【キスのはなし】
(…キス、したいなぁ)
彼の部屋のベッドの上で寝転びながら、ぼんやりとそう考えている。僕と彼が付き合い始めてから、週に数回はこうやってお互いの部屋で過ごすようになっていた。基本は各々の好きな事をして、たまに喋り、たまに触れ合う。この穏やかな時間を僕はとても気に入っていた。何より、部屋の中では彼のマスクの下の素顔が見れる。彼の顔立ちはとても美しく、この秘密の素顔を独り占め出来ているのだと嬉しい気持ちになり、化粧箱を整理する横顔をじっと眺めていると――そう、凄くキスしたい気分になってしまっていたのである。
「ビクターさん」
いきなり名前を呼ばれて心臓が跳ねる。流石にじろじろと見られるのは嫌だっただろうか、謝らなくてはいけない…と思ううちに彼がこちらに近付いてくる。急いでだらけていた体制を直しベッドの縁に腰掛けると、頬に手が沿えられる。
「少し目を閉じていてもらえますか?」
まさか、自分の思考は読まれていたのだろうか? これはもしかして、想像していた展開が訪れるのではないだろうか。心臓の音が鳴り止まないまま、期待感を胸に目を閉じると唇にふにっとした感触…ではなく、冷たい何かが触れる。その何かが唇の上をなぞるうちに、期待していたものが訪れなかった事に残念な思いが湧き上がってくる。
「ありがとうございます、もう大丈夫です。試合の時、女性の方たちの納棺には色付きのリップを使っているのですが、もっと違う色も使ってほしいと頼まれまして。なので新しく入手したものの発色を確かめさせていただこうかと…」
ええ、とても似合ってます。という褒め言葉もそこそこに、僕はただただキスしたいということしか考えられなくなっていた。丁度その事について考えていた時に目の前に愛しい人の顔があり、唇に期待を持たされたまま焦らされ、我慢しろという方が無理であった。塗られたてのリップも乾かないままに、勢いのままイソップさんに口付ける。思えば、自分からキスをしたのは初めてかもしれない。唇の感触を味わうと、とても満足した気分になり、同時に突飛な行動をしてしまったことに対しての羞恥心も込み上げてくる。
「あ、え、あの……き、綺麗な赤色ですね」
イソップさんの唇にほんのりと移ったリップの色を見て、そう呟くしかなかった。発色を確かめたいと言っていたのに、これでは本来の色が分からないではないか。理解が追いつかないのか、呆然とこちらを見る彼の顔を見て恥ずかしさで泣きそうになる。
「……もっと濃い方が、綺麗かもしれませんね」
しばらくして彼が呟くと、また唇に冷たい感触が当たる。リップを塗り直しているのかと理解した直後、今度は彼の方から口付けをされる。舌も入れずに、ただただぴったりと唇を重ね合わせたままの長いキスが交わされていた。離れると、さらに赤味が増したイソップさんの唇があった。
「やっぱり、ビクターさんには赤が似合う」
はにかみながらイソップさんがそんなことを言う。きっと今の僕は頬も唇も真っ赤になっているのだろう、顔の熱が治まらず思わず顔を隠してしまう。少しだけ頬を染める彼の顔こそ、よく赤色が似合っていた。
【猫派なはなし】
「イソップさんって、猫みたいかも」
陽の当たるベンチで愛犬を撫でながら彼はそう呟く。貴方はどちらかというと犬の方が好きなんじゃないですか? なのに僕のことは猫だと言うのか。と彼の腕の中ですやすやと眠るウィックに妬くような思いを抱きつつ、問いかける。
「どうしてそう思ったんですか? 自分ではあまり想像がつかないのですが…」
「ええとね、まず毛並みが艶々なところとか」
全く予想外の方向から来た。人間に猫みたいって言う時はツンデレだとかなんとか、基本内面のことを指すものなんじゃないか。
「高級な猫ちゃんみたいで素敵だなって思います。綺麗に手入れされていて、触り心地良さそうだなぁって」
「……撫でてみますか?」
思わずそう言ってしまった。まさか彼が自分の髪の毛に対してそんなことを思っているだなんて知らなかった。特別なケアをしているつもりは無いし、自分からしたらビクターのふわふわとした金髪の方が触り心地良さそうだと思うのだけれど。なんて考えていたら、彼が目を輝かせ始めた。
「いいんですか……!」
「それは、ビクターさんですしいいんですけど。……そんなに喜ぶ事ですか?」
「だって、イソップさんが撫でられてるのって想像つかなくて。そんな得意じゃないのかなって思ってました」
撫でられる想像が容易くつく成人男性なんてそんなにいないだろう、と突っ込みを入れたくなるが、確かに目の前の彼は実際に撫でられている事が多い気がする。よくチームを組んでいるらしい囚人や、面倒見のいいオフェンス、バーメイドなんかによく試合後頭をわしゃわしゃされているなと思い出す。彼は何歳だと思われているのだろうか、いやそもそもそんな無防備に頭を他人に触らせて欲しくないのだが……。そんな僕の思いは知らず、そっと彼の手が頭の上に乗る。大人になってから撫でられるなんて初めてで、思わず気持ち良いものだなと思ってしまう。よく動物を撫でているビクターの手は慣れており優しく、年下に見えるくらいあどけない彼だがこういう時の包容力は流石のものである。しばらくされるがままにするのもいいか。
「最初はちょっと怖かったけど、こうして……ええと、付き合ってから…はたくさん甘えてくれるじゃないですか。そこも猫みたいで可愛いです」
やっぱり恥ずかしくなってきたので、ビクターの手をそっと降ろさせる。不満気な声が彼から漏れたが、もう充分であろう。基本的に可愛いのはビクターの方であって、ビクターの中で僕はかっこいい……とまでは思われていないとしても、まさかどちらかというと可愛いという存在であったとは思わなかった。
「懐いてる相手が少ないのも、猫みたいですよね」
少ないというか貴方にしか懐いていない。同じ時期に荘園に来た人とは付き合いも長いし、多少ラフなコミュニケーションを取ったりもするが、懐くという表現を使うならビクターただ1人だけである。
「…貴方が面倒見てくれるのなら、それだけでいいので」
そう言うとお世話する子が多くて大変だなぁ、と笑う彼。別にペットになりたいつもりは無いのだが、僕の傍に居てくれるのならそれでいい。そもそも、ペットという立場になってしまったら彼の相棒に勝てる自信はない。
「ちゃんとウィックとも仲良くしてくださいね」
その相棒が彼の膝の上でばう、と鳴く。ちゃんと僕のことも可愛がってくれるのなら。と言いかけたが、ウィック相手に嫉妬していると知られたらまた可愛いなどと言われてしまいそうだったのでやめることにした。その代わり本当は貴方の方が可愛いんですからね、と説くことにしよう。
【添い寝するはなし】
「最近、よく眠れないんです」
朝の食堂に全然来ないというイソップさんを呼びに行く係を任命され、部屋を訪れたらいつにも増して虚ろな目をした彼がベッドに横たわっていた。この様子と言葉から察するに、1週間以上は上手く眠れていないのだろうか。最近はお互い試合に出るタイミングも被っておらず、全然会えていなかったため気付くことができなかった。
『パンを持ってくるので、まだ休んでいて大丈夫です』
そう書いたメモを彼に渡し、さて取りに行こうか、この様子だと食事も取っていないだろうけど固形物は喉を通るのだろうか……。等と考えながら扉を開けようとすると、いつの間にかベッドから降りていた彼にいきなり袖を引かれる。余計なお世話だっただろうか? と反省しているとまた予想外の言葉が飛んでくる。
「いかないで」
シンプルな一言だが、ビクターを引き留めるには充分であった。いつもは人を頼らない彼が、弱っているとはいえ自分に甘えてくれているという事実が心臓を浮つかせる。こくりと頷いて手を握り返すと満足そうに微笑む彼だが、体調が悪いのには変わりないので一刻も早く休んでほしい。
『眠れないにしても、横になっているべきだと思います。僕はここにいますので』
既に自分の分の食事は摂っているし、この後用事もないので彼がゆったりと休めるまで見守ることに決めた。ベッドに横たわるのを見届けたら、そこの椅子にでも座ってずっと見守っておけばいいだろうか。見られているとそれはそれで緊張してしまうのではないだろうか。いかないでと言われた以上、ここにしばらく居るつもりだが……。何をするのが1番彼の助けになるのか分からない。
「ありがとうございます」
弱々しい声でイソップさんが呟く。分かりやすいくらい弱っているなあ、と心配していたらまたぐい、と手を引かれる。
「こっち」
こっち、とは。困惑しているうちに腕ごと引っ張られてベッドに倒れ込んでしまう。わけも分からないままに手際よく布団をかけられ、彼と添い寝するような形になっていた。僕は休息をとる必要はないのだが、と訴えようとした時にはもう布団の中の腕が僕の体をすっぽりと包んでいた。これだと添い寝というよりかは抱き枕にされている感じがする。彼がリラックスできるのなら別になんでもいいが、お世話する気でいたのにされるがままに抱き枕にされるというのは少し不本意でもある。……それにしても、これだと…。
(僕が全然落ち着かない)
2人は恋人同士だ。だからといって、まだまだハグやキスなどのコミュニケーションには恥ずかしさが勝る。こんな状況にした本人はもう寝ただろうか? ちょうど顔が見れないし身動きも取れないのでわからない。彼の体温がじわじわと伝わってきて、心臓の鼓動も早くなる。からだが熱い。たまに頭を撫でたり腰を触ったりする手がそれをさらに加速させる。
(どういうつもりなんだろう)
疲れすぎてストッパーを失ってしまったのだろうか? こんなに積極的に触ってくれるのは初めてかもしれない。生者が嫌いだと言っていた記憶があるが、凄く発熱しているに違いないこの体の温もりは大丈夫なのだろうか。そもそも今彼に明確な意識があるのかどうかすら怪しいが……。
(……心臓の、音。はやい)
自分もいっぱいいっぱいだったから気付かなかったが、耳をくっつけると彼の心臓の音が聞こえる。これは、もしかして。
「……起きて、ますか?」
「…………はい」
抱きしめられている力が弱まり、腕の中から解放される。顔を上げると、気恥しいのか彼が反対側を向いてしまった。
「……ほんとに、寝れなかったんです。原因はよく分からないんですが。だいぶ参ってたんですよ…そもそも、最近ビクターさんの顔すら見れてなかったじゃないですか。それが、その。余計不安……というか…」
ぽつぽつと語るイソップさんの背中は、いつもより縮こまっており、大人っぽくてかっこいいいつもの面影は無くなり年相応、いや、それよりも下のように見えた。意外な一面を見せてくれている彼がとても愛おしく、後ろからまた抱きしめてみると腕の中の体がびくっと跳ねた。
「それで、一緒に寝てほしかったんですか?」
「……言わせないでください」
頭が回ってなかったといえ、こんな大胆なこと……。と消え入りそうな声で言う。弱っている時に僕を求めてくれたというのは素直に嬉しいし、気にすることなんてないのに。
「いまは寝れそうですか?」
「はい、おかげさまで。…ビクターさん、とても温かいので」
おやすみなさい、良い夢を。僕がそう言うと、イソップさんがこちらを振り返り再び抱きしめられる。そして僕の額にキスを落とし、満足したように目を瞑る。…これだと僕はやっぱり寝れないだろう。彼が目覚めるまでに、どうかこの胸の高鳴りが収まっていますように。
目を覚ますと、目の前にビクターさんの顔があった。……僕は何時間ほど寝ていたのだろうか? 窓の外も暗いし、どうやらもう夜になってしまったようだ。久しぶりに長時間眠れて体がすっきりしている。これ以上長引いていたらいよいよ体調も悪化していただろう、全部彼がこのタイミングで来てくれたおかげだ。起きたら改めてお礼を言おう。
(……起きるまでは、まだこのままで)
彼は視線が苦手だから、起きている時にあまり見つめすぎてしまうと顔を隠されてしまう。だから、少し申し訳ないが今は彼を好きなだけ眺められる絶好のチャンスだ。ベッドに放り出されている手に指を絡ませてみると、なめらかな肌触りが感じられる。外を走り回って少し日に焼けている、健康的な肌。眩しいくらい輝いて見える金髪。いつもほんのり色付いている頬もまとめて愛おしい。
(それにしても、ずっとここに居てくれたのか)
自分が頼んだことだが、我儘をそのまま聞いてくれるとは。頼まれたら断れない性格は少し心配だが、今は大人しくこの温かさに甘えるとしよう。髪に指を絡ませて遊んでいると、結ばれている口がふるふると緩み出しているのに気付く。起きてしまったのだろうか、気付かないふりをしたまま髪を撫で続ける。頬に手を沿わせると、我慢できなかったのか目がぱちりと開かれ、先程より赤くなった顔でこちらを見つめてくる。
「おはようございます」
「……おはよう、ございます」
「おかげさまで、よく眠れました。来てくださってありがとうございます」
「……それなら、よかったです…」
もごもごと口を動かすビクターの、僕は全然寝れてないけど……という呟きは枕に吸い込まれていった。目は覚めてしまったが、この温もりから離れる気も離す気もない。夜が明けるまでは、まだこのままで。
【公共マップ】
荘園からまた新しい公共マップのお知らせが来た。今回は星空と水面が合わさったなんともロマンチックな場所のようだ。さらに詳しく読んでみると、2人で特別な関係を結んで行うゲームだとか、ダンスだとかが催されるという。この荘園には恋人関係にあるサバイバー達も数組いると聞いている、そういった人たちがこぞって行くんだろう。…今までの公共マップは、ほとんどグランツさんと一緒に行っていた。しんどいゲームをせずとも報酬が貰える貴重な場なので、行かない理由は無かったが、1人で行ってしまうと公共マップではしゃぎたい輩によく絡まれてしまう。それは面倒なので、同じ境遇にあるであろう彼を発見し1度誘ったことが始まりだった。無言で淡々とタスクをこなし、少し観光するだけなのが楽で、新しいマップが来る度に一緒に行くのが恒例行事になっていた。だから、いくらカップル向けの場所だとしても、別に僕たちがそういう関係でなくても、今回も2人で行くんだろう。と思っていた。
「ビクターなら、ルカと一緒に行ったぞ」
「はい?」
墓守の彼からその言葉を聞かされて、思わずそんな声が漏れた。
「なんでなんですか?」
「なんでって言っても……」
困惑する墓守を余所目に、どうして自分じゃなく他の男と一緒に行っているのだろうかと考える。確かに、絶対に一緒に行こうねなどと一言も約束していないし、彼に仲の良い相手が自分以外でいないわけじゃない。現に今回は囚人と一緒に行っているとの事だ。それに僕は、彼の恋人でもなんでもない。縛る理由なんて1つもないのだ。ただ、一緒に居るのが当然だと勝手に思い込んでいただけで。
「おい、大丈夫か。そんな死にそうな顔をして。……別に、そんな気に病む事じゃないだろう」
貴方に何が分かるんだ、という言葉をぐっと堪える。が、モヤモヤする思いが晴れないままに目の前の彼に本音を漏らしてしまった。
「……今回のマップ、色々と特別な要素があるじゃないですか。わざわざ2人で初日に行くって、相当親密度高い関係じゃないですか。……恋人、とか」
はぁ、とため息を漏らして背を向ける。狭い世界とはいえ、他人の人間関係なんて全部把握出来てるわけじゃない。毎日喋るような間柄でもないし、誰と付き合い始めただのなんだのは本人の口から言われないと分からない。もう今回のマップの最低限の報酬を取る気すらも無くなってしまった。自分はこんなにも彼に入れ込んでいたのかと実感する。
「あ、おい待て! 確かにあいつらは仲良いけど、そういう関係じゃ絶対にない。それに……詳しくは言えないけど、ビクターのこと待ってみてもいいんじゃないか。ていうか、こっちはこっちであんた達にルカを貸してる状態なんだが」
「貸してる?」
「……それは僕の愚痴だ。とにかく、大丈夫だと思うぞ。ビクターが1番気にかけてるのは間違いなくあんたなのは、僕にも分かる。気に病むことないってのはそういう事だ」
それじゃあ、と立ち去る墓守の姿を見送る。励ましてくれてるのは分かるが、今回において自分よりも優先する人が居たというのは事実なのだ。彼の2人はそういう関係ではない、という言葉は信じるが、じゃあそれ以下の自分はなんなのか。 ……ふと、彼の特別になりたいという思いが頭をよぎった。自分以外の人と一緒に居て欲しくない。傍にいて欲しい。言葉にして、そのことを伝えたい。彼が僕以外の元に行ってしまうのだけは絶対に嫌だ。ビクター・グランツへの特別な感情を自覚してしまえば、それはもう留まる所を知らなかった。
その夜、部屋に一通の手紙が届けられた。小さい便箋の中には
『明日の夜、夢境で待っています』
との内容が書かれていた。差出人はビクター・グランツ。
彼から誘われることは今までも何回かあったが、手紙による招待は初めてだ。これは何か、特別なことがあると期待してもいいのだろうか。先程までの憂鬱な思いはどこかに消え、自覚してしまった彼への感情をどのように持っていけばいいのかという思考で埋め尽くされてしまった。