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    雑渡さんから遺書を受け取る伊作の話

    遺書、改め。「私が死んだら骨をあげる」

     どんな流れでそんな話になったんだったか。
     思い返す。そうだ。
     やあ曲者だよ、と軽く手を上げながら前触れなく忍術学園の保健室に現れた雑渡に──もう慣れたものなので伊作も伏木蔵も驚くことなく、お茶と茶菓子を用意して三人でのほほんとお喋りに興じていた時、脈絡なくコーちゃんの話をし始めた伏木蔵に雑渡が「コーちゃんて?」と聞いたのがきっかけだった。
     コーちゃんは伊作の大切な人体骨格標本である。
     その日コーちゃんは長屋の部屋にいて、保健室には不在だった。「コーちゃんは伊作先輩の大切な骨なんですよ〜」という伏木蔵の説明に雑渡が疑問符を浮かべながら首を傾げたので、伊作はここぞとばかりに如何にコーちゃんが己にとって大切な骨格標本であるか、どんなに素敵な骨かを雑渡に語った。雑渡はウンウンと頷きながら伊作の話を聞いていた。伏木蔵はお饅頭を頬張りながらモチモチの頬を揺らしていた。
     コーちゃんの魅力を存分に語り「今度改めてコーちゃんのこと紹介しますね!」と笑った伊作に、雑渡は「伊作くんは骨が好きなんだねえ」とにんまりと目を細めた。
     それから顎に手を添えながら考えるように天井を見上げて、

    「じゃあ私が死んだら骨をあげる」

     と、いつもと変わらぬ平坦な声でそう言った。
     なんてことない話の一端で、きっと言った張本人である雑渡からすれば軽い冗談のつもりだったんだろう。でもどうにもその言葉は伊作の頭にこびりついて離れなかった。
     あの人が死ぬ姿なんて想像できなかった。


     そんな話をしてから七日後。
     変わらず雑渡は突然保健室にやってきて、伊作が薬を調合する横で伏木蔵を膝に乗せながらお団子を覆面の上から器用に食べている。ゴリゴリと薬草をすり潰しながら、雑渡を盗み見る。きゃっきゃと伏木蔵と戯れる姿からは、タソガレドキ忍軍の組頭であることなど想像できない、なんてことはなく。
     
    「どうしたの、伊作くん。私の顔に何かついてる?」
    「いえ!」

     顔は薬研から外さず、目だけを向けていたはずだ。雑渡だって顔を下げ伏木蔵のことを見ていた。だけどどんな僅かな視線も逃さない。絶対に気づく。
     タソガレドキの忍び組頭であるこの人は。
     忍びとしての格の違いをこういう些細なことから気付かされる。
     あと数年、十数年後に自分も雑渡のような忍びになれているのだろうか。
     いやでも不運が発動すると、薬草を摘みに行けば崖から落ちるわ、後輩の掘る落とし穴には凡そ九割九部の確率で落ちるわ、山道を歩いているだけで猪に追いかけられるわと、どうにも生傷が絶えず、この調子のまま忍びになったとして雑渡のようなスマートでデキる忍びになれるのか。

    「何か考えごと?」
    「僕もいつか雑渡さんのような忍びになれるのかなと」
    「ダメだよ」
    「え?」

     間髪入れずに返ってきた声に薬研から顔を上げる。
     無理だよ、ではなく、ダメだよ?

    「ダメってどういう意味ですか〜?」

     伏木蔵の問いかけに雑渡がにんまりと笑う。

    「君は君のままでいればいいってこと」
    「それはつまり忍びに向いてないままってことですか?」
    「忍たまは可能性のかたまりだからね。君たちが育つのを楽しみにしているよ」

     問いの答えになっているようでなっていない。ここでさらに問いかけてもこの人からはのらりくらりとした返事しか返ってこないだろうことは分かっていたので、伊作は黙った。

    「僕らが忍びとして成長して敵側の城についてもですか〜?」
    「その時は全力でお相手しよう」
    「わ〜それはスリル〜」

     伏木蔵の無邪気な返答に、雑渡が肩を小さく振るわせる。怒ってるのか笑ってるのか最初は判別しづらかったが、どうやら大層面白がってる時の反応らしいと気づいたのはここ最近のことだ。顔の半分以上が布に覆われているが、存外表情豊かな人であると知ったのもここ最近。伊作と伏木蔵が用意した団子も気に入ってもらえたようで、目尻が下がっているのがその証拠である。ここの団子、また今度来られる時用に用意しておこう。
     雑渡は団子を食べ終えると、伏木蔵を膝から下ろして保健室の扉に手をかけた。

    「ご馳走様。じゃあね」
    「はい〜また〜」

     もちもちの頬を揺らしながら手を振る伏木蔵に、雑渡は三日月みたいに目を細めると「うん、また」と言って音なく去った。
     伊作は二人のやり取りにふっと笑ってから、薬の調合を再開した。





    「今度はどんな不運?」
    「薬草を摘んでいたら木の根に足を引っ掛けまして、体勢を戻そうと手をついた先の泥に手が滑り一回転して着地できたかと思いきやぬかるんだ泥に足が流されそのままなぜか空いていた穴に落ちた次第です」
    「なるほど。何度か体勢を整えようと努力したことと受け身を取った上で穴に落ちたのは、忍びとしては及第点かな。で、怪我はない?」
    「顔を木の枝で切ったくらいで、両手両足無事です」
    「それはよかった。はい、手」
    「ありがとうございます」

     いつもの薬草摘みに出かけていつもの不運でなんでか突如ぼこりと空いた穴に落ちた伊作に手を差し伸べてくれたのは、演習のため忍術学園からほど近い山にやってきていた雑渡だった。
     雑渡に引き上げてもらい、穴から這い出る。手足を軽く動かして再度確認。衣服は泥で汚れてしまったが、顔の傷以外の怪我はない。背負っていた籠も確認したが穴などはない。よかった。このまま薬草摘みは継続できそうだ。

    「助けて下さってありがとうございました」
    「いえいえ。で、はい」

     手を差し出される。ん?なんだろう。お礼は?ってことかな。もちろん助けてもらったのだからお礼をしないと。伊作は籠の中から摘んだばかりの小さな白い花を取り出して、雑渡の手に「どうぞ!」と握らせた。この花は鎮痛剤としての薬効のあるもので、なかなかに貴重なものなのだ。雑渡に礼として渡すのに相応しい。
     花を渡された雑渡はというと、目を見開いてぽかんとしてる。いや口元は布に隠れていて見えないんだけど、どう見てもポカンと言う表現が相応しい顔をしていた。
     ああそうか。突然花だけ渡されても意味が分からないよな。

    「この花なんですが、鎮痛剤としての効能がありまして。乾燥させてから薬草茶にすると良いかと思います。助けていただいたお礼にしては量が少なくて申し訳ないのですが」
    「あ〜あ〜なるほどね。ウン、ありがとう。でもそうじゃなくて」

     雑渡は花を伊作の手に返す代わりに、ひょいと籠を奪い取ると当たり前のように担ぐ。雑渡の背中に対して籠は随分小さく、背中がミチミチとなっていた。

    「じゃあ行こうか」
    「え! どこに?」
    「薬草摘み続けるんでしょ。付き合うよ」
    「でも雑渡さんも演習があるのでは」
    「私は総まとめだけで、細かい指示は陣内がしているから少々抜けても大丈夫」
     ホーホーホッホー!
    「そうなんですか?」
    「そうそう」
     ホッホイ!ホッホイ!
    「あの、なんかすごくフクロウの声が聞こえるんですが」
    「発情期なんじゃない?」
     ホホホホホホーイ!ホホー!!
    「もっとこう、必死な感じがするんですけど」
    「大丈夫大丈夫。さ、行こうか」

     ホホーイ……というどこか物悲しい鳴き声を最後にフクロウが鳴き止んだので、雑渡と伊作は薬草摘みへと歩き出した。
     
    「もう少し行った先に薬草がたくさん自生しているんですよ。種類も豊富で。火傷痕に効くものもあるので調合が終わったらまた雑渡さんにお渡ししますね」
    「世話になるね」
    「いえいえ」

     とりとめのない話をしながら森の中を進む。ふと白い花を手に歩く伊作を見て、雑渡が「伊作くん、白い花が似合うよね」と言った。

    「そうですか?」
    「うん。というか白が似合うよね。初めて会った時も山伏の格好がよく似合ってて、まさか同じ忍びの者とは思わなかったもの」
    「山伏の格好って戦場に潜り込むにはちょうど良いんですよ。忍たまの制服で戦場に行くわけにはいきませんし」
    「そりゃそうだ。──忍たまの制服も似合うけど」

     雑渡が伊作の手から花を取って顔の横に添える。白い花からは他の薬草とは違いほのかに甘い香りがした。

    「うん、やっぱり伊作くんには白がいっとう似合う」
     
     雑渡が眦を下げる。
     最近雑渡の表情から感情を読み取れるようになったと思っていたけど、この顔はどういう感情なんだろう。
     面白がるものとは違う。揶揄ってるものとも違う。優しい、見守るような、でもそれだけじゃないような。分からなくてじっと雑渡を見ていると「はい」と花を返された。

    「私に花は似合わないから」
    「雑渡さんも似合いますよ」

     雑渡の耳元に花を差し出す。キリリとした大人の雰囲気に、白い小さな花というギャップがなかなか良い感じである。

    「ほら、やっぱり似合う」

     伊作が笑えば、雑渡は一瞬黙った後「そう?」と目を三日月の形にする。
     あ、この顔は分かる。面白がってる顔だ。

    「ふふ、やっぱりお前、忍びに向いてないね」
    「え? 今の流れってそんな話でした?」
    「そうそう」

     またものらりくらりとかわされた。
     
    「さて、少し早歩きしようか。このままじゃ薬草のところに着くまでに日が暮れちゃう」

     雑渡に自然と手を引かれて、伊作も手を離すことなく歩き出す。
     ホーホーホッホー!ホホーっ!と忙しなく鳴くフクロウに急かされるように、雑渡と伊作は薬草のところへと急いだ。


     それからも雑渡の来訪は続いた。
    「曲者だよ」というお決まりの挨拶と共に保健室へやって来ては、伊作と伏木蔵と共にお茶と茶菓子を楽しみ、時に雑渡おすすめの雑炊を一緒に食べたりした。
     伊作が薬草摘みに出かけて猪に追いかけられているところへ颯爽と現れて、ひょいと助けてくれた。お礼にと団子屋に誘えば、礼のつもりが団子とお茶をご馳走になってしまった。
     領地内で珍しい薬草を見つけたからと、わざわざ持って来てくれた。本で見た時から気になっていた類の薬草で、伊作は興奮した。お礼をしたいと告げれば、じゃあ町での買い物に付き合ってもらえないかと頼まれ、二人で買い物に出かけることになった。雑渡から変装してきてねと頼まれたので、悩んだ末女装することにした。夫婦のフリをした方が怪しまれずにすむし。タソガレドキ忍軍忍頭と忍たまの自分が並ぶとどうにも関係性が謎すぎるし。伊作はそう結論づけ、仙蔵に化粧を施してもらってから町へ向かった。仙蔵の手腕により悪くない、むしろなかなかの出来の女装で雑渡と待ち合わせ場所へ向かえば、特大のクソデカ溜息をつかれてから「確かに変装して来てと言ったのは私なんだけど、やっぱりお前忍びに向いてないね」と言われた。「女装似合ってないってことですか」と聞けば「そうじゃなくて、最高だし立花くんありがとうってこと」と返ってきた。雑渡の言うことはどうにものらりくらりとしていて、やっぱりよく分からない。


     伊作の日常に雑渡が当たり前にいるようになってそれなりの時が過ぎた頃。
     頻繁に保健室を訪れていた(忍び込んでいたとも言う)雑渡の来訪が、ここ二月ほどぱったりと止んでいた。
     伏木蔵が「こなもんさん、忙しいんですかね〜」と寂しげに言うので、雑渡の代わりにと膝の上にのせてみたが「伊作先輩も悪くないんですが、雑渡さんの方が安定感があるんですよね〜」とダメ出しされてしまった。

     薬草を取りに行けば崖から落ちた。幸い大きな怪我はなかった。
     保健委員の皆んなで薬草取りがてらピクニックに行ったら猪に追われて薬草摘みどころではなくなった。
     町への買い出しに行ったら、子どもに財布をスられそうになり、財布の代わりに多くはないが恵みを渡して帰ろうとしたら馬糞を踏んだ。
     留三郎と風呂へ行った帰り、喜八郎の掘った落とし穴に落ちた。

     変わらない日々の中。

    「やあ、曲者だよ」

     変わらない挨拶と共にあの人が顔を出すんじゃないかと期待して、でも今日も保健室の扉は静かなままだ。




     雑渡と会わなくなってから三月ほどになるかという頃に、忍術学園保健室に一人の来訪者が現れた。正規の手続きを踏んで、忍術学園保健室に足を踏み入れたのは諸泉尊奈門だった。
     土井をライバル視している彼は、土井に果し状を送りつけては学外で決闘という名の一方的なやり取りを続けている。
     そんな彼が正規の手続きを踏んで、忍術学園保健室にやってきた。「邪魔をする」と、神妙な顔でやってきた尊奈門にすわまたも何かしらトラブルを起こしたか、と伊作の顔も険しいものになる。尊奈門から人払いを頼まれ、伏木蔵と乱太郎にしばし保健室への入室を禁ずる。体調の優れぬ者や怪我をした者がいれば別室へ案内するよう頼んだ。
     しんと静まり返った保健室で、伊作と尊奈門が向き合う。
     尊奈門のただならぬ雰囲気に最初は険しい顔をしていた伊作だが、保健室に先生方が来ないということは学園を巻き込むトラブルがあったわけではないのだろう、と結論づけた。以前のような事──学内の先生や生徒を巻き込む事件が起こったのなら、先生方が黙って伊作と尊奈門を二人きりにするわけがない。
     目の前の尊奈門は正座をし、膝の上で手を固く握りしめたまま黙っている。伊作が用意したお茶に手を伸ばすこともない。緊張が解れるようにと淹れた薬草茶からゆらゆらと白い湯気が揺れる。
     しばし待っても話し出さない尊奈門に、伊作から問いかけた。

    「本日はどのようなご用件でしょうか」

     なるべく穏やかに問いかけたつもりだが、どうにも声が固くなる。尊奈門の緊張に伊作も呑まれているようだ。薬草茶を一口飲んでから伊作はさらに尋ねた。

    「それに今日は尊奈門さん一人ですか? 山本さんや雑渡さんは」

     名を出した瞬間、尊奈門の肩がびくりと跳ねた。その反応に伊作の肩にも力が入る。なんだ、どちらの名前に反応したんだ。しばらく沈黙。先に動いたのは尊奈門だった。懐から何かを取り出すと伊作の前に差し出した。

    「組頭から、お前に」

     差し出されたのは真白の紙だった。
     綺麗に三つ折りにされたそれにはっきりと書かれた「遺書」という言葉に、全身から血が抜けたような感覚になる。指先が一瞬で冷たくなる。頭がぐわんぐわんと揺れる。視界がぶれる。唾もうまく飲み込めない。息の仕方が分からなくなる。ドッドっとやけに大きな音が耳を打つ。ああ、自分の心臓の音か。こんなにも大きく早鐘を打つのを初めて聞いた。
     尊奈門が下を向いたまま話し出す。伊作も目の前の紙をじっと見つめたまま、黙って尊奈門の話を聞いた。

    「──ちょうど三ヶ月前、組頭は殿からの極秘任務を受け、一人で城を出た。どういった内容の任務なのか、我々には知らされなかった。組頭からは長期に渡ること、危険を伴うこと、このことは殿と自分との間でしか情報共有されないことを告げられた」

     尊奈門の淡々とした声が耳を通り抜けていく。

    「組頭から私に与えられた命令は一つ。『私からの連絡が絶えてから三月後にこの遺書を今から言う人物に渡すこと』だった。これまでも組頭から同じ命令を下されたことは幾度かある。でもまさか──本当に実行することになるとはな」

     そこで初めて尊奈門の声が震えた。小さな揺らぎが伊作にも伝わってきて、伊作はぐっと歯を噛み締めた。
     小頭、高坂さん、と尊奈門が名前を連ねていく。そして最後、少し間を空けてから「それから、お前だ」と言った。

    「私たちタソガレドキ忍軍以外に遺書を残されたのは善法寺伊作──お前だけだ」





     尊奈門が保健室から出て行っても、しばらくの間伊作は動かなかった。足を揃え、膝の上で手を握り、静かな呼吸を繰り返し、目の前にある遺書をただじっと見つめていた。
     どれだけの間そうしていただろう。
     伏木蔵や乱太郎が何度か保健室の前まで来ている気配はあったが、部屋まで入ってくることはなかった。陽も沈みかけ、保健室の中に庭の木々の影が伸びてくる。黄昏時も近い。
     ようやっと伊作は目の前の紙に手を伸ばした。

    『私が死んだら骨をあげる』

     そう言っていたくせに、骨一欠片、髪一本残さずあの人は消えてしまった。残されたのはたった一通の手紙だけ。
     彼は最後に自分にどんな言葉を残したのか。どれだけ考えたって分かるはずもない。この遺書を開く以外に彼の言葉を知る術はないのだ。
     三つ折りの紙を開く。もう手は震えなかった。
     そうして広げた先、真白の紙に書かれていたのは短い一文だった。
     あの人の書く字を知っている。
     組頭に相応しい威風堂々とした文字を書く人だった。太い筆で書かれたしっかりとした文字に、雑渡らしいと思ったことをよく覚えている。視線の先にあったのはいつものそれとは違い、細く流れるような、けれど確かに彼の字だった。

    『君のことが好きだった』

     書いてあったのはそれだけだった。
     明瞭で簡潔で端的な、たった十文字の言葉。
     紙を手に取る。何度目を動かしても、何度繰り返し読み返しても、書いてあるのはそれだけだった。
     知らず手に力が入って、白い紙がぐしゃりと音を立てる。
     ああ、もう、なんで、どうして、いや、何よりも。
     何が遺書だ。
     こんなの遺書じゃない。恋文だ。
     ふざけたようにのらりくらりと話すあの人とは違い、あまりにも真っ直ぐで迷いのない恋文だった。
     最後にこんな言葉を残すなんて。
     そんなの僕だって。
     そう叫んでやりたかった。
     でも言えなかった。だって雑渡の言葉があまりにも真っ直ぐに伊作の胸を貫いて、そうして声を奪ったからだ。
     手紙を搔き抱いて蹲る。胸の中でぐしゃりと紙の潰れる音がする。声の代わりにとめどなく頬を涙が伝っていく。口の中が塩辛くって、そのせいで雑渡と食べた雑炊の味を思い出して余計に泣けた。

     助けてもらったこと。
     薬草を共に摘んだこと。
     黄昏時を並んで歩いたこと。
     一緒に雑炊を食べたこと。
     とりとめのない話をしたこと。

     なんてことのない時間を共に過ごして、そうする内に、伊作の中でもゆっくりと降り積もるように、けれど確かに思いは募っていたのだ。
     ずるい。ずるいですよ。
     僕だって言いたかった。
     ずっとずっと、言いたかった。
     でも言えなかった。もう二度と言えない。伝えられない。どれだけ叫んでも、どれだけ紙に言葉を連ねても、あの人には届かない。
     その事実が伊作を打ちのめす。
     忍びとして生きていくと決めていた。
     感情を表に出すなと言われた。
     人を助けたくて、でも力及ばす助けられないことなんて今までに何度もあった。その度に折れそうになる心を奮い立たせてきた。
     しゃがみ込んでうずくまってもまた立ち上がって、そうして今日までやってきた。
     でも今は無理だった。
     うずくまったまま、床に染み込んでいく水滴をただただ見ていた。
     骨なんかよりよほど重いものを残してあの人はいってしまった。
     永劫忘れられない言葉と、永劫伝えられない言葉を残して、あの人は逝ってしまったのだ。

     ここで蹲っていてもあの人はこない。分かってる。なのに一歩も動けない。陽が完全に落ちきる前、影が伸びる黄昏時になって、ようやく伊作はのろのろと顔を上げた。
     そうだ、動け。動くんだ。今日は保健委員としての仕事を何一つできなかった。いつものように薬を調合して、今更かもだけど怪我人がいたら手当てをして、いつものようにしなければ。
     その時、保健室の扉、障子の向こうに大きな影が映る。誰か怪我人だろうか。
     怪我ならばすぐにでも手当てをと思ったが、今の伊作の顔はどうにも酷いものだ。流石に顔を拭かないと。

    「す、すみません! 少し待ってもらえますか!」

     声もガサガサで酷いものだった。明らかに泣いていたことが分かる、鼻声。これはまずいと一度桶の水で顔を洗おうとしたが、それより先にスパーン!!と勢いよく保健室の扉が開いた。

    「大丈夫!? 伊作くん!」

     そこにいたのは雑渡だった。伊作のボロボロの顔を見て目をかっぴろげると、ものすごい勢いで座り込む伊作の元へ来て、矢継ぎ早に話し出した。

    「泣いてたの!? 怪我したの!? それともお腹が痛いの!? 薬は!? 誰かの襲撃を受けたとかではないよね!? 実は見えないけど重症負ってるとか!? それとも不治の病!? ヤダヤダ伊作くん死なないで!!」

     いやそれはこちらの台詞なんですけど。

    「えっと、怪我もしてませんしお腹が痛いわけでもないですし襲撃も受けてないですし死ぬような病でもないです」

     冷静に伊作が返せば、慌てていた雑渡も幾分か冷静になったのか、一つ咳払いをしてから「うん、じゃあ良かった」と居住まいを正す。
     伊作から腕一本分くらいの距離を取って、雑渡が足を組んで座る。そうして泣き腫らした伊作の顔を見てから、伊作の手元にある白い紙にぢっと視線を落とした。
     互いに何も言わない。
     部屋の外からホ〜〜〜〜〜と細く長いフクロウの鳴き声が聞こえてきたのを機に、雑渡が話し始めた。

    「尊奈門から事の経緯は聞いてると思うんだけど、ここ最近殿からの命令で秘密の忍務についてたんだよね。あ、大丈夫。戦関係ではあるけど忍術学園に害が及ぶことはないから安心して。で、長期任務に当たる際には、毎度遺書を用意しろってのが殿からの命令なんだよね。だから毎回部下宛に遺書を残してたんだけど、まあ毎度絶対生きて帰ってくるから遺書なんてそんな意味はないよね〜くらいに思ってたわけ。でも今回は指令の内容が内容だし、今までよりはきちんと遺書残しとくかってふと思い立ったんだよね。遺書の渡し役はこれまで通りに尊奈門でいいか〜って軽く考えてたんだけどさ。私との連絡がつかなくなってからきっかり三月後に渡せって言ったんだけど、尊奈門が、ほらあの子思い込んだら一直線というか即行動ってところあるじゃない? 土井殿への果し状送るのとか、相手の都合も考えずに勝負を挑むところとか。忍びとしてよくない癖だから治しなさいって何度も言ったんだけどね。でもまああの猪突猛進なところもあの子らしいわけだからそこまで強くは言わなかったんだけどね。代わりに陣左が注意したり、いやまあ注意なんてのは可愛い言い方で実際は拳で教えてたんだけど、あんまり意味なくて。だからか私がいなくなってからまだ二月と二十九日しか経ってないんだけどなんでか遺書をみんなにばら撒いちゃったみたいなんだよね。もうほんとあの子ったらうっかりさんで困るよ。流石の私もオイオイオイオイってなったんだけどね、でもほらまだ読んでない可能性もあるかな?って思ったのね。遺書なんてそう読んで楽しいもんでもないじゃない? ハイじゃあさっさと読みますか!みたいなテンションで読むものでもないし。だって遺書だよ遺書。残す者が残された者に好き勝手放題書いただけのものだったり、死後の後始末を頼むものだったり、金銭の絡んだものだったり、人によっては背中が痒くなるようなロマンティックポエムをびっしり書き殴ってるものの場合もあるじゃない。いや私がそうってわけじゃないよ。別に伊作くんへの熱烈ポエムをしたためたわけじゃないんだけどね。でもほら遺書って自分の死後のために残す文書のことであって、この通り私生きてるわけだからそれは遺書とは言わないわけで、というかそもそも生きてるのに遺書読まれるのって恥ずかしくない?」

     いつもより饒舌にベラベラと喋りながら、一度フゥ〜と息を吐くと、雑渡は伊作が持つ白い紙に視線を向けた。そうしてどこか諦めたような、一縷の望みを託すような目をして伊作に問うた。

    「で、改めて聞くけど中身見ちゃった?」
    「見ちゃいました」
    「だよねえ〜」
      
     伊作の手の中でぐしゃぐしゃになった真白の紙を見て、雑渡はうーんと唸りながら首を捻った。しばらく天井を見上げて逡巡した後、雑渡が口を開いた。

    「どうしようかな、これ」

     遺書を指さしてそんなことを尋ねてきたので、伊作は間髪入れずに言った。

    「とりあえず僕に直接言ったら良いんじゃないですか」

     雑渡は面食らったみたいな顔をした。
     しばし無言。伊作は待った。外でホーホーホと梟が急かすように鳴いても待った。

    「……面と向かってフラれたらおじさん立ち直れないんだけど」
    「雑渡さんはおじさんじゃないですよ」

     即座に否定。

    「強くてかっこよくて、とても優しい人です」

     そう続けると、雑渡が大きく目を見開いた。パチパチと三度ほど瞬きをしてから「ウワ〜もう何この子怖いんだけど」と天井を仰ぐ。
     怖いって何が? 
     伊作が首を傾げると、雑渡が「これ以上私を落とし込んでどうするのってこと」と言う。それから無意味に手を出したり引っ込ませたりしてから、最後観念したようにゆっくりと伊作に手を伸ばしてきた。
     大きくて太い腕が伊作の背に回る。優しく抱き寄せられて顔が胸に触れる。触れた箇所は固くて温かくて、小さく心臓の動く音が聞こえた。思いの外早く音を刻むそれに伊作は嬉しくなる。
     ああ、生きてる。この人は、生きている。
     じわりと目元に熱が溜まって、思いの丈が涙になって溢れ出そうになったが。

    「じゃあ言うよ。言うからね。良いんだね。本当に言うよ。言ったら最後取り消せないからね。分かった?」

     なんて、雑渡が何度も確認してきたので。
     いつだって飄々としてる彼が自信なさげな様子がおかしくて、涙の代わりに笑い声が溢れ出た。くくっと肩を振るわせる伊作に、雑渡がむっと眉を寄せたので、この人にもこんな子どもっぽい可愛いところがあるんだなあなんて余計に笑えてしまう。

    「──お前さ、呑気に笑ってるけど、私が直接想いを口にしたら最後、聞かなかったことにはできないし、逃げられないよ」

     本当に、良いの。

     この人はタソガレドキ忍軍忍頭で、僕は忍術学園の忍たまで。
     これから先、僕たちの道がどうなるかは分からない。選んだ道によっては敵対することもあるかもしれない。
     でもそれでも。
     聞きたい。貴方の口から。
     どんな道を選ぼうが、これから先どうなろうが、今の自分の気持ちは決まっているから。

     返したい言葉は決まっている。
     あなたがくれた十文字と、同じ言葉を返したい。









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