも演技をやめないのも、ソートーと同じですごいです!」
「なんの話だ?!」
「落ち着け2人とも。スターリンが困惑している。また倒れてしまうぞ」
スターリンを見つめて目を輝かせるザヴァツキとクレマイヤーをヒトラーがなだめる。スターリンは何が何だか分からないというように頭を抱えた。知らない世界、知らない技術、そして知らない人間を短時間で見せつけられたのだから、無理もないだろう。
「紹介しよう。こちらはザヴァツキ。こちらがクレマイヤー嬢、いや、ザヴァツキ夫人。2人とも、私の仕事を手伝ってくれている」
「「こんにちは!」」
2人は微笑みながら、声を揃えて挨拶した。「こんにちは…」とスターリンも上の空で答える。彼の顔には冷や汗が滲んでいた。こんなよく分からない連中とこれから過ごさないといけないのだろうか…?そう考えると、不安が募っていった。
「それで、さっきいろいろ聞きたいことがあるとかなんとか言っていたが、結局それはなんだ?」
ヒトラーが口を開く。スターリンは指で数えながらボソボソと話し始めた。
「まずさっきの四角いの……あれが気になって気になって仕方がない。それと、なぜ私はここにいるのか……、なぜお前がここにいるのか……、なぜお前はあの時不可侵条約を破ったのか…………、なぜ、私を裏切ったのか…………」
スターリンの表情がどんどん暗くなっていくのを、ヒトラーは苦虫を噛み潰したような顔で見つめた。ザヴァツキ夫妻もヒトラーをじっと見つめる。少しの気まずい沈黙が流れた後、ヒトラーは息を吐き、捲し立てるように言った。
「電話の件は知らんからこの2人に聞け。貴様がここにいる理由? 私がそんなこと知るわけがないだろう、馬鹿め! 私がここにいる理由は選ばれた人間だからだ、これが運命だからだ! 貴様のことなど知る由もない! そして不可侵条約は破るつもりで結んだのだから破るに決まっている。私が大嫌いな共産主義者と仲良くやっていくと思うか? そんな簡単なことすら見抜けなかった貴様の方に問題があるはずだ!」
「お前私のこと嫌いすぎだろ、言い過ぎだ! 私はお前となら友達になれると思っていたのに! 親近感すら湧いていたのに! お前を信じていたのに! だがここで会えたのも何かの縁だ、今ここで殴ってやろうか? 私のこの手でもう一度殺してやろうか?! このクソナチ髭野郎!」
「殺せるものならものならやってみろ!それと髭はお互い様だ!!」
「こんな道端で物騒な喧嘩しないでくださいよ〜!」
ザヴァツキとクレマイヤーが慌てて止めに入る。2人は今にも殴り合いに発展しそうな勢いだった。
「ハッ! お前のような傲慢さと愚かさの集合体みたいなクズがトップに立つ国なんて、そりゃすぐ分割されるわけだ」 ザヴァツキに羽交い締めされているスターリンは鼻で笑いながら、ヒトラーを蔑むように言った。「それに比べて、我がソビエト連邦は……」
その瞬間、スターリンの言葉が止み、しばらく考え込んだかと思うと、突然声を震わせて叫んだ。
「そうだ、ソビエト! ソビエト連邦はどうなった?!」 スターリンはザヴァツキを振り切って一歩踏み出し、ヒトラーの目を見つめた。「早く我が祖国に帰らなければ……! 私にはまだやるべきことが!」
「なら、もう一度インターネッツで調べてやろうか」
ヒトラーは勝ち誇ったような笑みを受かべながらスマホを取り出し、検索バーに「ソ連 今」と打ち込んだ。一同はそのロード中の画面をじっと見守る。やがて、画面に文字が表示された。
「1991年12月25日、ソ連は崩壊した」
この後、再びスターリンがひっくり返ったのは言うまでもない。