膝の上の先生は動じないっ! 冷静な思考を維持することは、知性ある者にとって不可欠な素養である。論理的な判断を下すためには、感情に流されることなく、事象を整理し、分析し、適切な結論を導き出さなければならない。だからこそ私は今、目の前の論文に集中することに決めた。
……たとえ、ファイノンの膝の上に座っていたとしても。
そもそも、なぜこんなことになったのか。事の発端は単純だ。私は論文の推敲を進めるために作業スペースを探していたところ、部屋に椅子が一脚しかなかった。
「じゃあ、僕の膝に座れば?」
ファイノンがそう言ったとき、私は即座に言葉を返した。
「馬鹿なことを言わないでください」
しかし、部屋にあるのはその椅子のみ。私は論文を立ったまま読むことになったが、これは明らかに効率が悪い。落ち着いて筆を走らせることもできず、書類を広げるスペースにも困る。
ファイノンは私の様子をしばらく観察していたが、やがて「ほら」と言いながら自分の膝を軽く叩いた。
「先生、遠慮しなくていいよ」
その瞬間、私は警戒し、半歩後退した。しかし、ファイノンの手が伸びてきたかと思うと、手首を軽く引かれ、そのまま膝の上に座らされる。
「……何をしているのですか?」
「僕の膝、意外と座り心地いいでしょ?」
「……すぐに降ります」
そう言って立ち上がろうとしたが、ファイノンの腕が軽く腰を抱いた。力を込めれば解ける程度の拘束。だが、さすがに無理やり振り払うのも面倒だ。
(……仕方ありません)
時間を無駄にするより、この状況のまま論文を進めたほうが合理的であると判断した私は、そのまま作業に戻ることにした。
「……なるほど、ここはもう少し補足が必要ですね」
筆を走らせながら、小さく独り言を零す。
「先生、何の話?」
後方から、穏やかな声音が聞こえる。ファイノンの声だ。私は視線を動かさず、言葉だけを返した。
「いえ、失礼。こちらの話です」
今、思考を中断させるのは得策ではない。せっかくの論考の流れが途切れるのは避けたかった。
しかし、頭に、指が触れた。ファイノンの手が、私の髪を撫でたのだ。
「……」
私は眉をひそめたが、それ以上の反応は示さなかった。こんなことで動揺する必要はない。
「先生?」
再び撫でられる。……やはり、無視するべきだ。私はひたすら論文に集中した。だが次の瞬間、その手が離れ、代わりに耳に、何かが触れた。
「っ……!?」
自分の肩が意識と反してわずかに跳ねるのを感じた。皮膚の薄い耳に、温かく湿った感触が触れている。これは……唇。
「あなた、何を……っ!」
「だって、先生が全然僕のこと見てくれないからさ」
低く柔らかい声が、耳元で響く。
「ちょっ、離しなさい!」
「やだ」
彼の腕が、私の腰を軽く押さえている。しかし、力はほとんど加えられていない。逃げようと思えば逃げられるはずなのに、なぜか私の身体は動かなかった。
「先生、僕のことちゃんと見て?」
作業をしているのだから、今ファイノンのことを見る必要はない。それを伝えようとした瞬間、再び……いや、先程とは違う、鋭い感覚が耳に走った。
「ッ!?」
咄嗟に息を呑む。私は即座に状況を整理しようとしたが、思考よりも先に、僅かな震えが走った。ファイノンは今、私の耳を噛んだ。
「先生の耳、すごく柔らかいね」
彼の囁きとともに、再び甘噛みされる。びくり、と身体が反応した。無意識にファイノンの腕を掴む。逃げるためではない。ただ、これ以上震えを悟られたくなかった。
「……っ、ふざけるのはやめなさい」
「ふざけてないよ?」
そこで初めて振り返り、彼の表情を見ると、楽しそうに微笑んでいた。けれど、目は僅かに熱を帯びていて、どこか冷静さを失っているように思えた。そのことに気づいた瞬間、私の鼓動がまた一つ、跳ねた。
「やっと僕のこと見てくれた。……先生、なんか顔赤いよ?」
言われるまでもなく、私は自分の異常を把握していた。耳に触れた感触が、消えない。じんじんと熱が残り、それが意識の端を侵食している。論理を組み立てようとしても、すぐにそれは崩れ去る。
「……黙りなさい」
私の言葉には、平静さが欠けていた。
「先生ってさ、こういうとき、すごくわかりやすいよね」
ファイノンは笑う。しかし、私はもうこれ以上、この状況に付き合うつもりはなかった。
「これ以上ふざけるのなら、降ります」
彼の腕を押しのける。
「ええ〜? せっかく膝の上にいるのに?」
「降ります」
ファイノンの表情が、少しだけ不満そうに歪む。しかし、さすがにこれ以上は彼も悪ふざけを続けるつもりはなかったのだろう。私の腕の力が本気であることを察して、ファイノンはようやく手を離した。私は素早く膝の上から降り、ファイノンに背を向けた。
「……この話は終わりです」
「そっか、残念。でも、僕はすごく楽しかったけどな」
軽い声音が、背後から聞こえる。私はそれには応えず、机に置いた論文へと意識を向けた。書きかけの文字が視界に入るが、どうにも集中できない。
(……馬鹿馬鹿しい)
ただの戯れ。そう割り切れば、それで済むはずなのに。指先が、つい耳に触れる。ほんの僅かに残る熱を振り払うように撫でたが、それはかえって意識を強める結果になった。論理的に考えれば、これはただの皮膚の生理的反応にすぎない。しかし、その理屈が頭の中で組み立てられるよりも早く、背後から向けられる気配が気になってしまう。ファイノンは、どんな表情をしているのだろう。ちらりと振り向きそうになった自分に気づき、私はそこで思考を断ち切った。
「……私は作業に戻ります」
そう宣言し、論文へ視線を落とす。背後でファイノンが小さく笑った気がしたが、もう確かめるつもりはなかった。