気まぐれ わずかに痛む右腕とお腹を軽く抑えるアリス。ちょうど23:00を過ぎた時間の廊下は誰もおらず、普段は遠くから聞こえる賑やかな声が嘘だと思うぐらい静かである。
だが、これくらいがちょうどいいと思いながらアリスは食堂に向かっていた。
ここ数日、アリスは満足に食事を取れていなかった。足や腕ならともかく、お腹を貫通していた以上、ゼリーやヨーグルトと言った限られた食事しか口にすることができず、物足りなさを感じていた。
せめてもの反抗(という名の意地)として何か固形物でも食べてやろうと、誰もいないであろう時間にこうして足を運んでいた…のだが。
「あ」
「は、なんでここにいるわけ?」
本当に驚き、同時に呆れたような態度を取るのは同じく才能を認められた生徒、和泉である。
彼と関わったことはないものの、彼の横暴な態度や百合園リリを過剰に持ち上げる姿を見て、あまり関わらないでおこうとアリスは勝手に思っていた。だからこそ、2人っきりになると気まずさを感じて仕方がない。
「こんな時間に何してるの?あっまさか、眠れないなんてお子様みたいなこと言わないよね?」
「相変わらず随分と回る口だね。…あいにくだけど、君のそれに付き合うほどの体力はないんだ」
「あーそっか。君、あんな目に遭ったもんね」
「言っておくけど、後悔なんてしてないよ。あんな奴らに言われっぱなしでいるなんてごめんだからね」
「はいはい」
強がりだな〜と茶化しながら、食堂から出て行こうとする和泉。だが、ふと、閃いた顔をして戻ってきたかと思えば、真っ直ぐ厨房に向かっていく。暫くして戻ってきた彼が持つトレンチの上には、ティーポットとティーカップ、クッキーの乗ったお皿、茶葉が置いてある。戸惑っているアリスを差し置いて、テキパキと茶葉を入れ蒸し始めたところで、ようやくアリスは驚きを口にした。
「え、は、何?」
「はは、可哀想だからお茶でも淹れてあげるよ。これでも同情心は持ち合わせてるからね」
これはリリと一緒に飲むために試飲してたものなのになと小声で呟く和泉だが、紅茶をカップに注ぐ和泉の目は嘘を言っているように感じられなかった。心の底からの同情…普段なら腹が立つアリスだが、今日ばかりは違う。
「……気が効くね、どうも」
「やけに素直じゃん」
リリを中心として動いている彼だが、他の人のことを見ていないというわけではない。 関わりはない…とはいえ、彼から見たアリスという男は女々しい容姿を持ち、そして、プライドの高い子供みたいな奴。暇つぶしとしては充分すぎる要素を持っている。
分かりやすい同情心を見せれば、多少は苛立ちを見せてくれるかと思ったのにと、不貞腐れる。
「あぁ、こんな反応で悪かった。反省するよ」
「はぁ?…ほんと、君ってイライラする。…でも、そうだなぁ」
そう言って用意された紅茶を飲もうと開いたアリスの口に、クッキーをねじ込む和泉。小さくも情けない声を出しつつもクッキーを頬張る彼を見て、和泉は小さく、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「怪我が治るまで君にお茶を淹れてあげるし、淹れ方も教えてあげる。その代わり、治ったら俺には頼らないでね」
ただの気まぐれ、暇つぶし。治ったら存分に恩を売らせてやろうと考えていた。
…のだが。
「やなこった」
「は?」
満足そうにクッキーを飲み込んだアリスの顔は、先ほどの和泉みたく悪戯っぽく笑っている。和泉がうわこれ面倒臭いやつだと気付いた頃にはもう遅い。アリスは思ったよりわがままで自我が強く、そして、隙は見逃さない男である。
「傷が深いんだ、治るまでどれくらいかかるんだろうね?…まさか自分で言ったこと、忘れたわけじゃないだろう?」
勝ち誇った笑みを浮かべるアリスを見て、わざとらしく嫌悪感を顔に出しながらため息を吐く。
「……君って、人を足に使うのが好きなんだね」
「君の気まぐれに甘えたいだけさ」
そう言って無邪気に紅茶を楽しみ始めるアリスを見て、わかりやすくため息を吐く。だが、いつもみたいに悪態をつくわけでもなく、向かいに座ってアリスのことを眺めているだけだった。
「ふーん、美味しいじゃん?紅茶ソムリエでも目指したら?」
「当たり前でしょ?ったく、早く傷治してよ」
「わかってるさ」
こうして、誰も知らない深夜限定の奇妙な関係が作られたのであった。