夜の香港は、生き物のようにざわめいていた。建物からは屋台の油煙と甘辛い香りが立ちのぼり、どこかの部屋からはテレビの音、どこかの路地からは喧嘩の怒鳴り声が聞こえる。路地の水たまりに映るネオンが、人の顔を赤く染めていた。
ナマエは、城砦近くのアパートの一室で、ぼんやりとソファに腰かけていた。扇風機の生ぬるい風が、ゆるく髪を揺らす。
「……遅いな」
時計の針は、すでに夜中の十二時を回っていた。朝に信一から「今夜はそっちに泊まる」と連絡があり、ナマエは珍しさに少し浮かれながら部屋を整えた。けれどそのときの気持ちは、もう遠い昔のことのように思える。
こういう夜は、たいてい決まっている。
信一はまた、どこかで飲んでいるのだ。屋台か、城砦内の仲間との集まりか、それとも商売相手との付き合いか。理由はどうあれ、帰ってくる頃にはたいてい、酒の匂いをまとっている。
付き合いたての頃は、酔ってじゃれついてくる信一が、ただ可愛く思えた。けれど、そういう夜が積み重なるたびに、ナマエの心には澱のような感情がゆっくりと沈んでいった。
酔って帰ってくると、信一は決まってナマエに絡む。それがまたタチが悪い。酔いが進むにつれ距離が近づき、声が甘くなり、ときにはふざけて押し倒してくることもある。
「お前、よく見ると可愛いなぁ」なんて言いながら鼻を擦り寄せてくる程度なら、まだいい。けれど、「今日の下着、何色?」と笑いながら服をめくろうとしたことなんて数えきれないほどあり、思い出しただけで、ナマエは額に手を当てた。
その直後――玄関の鍵が回り、扉がけたたましく開いた。
「ただいま〜……っとぉ」
玄関の引き戸が乱暴に開いて、信一がふらりと入ってきた。Gジャンはくしゃくしゃに脱ぎかけ、首元からは鎖骨が覗いている。目はほんのり赤く染まり、顔には酔いの熱がにじんでいた。
「……酒くさい」
ナマエがソファからじろりと睨むと、信一はへらりと笑った。
「いやいやいや、ちょっとだけだって。ナマエも知ってるだろ? 豆腐屋の親父、今日で店じまいって言うからさ。最後に一杯だけ……」
「で、その“一杯”でここまで酔うわけ?」
「さっすが、俺のナマエ。全部バレてる〜」
悪びれた様子もなく、信一はふらりとナマエの隣に腰を下ろした。途端に、体温と酒とタバコの混じった匂いが押し寄せる。
「なぁ、ちょっとだけ膝、貸して?」
「やだよ。酔っぱらいの頭なんか乗せたくない」
「冷たいなぁ……いいじゃん、ちょっとだけ」
冗談めかした声をそのままに、信一はナマエの肩にもたれかかってきた。首筋に顔を寄せ、湿った息が肌を撫でる。髪の先が頬に触れて、ナマエは反射的に身を引いた。けれど、その隙間を埋めるように、信一は顔を寄せてきて――そっと、唇で甘く噛んできた。
「っ……もう、やめて! お風呂入ってきて。ほんと臭い!」
ナマエが両手で信一の顔をぐいっと押し返すと、信一は「むぐっ」と間抜けな声を出した。
「なぁナマエ~、今日もかわいいなぁ……俺のこと、好き?」
「はいはい。酔ってないときに言えば、ちょっとは信じてあげる」
その言葉に、信一の肩がわずかに揺れた。ふと我に返ったように、少しだけ表情を引き締める。
「……あれ、今日ちょっと機嫌悪い?」
「いつも酔っぱらって帰ってくる彼氏に、機嫌よくなる女がいたら紹介してよ」
数秒の静けさ。信一はふいにナマエの髪をひと束すくい、指でくるくるといじりはじめた。
「でもさ、ナマエのこういう怒った顔……嫌いじゃない」
「……酔ってなかったら、そのセリフで惚れ直してたかもね」
ナマエは目を伏せ、吐き捨てるように言った。棘のある口調の奥に、許してしまう自分がいるのが、少しだけ悔しかった。
「もう、シャワーちゃんと浴びて。ほんとに臭いから」
「はいはい、了解。俺もナマエのこと、大事にしてるからさ」
「うるさいっ!」
ナマエはソファ脇のバスタオルを掴んで信一に投げた。それを笑いながら受け取り、信一はようやくバスルームへ向かう。その背中を見送りながら、ナマエはまた、小さくため息をついた。
■
翌日の夕方。ナマエは鏡の前で、髪を結う手を一瞬止めた。普段より少しだけ濃い目の化粧が、自分でも似合っているのかどうか、よくわからないまま開けっ放しのパウダーケースを閉じる。
「……ま、いっか」
気取って出かけるつもりはなかった。でも、たまには“彼女”じゃない顔も持っていたくて――ナマエはそう自分に言い聞かせながら、最後に細いピアスを耳につけた。
「今日、飲みに行ってくるね」と信一に伝えたのは、昼過ぎのことだった。
「え、お前が?珍しいな」
「バイト先の人たちと軽く。ほら、尖沙咀に新しくできたバーに行ってみたくて」
「ふーん……」
そのときの信一の反応は、予想以上に淡々としていた。嫉妬してくれるかも、ちょっと不安になってくれるかも――なんて、そんな心配は露知らず、けれどその後、出かける間際。玄関で靴を履くナマエの後ろ姿に、信一がぽつりと声をかけてきた。
「……遅くなるなら連絡しろよ。夜道わりと危ねぇし」
「うん、大丈夫。ありがと」
「いってきまーす」と扉を閉めて久しぶりに飲みにいくなぁと浮足立つ。しかしその声には、かすかに引っかかるような気配があった。“心配”と“見送る後ろめたさ”が混じったような――そんな声だった。ビルの隙間を縫うようにして歩くナマエの肩には、さっき信一の声を聞いたときの微かなざらつきが、まだ残っていた。
■
「信一? ああ、あの彼氏ね。酔っぱらって、ほぼ毎晩ナマエの部屋に帰ってくるっていう……あの」
新しくできたバーのカウンター席。琥珀色のグラスを傾けながら、友人がくすくすと笑った。
「うん、まあ……“ほぼ”というか、毎回、かな」
ナマエも苦笑するしかなかった。否定はできない。信一の酒癖の悪さは、もはやお約束のようなものだった。
「ナマエってさ、意外と尽くすタイプだよね。昔からそうだったけど、ほんと変わらないよね」
「……変わってないかな」
「あるよ、めっちゃ覚えてる。変わらないねぇ、ほんと」
ナマエは、手元のグラスを指でなぞった。笑いながら話すリンの声は軽い。でも、どこかに棘がある。
「でもさ、それってどうなの?」
「なにが?」
「いや、酔っぱらって帰ってくるのが彼氏の方ってさ。毎回甘え倒されて、それでも受け止める彼女って……ちょっと、不公平じゃない?」
その一言に、ナマエの手がふと止まった。
「……ん?」
「もしナマエが、逆の立場だったらってこと。酔って帰ってきて、べたべた絡んで、わけわかんないこと言って――そうされたら、彼氏どんな顔すると思う?」
冗談みたいな口ぶりだった。でも、ナマエの胸に残ったのは、妙にリアルなイメージだった。信一が、自分の酔っぱらった姿を見たらどう思うのか。
「……考えたことなかった」
ぽつりとこぼすと、友人はにやりと笑った。
「だったら、やってみれば?」
「……え?」
「たまにはさ、羽目はずしてみなよ。ナマエが酔っぱらって、彼氏に甘えて、好き放題やってみるの。『いつも私がされてること』を、全部やり返してさ」
「でも、そんな酔うまでお酒飲んだことないし」
「もー、ナマエはちょっと真面目すぎ!いつも仕事ばっかりでしょ?たまにはパーッと遊ぼうよ!」
からかうような声に、ナマエは思わず笑った。でも、その笑いの奥に、ほんの少しのざらつきが混ざっていた。信一は、自分の“受け手”でいてくれるのか。それとも、戸惑いながらも、ちゃんと向き合ってくれるのか――。
グラスの底に残ったジントニックを眺めながら、ナマエは、まだ帰りたくないような、でも少し早く会いたいような、そんな矛盾した気持ちを抱えていた。
■
時計の針は、もうすぐ日付をまたごうとしていた。薄暗い部屋の中、ソファに深く腰を沈めた信一は、少し苛立ちながらライターを手の中で回していた。火を点けるわけでもなく、ただ落ち着きなく指先で弄んでいる。
ひとつ、ため息をつく。ナマエからは、まだ連絡がなかった。「バイト先の人たちと、軽く飲みに行く」そう言って出かけていったのは、まだ陽のある時間だった。たとえにぎやかな繁華街だとしても、女ひとりで深夜に帰ってくるには、不安の残る街だ。
「ったく……“軽く”って、何時まで飲む気だよ」
つぶやいた声は、自分で思った以上にとげがあった。心配と、少しの嫉妬と、どこか取り残されたような孤独感が、胸の奥でじわじわと燻っている。そのとき、ナマエの部屋の電話が鳴った。信一はすぐに立ち上がり、受話器を取る。
「……はい」
『あ、ナマエの彼氏さん? ごめんね〜。ちょっとナマエに飲ませすぎちゃって』
電話越しに聞こえてきた女性の声は、バーの喧騒にかき消されそうだった。どうやら、ナマエの友人らしい。
「今どこだ?」
『尖沙咀の新しくできたバー、知ってる? 大通り沿いの。店を出たすぐの階段に座ってるよ。吐いてはないけど、足元ふらっふらでさ』
「……了解。今すぐ行く」
電話を切ると、信一は無言でGジャンを手に取り、腕を通した。夜の九龍は蒸し暑く、鉄と油の匂いが湿った空気に溶け込んでいる。慣れた足取りで、彼は人通りを抜け、大通りへと向かった。
照明の届かないレンガの階段。その隅に、ナマエと友人が並んで座っていた。
「ワォ、イケメンじゃん。ナマエ〜、彼氏ご到着したよ~」
冗談まじりにそう言って、友人は水のペットボトルをナマエの頬にそっと押し当てた。信一はその光景を一瞥し、階段に腰を落として、ナマエと視線を合わせる。
「……おい、ナマエ」
「ん〜〜? そん…や?」
ナマエが顔を上げる。髪は少し乱れていて、目元は赤く、頬は上気していた。手にぶら下がっているカップには、もうほとんど溶けた氷だけが残っていた。
ナマエはそのまま信一の胸元に飛び込み、首に腕を巻きつける。顔をすり寄せるたびに、ふわりと甘いアルコールの匂いが信一の鼻をくすぐった。
「ちょ……ナマエ、やめろって。ここ、道端だぞ?」
「い〜〜の〜、信一だもんっ」
信一は片腕でナマエを支えつつ、まわりをぐるりと見渡した。いつの間にか、さっきまでいた友人の姿は消え、通りに人影はまばらになっていた。
それでも、人前では滅多に手を繋ごうともしないナマエが、今は彼の胸にぴたりと頬をくっつけている――その状況は、信一にとって刺激が強すぎた。
「たのしかった〜。あのね、友だちがね、すっごくいいこと言ってくれたの〜……」
「は? 何言って――うわっ」
信一が体を引こうとした瞬間、ナマエはさらに顔を近づけてきた。頬と頬が触れ合い、彼女の吐息が信一の唇にかかる距離まで迫ってくる。
「ねぇ、信一〜……ちゅーしよ?」
「ぶっ……!」
思わず信一はむせ返った。言ってることも、やってることも――いつも自分が酔った勢いでナマエにしてきたことと、まるきり同じだった。
「おいおい、やめろって……」
「え〜〜? やだよぉ〜、だって信一、いつもこうしてくるもん〜」
へらへらと笑いながら、ナマエはそのまま信一の膝の上に乗っかってくる。首に腕を絡め、トロンとした目で真っ直ぐに彼を覗き込む。
「信一……すき……だいすき……ちゅーしたいの……」
「……っ、ま、待て……ほんとやめ……」
唇が触れそうなところで、ナマエの動きが止まった。信一の顔が、柄にもなく真っ赤になるのが自分でもわかる。ナマエの瞳はとろんと潤み、うっすら笑みを浮かべながらも、どこかまっすぐに、信一だけを見ていた。
「お前……やっぱ、覚えてんだな。いろいろ」
「へへ〜ん、しってたもん。信一ってさ〜、けっこう……わるいおとこ〜」
耳元で甘く囁かれ、信一は思わず片手で額を押さえた。そのままナマエの手をそっと取って、やや強引に立たせようとする。
「とにかく、立て。帰るぞ」
「……や〜だぁ〜。だっこしてぇ〜、信一〜……歩けないも〜ん」
信一は慌ててナマエを引き剥がそうとするが、彼女はさらにしがみついてくる。足元はふらつき、顔は真っ赤。でもその表情は、どこか幸せそうで、無防備だった。
「……はぁ……」
信一は、完全に抱きかかえる形でナマエの体を支えた。ため息をつきながらも、その手の力は、思いのほか優しかった。
彼女の頬がすり寄せられるたびに、信一の胸の奥で、ちくりと何かが疼いた。
「お前……いつも俺にこうされて……こんな気分だったのかよ……」
もちろん、返事はなかった。ナマエは、彼の腕の中で目を閉じ、まるで夢の中にいるみたいに穏やかな顔をしていた。
■
信一はベットの上でゆっくりと目を開けた。昨夜の記憶が、頭の奥でじわじわと浮かび上がってくる。
(……ナマエの帰り、迎えに行って……ナマエ、べろっべろで……膝乗られて……)
思い出した瞬間、額に手を当てる。
「あー…マジかよ……」
隣を見ると、ナマエは丸まった布団の中で静かに寝息を立てていた。酔いはすっかり冷めたのか、顔色も落ち着いている。だけど、髪は少し乱れていて、頬には昨夜の熱がわずかに残っているようにも見えた。信一はナマエの髪をそっと撫でるとなるべく音を立てないように立ち上がり、台所へ向かう。コーヒーを淹れると、深い苦味の香りが部屋中にふわりと広がり、やがて、布団の中からごそごそと気配が動いた。
「……ん……あさ?」
「おはよ。……気分どうだ?」
「うん……ちょっと、だるいけど……最悪ではない、かな」
ナマエは、まだ目をこすりながらぼんやりと辺りを見渡し、信一と目が合うと、にこりと笑った。その笑顔に、信一の中にあった言い訳や誤魔化しが、全部崩れていくような気がした。
「昨日……覚えてない、よな?」
信一は、なるべく平静を装って尋ねた。けれどナマエは、ゆっくりと頷いた。
「……全部、覚えてるよ?」
「……マジ?」
「うん。信一があたしにしてきたこと、ぜんぶやり返してみた」
言葉の端に、わずかな意地悪さが混ざっていた。でもその目は、どこか優しかった。
「……俺、結構タチ悪い?」
「知っててやってるんじゃないの?」
ナマエがくすりと笑った。信一は額を押さえたまま、彼女の隣に腰を下ろしてマグカップに入れたコーヒーを手渡す。
「……でもさ、思ったより……楽しかった」
「は?」
「好きな人に、もう少し甘えてもいいんだなーって。ちょっとだけ、思った」
その言葉に、信一の喉が詰まりそうになった。気づけば、二人の距離は少しだけ縮まっていた。ソファと布団、いつもの生活の中。だけどそこにある空気は、ほんの少しだけ変わっていた。
「……抱いていい?」
「信一、またやり直したいの?」
「……すみませんでした」
二人の笑い声が、狭い部屋の中に静かに響いた。窓の外では、九龍の朝がいつも通り始まっていた。