「仰っている意味が理解出来ません」
偶然耳に入った聞き慣れた声に、東北本線と高崎は足を止めた。
大した一言でもないのに二人が気に留めたのは、その馴染みある声からあからさまな不機嫌さを感じ取ったからだ。
お互いに一瞬視線を交わした後、声の聞こえた扉の向こうに耳をそばだてる。
声の主──東海道本線の業務内容を特に理由もなく盗み聞きするのは幼いころからの二人のクセだ。
扉の向こうからは東海道本線と上役であろう人間の気配を感じる。
「ですから、つばめ殿に西から戻って来て頂きましょうとご提案させて頂いているのです」
「何故ですか?」
「もちろん、東海道新幹線になって頂くためですよ」
…は?
思わず二人は顔を見合わせた。
東海道本線の先程の言葉と同じ考えが脳内を駆け巡る。言っていることの理解が出来ない。
新幹線、そう。
つい最近、といっても人間たちからすれば約1年ほど前に『東海道新幹線』という全く新しい路線が開通した。
東海道本線の複々線として東京オリンピックに合わせて開業したそれは、紆余曲折ありつつも少しずつ今を生きる人間たちに受け入れられつつある。
そしてその新幹線の化身は、東海道本線の兄であり元特急はとだった。
「新幹線は今のところ順調です。むしろ今後どんどん成長していくでしょう。ここまで軌道に乗ればもう心配はありません。あとはつばめ殿におまかせするべきかと」
高崎は思わず頭を抱えた。この人間は大丈夫か、と。
確かにつばめという男は、他に類を見ないほど優秀ではあった。
彼を認めるのは同族たる鉄道だけではなく人間もで、東海道新線はきっと彼になるのだと誰もが疑わなかった。
しかし実際に新幹線になったのはつばめの妹であり、東海道本線の兄でもあるはとだった。
その決定には当然方々から疑問の声が上がったが、最終的にはつばめが彼を推薦したこと、東海道本線に異議がないこと、他にやりたがる路線が存在しなかったことなどを理由にはとに落ち着いた。
その後はとは懸命に新幹線としての努めを果たし、新幹線という未知の乗り物は着実に人間たちに受け入れられて来ている。
もう少しすれば記念すべき一周年というところで、なんという提案をしているのか。
立場に関わらず、乱暴すぎる提案だと高崎は思った。
同時に、あの兄に並々ならぬ執着を見せる男の前でそんな提案をする人間の命知らずぶりに震え上がる。
帯刀している時代なら今ごろ真っ二つになっているのではないだろうか。
刀を持っていなくとも東海道本線ほどの体躯と腕力があれば殴り殺すのも容易いだろう。
高崎が割って入るべきか思案している間も東北本線は微動だにせず中の様子を伺う。
室内からは荒事が起きそうな気配はなく、至って静かだった。
「その話はつばめに直接ご提案下さい。私からは特に何もありません」
では、と踵を返す雰囲気を感じて、高崎と東北本線は扉から退いた。
とっさにわざとらしくぴゅうぴゅうと口笛を吹く高崎をよそに、東北は真っ直ぐに東海道を見据える。
しかし東海道本線は一瞬目配せをしただけで特に反応せず、その場を立ち去ろうとした。
「怒らないんだ」
背後から東北本線が声をかける。
「ガキの頃みたいにゲンコツ喰らいたいのか」
「盗み聞きしたことじゃねーよ!」
声をかけたのは東北だというのに、返事をしたのは高崎だった。
互いに思うことは同じだからだ。
「怒ってどうする」
二人に背を向けたまま東海道は答える。
「上官に対して不敬だと思うけど」
「あの人間に悪気は無い。新幹線が失敗した時のためにはとをつばめの代わりに新幹線にしたと勝手に勘違いしてるだけだ。それに、つばめがあんな話を受けるわけがないからな」
東海道本線と同様に、つばめがはとを特別扱いしていたのは東海道と関わる路線なら誰しもが知っていることだった。ゆえに東海道本線の言い分も理解出来る。
「悪気が無いからって何を言ってもいいわけじゃない」
「お前兄さんのこと嫌いだろ。なんで怒ってんだ」
「軽率で無知で馬鹿な人間に腹が立っているだけだよ。あんなのが同じ場所で働いてると思うと反吐が出る」
「すげぇ言いようだな。ま、気持ちはわからんでもないけどな」
路線という生き物をよく理解していない人間たちにとっては名前が変わるというのは結婚して名字が変わったり、改名する程度のことなのだろうが実際は違う。
己の核となるもの、人間で言えば魂に近い。
つばめが自分の名前を手放さなかったのも結局はそういうことだ。
最後の時まで、つばめでありたいからそれを選び西へ経った。
名前があるから、命が宿る。
東海道本線の言う通り、個人的感情で言うと東北本線は東海道新幹線が好きではなかった。
その存在も気に入らないし、個としての性格も相性が悪い。
実直な所は高崎と近い部分もあったが、本質的なものは似て非なるものだ。
今後どのようなことがあっても水と油のように交わることはないだろう相手なのは当人も理解はしていたが、だからといって不当に名前を奪われていいとは思わない。
おまけに廃線になるでもなく、なにか問題を起こしたわけでもなく、個人感情だけで自分たちが担ぎ上げた神輿から引きずり下ろす。
路線というひとがたにとってこれ以上の屈辱は無い。
「こっちは東海道が殴りかかったりするんじゃないかって心配してたんだぜ」
それこそ命を奪うのではないかと考えたことについては高崎は口をつぐんだ。
それほどあの人間の言葉は受け入れがたく、そうなったとしても東海道本線を責める事は出来ないとまで思っていたからだった。
「んな事後処理が面倒なことするか。それにあれはきっとあいつの思いつきだ。他の部署には話すら通してない。聞くだけ時間の無駄だ」
「随分優しいんだね。万一のことが起きても知らな─
「東北本線」
地を這うような声とともに、二人は空気が張り詰めるのを感じた。
自分の思うように呼吸することすら難しい。いつもの様に互いに目配せすることも出来ず、その視線は黒い背中に縫い付けられている。
決して殺意を向けられているわけでもないのに二人の喉は乾き、続きの言葉を恐れることしか出来なくなっていた。指一本自由に動かすことは敵わない。
純粋なまでの怒りがその空間を支配していた。
「時間の無駄だと言っている」
語気を荒らげるようなことはしていないというのに、間違いなく言葉以上の不快感と怒りが込められているのを二人は感じた。
「…それに、あれが馬鹿正直につばめに話をしたら俺が何かしなくとも向こうがどうにかしてくれるさ。そっちのがきっと"面白い"ぞ」
一転、愉快そうな声でそういうと、東海道本線は二人に振り返ることなく去っていった。
廊下の角を曲がり、その姿が見えなくなってようやく東北本線と高崎は大きく息を吐く。
「あの人間大丈夫か?明日には東京湾に浮かんでるなんてことないだろうな」
「虎の尾と竜の逆鱗、同時に触れるなんて器用なことするものだね」
その後その哀れな人間はいつの間にやら地方へ転属になった。
手引をしたのが誰なのか、偶然のことなのかは誰も知る由もない。