背中のなかの流れ星梅のつぼみが膨らんだ。ほのかな甘酸っぱさが、ドラルクキャッスルマークⅡ の路地裏を賑わせる。見頃を迎えるあたりには、寒さもやわらぐことだろう。
「まぁ閉め切っているから、甘酸っぱさもなにもないけどね」
寒風にかおる梅花より、安全地帯のこたつで映画鑑賞をするに限る。2月の路地裏に私が耐えられるはずあるまい。
さてさて、今日はどのクソ映画にしようかな。
鑑賞にたえない映画を吟味していると、ロナルド君があらわれた。
風呂上がりの湯気たちのぼるバスタオル一枚。
眉をはね上げアイコンタクト。ヘイロナ公!原始人のマネかい?
「パンツ忘れた」
「ああ、そう。」
乗る気はないらしい。残念。
すこし前みたいに、私が起きていても、リビングでクソ映画を観たり、ゲームで遊んでいても、驚き飛び上がることはなくなった。
驚きも日々のスパイスだ。
今日はおもしろみに欠けるし、物足りない。ならばさっそくパンツの柄でも揶揄ってやろうと、テレビの音量をしぼってからロナルド君へ顔を向け、目に飛び込んできたのは大惨事。
今日の第一死因。腹だた死に。
「ンォーーーーー‼︎なにやっとんじゃ自傷行為アホルドッ!!」
「いきなり何??!自傷なんてしとらんわ!」
「あほぬかせ!」
砂山のままの身体から腕だけ再生させ、キッパリと指さした。
「ならその背中の赤い筋はなんだ言ってみろ!」
「は?背中?」
首をまわしているものの、僧帽筋が発達しすぎて直接にはわからないらしい。
もだもだ動く若造に痺れがきれた。
私の身支度用に持ちこんだ、御真祖さま謹製、吸血鬼もうつるスゴイカガミをどこからともなく引っ張り出し、ロナルド君の背後に置いた。ついでに手鏡もロナ造に握らせ、鏡ごしにメリハリのある美しいロナバックを見せる。クソ、いい筋肉しやがって!
右から左へ手鏡をうごかしたロナルド君は、拍子抜けしたように鼻を鳴らした。
「なんだ。騒ぐほどじゃねえじゃん」
「おい、もっと良く確認しろ」
「たいして掻きむしってないだろ」
「めちゃくちゃ掻きむしってるから言っとるんじゃ」
鏡にうつる背中には、幾筋もの赤線が新人時代の古傷の隣にいすわっていた。背骨のあたりは表皮のカサつきとヒビ割れが目立つものの、傷はない。とにかくひどいのは肩甲骨の中ほどから下。何度もおなじ場所を爪で掻きむしったのがよくわかる。
深さが違うようで、真っ赤に腫れたものから白く皮膚が逆だったもの、古いものは瘡蓋になりつつあるが、それも中途半端に剥がれている。きっと痒くて剥がそうとした痕だ。
「まったくなんだこの有様は!」
「冬のあいだ痒かったんだよ」
「乾燥してしまうのは仕方ないが、きちんと保湿すればいいじゃないか」
血が一気にあたまにのぼり、こんどは怒りすぎ死だ。
私が日々どれだけ、銀の相棒の筋肉に気を使っているか、わかっているのか?いや、コイツはわかっていない。気付いてすらいないだろう。鈍ちん野郎には高度すぎる気遣いだった。
しかし、これはギャフンと言わねばなるまいよ。
「背中痒いと掻くだろ」
「掻かんわ!ボディークリーム塗るわ!!」
「そんなところに塗れねぇよ」
「塗れるだろなに言っとんのじゃ。あーもー引っ掻き傷でみみず腫れになってるじゃないか。せっかくこの私が育てた皮膚を傷つけおって。5歳児め」
「俺の皮膚じゃ」
デコピン攻撃に備えてあらかじめ死んでやった。デコのあたりの砂が風圧で弾けとんでいく。怖。アルティメットデコピン怖。
「ノーマルデコピンに負けるなよ」とか言っているが無視してやる。
砂のまま、救急箱に手をのばす。
薬用ボディークリーム。怪我をしたとき用の軟膏だ。
事務所に押しかけた頃は、いつ開封したのかも分からない抗ヒスタミン軟膏や痒みどめの塗り薬が散乱していた。ドラドラちゃん式お掃除術の餌食になりゴミ箱に消えたがね。
私がいま手にしているのは定期的に買い替えているものだ。たいして使いもしないのに、容器型を買いたがるのは理解しかねる。去年の秋に卸したこのボディークリームだってほとんど使っていないじゃないか。
でも、こんなにひどい引っ掻き傷なら半分くらいは必要かもしれない。ん?ひょっとするとそんなにいらないのか?人間の傷の治りなんてわからないや。不便な身体してるよね。
傷が治ったらチューブ型に買い変えてやろう。
再生した身体をむけ、微妙に重い容器を突き出した。
「ほら、自分で塗りなよ。どうせ普段から面倒くさがってたんだろう?」
「面倒つうか…塗れねぇんだよな」
「なんで」
「筋肉が邪魔で」
「筋肉が邪魔で!?!?」
言い訳のおかしさに驚いた。ボディークリームの容器が手をすり抜けて、私のキュートな親指に激突。床にぶつかった音にも驚いたから、いっきに3回死んでしまった。目標1日20死の残機が減ったじゃないかどうしてくれる。
「なにそれ意味わかんない破邪の呪文?」
「ただの日本語ですけど?」
見たほうが早いな、とロナルド君は自分の手を背中にまわす。
肩甲骨の上下の端までしか指が届いていない。対角線に手をまわしても、盛り上がった腕や肩の筋肉同士がぶつかり、指が背中から浮かんだままだ。がんばって伸ばした中指たちが触れ合うこともなく、空しくピラピラ揺れている。
分厚い身体を縮めるように動かす。その必死さがどうにもおかしいったらない。
「ほんとは背中のいちばん真ん中あたりが痒いんだけどよ。届かねえんだよな」
「ロナルドくん体硬かったっけ???」
「柔らかいわボケ」
背後へのノールックパンチが大当たり。笑いを堪える私はまたもや腕だけ再生させ、ロナルドの背中を指差した。
「届いてないじゃないか!私だって届くぞ!?」
「おめーのは筋肉ないからだろうが!見ろこのムキムキを!!」
「ンォォーーーー‼︎おファックだぞゴリルド!!見せびらかすんじゃねぇーーー!!!」
背中の筋肉を盛り上げるロナルド君。
ボディービルダーみたいにポーズを取ると、ギュッと筋肉繊維が締まる幻聴さえ聞こえてくるようだ。憤死した。ついでに勢いまかせに背中にチョップした。もちろん筋肉の盾に適うはずもなく反作用死。
「この、この筋肉ダルマめ!」
「羨ましい?」
振り向きざま、眼前の美丈夫は微笑んだ。
なんか格好ついてるのにも腹がたつ。いい顔しやがる若造め。いくら顔がよくても、口が裂けても言ってやらんぞ。私のプライドが許さんからな!
代わりに何倍もありがたいドラちゃん式自己肯定アップ講座をくれてやった。
「宇宙一かわいい私の魅力はムキムキでなくったて損なわれないし、いまくらいスレンダーなことでドラドラちゃんの愛くるしさは地球規模におさまり、まわりに正気を保たせているんだからな!感謝したまえよロナ公!」
「笑気のまちがいだな」
「んギィーーーー!!」
「おい、もういいか?寒いから服着たいんだけど」
そういえば若造は腰巻きバスタオル1枚だったな。しかし待て。
「その引っ掻き傷どうするつもりだ」
「放っとく。そのうち治る」
「お馬鹿め」
「殺した」
なんてことしてくれる。今日の残機はあと10死だぞ。
服を手繰りよせたロナルド君は、ついでとばかりに、床に放り出されたままのボディークリームの容器をとりあげた。私とそれを交互にながめ、ふっと思いついたらしい。
「じゃあ、ドラ公が塗れよ」
「なに?」
「背中痒いし。ちょうど後ろにいるし」
やっと形を取り戻した私へボディークリームを転がした。コツンと、爪にぶつかってあっけなく砂の崩れる音がした。
「痒いのに掻くなっつて言ったのはお前だろ」
「言ったけどね。吸血鬼に背中もうなじも任せていいのかい」
「べつに。脅威にもなんねぇよ」
それに、とロナルド君はまごつき、煌めく襟足をかき混ぜた。
背中に指とどかなくなったの、お前が来てからだ。
前はもっといろんな場所が痒くてさ。首とか、腕のくぼみとか、足とかな。引っ掻いてぼろぼろにしてたし。お前、洗剤変えただろ。いい匂いのやつ。ドラ公が洗濯機に巻きこまれて
新しいのに買い変えてからは、もっと痒いとこ減ったわ。
爪もこまめに切るようになったんだぜ。ほら、ジョンを傷つけたらまずいだろ?そのおかげで、掻きむしったときも、浅いみみず腫れですむようになったんだぞ。
ドラ公が人参の皮剥きしろとか、ジャガイモ洗えとか、料理手伝えっていうときにな。爪長くて土とかが挟まってんの見つけたら、うわって思ったり。あ、こないだのカレー美味かった。また作れよ…っておい。
「なに死んでんだよ」
「なんでもないわ!ゴリマッチョ5歳児は黙っとれ!」
爪にぶつけ死から立ち直っていたのに。なんてことしてくれる。
突然素直になるな。話ながら耳もうなじも真っ赤にするな。聞いてる私までうつって恥ずか死しちゃっただろう。
「私だからいいものの…好きな子以外にそういうことするんじゃないぞ。」
「そういうことってなに」
「うん。ハムカツ男には難易度高かったか」
「ハムカツパンチ」
「ウゲェーーー!」
銀の相棒は、相棒なりに私の気遣いに気づいていたらしい。もちろん私の絹を体現するそれとは比べるべくもないが。
しかし、私がくる前までは、背中に指まわってたの?そんなに細かったっけ?充分、暴力的な筋肉だったと思うのだけど。
ロナルドくんの筋肉はすぐに育ってにムキムキになるものだから、人間がゴリラになるのは速いなって。関心ばかりを覚えている。
私が洗濯機に巻きこまれたのも、ちょっと前のことじゃないか……ん?いやもう何年も前になるのか?ひょっとすると若造の中では出会った頃の思い出になってるの?ちょっと前のことなのに?人間の感覚ってそんなもんなの?わかんないなぁ。
それにしても、さすがドラちゃん!
不摂生していた野生児を健康的な都会のゴリラにまで整えるとは。見事な手腕だ。我がことながら畏怖畏怖しい。
照れと恥ずかしさと畏怖さに、なんとなく復活せずにいると、ロナルド君は服を着始めた。
分厚く育った筋肉が派手なパンツに包まれ派手なパジャマに覆われていく。ああ、そのパジャマだって、私の手が整えたものの一つだ。
吸血鬼のさがか。彼の肌が隠れる目前、数をかぞえた。
髪にたれる雫の数。うなじに滲む汗の個数。それらのすべてが背骨につたい落ちていく。水滴の一粒ずつには、ロナルド君の銀色が映りこみ、まるで十字架を背負っているよう。
むずむずと、知らない蠢きが眼窩をぬけ、鼻腔をくすぐり、空気とまじりあいながら腹の底へと居座った。畏怖でもなく。享楽でもない。よくわかりもしないけれど。これだけははっきりしている。
私は、とても気分がいい。
「おい、背中をだせ」
「あ?」
「塗ってやるといっとるんだ。痒くて掻いちゃうんだろう」
「…おう」
転がったボディークリームを今度こそ拾いあげる。
蓋をとると、薬用のかおり。
これは駅前のドラッグストアで売った。3個セットでワゴンセールをしているからと、そのまま買おうとしたのを、買い物下手ルドくんのあほ、と煽ってとめて、1つだけ買わせた。
私がつかう保湿用のクリームでは、何百年たっても味わうことのなかったはずの安っぽさ。
はじめて嗅いだときは、あんまりにもチープでおかしくおかしくて笑死にしたっけ。
それを、私の指が掬い取っている。
いまはもう血も滲まぬ幾筋ものみみず腫れ。
ただの引っ掻き傷だ。ロナルド君のいう通り、放っておけば勝手に治るのだろう。
私が腕によりをかけた料理を食べ、私が洗濯した清潔な衣類をまとい、私が整えた完璧な部屋で寝起きすれば、なんの憂いもなく、この自傷の畝はならされるのだ。きっと1ヶ月もいらない。
私にとっては流れ星を数えるよりも、容易く消えてなくなることだろう。
だから、ね。
「冷てぇ!」
「おや、これは失敬」
「思ってねえだろ!お前の手冷たいんだから一声かけろよ!」
「そうかね」
「そうだよ」
「んふふふ。ンッフ。あははははは!」
「……なんだ急に笑い死すんな」
突然砂になった私から、君はすこし身をひいた。
怪訝そうにしなくてもいいじゃないか。私はとても気分がいいのだよ。
「おいドラ公おい。なに企んでんだよ」
「なぁにも企んどらんが?……ッく」
「うそーーー!!絶対うそーーーー!なにしやがった白状しやがれ!!」
そうやって必死になるから、面白くてかわいくて揶揄いたくなるんだ。
わかっているのかね。わかっていないだろうな、この昼の子は。
「このボディークリーム、セロリ入り」
「ミッ‼︎‼︎‼︎」
「ウッソピョーーーン引っかかんてやんのピッピロピー!」
「スナァ!!」
振り向きざまに手刀を見舞わされながら、私は大口をあけて笑ってやった。
涙目のロナルド君はなにやら騒いで暴れている。それをまた揶揄ってあげる。
傷痕が、すぐに癒えてしまうなら、ね。
赤い流れ星が背中にいすわるあいだくらい、私が手入れをしてあげよう。
私は気分がいいから。今度のカレーにはハンバーグもつけてあげようかな。すりおろしセロリは特別に抜きだ。
私を傷つけることもロナルド君になら許してあげよう。こらこら、私でお砂遊びするんじゃない。復活できないじゃないか。
ああでも。あと少し、あと5分くらいは私を砂にしておいておくれ。
りんごみたいな耳なんて、君に見せたくないからね。
完(ヌン)!