気に食わない。 セベク・ジグボルト。コイツはディアソムニア寮の一年生だ。オレの話を少しも聞きやしない、他の寮(オレはスカラビア寮)であるオレに対してはとても態度がデカい。
なんならオレは三年生で先輩だというのに「おい、人間!!」と呼びつけられる。最初こそ物凄くムカついてはいたが最近は少し見え方が変わった。
ある日の放課後、セベクがいつも通りの大声であのマレウス・ドラコニアを探していた時だ。オレは図書館に向かうところだったんだが、珍しく通りかかりに探し人であるマレウス・ドラコニアを見かけた。
多分あの方向はコイツも図書館にでも向かうんだろうなぐらいにしか思わなかったが、一人歩いて行く姿が珍しかったからよく覚えている。セベクが今にも泣きそうな顔で「若様、どちらにおられるのですか?!」なんて叫んでいるものだからついつい声を掛けてしまった。
あの時のセベクの顔は普段の威張った威圧感たっぷりの態度とはかけ離れ、オレからの報告を聞き年相応な子供らしい顔で安堵の表情を浮かべていた。感謝の言葉を口にしてその後はオレが伝えた方向へと駆け足で去って行った。
「足はっや……」
この一件がオレとセベクの関係を柔らかくしてくれたんだと思う。この日を境にセベクから声を掛けられる際、今までであれば「人間」だったのが今では「先輩」へと改善したのだ。
だからと言って特別仲が良くなったのかと言えばそうではないが、会えば会釈をしてくれたり、挨拶をしてくれたりするような程度だ。しかしそれでも今まで警戒心が凄かった犬が急に態度を軟化させてきたぐらいの衝撃がオレの中にはあった。
「お前、それはさすがにあれじゃねぇ?」
「なんだよ」
「いやぁ……」
クラスメイトのネコ科の友人が歯切れ悪く言う。表情は何とも言えない、微妙なものだった。オレ達は次が移動教室ではないこと良いことに机の上へとペンやら教材やらを広げたままダラダラと話し続けていた。友人は細長い尻尾を揺らめかせ、片手で頬杖を着きながら口を開く。
「あのドラコニアン筆頭の一年に気があるんじゃねぇの?」
「いやいや、んなわけ」
「いいや、あるね。俺の勘がそう言ってる」
揺らめいていた尻尾が緩やかに垂れ下がり、それと同時ぐらいに人差し指をビシッと向けられる。図星を突かれたような気分になり、視線が僅かに左に逸れる。
「まぁ、アイツも悪い奴じゃねぇし?少しぐらいなら仲良くなってやってもいいかなって思ってはいるけど」
「はいー!決まったー!確定乙でーす!」
「はぁ?!」
高校生には良くあるやり取りだと思う。からかえる瞬間があれば全力でからかう。オレもコイツが同じこと言っていたらからかっていた。両手をパチンと叩き合わせゲラゲラと声を上げて笑う姿に、若干のイラつきが芽生える。そのイラつきの中にはそう自分でも理解していた羞恥心が紛れているのを理解していた。
ほどなくして教科担当が入ってきて授業が始まる。オレは慌てて前の教科書をしまい、次の科目と入れ替えた。眠くなる教師の話を聞きながらぼんやりと窓の外を眺めると見知った後輩の顔をちらほら見かけた、どうやら一年生の飛行術の授業らしい。
遠くに見える小さな人影へ目を凝らし視線でミストグリーンの髪を探す。目立つ淡い頭髪をすぐに見つけると今は正にペアを決めているようで、腕を組んでふんぞり返っていた。あれではいつまで経ってもペアは決まらないだろう。
しかし、そんなセベクの傍に駆け寄ってくる姿があった。距離が遠くてもあの姿はとても馴染みがある、我がスカラビア寮の副寮長だ。一年生と二年生の合同授業だったらしい。
何かを二、三言伝え合うとペアが決まったようで輪から二人ではけていく。珍しいことがるんだな、セベクが大人しく他寮の言うことを聞くなんて。そんな事を思って外の景色から視界を外した。
今でも度々セベクとは顔を合わせれば挨拶をする。少し変わったのは時々会話をするようになったことだ。基本的にオレがセベクの持ち物や食堂でのメニューについてなど、当たり障りのない事を話すだけだが。そんな些細な会話にもセベクは言葉を返してくれる。
「お、お疲れ。今日の食堂、いつもより混んでたから早めに席だけ確保しとけよ」
「ああ、先輩。お疲れ様だ。む、そうなのか?有益な情報感謝する」
「いいや気にすんな、可愛い後輩の為だからな」
喋り口調もなんだか和らいだな、ここ数日間一生懸命会話を重ねた甲斐がある。そんな事を思いつつ、ふと今日はもう少し踏み込んでみようと思った。
オレよりも上背があるが届かないという程の身長差もない、片手を徐に持ち上げてその柔らかそうな癖毛を撫でようとした。その髪に触れる直前、ぺしっと手を叩かれてしまう。眉間に皺を寄せてあからさまに不機嫌を顕にしたセベクがキッと睨んでいた。
「馴れ馴れしく触るな!!髪が乱れるだろう!!」
失礼する!!と半分怒鳴りながらズカズカ早足に食堂へと消えていった。やってしまった、せっかく好感度を上げていたというのに……。
友人が隣にいなかったのが不幸中の幸いだった、一つ溜息をついてから見えなくなった背中を悔し気に眺めていると背後から声を掛けられた。
「先輩?どうしたんですか、こんな所で」
「あ、ああ……バイパーか。お前も昼食べに来たのか?」
「ええ、まあ。カリムには弁当を持たせたので今日ぐらいは自分も好きな物を食べようかと」
振り向けば不思議そうな顔でこちらを見ていたジャミル・バイパーと目が合う。彼は我がスカラビア寮の二年でありながら副寮長を務めている、三年のオレから見ても大変優秀な後輩だ。
ふとここで先日の記憶が過る。そういえばコイツはあのセベクと揉めずに飛行術のペアを組めるほど、親しいんだろうか。自身が抱いている邪な気持ちが邪推してしまう。バイパーは言葉が続かないオレを訝しげに見ていた。
「なぁ、バイパーはセベクと仲が良いのか」
気付いたらそう聞いてしまっていた。ハッとしてももう遅く、バイパーは怪しがって寄っていた眉間の皺を緩めながら片手を口元に当て、考える素振りを見せてから頭の中で合点がいったようで人の好さそうな笑みを浮かべた。
「セベク?……ああ、ディアソムニア寮の一年の。親しいかはわかりませんが、顔を見れば挨拶する程度ですよ」
「そ、そうか!いやこないだ飛行術の時にペア組んでたろ?セベクの態度じゃ誰もなってくれないだろうなと心配してたからさ」
「先輩はセベクと親しいんですね、そんな心配までしてやるなんて」
「ま、まぁな。よく話もしてるし、可愛い奴だよ」
「他寮生ばかり可愛がってやらないでくださいよ。それじゃ俺はランチ済ませてきます」
失礼します。そう言ってセベクが向かった食堂へとバイパーも消えていった。つい、バイパーに張り合おうとして少し誇張して伝えてしまったが大丈夫だろうか、まぁ仲が良いのは本当だし!嘘ではないな!そんな言い訳を内心でぼやいてオレは次の授業の準備をするためにと教室へと向かって行った。
バイパーとそんな会話を交わしてからまた数日、オレはいつも通りにセベクを見かければ声を掛けていた。前回働いてしまった無礼を挽回すべく極力接触をしない、距離感を大事にするを意識して。
セベクは性格からして奥手であるし、距離を縮めるのに焦ってはいけないタイプだろう。前回はオレがつい調子に乗ってしまったからだ、セベクの気持ちを考えてやらなかった。そりゃいきなり先輩から撫でられそうになったら驚くだろう。今度は失敗せず、もう少し距離を縮め、その後あのミストグリーンの髪を撫でてやろう。そう企んでいた。
この日は風が強く、セベクの整えていた髪が風に遊ばれ乱れるほどだった。オレは遠くに見つけたセベクが乱れる髪を煩わしそうに抑えているのを見て、可愛いななんて思いながら駆け寄ろうとしていた。が、それはオレよりも先にセベクへと近づいて行った姿に邪魔をされてしまう。
「バイパー……?」
あまり見たことのないような笑顔でセベクへ話し掛けている。どうやら雰囲気だけで推察するに乱れた頭髪をからかっているようだった。セベクは相変わらず眉を吊り上げ文句を言っているようで、きっとそろそろ怒ってあの場から去って行くだろう。そうしたらオレが駆け寄って髪型を整えてやって……。
しかしいつまでもその機会は訪れなかった。オレ相手だったらあそこで機嫌を損ねてしまってその日の会話は終わりなのに、バイパー相手にはそんなこともなく、なんならほぼ見ることがない笑顔まで引き出している。
オレは呆気にとられてしまった。だって、そんな、オレはあんなに一生懸命積み重ねをしていたのに、それでこの距離感なのに。バイパーめ、いつの間にセベクを誑し込んだんだ?!
二人の会話は終わる様子が見えず、このまま眺めていても理不尽な怒りに嫉妬心が湧き出てしまって暴れだしそうだったのでオレは踵を返してその場を後にした。先輩の中では一番オレが仲が良いと思っていたのに!そんな気持ちがオレの心には渦巻いていた。
その後はいつも通りクラスメイトのサバナクロー寮の友人に今日のセベク報告をして、ついでにこの嫉妬心についても話をしたら「末期過ぎてウケる」とだけ言われ、諸々の気持ちを込めたパンチを肩にお見舞いしてやった。ほんの少し友人がいて、オレのこの気持ちを知ってくれる奴がいて良かったなと思った。
その日からセベクを目で追いかける先にちょくちょくバイパーが割り込んでくるようになった。授業中、中庭での読書中、食堂へ向かう道中、なんならスカラビア寮にセベクが来た時ですらバイパーがいた。その時はアジームも同席していたが、会話の内容的にバイパーに用事だったようだ。課題がどうのこうの…バイパーへ聞かずオレに聞けばいいのに、三年だしもっと色々教えてやれる。そんな幼稚な気持ちが心の中に渦巻く。
デェアソムニアの寮服は見ているだけで暑そうだった。ほんの少し頬が赤らんでいたのが印象的で何か飲み物でも渡してやろうと思ったのに、そんなオレの思考よりも何手も先にバイパーがセベクへと飲み物を渡す。そのスマートさがオレには足らないのかもしれない、そんな自己分析をしながら会話が途切れるのを待っていた。
そうこうしている内にアジームが朗らかに笑って宴だなんだと言い出したが、セベクもバイパーも大慌てでそれを止めていた。なんだよ、そんな所まで息ぴったりなのかよ。
「よう、セベク。暑そうな恰好してんな」
セベクの肩にぽんと軽く片手を置いて声を掛けた。心の内側がチクチクしたような心地で、つい三人の会話に割り込んでいってしまった。アジームは「お、お前もセベクと友達なのか?」なんて笑っていたが、セベクは少し驚いていたしバイパーは一瞬だけ表情が固まったように見えた。この表情を見てオレは若干後悔したが、そんなオレの気持ちなんて置いてけぼりにバイパーはすぐに呆れ顔を見せていた。
「先輩からも言ってやってください、この馬鹿……今から宴をしようなんて言い出すんですよ」
「僕もマレウス様の護衛に戻るのでそんな時間はないと言っているんだが」
「あっはっは!シルバーだって護衛でいるんだろ?学園内は安全だし少しくらい大丈夫だって!」
「勝手を言うな!!」
無責任な一言にセベクが声を荒げた。オレは状況をようやく理解して腰に手を当てて張り切ろうとしているアジームの肩を叩く。
「ああ、なるほどな。アジーム、セベクにだって用事があるんだよ。また今度計画してやろうぜ?それに明日も宴やるんだろ?」
「ええ、そうだけどさぁ……うーん、じゃあ、また今度とびきり凄い宴をしてやるからさ、その時はマレウス達も誘って来いよ!」
アジームはオレにまで言われるのであればと渋々ではあるが引き下がってくれた。その言葉を聞いて心なしかホッとしたようなセベクの背中を軽く叩いて帰りを促す。オレの意図を感じたのかピッと背筋を伸ばしアジームに挨拶をして闇の鏡へと向かうセベクを見送ろうとオレも一歩を踏み出し背中を追おうとすればバイパーが片手をオレに差し出す。
「客人の見送りは俺が。先輩、場を収めてくださりありがとうございます」
にっこり人の良い笑みを浮かべるバイパーに、これ以上は立ち入らせないという圧を感じてしまいオレはその場から動けなくなってしまった。静止したオレをバイパーは肯定したと受け取り軽い会釈の後にセベクへと声を掛け、そのまま二人で闇の鏡へと向かって行ってしまった。
ポツンとその場に残され、遠のいていく楽し気な二人の背中を見送り何とも言えないモヤモヤを心に抱えてオレは自室に戻るしかなった。
「うっわ、それ絶対牽制じゃん」
「やっぱりそうだよな~?!」
相変わらずオレのこの淡い気持ちの相談に乗ってくれるのはコイツしかいない。ランチを食べ終わり、紙パックのジュースを餌に二人で渡り廊下を歩きながら昨日感じたモヤモヤを吐き出した。
誰がどう聞いてもそう見えてしまうのだ、やはり間違いではなくこれはれっきとした牽制で手を出すなということなのだろう。肩をがっくりと落としながら大きな溜息をつく。友人はドンマイとジュース代ぐらいの慰めをしてくれた。
しかし牽制だろうとセベクが誰かと付き合っているという事実は未だにない、ここで諦めて本当は両想いだったのに悲しい結果になってしまったということにならないようにしたい。
もしかしたら、ほんの少しでも可能性があるのであればアタックはしていきたい。だってもうこれは恋なのだろう。ここまで心が乱され頭を占めているのに恋じゃない訳がない!そんな変な気持ちが湧いて出てきてしまった。とにかく当たって砕けろ、振られるまでが恋愛である。
そう決心するが否や、オレは友人に握った拳を見せながら勢いよく顔を向ける。友人はもうジュースを飲み終わりオレの話には興味すら無くなったようで手元のスマホだけを見ている。いや、元々持っていなかったのだろう。だがそんなことも関係ない、聞いていようがいまいが良いのだ。
「……よし、決めた。セベクに告白する」
「へ~」
「ここ数日でもっと仲良くなったし、奥手で恥ずかしいだけなのかもしれないし」
「ほ~」
「オレの気持ちを伝えたらセベクも恥ずかしがらずに応えてくれるかもしんねーし!」
「頑張れ~」
心が一切こもっていない激励すらも今のオレを奮い立たせた。もうこうなっては勢いしかないのだ、やる気になった時にいかねば今後もきっと何も言えず進展が無いまま卒業を迎えてしまうだろう。何よりも多少の手応えがある今、淡い期待を捨てきれない。もしかしたらオレをセベクも求めてくれるんじゃないか、だって先日も笑顔を見せてくれたし。
どんどんとプラス方面に思考が転がっていく。この時のオレを止めてくれる奴はおらず、隣の友人は適当な空返事ばかり。握りしめた拳をそのままに数歩前へと出てオレに興味のない友人を振り返り、演技がかったような口調で話す。少しテンションがおかくなってきたのは否めなかった。
「善は急げ、オレは今からセベクの元へと行き、愛を伝えよう!」
「マジ?今から?どこにいるのかわかってんの?」
「多分昨日読んでた小説が終わりかけだったから、中庭のお気に入りのベンチにいるはず」
「うわそこまで把握してんのさすがに怖いんだけど」
「これも愛がなせる業だよな……」
今すぐ告白しに行くという言葉に驚いたのかさすがにスマホの画面から視線がこちらに向き、呆れを前面に押し出した顔でオレを見る。そんな顔をされても今の勢いがついたオレは怯むことはない、むしろ俄然やる気が出てきてしまった。
一度スマホに目を向け時間を確認すれば次の授業まで三十分は優にある。この時間なら確実にいるだろう、オレはまた前を向いて急ぎ足にセベクがいるであろう場所へと早歩きで向かって行く。
そのオレの後を友人は追い掛けてくる。暇だからだろうか、それともオレの勇姿を見届けに?先程まで全く興味が無いような顔をしていたというのにやはりなんだかんだ良い奴なのだ。
五分も経たずに中庭が見えてくればすぐにオレはセベクが座っているであろうベンチを探す。今いる位置からは少し見えづらい、もう少し近付かなければ。気持ちが急いてしまい少し駆け足になる。
木の陰からミストグリーンの髪が見えた。少し俯きがちな横顔が見え、やはり読書を楽しんでいるようだった。そのまま駆け足の勢いで近付こうとして足が止まる。
ミストグリーンの頭の横に艶やかな黒色が見えた。あの髪は見間違うはずもない、バイパーだ。隣同士に座っているようで木の幹に隠れてオレからはわかりづらかった。今までのオレであればこの時点で踵を返して諦めていた。しかし、今日のオレは違う。絶対に告白をする。その意志だけでここまで走ってきたのだ。
再び止めた足を動かそうと一歩踏み出せばビュウッと強めの風が吹く。一瞬目を瞑ってしまい、風が落ち着いて目を開くとバイパーがセベクの頬へと片手を当て顔を近づけているところだった。あまり信じたくもない光景でつい呼吸を忘れ、固まってしまった。そうして、唇が重なったんじゃないかと思うほど近付いた距離で止まったバイパーの視線がオレを見る。完全に視線が合ってしまった。
一瞬の出来事ですぐその視線はセベクへと戻り、何事もなく二人は再び談笑していた。呆然と立ち尽くすオレに、いつの間にか隣まで追いついていた友人はあっけらかんとした声音でオレの肩を叩きながら言う。
「あちゃ~。こりゃ完全にアウトじゃん。ドンマイ」
「…………告白すら出来ずに失恋したの、オレ」
「あのバイパーに睨まれても告白出来んの?」
「無理だよ怖え……」
「まぁ、ほら。ガム食う?」
「食う……」
生気の抜けたようなオレの肩を揺すり、強引にその場をUターンさせて来た道を戻りながら珍しくオレにくれたガム。その一粒分の優しさにオレはちょっぴり泣いた。やっぱり持つべきものは恋人ではなく友達である、改めてオレは心に深く刻んだのだった。
◇◇◇
最近セベクへとちょっかいを掛けている先輩がいる。しかもスカラビア寮生ときた。特にセベクから相談を受けたとかではないんだが、明らかに疲れている様子を見るようになった。
心配して聞いてみればどうやらマレウス先輩の行方を尋ねてから妙に親しく声を掛けてくるようになったらしい。最初は挨拶だけだったのが、段々と距離が近くなり、戸惑うことが増えたと言っていた。
俺はセベクと深い付き合いがあるわけではないが、最近懐いてきた可愛い後輩が悩んでいれば多少なりとも力になってやりたいと思うものだろう。とりあえずどんなものなのか、しばらくは様子を見ることにした。度が過ぎているのであれば先輩だろうが寮のメンツがある、俺の評価を貶めるような真似は絶対にやめさせなければ。
そこからは俺が見れる範囲で気にかけてやることにしたんだが、驚くことに度々その場に出くわす。その時々で距離感は違えど確かに少し近い、あのセベクが戸惑うわけだ。どこか同級生よりも初心であり、生真面目で友人との距離感すら上手く掴めていない後輩の悩む姿が容易に想像できた。
次の合同飛行術の日、また同級生に声を掛けようとしないセベクの姿を見掛けた。正確には声の掛け方を迷っているようで、周りで談笑するクラスメイト達を見つめている。…いや、睨んでいる?どちらにせよそれじゃあ声を掛けてもらうこともできないだろうに。
俺は気付かれないように小さく溜め息をついてからセベクへと近付いて声を掛けた。こちらを向いたセベクの表情に安堵が見え、つい笑ってしまう。こうやって素直に表情に出るのに何故上手くいかないのか。内心一人で不思議だと思いながらペアへと誘って他の人達から離れるよう開けた場所へ誘導する。
「……先日話していた先輩、確かに少し距離が近かったな」
「先輩?ああ…スカラビアの。何かをされるわけでもないし、大丈夫ではあるんだが人間の距離感はあんなものなのか?」
「親しい相手には多少近くなるとは思うがあそこまでではないだろ、俺の中の話ではあるけどな」
箒に跨り浮上しバランスを取りながらそれとなく話題を振った。今日の課題は二人一組で宙に浮かぶ障害物を乗り越え校庭一周だ、真っ直ぐに飛ばなければならない場所、上下に大きく揺れたり旋回したり魔力と箒のコントロールが難しい。一年生には少し難しい、俺も去年は苦い思いをした事を思い出す。
セベクも例外ではないようでいつもの険しい顔が二割増強くなっているように感じる。俺の話題に反応するぐらいの余裕はあるようで同じ高度まで来たのを確認して体重移動しながら前に進み、授業課題をこなし始める。時折後ろに視線を向け、セベクがついてきているかを気にしながら最初の障害物を越える。
「く、…では、あの人間が変わっているのか」
「そうとも言えるしあれはどちらかと言えば好意に近いんじゃないか?」
丁寧に魔力操作をしながら箒を扱っているのがわかる。セベクは成績優秀者であり、実直であり真面目な男だ。こういう一つ一つの所作にそういう性格が滲み出てていて、こうやって話をする前からそういう所に好感を持っていた。
「好意?誰が誰に?」
「あの先輩が君にだよ」
「まさか!!そんな訳がないだろう…っ、わ」
セベクは信じられないという顔で声を荒げると集中力が乱れてしまったようで大きく箒の柄が揺れる。咄嗟に体勢を崩したセベクへとマジカルペンを握りすかさず風魔法を使って補助をしてやった。
元々従者として鍛錬しているだけあり、すぐに体勢を立て直したのを見てホッとする。あのまま落ちなくて良かった。
「っと……大丈夫か?」
「ジャミル先輩が変な事を言うから……!!」
「自分の未熟さを俺のせいにしないでもらえるか?ほら、次に行くぞ。次は助けてやらないからな」
「僕を見くびるなよ!!」
こうやって一言煽ってやるだけですぐにやる気になる所も気に入っていた。からかいがいのある、可愛い可愛い後輩だ。再び箒の柄を握り先程よりもスピードを上げるとセベクも躍起になってついてくる。今日の授業はいつもより楽しめそうだなと大きな障害物を旋回しながら独りごつ。この後はいつものように課題をこなして解散した。
それから数日、今までは気にしていたから見掛けていた先輩とセベクの姿が今ではやけに目に付く。今日まで後輩の心配事を先輩として気にしておいてやろう、ぐらいの気持ちでいたのに。今ではつい目でセベクを探してしまう。また困っているんじゃないかと言う心配を口実に。
今日は珍しくカリムが部活動の先輩方とランチをすると言うので弁当とおやつ、飲み物を持たせて先程送り届けた。あの先輩方であれば大丈夫だろう、カリムが粗相をしなければいいが…とりあえず俺も空いた腹を満たす為に食堂へ向かった。角を曲がってもう少しという所で話し声がする。耳を澄ませば聞き覚えのある声だ。
「……む、そうなのか?有益な情報感謝する」
「いいや気にすんな。可愛い後輩の為だからな」
セベクの声だった。つい壁に背を預け気配を消す。どうやら例の先輩に捕まっているらしい、会話の内容が途中からで全くわからないがまた何かされているようなら止めなければ。そっと角から顔を覗かせた瞬間、セベクの髪へと手が伸びているのを目にしてギョッとする。アイツ、何をやろうとしている?!飛び出しそうになった瞬間セベクが怒りながらその手を振り払い、足取り荒く食堂に向かって行った。どうやら触れられる前に離れていったらしい。
先輩は唖然としたような表情でセベクの後姿を見ていた。ざまあみろ。少し気持ちがスッキリしたところでさも今来ましたというような表情を作って話し掛ける。努めて気に掛けていますよと滲み出しながら言葉を選んでいると突然思いがけない事を言われた。
「なぁ、バイパーはセベクと仲が良いのか」
まあ、アンタよりは。なんて口が裂けても言えない。しかしこの一言で確信した、先輩はセベクに気があるんだろう。なるほどな、やはり。さて、どうやってこの男を諦めさせようか。そんな事を考えながら嫉妬心を滲み出す哀れな男ににっこりと笑顔を浮かべてやった。
「セベク?……ああ、ディアソムニア寮の一年の。親しいかはわかりませんが、顔を見れば挨拶する程度ですよ」
「そ、そうか!いやこないだ飛行術の時にペア組んでたろ?セベクの態度じゃ誰もなってくれないだろうなと心配してたからさ」
「先輩はセベクと親しいんですね、そんな心配までしてやるなんて」
「ま、まぁな。よく話もしてるし、可愛い奴だよ」
「他寮生ばかり可愛がってやらないでくださいよ。それじゃ俺はランチ済ませてきます」
当たり障りのない受け答え、俺の本心は少しも滲み出さずに答えてやれただろう。今ここで事を荒立てるのは俺になんのメリットもない、とりあえずその場を離れるために話を終わらせて先輩へと背を向ける。スマホを取り出してセベクへとメッセージを送り、あの先輩は手に入れられなかった隣の席を確保して一人優越感に浸った。この日食べたカレーは今までの何よりも美味しかった。
あの食堂前の一件から俺はなるべくセベクの傍へ行くようにした。同じスカラビア寮生のストーカーじみた行動は正さなければならない。セベクへと触れようとしたあの行為はさすがに行き過ぎている、俺ですら触れることはしていないというのに。
セベクへ話し掛けて一緒にいる時間を増やすとどれだけあの先輩がセベクへと近づいてくるのかがわかる、話し掛けに来ずとも視線で追いかけまわしているのだ。セベクはまだ一年生だがあのマレウス先輩の護衛だ、自分に向いている視線に気付かない訳がない。時々居心地が悪いようで何とも言えない表情をしていた。
隣にいる時はできるだけ視線から遮ってやり、そっと別の場所に誘導したり。いつものセベクらしくないなと思ってこの間図書室で自習の合間に聞いてみたが一度良くしてもらった手前言いづらいようだった。普段であれば気味が悪いからやめろ、と怒鳴っていてもおかしくはない。なんとなくあの先輩がセベクの中の特別な枠組みにいるようで気に食わない。
そんな事を明日の宴の為に用意した食材を仕込みながら考える。ある程度下準備が出来れば次は宴の段取りだ、カリムを探し出し確認事項を伝えていれば寮内では聞きなれない声が俺を呼び止めた。
「あ、ジャミル先輩!!」
「お?」
「セベク?!どうしたんだこんな所まで」
「先日相談した古代呪文語の課題についてとお借りした書籍を返しに来たんだが、邪魔をしてしまったな」
「ああ、オレの事なら気にすんな!セベクは良い奴だなぁ、わざわざジャミルを探してここに来てくれたんだろう?ゆっくりしていってくれ!」
カリムは珍しい訪問者にいつもの輝かしい笑顔をより輝かせて出迎える。どうやら闇の鏡を通ってわざわざ課題の質問と貸してやった参考書を返しに来てくれたらしい。俺もカリムと一緒になってセベクの元へと近付いていく。
ふとセベクを見れば、頬が薄っすらと赤らんでいるのに気付く。スカラビアの寮服とは違いきっちりとしているディアソムニアの服はとても暑そうだった。いや、魔法の糸で織り込まれてるのから実際はそこまで暑さを感じていないのかもれないが、気温は高い。
露出している肌は暑さを感じているんだろう。さり気無く呼び寄せ魔法でコップを出し、カリム用に用意していた水差しから水を注いで手渡してやる。
セベクはあの人懐こい顔で笑って受け取ればごくごくと飲み干していく。この笑顔を見れば確かに絆されるんだろうな、誰もが。いわゆるギャップというものにやられるんだろう、俺は違うが。
「カリム、明日の予定の話は後でいいか?先にセベクの話を聞いてく……」
「そうだ!ディアソムニアと違ってここは暑いだろ?今から宴をして涼もうぜ!」
「はぁ?!おい、カリム……!」
「な、僕にそんな時間は無いので遠慮する!!」
「いいじゃねえか、料理だって明日の為に用意してたのを少し使えばいいしさ!豪華な物じゃなくて、簡単なもので良いし」
「あのなぁ……」
カリムの突然の思い付きはいつものことだ、だが今はそんな場合ではない。何より明日の宴の為に事前準備した食材を今から使って、使った分を今日の宴の後にまた仕込むだって?たまったもんじゃない。
思わず片手で頭を抱える、言い出したら聞かないが何としてでも宴だけはやめさせたい。セベクは目に見えて困っているし、わざわざ先日貸した参考書と合わせて課題の相談をしに来た事にも応えてやりたい。護衛としての任務時間を削ってまで会いに来たのに、不憫で仕方がなかった。
「よう、セベク。暑そうな格好してんな」
突然セベクの後ろから声が掛かる。軽い手つきで肩にもぽんと片手が乗ったのを見た。驚いてつい表情を作るのが遅れてしまったが、こんな事をするのはあの先輩ぐらいしかいないだろう。
セベクも驚いたようで振り返りつつ目を大きくしていた。平然を装いつつカリムを宥めてもらうよう提案し、何とか宴は回避した。先輩からも言われてしまえばさすがのカリムもやれないとわかったらしい。いい加減俺の一言でやめてもらいたいものだ。
先輩がセベクの背中を叩いたようでハッとしたセベクがカリムに挨拶をして帰ろうとしていた。カリムの気が変わらない内に帰るのは得策だろう、見送りついでに課題の話をしようと一歩踏み出したところで先輩が動くのが見える。つい咄嗟に手を出し牽制してしまった。しまったとは思ったがもう時既に遅く、先輩は唖然とした顔をしていたが何かを言われる前に圧を掛けておこう。
「客人の見送りは俺が。先輩、場を収めてくださりありがとうございます」
動かないのを確認してからセベクに小走りで駆け寄った。以前にあの先輩から触られそうになったのをいたく気にしていたのが気掛かりで隣に並んで顔を覗き込んだ。特に顔色が悪くなったりはしていないようで内心ホッとする。
「セベク!慌ただしくさせてすまなかった、課題の提出は明日だったか?」
「ジャミル先輩…いや、来週までなので時間はあるぞ。早めに終わらせたいは終わらせたいが」
「なら明日の昼休みにでもやろう、暇か?」
「良いのか?!もちろんだ、時間を作る!!」
「じゃあ明日の昼休みは図書室で待ち合わせよう、その課題に丁度いい書籍があって……」
明日の約束を取り付けながら鏡の所まで連れ立って歩く。セベクの歩く速度が気持ち緩やかになったのを感じながら課題とは違う世間話へと移行した。
こんな風に気軽に会話が出来るようになったのはいつからだったか、最初の出会いは入学式後、迷子になったセベクがスカラビア寮に迷い込んできた時。あの頃はカリムを狙った刺客だなんだと疑ったりしたが、蓋を開けてみればマレウス先輩の護衛を務めているというのにあまりにも初心で人を信用すると一気に懐いてしまう。こんな俺にですらこの懐きようだ、心配にもなる。
それと同時に、最近では妙に可愛く思える。故郷にいる妹を思い出したが、それとはまた違った可愛さを見出してしまって少し困惑していた。
基本的にマレウス先輩やリリア先輩以外の人間に対して不遜な態度ばかりが目立ち、人好きされるような性格ではないのに知っていけばいくほどその純粋さに驚くし、素直で注意されたこともちゃんと聞き入れられ改善しようとする。そういう部分はとても好感が持てた。
何より懐いた相手に見せる隙が多すぎる。これに絆される人は多いだろうなと自分に向けられた笑顔に納得した。
そんな事を会話の裏で考えていればあっという間に鏡の前へと辿り着く。セベクがあの人懐こい笑顔をまた俺に向け、律義にお辞儀をしてから鏡を潜って消えていった。
一人になった今、小さくキュンと締め付ける胸元抑えても誰にも見つかることはなく、数回深呼吸を挟んでから俺は談話室へと戻って行った。
次の日は約束通りに図書館で必要書籍を見繕い、そのまま時間がくるまで辞書を片手に解説をしながら課題の手伝いをしてやり、予鈴が鳴るまでの短い時間付き合う。
セベクは勤勉で難しい古代語に対しても辞書を片手に自分で調べ、当て嵌めて一度読み訳にしっくりこなければそこで初めて確認しにくる。どこぞの主人に見習ってほしい。
何度目かの感想を抱きながら課題に付き合い、また次回の勉強会の約束をして各々の次の授業へと向かう。
最近はこの時間が少し寂しいと感じる、学年も違えば寮も違い、部活動もそれをやる場所も全く違う場所だ。用事や接点が無ければこんなにも会話をする機会すら巡ってこない。
最初はセベクにちょっかいをかける同寮の先輩が煩わしかったのに、今では少し有り難いと感じている。俺の評価を落とそうとする愚かな輩、という印象を抱いていたのに今ではもう少し何か仕掛けて来いとすら思う。
あの先輩がいなければ俺はセベクとここまで距離を縮めていただろうか。縮めるにしてももう少し時間を掛けていた事だろう、そう考えれば良い働きをしてくれた。俺が自然に介入する口実を与えてくれたのだから。
一人ほくそ笑みながら主人がいつもの思い付きで開催する今晩の宴について考え始める。いつもより上機嫌なのはきっと間違いではない、何故ならあのアズールがおべっかを使いながら話し掛けても涼しい顔でスルーを決め込めたからだ。
この日は宴を終えてもいい気分だった。
数日休み時間を使ってセベクの課題に付き合いつつ自分の課題をこなし、今日は息抜きと称して中庭で待ち合わせていた。今日はほぼ見直しだけで、気分転換も兼ねて勉強のお供にとカリムの弁当のついでにちょっとしたおやつを作って持ってきた。意外とセベクは甘党らしく嬉しそうに頬張ってくれる。
大きめの紙袋の中から青い蓋のタッパーを取り出し、その中にゴロゴロと一口大のドーナツが山盛りに入っている。シロップを纏って太陽の光を浴び、テカテカと光っていた。アッワーマと言うおやつで、その光る一粒を人差し指と親指で摘まみ上げればセベクは大きく口を広げてぱくりと一気に口の中へと放り込んだ。
「ん、このドーナツ物凄く甘いな」
「ドーナツをシロップで漬けた物だ、勉強のお供には最適だろう?」
「甘すぎる気もするが……しかし美味しい!!コレをジャミル先輩は手作りされたのか?お弁当も手作りされているし、素晴らしいな」
もう一つどうぞと俺はタッパーをセベクにずいっと差し出す。セベクは遠慮がちに、それでも嬉しそうに隠し切れない笑みを浮かべてまた指先でシロップ漬けのそれを摘まんで頬張る。その様子を風に髪を靡かせながら眺めていた。この時間は結構好きな時間だ。
セベクは懐いた相手の良い所を見つけるのが上手く、更には普段の態度からは考えられない程素直に称賛の言葉をくれる。時折照れ臭く思うが満更でもない。何なら俺の中にある満たされない自尊心がセベクの素直な称賛の言葉で少しずつ満たされるような気持ちだった。
体全身で美味しいを表現しながら豪快にパクパクと口に頬張る様子は見ているこちらとしても気持ちが良く、いくらでも食べさせてやりたくなるような気持ちなる。
指先の汚れを拭うようにと一緒に持ってきたウェットタオルも用意をしておこう、ごそごそと紙袋からビニール袋を取り出す。濡らして絞ったハンドタオルが入っていた。
セベクが出したタオルで手を拭いている間にふと辺りを見回す。従者としての癖だったが、そのおかげで後ろの渡り廊下からこちらへ向かってくる人影が見えた。
例の先輩のようで、何か話しながらもう一人の先輩と歩いてくる。偶然かと思いつつ足取りは確実に俺達の方へと向かってくるので、話し掛けられた際にどう対応するか考えていれば突然ビュウッと強めの風が吹く。
「痛ッ、…目にゴミが入った」
俺は靡いた自分の前髪を横に流し風が収まるまで軽く耳に掛けていたが、セベクは運悪くゴミが目に入ったらしい。これは好都合だ、利用しよう。目尻に涙を滲ませながら片手で左目を擦るセベクの手を優しく掴んで擦るのを止めさせる。
「仕方ない、ほら見せてみろ」
「すまない…」
申し訳無さそうに眉尻を落としながら言われた通りに俺に顔を向けてくる。気まずいからか目を閉じ、無防備にそうやって言われた通りに顔を向ける警戒心の無さに若干心配と呆れが湧き出てくるが、それと同時にあの先輩ではここまで無警戒のセベクを拝むことは出来ないだろうという優越感を感じた。
顔を少し近付けながら「少し触るぞ」と小さく断りを入れて片手で頬に触れ、先輩からは良い雰囲気のように見える角度を計算して目の中に入ったであろうゴミを見る素振りをする。視界の端で足を止めたのを確認して仕上げとばかりにぐっと顔を近付けわざとらしく視線を送る。
しっかり目が合い、明らかな絶望を感じている顔に内心ほくそ笑む。親指で緩く下瞼を軽く下げ、ゴミの確認をするも特に見当たらない。きっと先程滲んだ涙と一緒に流れたんだろう、そう結論付けて手を離す。先輩が慰められながら離れて行くのを一瞥して近付けた距離を離して風で乱れた前髪を軽く撫でてやった。
「特にゴミは入ってなかったぞ、多分もう取れてる」
「ん、本当だ。もう痛くない。ありがとうございます!!」
セベクは俺の一言にすぐ目をパチパチと瞬かせ閉じていたアンティークゴールドの瞳を覗かせた。先程までの痛みが無くなり表情が明るくなったのにホッとする。
おやつを食べて小腹が満たされたからか課題の見直しをするとまだ開いていなかった書籍とレポート用紙を広げ、今までに埋めてきた内容に相違がないかの確認をし始めた。俺はそれを隣で聞きつつ、先程の目を閉じたセベクを思い出しす。
無防備なあの表情、見ようによってはキス待ちの顔にも見える。程よくふっくらした唇、リップクリームでケアしているのか艷やかな表面、きっとキスをしたら気持ちが良いのだろう。そんな邪な感想を心の中で独り言ちる。
無意識のうちに再びセベクの唇に視線を向けてしまうとレポート用紙に目を向けていたはずのセベクとかち合う。一瞬驚いたように目が丸くなり慌てて逸らされる。
そうしてゆっくり、色白の頬に熱が乗ったように赤みが増していくのをぼーっと見つめてしまった。何だその可愛い反応は、何故そんな反応を俺に見せるんだ。
「……こんな時に言うのも可笑しいと思われるんだが、ジャミル先輩はああいう事を他の人にもやるのか?」
「ああいう事?」
「その、先程顔を近付けて確認されただろう?」
「ああ…………何でそれを聞くんだ?」
例の先輩への牽制としてやった行いについて言われているのだと気付く。付き合ってもいない、ましてや同性の後輩に断りも無くやるのは確かに失礼な事だ。
それを咎められていると思って謝罪を口にしようと思ったがふと小さな好奇心と期待で謝罪の前に問い掛ける。こんなしおらしい態度で、可愛らしく頬を色付かせて、セベクは何を聞きたいんだ。ドクドクと心臓が脈打つのが分かる、表情に出さないように、努めて平然を装う。
セベクは少し言葉に詰まり逸らした視線が右往左往と動いていくのが見え、そのうち意を決したように逸らされていた視線がこちらを向く。再び交じる視線につい息を飲んだ。
「……あんな事をされたら、勘違いしてしまう」
真っ直ぐに向けられた瞳が少し拗ねたように細くなり、普段の偉そうな態度とは懸け離れた子供じみた口振りに胸がギュッと掴まれた。
その言い方はまるで、俺に対して、気があるような。都合良く受け取っているだけだろうか。いやまさか、そんな。普段は頭の回転にも突然の出来事への対処力も自信があるが、今この時は役に立たなかった。
目の前のセベクの頬が若干膨らんでいるような気さえしてくるようで、ここ数日で一番心臓の音がうるさい気がする。思考が纏まらずすぐに言葉が出てこなくて、数秒止まってしまった。
セベクも反応が無く固まった俺を気まずそうに見ておりじわじわと色が濃くなっていく頬を俺は放棄した思考で可愛いな、なんて考え始めてしまった。
「へ、変な事を言ってしまった。忘れてくれ、それでは!!」
「……あ、」
ついに羞恥心や居心地の悪さがピークに達したセベクは勢いのまま半分怒鳴るように叫びながら手元の書籍やレポート用紙をしまい立ち上がる。
それを俺は拒むように無意識でセベクの手袋を掴む。掴んでしまってから自分の行動に気付き、目を丸くしながら同じく再び驚き顔のセベクを見上げた。
少しの沈黙が俺も気まずく、しかし脈打つ心臓は大きく早くなるばかりだ。ここまできてしまったらもう、俺も認めざるを得ないのかもしれない。掴んだ指先に少し力を入れてもう一度座るように促す。
予鈴まで後少し、時間は無い。変な緊張感に掌に汗を掻いている気がする、セベクが手袋をしていてくれて良かった。
「……勘違いするって、どういうことだ」
ようやく絞り出せた言葉はこれだった。我ながら回りくどく臆病な事を言うなと思う。セベクの反応からある程度推察ができるが、ハッキリとセベクの口から聞きたい。こういう所は俺の悪い癖だ。
座れと促しても頑なに腰掛けず、すぐ逃げれる体勢のまま口を引き結ぶセベクをじっと下から見上げる。掴んだ指先に力を入れ、逃さないとセベクへ伝える。観念したようにセベクは眉間に皺を濃くしながら口を開いた。
「あ、あんな風に顔を近付けられたら、僕だって好かれているのかもと思ってしまうぞ!!好意を抱いていない相手にする事では無いだろう?!」
「好意を抱いていたら?」
「……え、」
今度はセベクが固まる。
「俺が、君に、好意を抱いていたら。勘違いしてくれるのか」
畳み掛けるように視線を逸らさずアンティークゴールドの瞳を見つめた。驚きに瞳孔が開くのが見え、その瞳の中にはあまりにも必死な顔をした自分が映っていて他人事のように滑稽だな、と思ってしまった。
「な、にを」
「俺は君に、セベクに好意を持っている。好きだ」
「は、はぁ?!」
「申し訳無い事にハッキリ自覚をしたのは今だが、確かにセベクが好きだ。間違いない」
言葉に詰まりながら俺の突然の告白に何とか返事をしようとしてくれるセベクの姿に、恋を自覚してしまった俺は胸が弾む心地だった。嫌がられている反応ではないし、掴んだ手を振り払われる事もない。
茹だったように白い肌が赤くなり、混乱しているセベクを他所に俺はどんどんと言葉を重ねていく。きっとここでハッキリさせなければセベクに避けられる恐れがある。今が勝負時だと勝手に思っていた。
「もう一度聞くぞ、俺はセベクを好きなんだ。勘違い、してくれるのか」
「ッ、何度も言うな!!」
キャパオーバーなのだろう、声を荒げて反射のように反発してくる姿さえ今はただただ愛しい。恋を自覚し認めてしまった途端にこうも見え方感じ方が違うのか。どこか浮ついた気持ちで俺の事では無いような、小説の中の話のように感じてしまう。
声を荒げた後、セベクは視線をまたゆらゆらと漂わせて逡巡していたが短く息を吸ってからふらつかせていた双眸をこちらに向ける。先程までの動揺が嘘のように凪いでいた。
それでもまだ緊張は残しているようで頬は赤く、その緊張が俺に伝わってくるようで背中をひやりと汗が伝う。口が開かれるまでが、長い時間のように感じた。
「……僕も、ジャミル先輩が好きだ。勘違いで終わらせたくはない」
力強く、真剣な声音でハッキリと告げられる好意の言葉に心の底から何か温かなものが湧き上がるような感覚があった。そして、セベクの緊張が移ってきたらしくじわじわと顔が熱くなる。
自ら言わせた言葉なのに改めてしっかり本心をセベクから伝えられてしまうとうるさい心臓も本領を発揮するかのようにバックンバックンと鳴り響く。
「ジャミル先輩は勘違いのほうが、良いのか」
静かにそう問い掛けてくるセベクの顔を少しずつ体の内側から迫り上がってくる羞恥心で見られなくなってくるも無けなしの年上として、副寮長としてのプライドでなんとか視線を逸らさずにいられた。
「……俺は、」
口を開いた瞬間予鈴が音が鳴り響く。タイミング良く俺達の時間を邪魔するチャイムに俺は内心ホッとすると掴んでいた手を離し、そそくさと広げていた物を片付けていき持ってきた紙袋を抱えて立ち上がる。
俺の素早い行動に呆気に取られていたセベクだが、返事を聞きそびれた事に気付いて不満顔を浮かべていた。その表情と一旦気恥ずかしい時間が中断したことで多少の余裕が生まれた俺は目を細め、笑ってやった。
「この続きはまた後で、な」
そう言ってフードを目深に被れば返事を聞く前に駆け足で教室に向かっていく。背後からセベクが何かを言っていたが忙しなく暴れ続けている自分の心音に邪魔されその言葉の数々は俺に届かなかった。
可愛い後輩にちょっかいをかける気に食わない先輩のお陰で、これからは俺だけの可愛い後輩になってくれるであろう事実に、明らかにいつもよりも足取りは軽く、廊下を駆けて行く。放課後に出迎えてくれるであろう愛しい後輩へと思いを馳せながら。