金継ぎの茶碗半助はこの時はまだ、自分の住処を持っていなかったとき。忍術学園の教師になってから忙しく、なかなか山田家に帰ることができなかったが、何とか時間を作り伝蔵を説得して一緒に山田家に帰省することができた。
奥様が喜んで迎え入れてくれる。その瞬間、伝蔵の顔つきが一気に柔らかくなり、その二人の雰囲気が半助はとても好きだった。「山田先生、もっと家に帰られたらいいのに」と、半助は心の中でささやいた。
少し早めの夕げの時。囲炉裏を囲んで近況を語り合う。この氷ノ山のふもとあたりも集落が増えてきたようだ。それでも、この山奥ののどかな空気は変わらず、安心した。ここはずっと変わらないでいてほしい。そんな思いを抱きながら、奥様の料理に舌鼓を打つ。奥様から差し出された茶碗が懐かしく感じる。それは、自分がずっと使っていた茶碗だった。
ここで受け入れてもらい、療養し、一緒に暮らしていた日々を思い出す。その茶碗がまるで「いつでもここに戻っておいで」と言ってくれているようで、心が温かくなる。
ふと茶碗に割れた跡があるのに気がつく。派手に割れたのだろうか。しかし、とてもきれいに金継ぎが施されていた。補修のために流し込まれた金の筋が美しく、味わいを増している。ただ、名器でもない普通の茶碗を修理するまでもないはずだ。自分なんて、もっと安い器でいいのだから。
「これ、残してくれたんですね。金継ぎがすごくきれいですね…」
「ふふ、それはね…」
「おい、それは内緒だろう」
言いかけた奥様を伝蔵が制するが、奥様はそのまま話を続けた。
「あの子が今ここにいないので…話してもいいでしょう」
***
半助が教師になると決めた夜、利吉はとても拗ねていた。遠くへ行ってしまうこともさることながら、「どうして父上も帰ってこない忍術学園に、お兄ちゃんまで行くのか」と怒ったのだ。わがままだとは分かっている。お兄ちゃんがずっとここに住むとも思っていない。それでも、そばでまだまだ教えてほしいことがたくさんあった。実技も未熟で、もっと指導してほしかった。それなのに、なぜ——。
「教師になりたいと思ったのは君のおかげなんだよ」
そう言われても慰めにはならない。来週には学園へ行くというのに、しばらくの間、利吉は半助と顔を合わせても口数が少なくなってしまった。不機嫌な自分が悔しくて、そんな自分すら許せなかった。
そして、半助が家を出る当日。
支度を終えた伝蔵と半助は、忍術学園へ向かうため、いつもより早く家を出る。まだ日の出前で、空は白み始めていた。
「利吉を起こしてきましょうか?」
「いや、また帰ってくるから顔を見せるさ」
「奥様、本当にお世話になりました。私は新しい場所で頑張ります…どうかお元気で…」
半助は涙をこらえる。山田家に拾われてからの一年間で、これほど彼の表情が緩んだことはなかった。奥様は思わず、ふふっと笑みをこぼした。
「いつでも帰ってきていいのよ。ここはあなたの家ですからね」
それから何刻か後のこと。利吉は一心不乱に走っていた。
本当はお兄ちゃんとちゃんとお別れがしたかったのに、子供っぽさが邪魔をしてしまった。最後の日くらい話せばよかった。一緒の床で眠り、朝を迎えたかった。どうして最後まであんな態度を取ってしまったのだろう。
それに気づいたときには、もう半助も伝蔵も出かけた後だった。勢いのまま家を飛び出し、母はそんな利吉を何も言わずに送り出した。
利吉は半助と過ごした日々を思い出しながら走った。堪えようにも勝手に涙があふれる。離れてしまっても、忍術学園に行っても、私たちのことを忘れないように。一緒に過ごした日々を忘れないように。——そう願いながら、風呂敷に包んだ半助の箸と茶碗をしっかりと抱えていた。家を飛び出すときにどうしてもこれだけは渡したいと思って抱えてきたものだった。
ふたりに追いつけるはずはない。でも必死に走っていると少し遠くに大人2人くらいの影が見えたきがした。
「このままいけば追いつける」
心が折れそうになっていたが諦めずそのまま走り続ける。
だが、追いつこうと焦ったその瞬間——。
足を滑らせ、小川に落ちてしまった。
幸い、大きな岩はなく、砂利が食い込んで痛みはあったが、それよりも悔しさが勝っていた。
「風呂敷!」
慌てて拾い上げると、嫌な音がした。箸は風呂敷から飛び出し、茶碗は三つに割れてしまっていた……。
無力だった。お兄ちゃんにも父上にも追いつけず、大切な器すら守れなかった。忍びたるもの物に執着など持たないはずだ。もとい物以外に場所や環境にもだ。だけど…それでもこの器が目の前で壊れたことにより一気に喪失感と孤独が押し寄せ、まだまだ子供の利吉にはひどく悲しみ静かに泣いた。
泣き疲れた頃、ふと見上げると、小川のせせらぎが太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。もう昼だ。重い足取りで帰路につく。
谷を上がると、母上が待っていた。
「利吉、お昼ご飯ですよ」
何も言わず、濡れた着物ごと優しく抱きしめてくれる。
泣きはらした顔についても何も言わずただただ抱きしめる母上。
「母上、これをお兄ちゃんに渡そうとしたのですが…」
割れた器を見せると、母はずぶ濡れの風呂敷を優しく取り上げ、頬を撫でながら「そう…」とだけ言った。
数週間後、母上と一緒に食事の準備をしていた利吉は、食器棚の奥に見たことがある形だけど見たことがない色の器を見つけた。
「母上…これは」
それは、丁寧に金継ぎされた半助の器だった。傷ついても欠けても、適切な処置をすれば、以前より美しくなる。まるで半助のようだ。母と父が自分のために手をかけてくれたことが嬉しくて、涙を貯めてしまうが母上に気づかれないようにする利吉。
「利吉、それはお兄ちゃんが帰ってきたときまで片付けておきましょうね」
「はい」
慎重に食器棚に戻す。いつまでも、ここが、半助の帰る場所であるように——。
「あ、母上、割れた理由、お兄ちゃんには絶対に言わないでくださいね!!」
*****
半助は黙って奥様が話し終えるのを待っていた。しかし、話の途中から、うれしいような恥ずかしいような気持ちがこみ上げ、顔が少し赤くなっていた。
「そんなことがあったんですね」
そう言いながら、持っている器の継いだ部分を指でなぞる。あの日の「兄弟喧嘩」のような出来事がずっと心に引っかかっていただけに、半助は利吉の行動を知り、胸が熱くなった。
「あの子にとって、お兄ちゃんは特別ですからね」
「私にとっても、利吉君は特別です」
「あら……」
奥様はうれしそうに微笑んだ。しかし、隣にいた伝蔵は、お猪口を口元に運びながら「利吉の秘密なのにバラしちまった」と、どこか申し訳なさそうに呟いた。
「今日、利吉は寺に行っていますが、そろそろ帰ってくる頃でしょう」
利吉が帰ってきたら、自分が戻っていることを知っているだろうか。驚くだろうな。学校生活の話をたくさん聞かせたい。かわいい生徒の話をしたら、拗ねてしまうかもしれない。でも、君は私にとって最初の優秀な生徒なのだと伝えたい。そして、この器で一緒に飯を食べよう。
そう考えていると、間もなく足音が聞こえてきた。
半助は玄関で、ドアが開くのを静かに待つのだった。