雨の日のピタアロピーター・ヴィンセントは自室の大きな窓に打ち付ける雨粒を眺めながら深いため息をついた。
「今日は会えないな…」
誰も居ない広々とした部屋に自分の声だけが静かに響く。
この街に不満はないが、唯一欠点をあげるとするなら雨が多い事だ。あと観客のノリが悪い。
以前なら雨など気にも留めなかったが、今や酒を煽らないと気持ちが落ち着かずイライラしてしまう。
なぜ俺がここまで気持ちを乱さないといけないのか。
原因は恋人であるヴァンパイア、アロにある。
俺の生い立ちを知っている人が聞けば信じられない話だろうが、俺たちは本気で愛し合っていた。デートもするし人間の恋人同士がする事は大体やった。もちろん身体の関係だってある。
アロはヴァンパイア一族の長であり、名声もあり力も段違いに強い。最初の内は力加減が難しいと言いながらハグをするだけで俺の肋骨を数本折った事もある。あの時は流石にビビったが…時が経つにつれてアロも分かってきたのか最近は骨を犠牲にする事は無くなった。いや、概ね無くなった。
そんな順風満帆に見える俺たちにも弱点があった。
この雨だ。アロは雨の日には決まって訪れない。理由はわからないがまた明日と別れた次の日が雨ならば来ないし、絶対にこの日はデートをしてくれ!と頼んでも雨ならばキャンセルだ。
セックスをした後は、アロも心地いいのか朝まで隣で微睡んでいることが多い。寝起きに窓から差し込む太陽に照らされ宝石のようにキラキラ輝くアロを見るのが好きなのに、俺が寝ている間に雨の気配を感じるとお構いなしにすぐさま帰ってしまう。1人ベッドの上で雨音に起こされる気分は最悪以外の何者でもない。
物思いに耽っている間にも雨足は強くなり、打ち付ける雨粒も大きく強くなっていた。バチバチとまるで暖炉で弾ける薪のような音を立てながら降り続ける雨を眺め、また一つため息をついた。
______________
クリスマスの夜、自室の窓から街を見下ろしていた。
街は華やかに彩られ電飾がキラキラと輝き、雲ひとつない夜空には瞬く沢山の星。まるで世界中の宝石を全て手に入れた海賊のような最高の気分だった。
「ふふ…海賊か。確かに最高の気分だ、ピーター」
すぐ側から落ち着いた少し訛りのある発音でアロが囁いていた。上着を着ていない俺の肩にアロの左手が添えてある。きっと心を読んで堪えきれず笑ったのだろう。
海賊などと幼稚な考えを読まれ少し怪訝な表情をしてしまい、またアロが小さく笑った。
最初のウチはこんな風に楽しそうに笑う事はなかった。微笑みはするものの目は笑っておらず、綺麗すぎる造形も相待ってまるで作り物のような顔をする事が多かった。
しかし最近は俺の考えが幼稚で笑えるのか気を許しているのか、まるでどこかの貴族の娘のように上品に。しかし無邪気に笑うのだ。
そんなところが可愛くて愛しい、たまらなく最高なんだ…と考えているとアロが少し頬を染めてこちらを見上げていた。
「世界中の何よりも綺麗で…俺が求めている唯一の、最高の宝石が今手に入りそうだ。」
芝居じみたくさいセリフにまたアロが笑った。今度は鋭利な歯が少し見える程度に口を開けて楽しそうに笑っていた。
そのままお互い吸い寄せられるようにキスをした。軽いフレンチキスだ。アロはこのティーンの様な軽いキスがお好きなようで俺の頭を両手で柔らかく包みながら顔や髪、首筋にキスの雨を降らしている。雨は嫌いだがアロから降り注ぐキスの雨は大歓迎だ。可愛い音を立てながら瞼にキスをされ、薄ら目を開けると窓の外で輝く宝石に照らされた真っ赤な瞳と目が合う。
食われちまう…と考えたところでアロが鋭い歯を見せながらニヤリと笑った。
瞬きをすると一瞬の浮遊感とともにソファに移動して押し倒されていた。先ほどまで2人窓辺で抱き合っていたというのに。
「力持ちのお嬢さんだな」
と両手をあげ降参のポーズをすると俺の腰に跨り見下ろすアロは興奮したようにはっ…と吐息を漏らした。
「まだ力で敵うと思っているのか?君はいつでも私の掌で転がされているんだよ。ピーター・ヴィンセント」
俺の胸元を触れるか触れないかでソッとなぞりながら余裕のある微笑みで見下ろすアロに興奮を覚え、心の中で欲望が溢れてしまう。もちろん身体もアロを欲していて上に乗っているお転婆なお嬢さんには伝わっているだろう。
また少し頬を染めたアロに手を伸ばし、今度は深い口付けを…と思った瞬間、突然窓の外から大きな音がした。
2人してハッと外を見るともう一度大きな雷が鳴り、先ほどまで沢山の星たちが瞬いていた夜空はどんよりと分厚い雲に覆われていた。今にも雨が降り出しそうな天気に外を見つめながらアロが呟くように言った。
「あぁ、昂っていて気が付かなかった。雨が…降る…」
最悪だ。手に入れた宝石を全て奪われた気分だ。
今までも何度かデートの途中で今日はここまで、とお預けをくらった事はある。そういう日は決まって雨が降る。
沈没船のように急激に沈んでいく気持ちを抱えているとアロが離れがたそうにそっと俺の輪郭を指でなぞった。
その優しさに堪えきれず叫んでしまった。
「雨がなんだって言うんだ…ただ水がザーザー降ってくるだけの自然現象だろ!?俺たちが離れる理由にはならない!」
俺の叫びを聞いているのかいないのか、いつのまにかソファーには俺1人、アロはすでに部屋の出口に向かってコツコツと歩き始めていた。
「おいっ待て!…っ…待ってくれ!!うっ…」
無様に躓きながらもなんとかアロに追いつこうと走った。自分が情けなくて少しの涙と嗚咽が漏れてしまった。それに気づいたのかアロが一瞬動きを止めた。
振り向いたアロの表情は悲しさでも寂しさでもなく___
興奮だった。
すでに雨が降り始めているのだろう。部屋にはポツポツと窓に雨粒が当たる音が響き、湿気が漂ってくる。
自分の背後で雷の音が鳴り、室内をフラッシュのように照らした瞬間俺はアロの側まで走り抜けた。
いつもであれば逃げるアロに近寄る事など絶対に出来ない。しかし今のアロは何かおかしい。
近づいて逃げられないよう白い手首をしっかりと掴んだ。アロは先ほどよりも息遣いが荒く薄い唇からはハッハッと興奮した吐息が漏れている。
「アロ…お前、興奮してる。なんで…」
興奮で暗く濁った赤い目を覗き込むと、アロはスッと澄ました顔になり息をするのをやめた。
文字通り、アロは息をしていない。ヴァンパイアは呼吸をしなくとも問題ないらしく、それが原因で過去に一悶着あったのだ。その時の事を思い出してピンときた。
「もしかして、雨の日はきついのか。俺の匂いが…」
そう言葉にする前に触れている手から心を読んだのかアロは掴んでいる俺の手を払い、すでに長い廊下を渡った先の玄関まで移動していた。
興奮している理由が自分であるという嬉しさと行ってしまうという焦りで俺の心臓はバクバクとうるさい音を立てていた。
アロが玄関の扉を開けようとした瞬間、一際大きな雷が鳴り響き部屋中が明るくなったかと思うと電気が一瞬にして消え完全な暗闇になった。
呆気にとられ、その場から身動きが取れなくなってしまい急激に不安が押し寄せてきた。アロはもう行ってしまっただろうか。視界は暗闇に覆われて何も見えないし激しい雨音以外全ての音が無くなってしまった。
「アロ…居るのか…?おい!アロ!!くそっ…」
無我夢中で玄関の方へ走り出してみたは良いものの、所狭しと並んでいるコレクションの棚にぶつかり盛大に転んでしまった。床に転がったまま何も出来ない自分に苛立ち、グッと歯を噛み締めているとひんやりした何かに体が包まれ、ゆっくりとソファへおろされる感覚があった。
「アロ、行くな…頼む…っ」
そう言いながらそこに居るであろう彼の袖を掴んで縋るように訴えていた。それでも俺の手を振り払おうと掴んでいる手にそっと手を合わせてきた。
暗闇に自分一人置いていかれる状況に、思わず過去の事を思い出し泣きそうになってしまった。また1人になるのか。置いていくな。いっそあの時一緒に死ねたら…
ぐるぐると過去の事を思い出して冷たい手を両手で握りながら震えていた。
するとはぁ…とため息のような音が聞こえたかと思うとソファの隣がグッと沈んだ感覚があった。
また外で轟音と共に稲妻が走り、一瞬照らされた隣に座るアロの表情を見て目を見開いた。
目は相変わらず興奮で深い色になっていたが、眉を下げ少し困ったような微笑みでまるでしょうがないなとでも言いたげな顔をしていた。
なんなんだ。本当に。そんな顔されたら…くそっ…
アロの思いがけない優しさに心が満たされ、さっきまでの暗い気持ちは一瞬でどこかへ行ってしまった。
しばらく無言で隣の冷たい体温を感じながら、外で鳴り響く豪雨の音に耳を傾けていた。手は今だに握ったままできっと俺が雷の音にビビっているのも全て筒抜けなんだろう。
アロは相変わらず呼吸を止めているのか物音一つせず、握っている手と沈むソファの感触が無ければ居るという確証が持てないほどだ。
すると雨音に負けそうな程の静かな声でアロが話し始めた。
「君が言った通り、雨の日は香りが強いんだ。しかし3000年以上存在している私にとって雨など大した弊害ではなかったんだが…」
そこで一息ついて、おそらくひと呼吸をしてしまったのであろう。ヒュッと喉がなりゴクリと唾液を飲み込む音が聞こえたが、また無音になりアロは話し続けた。
「私にとって君の香りは…自分で思っている以上に特別なようだ。自分が抑えきれない。その無防備な首筋から香る甘美な香り、胸元から腹にかけてのなだらかなラインに血色の良い肌、そしてその下を通る…血液…」
そう言いながら鋭い目線が俺の頭からつま先まで彷徨っているのを肌で感じる。おそらくこの暗闇でもアロには全て見えているのだろう。
なるほど、今まで雨の日に頑なに側に居なかったのはそういう事か。
確かに俺だって目の前に最高級の熟成されたウィスキーがあったら我慢するのは容易くない。
しかし、はたと思った。今アロが言った事は俺もアロに感じている事じゃないのか。特に良い雰囲気で見つめあっている時、セックスでアロを組み敷いている時、終わった後にベッドで微睡む姿を見ている時…
と考えているとかなり強めに手を握られ、思わず「ぅぐっ…」とうめき声を上げてしまった。骨が無事だといいんだが…
「君のは性欲、私のは食欲だ。しかも君は捕食される側であり、そもそも…」
いつもより少し高音で早口に話し始めたアロはきっと不機嫌な顔をしているんだろう。そりゃそうだ、自分の抱かれてる姿を俺目線で見せられたら流石のアロも…そう思ってアロの顔があるであろう場所を見つめているとまた外で雷が光った。その時見えたのは真っ赤になったアロの顔と困ったように寄せられた眉、いつもより唾液が多いのか艶やかに光を反射する唇、そこからチラリと覗く牙…そして我慢ならならいと俺を見る熱い視線だった。
その瞬間、もうダメだった。勢いに任せてアロの唇に噛みついた。驚いたアロは俺を離そうと少し力を入れたが加減がわからないのか弱々しく肩を押してくるだけだった。おそらく過去の骨折した無様な俺を思い出しているのだろう。
無理やり舌を口内へ侵入させて鋭くなっている牙をあやすように撫でた。やはりいつもより唾液が多いのか、キスを深くすればするほどこちらが溺れそうになってしまう。アロの手がソッと頬に触れるのを感じ、一瞬怯んだ隙に気がついたら背中にソファーの感触があった。押し倒されている、そう認識した瞬間、今度はアロの方から深くキスをしてきた。
おそらくアロは呼吸を止めているのであろう。
吐息は全く感じないがいつもより深く舌を絡ませ、時折舌や唇を噛まれた。
いつもより多いアロの唾液がとめど無く流れてくる。飲み込もうとした瞬間、お前には渡さないとでもいうようにアロの舌に全て掬い上げられゴクリと飲み干される。
目の前でお預けされるように何度も繰り返され、悔しい気持ちと息苦しさを感じた瞬間、舌が離れていった。
俺はハッ…と息を吸い込み何度か荒い呼吸を繰り返した。
相変わらずアロの吐息は感じないが、まだ鼻先が触れる距離にいるようだ。
「ふふ…すまない。人間は呼吸をしなければならないんだったね。」
アロは今だに落ち着かない俺を子供をあやす様に撫でつけてくる。
いつもの調子のアロに少し安心した。
「よく言うぜ。いつもヤリながら俺の匂いを胸いっぱい嗅いでるのはどこの吸血鬼様だろうな。」
「さぁ…そんな物好き見当もつかない。さぞかし君の香りが魅惑的なんだろうね。」
「試してみるか…?」
そう言うと近くでまたゴクリと喉のなる音が聞こえた。
「いつもは自分でセーブが出来る。心地よく感じるくらいで香りを楽しめるんだ。ただ今日のような天気の日は…」
そう言われて改めて雨音を認識した。
アロとの戯れに集中してしまいすっかり忘れていたが、アロは頑なに呼吸をしていないようだ。
「わかった。じゃぁ今日はキスだけにしようぜ。匂いさえ嗅がなければ触れ合える。」
そう言いながら甘えるようにアロの腰に手を回し、鼻先を首元に埋めた。サラサラの黒髪が顔にまとわりつき頬を撫でる。
いつもアロが俺にやるように首筋に顔を埋めて思いっきり深呼吸をした。微かにアロ自身の香りがする。確かにこれは癖になりそうだな…ともう一度香りを堪能しようと大きく息を吸い込み興奮したように鼻を擦り付けているとアロは何も言わず瞼に軽いキスをした。
数時間前、まだ俺が世界中の宝石を抱えていた時のような幸せなキスだった。