アカデミー時代のディノがキースを金で買う話 目の前に座る相手がサラサラと軽快に紙にペンを走らせるのを、キース・マックスはいまだ半信半疑な気分でぼんやりと眺めていた。
「はい、じゃあ次はキースの番!」
持っていたペンを笑顔でこちらへ差し出すのは、同級生のディノ・アルバーニ。何がそんなに愉快なのか、キースには全く理解できない。
「……本当にいいのかよ」
「む、キース、なかなか渋るな。まさか、まだ報酬を上乗せしてほしいって?」
「バカ。逆だよ。お前は本当にこの条件でいいのかって聞いてんの」
「? キースがいいならいいに決まってるだろ」
言葉を尽くしても通じ合えそうにない気配に徒労感を感じて、思わずため息をつく。まぁそっちがそうならいい。損をするのがキースではないなら、これ以上のやりとりは無駄だ。ペンをとり、ヤケクソ気味に書類にサインした。
「契約成立、だな」
にひ、と歯を見せて笑うディノは底抜けの明るさを感じさせるのに、その手に掲げる書類の内容はそれとあまりにもそぐわなかった。いや、そもそもこんな契約を自分と結ぼうとする相手の神経を理解できるはずがないのだ。
『ディノ・アルバーニは、毎週友だち料をキース・マックスに支払う。キース・マックスは、その支払いが行われる限り、友だちでいなければならない。』
この日、キースは金で買われてディノの友だちになったのだ。
教室の隅で下を向いてパンを齧りながら、キースは眉間に皺を寄せていた。机の下で広げているのは銀行の通帳だ。そこに印字された大きくもない、正確にはやや心もとない数字がキースの表情を曇らせていた。
金がない。
今すぐどうこうというわけではない。銀行に預けている以外にも手持ちで貯めている金はあるし、日々のアルバイトもあるから、困窮して生活できないということはない。しかし、数か月後にはまとまった大きな出費が控えていた。学費の支払いだ。
未来のヒーローの養成所であるアカデミーは、「出自や経歴を問わない」という【HELIOS】の理念に基づき、格安で学びの場を提供している。しかしそれもタダではない。ましてや、実家を頼ることができず自活を強いられているキースにとっては大きな金額だった。
(これ以上バイト増やせっかなぁ)
入学前にそれなりに貯金はしていたし、今もいくつかバイトをかけもちして稼いではいるが、見通しが甘かったと言わざるを得ない。なんとか都合をつけて支払いに間に合うよう金の工面しなければ、詰んでしまう。もしそうなれば、キースのこの先の人生においても「詰み」が待ち受けていることは想像に難くなかった。
小さくはないその可能性が頭によぎり、思わずキースはかぶりを振った。
(ぜってぇ、あんな生活には戻らねぇぞ)
今の環境が最上最善と思っているわけではないが、ほんの少し前の生活に比べれば天と地程の差があるといってよかった。だから、多少の不便があっても、苦労をしても、アカデミーを去るという選択肢はキースにはなかった。
「ハーイ、キース! 今日は珍しく遅刻せずに来たんだな!」
陽気な声と共に、キースのすぐ横の席の机にドスンと重そうなデイパックが置かれる音。かけられた声に顔を上げる気力はなく、自然とため息が漏れた。
「……はぁ」
「どうしたんだ? 朝から元気ないな。そうだ、宿題はちゃんとやってきたか?」
そう、多少のわずらわしさはあっても、アカデミーでの生活及びこの環境は簡単に捨てられるものではない。キース自身の安寧の為、ひいては未来の安寧の為にも。
「先生、今日はどこからあてるんだろな。俺、ちょっとここの問題心配でさ~キース、先に答え合わせしとかない?」
ガタガタと耳障りな音が立って椅子が近づき、無遠慮に距離が詰められる。相手が肩を寄せてこちらを覗き込んでくるのが気配でわかって、無関心無視を貫いている効果が悲しい程ないのを痛感する。
「そうだ、次の授業も一緒だろ。それが終わったら一緒にランチしないか? 天気もいいし、外でピザとかさ――」
「いいからお前、ちょっと黙ってろ」
ぴしゃりと遮り、睨むようにじろりと一瞥すると、相手は一瞬きょとんとしたようだった。しかしすぐに気を取り直したのか、明るい表情を浮かべる。
「やっとこっち向いた!」
隣に座る同級生のディノ・アルバーニはにひ、と笑ってみせた。
慣れない学校生活に多少のわずらわしさは覚悟していたが、まさか同級生の男につきまとわれるとは思ってもみなかった。そういった類の面倒くささは想定外だったキースは、今、結局押し切られる形でディノとランチを共にしている。キースとしては、昼食をとっているキースの傍らで勝手にディノが食事をしている、そういう認識だったが。
(あー……どうすっかなぁ……)
一人でペラペラと話す向かいのディノに時折生返事をしながら、キースは暗澹たる思いでストローを齧っていた。考えているのはもちろん今後の収入源のことだ。今メインで働いている飲食店はそこそこ時給がよかったが、キースの体は一つしかない。シフトを増やすにしても、日中はアカデミーに通っているわけで、いくら毎日勤勉に通っているわけではないとはいえ学業に支障をきたす程働くのはまずい。
――それとも、もっと割のいい仕事を探すか。
時間を削り身を粉にしてチマチマ働くよりも、もっと手軽で、一度に大金が手に入る仕事。心当たりがないわけではない。ここに来るまではそれがキースの仕事であり、日々の生活の糧だったのだから。
しかしできればそれは、最後の最後、本当に頼るもののなくなった時の手段にしておきたかった。そもそもキースがここにいるのも、かつての環境、かつての生活から脱却したいという気持ちがきっかけだったのだから、せっかく念願が叶った以上少しばかり困窮したとはいえそう易々と古巣に戻るような真似は避けたかった。
ここでうんうん唸っていてもしょうがないと頃合いをみはからい、キースは席を立った。昼食のピザを食べ終わったディノが慌ててついてくる。向かう先は、学生課だ。
学生課の並びの廊下には、諸々の案内が掲示されるスペースがある。その端に、アルバイトの斡旋の掲示があったことを思い出し、次の授業の前についでに見ていくことにしたのだ。
「キース、アルバイトを探してるのか?」
後ろをついてきたディノが、掲示を眺めるキースに声をかける。適当に返事をすれば、俺も何かやろうかなぁ、なんてのんびりとした口調で話すディノは放って、キースは掲示の内容を一つ一つ確認していた。
「あっ、キース! 見てこれ!」
「なんだ?」
不意に大声を上げたディノに思わず振り返ると、
「犬の散歩だって! 楽しそう……って、十二匹」
大変そうだなあ、とケタケタ笑うその能天気な様子に、普段なら呆れて放っておくところだが、状況が状況だけに苛立ちが沸いてきた。
(なんでこいつは、オレについてくるんだろうな……)
ディノはキースの同級生だ。それ以上でもそれ以下でもないのだが、妙に懐かれてしまっている。一度はっきりとうっとうしいと突っぱねたはずだが、それから何度つれなくされても全くめげない様子には毎回脱力させられる。
「? 俺の顔に何かついてる?」
キースの視線に気づき、こちらへ問いかけるディノに口元をトントンと指させば、ディノは真似するように自身の口元に触れた。指先に着いたトマトソースを見て、慌ててごしごしと手の甲で唇を擦る。そのあどけない、悪く言えば幼い仕草に、キースの心は更にざわめきたった。
自分とは違う人間。深くは知らないが、きっと食うに困ったことなどなく、両親に愛されてぬくぬくと育ってきた、おめでたい頭の世間知らずな人間。それがキースの中でのディノの印象だった。
「あれ、でもキース、今もバイトしてるよな? まだ増やすのか」
「金がいるんだよ」
「何か欲しいものがあるのか?」
キースのそっけない返答に、理解できないといった風に首をかしげるディノに、はっきりと突き付けてやった。
「学費。このままだと来期の支払いに足りねぇんだよ」
途端にはっとした顔になったディノは、目を逸らした。アカデミーに通う金に困窮しているという発想そのものがなかったという顔だ。つい先ほどまで調子よくペラペラとしゃべっていた口が閉じられて、途端に二人の間に気まずい空気が流れた。気まずく感じているのはディノだけで、キースはむしろ少し胸のすく思いではあったが。
強い風が廊下を抜けて、掲示してある紙がパタパタとはためいた。
「……お金。払えないと、どうなるんだ?」
「どうって、払えなかったら、もうここにはいられねぇな」
しばらくして、押し黙っていたディノがぽつりとつぶやくように投げかけた言葉に簡潔に回答する。その言葉に、慌てたようにディノが声を上げた。
「退学になるってことか そんなのヤダよ! なんとかならないのか」
「しょうがねぇだろ、払うもん払わないと居場所なんかねぇんだよ」
必死に言い募つディノとは裏腹に、キースは至極冷静に答えた。本当は、誰よりもキースがこの居場所を失いたくないと思っている。けれども求められる対価を支払えなければそれは許されないということも重々承知していた。
「アルバイト、して貯まる額なのか?」
ややあって、恐る恐る、という感じで再びディノは尋ねてきた。
「いーや、全然」
掲示板に並ぶ働き口の斡旋はどれも歳若い学生向けの安全で健全なものばかりで、それ故に時給はどれも並み程度だった。小遣いを稼ぐ程度なら問題なかっただろうが、キースはただでさえ足りてない時間を捻出して稼ぎを増やさねばならないのだ。足りない。
「じゃあ、やっぱりキースはこのままだと……」
無関係の他人のことでなぜここまでディノが落ち込んだ表情をできるのかキースには理解できなかったが、見当をつけることはできた。
憐憫。同情。なんて可哀そうな、という「まともな」大人たちが向ける視線の中に侮蔑や軽蔑に並んでよく混じっていたものに違いなかった。
慣れっこになっていたこともあり、普段はあえて気にもしていなかったそれが、今はそれが気に入らなかった。
「いーや、金さえあればなんとかなる」
「でもそのお金がないんだろ」
「手段を選ばなきゃ稼ぐ方法なんていくらでもあんだよ」
ディノの暗い表情を笑い飛ばすようにふん、と鼻を鳴らす。ディノはわけがわからないといった風に眉根を寄せて怪訝な顔をしていたが、キースの次の言葉に目を見開いた。
「世の中には足がつくとまずい仕事を他人に頼んで金を払う奴らがいるだろ」
「それって……犯罪ってことか⁉ ダメだろそんなの」
「うるさいな、別に盗みや殺しをするってわけじゃないだろ」
物騒な単語に、ディノの顔色がさっと変わった。間をおかず、血相を変えてキースに食ってかかってくる。
「当たり前だろ! ダメだキース、絶対にそんなのダメだ!」
近くを通りがかった学生が、ディノの上げた声の大きさに何事かとこちらを伺っている。それに気づいて、ディノは我に返ったようだった。その一連の様子を、無言でキースは見つめていた。ほんの少し驚かせて怯ませてやろうと思っただけなのに、予想以上に必死な形相で食ってかかるものだから、こちらの方が驚いた。
気に食わない。
「じゃあ何? ディノ、お前がなんとかしてくれんのかよ」
「……っ! それは……」
ほら見ろ。
声を詰まらせて、言葉を失っても、ディノは今度は目を逸らさなかった。それがまた、うっとうしい。
「できもしないことに首突っ込むなよ」
とどめを刺すがごとく、吐き捨てるように言えば、頬をはたかれでもしたように傷ついた顔をする。今まで見たことないディノのその表情に胸がすっとするような一方で、どこかをちくりと刺されたような微かな不快感もあった。
その時、次の授業の開始を始める予鈴が鳴った。これでディノが自分に付きまとうのをやめるかもしれない、ぼんやりと考えながら、立ち尽くすディノに構わずキースはその場を立ち去った。
別にキースとて、積極的に法を犯したいわけではない。危ない橋は渡りたくなかったし、何より裏社会や警察のお世話になるのに嫌気がさしてアカデミーに入ったのだから、これで犯罪の片棒を担いでいたら本末転倒だ。
あれから二日経った。予想通り、ディノがキースに話しかけてくることはなくなった。とっている授業がかなりの確率でかぶっているので顔はしょっちゅう見かけるが、キースを目に留めると慌てて視線を逸らす癖に、気になってしょうがないといった風にこちらをチラチラ伺ってくる。こりない奴だと思いながら、キースはもちろんその視線には気づかないフリをしている。
資金調達の目処は立っていない。昨日も無理をいって数時間長く働かせてもらったが、正直雀の涙だ。この調子ではなんの解決にもならない。もう少しすれば、クリスマスから年末にかけての高報酬の仕事も増えてくるのだろうが、それでは遅いのだ。
手段を選んでいる場合ではないのに、下手を打つわけにはいかないと、考えすぎてどんどん身動きがとれなくなっていく。よくない状態だ。夜の疲れもあり、授業の内容は当然のように耳を素通りしていく。教師の抑揚のない声は、食事の後の昼下がりの為にあつらえた子守歌のようだった。
「は」
カクン、とバランスを崩してキースは目を覚ました。すっかり居眠りをしてしまっていたらしい。既に教室には誰もいなくなっていおり、時計を確認すれば時刻は次の授業が始まるまであとわずかという時間だった。まずい。次の授業の担当の教師は、毎回きっちり出席をとる几帳面なタイプで有名だった。出席していないとお話にならないので、何かと遅刻したりサボりがちなキースでもちゃんと出席できるように気をつけていたのだ。慌てて廊下を走りいつもの部屋へ急いだが、その部屋もガランとして人気がない。わけがわからず辺りを見回すと、入口のドアに機材の関係で今日は部屋を移動して授業を行う旨の通達が貼られていた。移動先の部屋は別の校舎の反対方向だ。今から向かっても授業の開始には到底間に合わないだろう。
「……はぁ」
さっきまで居眠りしていた癖に、どっと疲れが押し寄せた気がしてキースは思わず椅子に腰かけた。出欠確認に間に合わずとも授業には出るべきだったが、到底そんな気分にはなれなかった。
同級生に遠巻きにされる時。教師に冷たくあたられた時。そして、誰にも頼れない時。もう慣れきってはいたが一人は堪えた。大半の人間は独りでは生きていけない。光の当たらない世界でも、表社会でもそれは同じなのだ。
自分がこのアカデミーという世界で異物であるということは他ならぬキース自身が一番自覚していたが、どうしようもないのだ。キースはここにいたいが、周りの誰一人としてそれを望んでいなかった。いくら出自も経歴も問わないとはいえ明文化されていないラインは確かにあり、それは単純に金の問題ではなくて、もっと根本的なところの話だった。
机に突っ伏す。視界が真っ暗になって、置いていかれたような気分になる。しかし同時に、安らぎもあった。しょせんはろくでなしの子はろくでなし、あがくだけ無駄な話で、諦めてしまえばもう求めなくて済むのだと。
授業時間になった校舎は静かなものだった。遠くから、運動をしているのだろう生徒の声が微かに聞こえてくる。梢を渡る風の音。どこか間延びした鳩の鳴き声。規則的な足音。
(……足音?)
次第に近づいてくるそれに違和感を覚え、キースは思わず顔を上げた。この教室の先はつきあたりで、足音の主はこの部屋に用事があるに違いなかった。
やましいことは別になかったが、つい隠れるか逡巡しているうちに部屋のドアが開いた。灯りをつけていないと昼間でも薄暗い部屋に、廊下の光が入り込む。そこに立っていたのは、ディノだった。
「……ディノ」
「やっぱり、ここにいたんだな」
「やっぱりってなんだよ」
口調こそ穏やかだったが、ディノの表情は仮面でも貼り付けたかのように固かった。ここにディノが来たこと、放った言葉、意味するところがさっぱりわからずキースは問いかけた。
「部屋が急に移動になっただろ。キース、授業に来てなかったからわからなかったんじゃないかなって」
「それで、わざわざ迎えにきてくれたって? お優しいな」
ディノはキースの煽るような口調に乗ることなく、静かな目でこちらを見ていた。それがどうにも居心地が悪くて、キースもつられるように押し黙った。こちらが口を開かなくても勝手にああ言ってこう言う、ディノ・アルバーニというのはそういうやつではなかったか。
「いつまでそんなとこに突っ立ってんだよ」
入れば、と促せば、ディノは今度は素直に従った。キースの座っている席の、真前にまっすぐ立つ。正面から見下ろされる形になるのが気に入らなくて、なんとなくそっぽを向く。ディノは、そんなキースの心情に気づいているのかいないのか、そのままの姿勢で口を開いた。
「この間は、ごめん。キースにはキースの事情があるのに、俺、何も考えずに色々言ったりして」
「……気にすんなよ」
オレも悪かったし、という言葉は、喉まで出かかって再び引っこんだ。キースとしても、意地の悪い言い方をしたという自覚はあったから真正面から謝られると気まずい。けれども、正直にその気持ちを吐露する気分にはなれなかった。
だが、ディノの次の言葉にキースのそんなしおらしい気持ちは吹っ飛んだ。
「なぁキース、キースにもヒーローになりたい理由があるんだろ。だからこの学校に来たんじゃないのか?」
「はぁ?」
いやこいつなんもわかってねぇな。
キースがヒーローを志したのは安定した生活の為、もっとあからさまな言い方をすれば金の為だ。間違っても人の助けになりたいとか、サブスタンスの研究の発展に寄与する為とか、そんな崇高な志ではない。そもそも、そんな誇り高い思想の持ち主は金に困っても冗談でも「盗みや殺しでなければ非合法な手段で金を稼いでも構わない」なんてことは言わない。
馬鹿言うなよ、そう答えようと思わずディノの方を向けば、こちらを射止めるように見てくる真っ直ぐな瞳と正面からぶつかり、キースは思わず言葉を失った。
「でも、誰かを傷つけてまでお金が欲しいわけじゃないだろ」
「……」
キースの言いたい事を察していたのか、ディノの言葉はまるで先回りしているようだった。あるいは、同級生辺りからキースの悪い噂を聞いてディノなりに考えて察した答えだったのかもしれない。
ディノの言葉は真っ直ぐで、その分残酷にキースの胸を抉った。許されるなら人に後ろ指指されることなく生きてきたかったし、金を稼ぐにしたって人の迷惑になるようなことはしたくない。したくはなかったが、この世には綺麗事ではまわっていかないことはごまんとあって、キースがどん底から這い上がる為には、それらは簡単に切り捨てることはできないのだった。
「もういいだろ。俺、バイトあるから行くから」
これ以上ディノと話していたら、自分の中の大事なものがめちゃくちゃになりそうだ。そんな予感がしてキースが話を切り上げて席を立つと、ディノは待って、と声をかけてきた。まだ何かあるのか、とうんざりした顔で振り返れば、
「これ」
つい、と薄いグリーンの封筒が差し出された。どこかで見た覚えのある柄のそれを、何の気無しに受け取って中身を確認し、キースは絶句した。
「……金?」
札束、というにはだいぶ心許なかったが、そこに入っていたのは何枚かの紙幣だった。心許ないと言ってもキースの一週間の稼ぎより多い。到底十代の若者が日常的に持ち歩く額ではなかった。
「何? くれんの?」
一瞬フリーズしかけたが、すぐにキースは平常運転に持ち直し、冗談めかして封筒を掲げた。相手の欲しがる物を目の前にちらつかせて油断させる、よくある手段だ。問題は、ディノがなぜキース相手にそんな事をしてくるのかという意図が全く読めないところだ。そんなキースの内心の葛藤を知ってか知らずか、ディノはあっさりと答えた。
「うん、キースにあげる」
「は?」
「キースが俺の言うこと聞いてくれるなら、来週も同じ額をあげるよ」
「は……え……?」
言葉が出ない。
思わず、手元の封筒と目の前の同級生の顔を変わるがわる見てしまう。なんてね! 冗談! といつディノが言い出すのかと待ってみても、一向にディノは表情を崩さない。どころか、今まで見たこともない程緊張感をみなぎらせている。それが、にわかには受け入れ難い今の状況をどうやら本気らしい、とキースは認めざるを得なかった。
同級生から金を恵んでもらう。何とも情けない話だが、懐の状況を考えれば一ドルだって一セントだって惜しいはずで、拒否する余裕なんてキースにはないはずだった。しかし無償で与えられるもの程恐ろしいものはないと言う事もまた、キースは身に沁みて知っていた。
「俺に何をさせるっていうんだよ」
今まで、目の前の少年の事をお気楽でどこか抜けたところのある世間知らずな同級生、としか認識していなかった。いつもの朗らかな顔は偽りで、犯罪の片棒でもかつがされるのだろうか。もしくは、何かとんでもなくおぞましい趣味の持ち主だったりするのだろうか。ディノが口を開くのを、キースは戦々恐々とした思いで見守っていた。
「キースに、俺の友だちになってほしいんだ」
「は?」
「俺は毎週、キースに友だち料を払う。キースは、俺の友だちでいる代わりにお金を受け取る。どう?」
「どうって」
お前頭大丈夫か? という言葉はすんでのところで飲み込んだ。こんな突拍子もない提案を平然としてくる相手だ、頭の中身がまともでない事は明白だった。下手に刺激してはこちらの身が危ない。キースのそんな空気を感じとったのか、慌てたようにディノは言い添えた。
「別に、危ない事をさせようってわけじゃないんだ。ランチを一緒にとったり、放課後一緒に宿題をしたり、たまに遊びに出かけたりしてくれればいいよ」
「ただの友だちのやることじゃねーか」
「うん、だから、友だちになってって言ってる」
「はぁ……」
ディノがいつもの調子を取り戻したことで、キースの緊張もほぐれた。相変わらず意味がわからないことには変わりなかったが、少なくとも何かヤバい事に巻き込まれそうな空気はなかった。
「キース、これだけお金もらっても俺とは友だちになりたくない?」
「…………」
普通の友だちになるだけで金が手に入る。願ってもない申し出なわけだが、あまりにオイシイ話すぎて逆に信じられなかった。キースを邪魔に思った誰かがこれをネタに陥れようとしているのではないか――全く有り得ないとは言い切れない嫌な想像に、キースは押し黙る。
「……信用できねぇ」
なんと伝えたものか、正直に言葉にすると、ディノは信用、とオウム返しにつぶやいた。そのまま何度か言葉を口の中で反芻し、しばらく考え込んでいたが、やがてぽん、と掌を叩いた。
「契約書を作ろうよ。そしたら、少なくともそれに書いてあること以外のことはできないってキースは信用できるだろ」
「…………」
稚拙な発想ではあったが、悪くない。少なくとも、キースがディノを恐喝云々して金銭をまきあげて、といった言いがかりからは逃れられるだろう。それも無理矢理キースに書かされた等とディノに言われたら終わりではあるが。
嬉々として鞄からペンとルーズリーフを取り出すディノを見て、キースは久しぶりにため息をついた。
遠くから、騒いでいる学生の声が聞こえる。少し傾いた陽の光が窓から差し込んで、向かい合って座る二人を照らし出していた。
「はい、じゃあ次はキースの番!」
差し出されたペンを受け取る。何度も書かれた内容を読み返すが、話した事以上の事は書かれていない。契約書というのはもっとこう、色んな事態を想定したことが書かれていると思うのだが、キースとていくら大人びていてもその辺りの事に詳しいわけではない。しかし、毎週ディノの友だちでいれば少なくとも学費の問題は解決する。こんな美味しい話をみすみす見逃せる程の余裕がキースにないこともまたキースから拒む意志を奪っていた。
「……本当にいいのかよ」
「む、キース、なかなか渋るな。まさか、まだ報酬を上乗せしてほしいって?」
「バカ。逆だよ。お前は本当にこの条件でいいのかって聞いてんの」
キースの問いかけに、首を傾げるディノ。その顔は、心底キースの言い分を不思議に思っている顔だった。
「? キースがいいならいいに決まってるだろ」
これがもし演技なら、世の中の何も信じられない。もう考えることに疲れ切って、キースはサインした。
「契約成立、だな」
笑うディノに、どうせならこのおめでたい頭の同級生のおめでたい提案をとことんまで利用してやろう、とヤケクソ気味に考える。この世は金が全てではないが、金が圧倒的なパワーを持っていることは間違い。
「ああ、よろしくな」
どんなつもりか知らないが、この意味不明な契約を利用して窮地を乗り切ってやる。キースはそんな思いを込めて、ディノに応えるように笑った。