【誓雪】sugarless pillow talk(また、やらかした…………)
もう何度目だろう。
火照った体はとうに冷めて。それに比例するように冷静さを取り戻した頭の中は、ひどい後悔と罪悪感で占められている。
いつもこうだ。我に返った時にはすでに遅く、全てが終わったあと……そう、分かっているのに幾度となく繰り返す自分の愚かさに、ひときわ大きなため息を吐いた。
時刻は深夜の二時を回った頃。閑静な住宅街では、大半の住人がとっくに眠りについている時間帯だろう。この部屋も自分以外に起きている気配はなく、ひっそりとした空気が漂っている。
オレはというと、布団に横たわってはいるもののグチャグチャと考え込む頭は冴え切っていて、いまだ眠れそうにない。ひたすら天井を眺めては、時間だけが虚しく過ぎていく。
そんなオレの隣から聞こえてくるのは、すう……すう……という小さく規則的な音。その音の方にそっと視線を向ければ、ほんの少し前まで体を重ねていた恋人である雪砂の姿が目に映った。
──いや。
体を重ねていた、なんて甘く艶めかしいものじゃない。オレがただ一方的に組み敷いていた、という方が限りなく正しいと思う。
事に至ったきっかけは些細なものだ。
雪砂が他の奴と親しげに話しているのを見かけたこと。その相手が、オレが以前にあまり関わるなと注意していた人物だったこと。……まぁ、これには一応の理由があるんだけど。
他人が聞いたら、そんな事で、と驚くと思う。オレだってそうだ。自分でも呆れて笑ってしまうほど狭い心に、心底ウンザリする。
いくら恋人同士であっても、相手の交友関係にまで口を出すのは普通じゃない。はっきり言ってしまえば──異常だ。
そんなオレの態度に、いつもと違うものを感じ取ったのだろう。
──話しかけられたら、無視をするわけにもいかない。ただ、聞かれたことに答えていただけ。
──特に親密な話をしていたわけじゃない。
オレを宥めようと、そう必死に弁明する姿が逆に癇に障って。湧き上がってくる不快感ごと食らい尽くすように、強引に唇を塞いだ。
……その後のことは、あまり覚えていない。
ただ、体を繋げている間は少しだけ安心できるような気がして、夢中で求めたことだけは確かな感触として残っている。
そうやって、気が済むまで昂る熱をひたすらに押しつけて。やがて限界が訪れた雪砂が意識を手放すその瞬間まで、それは続いた。
(ホント、最低だな…………)
自分がしでかした行為をまた思い返したオレは、心の中でひとりごちた。
今は穏やかな表情で眠る雪砂の目元は、ほんのりと赤く腫れ、乾いた涙の痕が白く残っているのが見える。オレはその頬にそっと触れ、痕を辿るようになぞると、優しく唇を寄せた。
「……んぅ……?」
そんな、軽く掠めるような感触がくすぐったかったのか。雪砂は身動ぐと、やがてゆっくりと蜂蜜色の瞳を覗かせる。
「……ちか、な……?」
「あ。起こしたか、悪い。……体、辛いとか、気分悪いとかないか?」
まだ意識が朦朧としているようで、焦点の合わない瞳がぼんやりとこちらを見る。そうしている内に徐々に状況を思い出してきたらしい。少しの間のあと緩慢な動きでかぶりを振ると、小さな声で「大丈夫」と答えた。
「なら、いいけど……」オレはそう返すも、次にどう言葉をかければいいか迷い、雪砂から目を逸らして俯く。それは向こうも同じようで、二人の間にしばらくの沈黙が続いた。
(……いや、何を悩む必要があるんだよ。まずは謝るのが先だろ?)
気まずい沈黙を破るべく、腹をくくったオレが口を開きかけた瞬間。ほんの僅か、弱々しい力がシャツの袖を引いた。
「誓汝……ごめん、ね……」
「?」
なぜ、雪砂が謝っているのだろう。
自分が謝るべき理由はいくらでもある。だが、される理由には全くもって見当がなく、頭の中を疑問符が廻った。
そんなオレの沈黙をどう受け取ったのか。少し掠れた声で懸命に言葉を続ける雪砂の瞳は、不安げに揺れている。
「…………ボクが……ダメなこと、して……また嫌な気持ちにさせちゃった、から……ごめん、なさい……」
「…………っ」
思いも寄らなかった言葉に、胸が詰まる。
『嫌な気持ちにさせた』
それは……確かにそうだ。だけど、違う。そうじゃない。悪いのは全部オレで。雪砂は何ひとつ悪くなくて。だから謝る必要なんてない。
そう、言いたいのに。喉の奥の方で栓をするように、つかえた言葉は上手く出てこない。
「……い……だから……」
「?」
「……ボクを……嫌い、に……ならないで……?」
雪砂の、震えるようなか細い声と、縋りつくような瞳。その姿に、思わず息を呑んだ。
嫌いにならないで、なんて。
そんなこと、あり得るはずがない。
オレは、自分の震える手を必死に抑えつけて、目の前の小さな体をそっと抱き寄せる。雪砂は一瞬ビクリと体を強張らせたが、特に抵抗することはなく。そのままおとなしく、その身を委ねた。
「なるわけ、ないだろ…………もういいよ。もう、分かったから。……オレの方こそ、無茶苦茶して悪かった。
…………まだ早いから、もう少し寝てろ」
「……ん、………………」
あやすように撫でる手の温もりと、オレの言葉に安堵したのだろうか。言われたとおりに目を閉じた雪砂が再び寝息をたて始めるのは、一瞬だった。
そうしてまた一人。静寂に取り残されたオレは、雪砂の言葉を反芻する。
『ごめんなさい』
その一言がやけに鈍く響いたのは、その言葉が意味するところに気づいているからだ。
無理やりに身体を暴くような荒々しい行為の間も、雪砂の口から漏れるのは暴力的に与えられる快楽に喘ぐ声ばかりで。オレへの拒絶の言葉が発せられることは無かった。ただの、一度も。
だけど、耐えるようにしがみつく細い腕が震えていたのは、きっと気のせいではないんだろう。それこそが雪砂の本心だと。そのことに気づいていたのに、わざと目を背けた。
そんな風に、どれほど酷いことをされても雪砂がオレを拒絶しない……拒絶できないのは、『オレが』雪砂を好きだから。
雪砂は、誰よりも“愛される”ことを求めている。その為なら体も、心も。自身の全てを投げ捨てられるほどに。
……そして、誰よりも“嫌われ、見捨てられる”ことを恐れている。
その、いじらしく痛々しい姿に、オレがつけ込んだ形で今の関係があるのが現実だ。
例え、雪砂が本当の意味でオレを好きでなくても。今はまだ、それでいい。そんなことはとうに覚悟の上だ。
けど、だからこそ。
もしも、オレより誠実に、雪砂に好意を寄せるまともな奴が現れたら。
もしも、雪砂がそいつに惹かれてしまったら。
その、もしも、の先にある未来の想像に。不安や焦燥が綯い交ぜになった感情が、胸の奥にじわりと広がっていく。
それを振り切るように、さっきよりも少しだけ強く、腕の中の雪砂を抱きしめた。体温も、鼓動も。誰より近くで感じられるほど、傍にいるのに。
どうして、一番欲しい心はこんなにも遠く、届かないところにあるんだろう。
……いっそのこと、このままずっと。腕の中に。
檻みたいに閉じ込めておけたらいいのに。
ふ、と。そんなくだらない考えが脳を掠めた自分に思わず嘲笑したあと、滲む視界をごまかすように目を閉じた。
──暗い夜は、まだ明けない。