秋の日は釣瓶落とし「バデーニさん行きましょうか。」
夕食に向かうため出かける準備をして、玄関のドアをオクジーが開ける。
「うわっ!もう日が傾いてる。まだ5時過ぎなのに。」
オクジーがびっくりして声に出した。
今日はバデーニも家に居てお互いの仕事が一段落したので、息抜きに馴染みのビストロで食事をとることにしたのだ。
「秋の日は釣瓶落としだな…」とそっとバデーニがつぶやいた。
「なんですかそれ?」聞き慣れないフレーズにオクジーが尋ねてくる。
「井戸の水をくみ上げるロープの付いた桶で、滑車から垂れているから、汲み上げて手を離すとバケツがあっと言う間に落ちる。日没が早くなったことの例えだ。」
とバデーニが説明してくれた。
「バデーニさんやっぱり何でも知ってるんですね。僕、そのことわざ知りませんでした。」
お店に向かう道すがら二人並んで話しながら歩く。
ふと、思い出したかのようにオクジーが話し始めた。
「そういえば前にもバデーニさんの豆知識教えてもらいましたね。あの、蛍のやつ…」
オクジーが言っているのは昨年の蛍狩りに行った時の話だ。
梅雨が始まる一歩手前、ホタルスポットに二人で行った。蛍は少ないながらも一生懸命光を放ち、川沿いをふよふよと浮遊していた。
美しく神秘的な光を放っているが、上まで飛んで行くとそばにある街灯の灯りで蛍の光は薄らいだ。
それを見てオクジーが気の毒そうに蛍の心配をした。
どんなに懸命に光を放ってもこうして街灯に邪魔されると、お互いのことが認識できない。
そばにいるのに気づかないなんて可哀想だと、感傷的になっていた。
「蛍は2ルクス程度の明るさらしい。街灯は5ルクス程度だから近づくと蛍の明かりが薄れてしまう。確かに君の言う通り干渉されると互いに認識するのは難しそうだな。」
バデーニがオクジーに寄り添うように話しかける。
「だが、少ないながらもここで命を紡いでいる。実際ここに蛍が飛んでいるということは、昨年街灯の灯りにもめげずお互い巡り会えたと言う事だ。きっと今年もそうなるだろう。」バデーニがそう話すと
「そうですね…」とオクジーが答えた。
―全く昆虫に感情移入出来るなんてオクジー君は想像力が豊か過ぎる。―そうバデーニは心の中で考えていた。
「でも、バデーニさんも僕も光ってないのによくお互いに気づきましたよね。運命の人だって。これはきっと神の思し召しですね。」オクジーが手を組んで、祈りを捧げる。
「そういえばバデーニさん蛍が2ルクスってよく知ってましたね…」
確かそんな会話をしていたのだった。
そんな会話を思い出しオクジーは懐かしんでいた。
「それにしてもバデーニさんはやっぱり物知りですね。600年前もそうでしたけど、今でもこうやって新しい気付きを教えてくれる。ありがとうございます。これからもいろいろ教えてくださいね。」
そう言ってオクジーは微笑んでいた。
さすが、オクジー君察しがいい。
オクジー君の中に知識を植え付ける これはバデーニがわざとやっていることだ。
それはふとしたきっかけで発動される。今日の様に鼻の奥がツンと痛くなるほど寒くなってくると、オクジーは今日の『秋の日は釣瓶落とし』を思い出すだろう。
秋の夕暮れ時、今日のこの日を復元するように記憶を刻んだのだ。
きっとその記憶の引き出しにはバデーニがいる。
そしてそれはバデーニが死んでしまっても、オクジーの中で継続されるのだ。
そんな呪いのような魔法をバデーニはオクジーに掛けていた。それもいくつも。
死んでからも自分を思い出してほしい。それが願いだ。
それはきっと行為のときに背中に付ける傷よりも、記憶に刻む方が深く残る。
自分で考えても少々バカらしいが、実際それほどまでにバデーニはオクジーを欲している。
バデーニはオクジーに関しては執着心がずっとずっと強く、永遠に独占し続けたいのだ。
そう考えていると近所の店に着いた。
「バデーニさん何だか嬉しそうですね。」
オクジーが言いながらドアを開ける。
バデーニは気付かれぬようこれからも魔法をかけ続けてやる。そう目論みながらオクジーを眺める。
「ふふっそうだな。久しぶりの外食だ、今夜は飲むぞ!」そう意気込んで中に入っていった。