猫亀事件晶は自分の目を疑って、二、三回瞬きをしたあと、深呼吸をしてもう一度、中庭の噴水を注視した。何度見ても、晶の目にうつるものは変わらない。噴水にたまった水から三毛模様の猫のしっぽが伸びていて、それが繋がっている先はどうみても亀の盛り上がった大きな甲羅だった。魔法生物かもしれない、と頭によぎる。
晶は今まで見てきた魔法生物を思い浮かべるけれど、かれらと目の前にいる生き物はどうも雰囲気が違っているようにも思える。亀のような甲羅と猫のしっぽという見慣れたものを持つ生物ということもあるだろうが、なんとなく、今まで出会ったどの魔法生物よりも親しみやすい雰囲気があるのだった。
ちゃぷんと音がして水面を見ると、猫亀が水面から顔を出していた。その顔は晶の大好きな猫そのもので、声を出しそうになるのを我慢する。かれは亀に猫のしっぽがついた生き物ではなくて、亀の甲羅を背負った猫なのだった。
晶が息を潜めて猫亀を見守っていると、かれは甲羅を背負っているとは思えないほどの俊敏さで噴水から飛び出した。そのまま、草をかき分けて一心不乱に何かを目指してまっすぐ走っていく。晶はかれが目指す先を見て、少し心臓がどきっと跳ねるのを感じる。オーエンの白い外套が春風にたなびいていた。
猫亀がまっすぐオーエンの外套にじゃれつくように飛びついて、晶は、あ、と声を出す。オーエンの機嫌が悪くないことを祈ったけれど、オーエンは基本的に動物には優しい。だからきっとあの子は大丈夫、とすぐに思い直した。
「なに、おまえ」
オーエンは瞳をすうっと瞳を細めて、猫亀の首根っこを掴んで持ち上げようとしたけれど、猫亀は甲羅の中にすっと顔を隠してしまった。そのまま隠れたままかと思った猫亀は思った以上に勇敢で、すぐに顔を出して、再度オーエンの外套に飛びついてそのまま肩まで駆け上がる。オーエンも甲羅のわりに俊敏な動きに面食らったのか、一瞬目を丸くしたあと、ちっ、と軽く舌打ちをした。ああ、どうか無事でいて、とオーエンを信じているにも関わらず、晶は猫亀の無事を祈る。猫亀は今度こそオーエンに首根っこを掴まれて、にゃあにゃあと抗議の声を上げていた。
「あのさあ、そんなことしなくてもおまえは喋れるだろ」
「にゃあ~」
「は?僕がいつおまえのことを無視したって?そうやって嘘をついて同情を誘おうとしてるの?」
「にゃあにゃあ」
「だから、普通に喋れよな」
晶は二人の会話に違和感を覚えて猫亀をじっくり見る。かれは普通に喋ることができる?もしかして魔法使いなんだろうか。いつの間にか、オーエンが目の前に立っていて、晶に猫亀の顔を突き付けていた。晶を見つけた瞬間、猫亀は額を晶の頬にこすりつける。
「賢者様だって見てるのににゃあにゃあしか喋らないつもり?」
「あ、あの、オーエン、別に盗み聞きをするつもりはなくて……。その子はもしかして魔法使いなんですか?」
晶の反応を見たオーエンは呆れたように呪文を唱える。その瞬間、猫亀は消えてしまって、代わりに見覚えのある姿が目の前に現れた。赤毛がふわふわと春の日に透けている。
「クロエ!クロエだったんですか?」
「賢者様、驚かせてごめんねっ。オーエンと喧嘩しちゃって口をきいてくれないから、オーエンの好きな猫の姿だったら話してくれるかなって変身してみたんだけど、オーエンのところにたどり着くまでにほかの動物に襲われちゃったらどうしよー!って思ってたら甲羅が付いちゃってたんだよね。変身魔法って本当に難しいからまた教えてもらわなくちゃ!」
「うるさいな……あのぶさいくな猫亀のときのほうがまだ静かでよかったかも」
一気にまくしたてるクロエに、オーエンがうんざりしたような顔で立ち去ろうとする。晶は喧嘩しちゃって、というクロエの言葉に慌ててオーエンを引き留めた。煙のように消えてしまうオーエンを引き留められることはほとんどないので晶は少しだけ意外に思ったけれど、チャンスなのでクロエに負けずにまくしたてた。
「あの!喧嘩してるなら、すこしだけ話し合ってみませんか?二人きりが難しいなら俺も一緒に話しますし。あ、そうだ!さっきネロにもらった美味しいマフィンがあるんです。一緒に食べながらどうでしょうか?」
オーエンはマフィンという言葉に一瞬目をきらめかせる。クロエも「俺もオーエンと話したい!」と晶と一緒にオーエンの外套を掴んだまま離さないが、それを振りほどかないのをみて晶は少しほっとする。
晶がマフィンとお茶を用意して談話室に入っていくと、オーエンがクロエのデザインした服を着せられていた。もう何着も試着しているのか、これからもするのか、ソファーに何着も違う服があり、そして大きな布も何枚かある。
「あの、クロエ、オーエン」
「あ、賢者様!急にデザインのアイディアが湧いてきちゃって、今まで作った服を着てもらってどんなのが良いか確かめているんだ」
「賢者様、クロエのことどうにかして。ずっと喋っていてうるさい」
「喧嘩してたのは……?」
「喧嘩じゃないよ。ただ朝食べようと思っていたドーナツを食べられてイラついてただけ」
「ごめんね、オーエン。オーエンのドーナツだって知らなくって食べちゃって……話も聞いてもらえないほど怒ってるって思わなかったんだよ。お詫びにかっこいい服を作るからね!うーん、布が余りそう……あ、そうだ、俺のも作ろうかな。賢者様のもどう?俺たち三人でお揃いの服を着て、あとでドーナツを食べに行こうよ!このあいだラスティカと見つけたおすすめのお店があるんだ。きっと気に入ると思う!」
はあ、とため息をつきながらも大人しく採寸されているオーエンを見て、晶はなんとなくうれしくなってくる。オーエンはなんだかんだいって、クロエのつくる服を気に入っているようだった。怖いという印象の強かったオーエンの好きなものを共有できるのは、オーエンに少しだけ寄り添えた気持ちにもなる。夢中になったクロエの服が出来上がるのはきっと何時間、下手したら日を跨ぐかもしれないけれど、晶はいつまでも待つつもりだった。その分、この穏やかな時間は続くのだから。
そして、その時間は確かに続いたのだった。我慢ができなくなったオーエンが、再びクロエを猫亀にしようとするまでは。