ブラアキ習作あ、キスしてーな。
なんとなく自然に、アキラはそう思った。共用スペースのダイニングのテーブルで、ノートパソコンの画面に目を落として何やら作業をしているブラッド。その伏せた目をふちどるまつ毛を眺めていた時だった。
すっかり見慣れた光景に、特に思うところもないはずだったが、なんとなく落ち着かずにいた理由を自分なりに分析した結果だった。
俯いたブラッドを無理やりこっちに向かせて衝動のままに口付ければいい。しかし、アキラはグッとこらえた。
ブラッドとキスするのは別に初めてではない。ブラッドは、いつも場所を選びムードを作って、そういう空気だぞ、とアキラに言外に説明させるかのように徹底してから、する。非常にスマートだ。だから、こんな唐突に仕掛けて果たして受けいれられるだろうか?という気持ちがあった。ましてや、相手はなんらかの作業中だ。仕事なのかそうでないのかはアキラには区別がつかなかったが(仕事でもないのにパソコンをいじる必要があるのか?と疑問に思いはしたが、機械を触れば壊すアキラには見当もつかなかった)相手の邪魔をすれば不興を買うであろうことはアキラにも察せられた。
終わったところ、もしくは一区切りついたところを見計らって……幸い、ブラッドがノートパソコンとにらめっこを始めて小一時間経っている。そろそろ休憩を挟むはずだ。そのタイミングを狙えばあるいは。しかし、そこでアキラは次の壁にぶち当たった。
眼鏡である。
これまでアキラの周りには眼鏡をかけている人間がいなかったから、以前テーブルに置いてあったブラッドの眼鏡がなんとなく物珍しくて、興味本位で触ったことがある。わりと深刻なトーンで苦言を呈された。いわく、フレームが歪むとか、他人の物に許可なくベタベタ触るなとか。
共同生活もそれなりの長さになってきたから、ブラッドに叱られる時の雰囲気の違いもなんとなくわかる。あれは二回目は許されない叱られ方だった。
まあ、ブラッドの言い分はもっともだと納得したのでそれは構わないのだが、今、問題はキスする時にソレが邪魔になることだ。
ブラッドの眼鏡を外さないことにはキスできない。それをどう外したものか、正確に言うと、どう外せばブラッドの不興を買わないのか、アキラにはわかりかねた。いつもどんな風に外していたか。外さなくてもできるかもしれないが、きっとそれはスマートではない。
キスしたい、そう言えばきっとブラッドは眼鏡を外してこちらに顔を寄せてくれる。
が、それはなんとなく癪だ――という謎の対抗心を胸に、アキラは悶々としていた。
「眉間にシワが寄っているぞ」
いつの間にかこっちを見ていたブラッドに声をかけられて、アキラは我に返った。ブラッドは席を立ち、作業で凝り固まったのであろう肩を解すようにさすりながら、キッチンの方へ向かった。コーヒーでも淹れるつもりなのだろう。
その何気ない動作すらどこかのモデルのように腹が立つほど絵になっている。慌ててアキラも後を追うように立ち上がり、ブラッドの後ろをついていった。
「なあ、もう終わるか?」
「? まだ少しかかると思うが……なんだ?」
そういえば、ずっとそこにいたが何か俺に用事でも?訊かれてアキラは思わず口ごもった。ダイニングでコミックを読んで過ごしていたのはたまたまではあったが、まさかキスしたくてタイミングを計っていたとは噤んだ口が裂けても言いたくなかった。
「別に、なんでもねーよ」
明らかになんでもなくはない返事だ。しかしそれ以上放つ言葉を選べず、アキラは黙った。
(ガキみてぇ……)
察してほしかったわけではなかったが上手く言葉にできないでいる自分はカッコ悪い。そう感じる程度にはアキラも成長している。
「…………」
アキラの気持ちを知ってか知らずか、ブラッドも押し黙った。もっとも、こちらはそれが通常運転なので特に大した意味はないのかもしれなかった。コポポ、とカップにお湯が注がれるわずかな音を、俯いたままアキラが耳にしていると、不意にクシャリと髪に触れられる感触がした。
「……何か話したいことがあるなら、いつでもお前の都合のいい時に話しに来ればいい」
そのまま、頭の形をなぞるように撫でられる。顔をあげれば、髪を撫でていた手が、アキラの額にかかる髪を払うように動き、気づけば温かい何かがそこに触れた。額にキスされた、と少し遅れて気づいた頃には、ブラッドの手はもう一度ポンと優しく頭に触れて離れていった。これでも飲め、といつの間にか淹れられたアキラの分のコーヒーが差し出される。ブラッドは、踵を返してダイニングに戻ろうとしていた。
「っ、ブラッド」
振り向いたブラッドの服を引っ張り、無理やりこちらを向かせて口付ける。ガチ、とフレームにぶつかる音がした。ギリギリ唇の端に届いたような、そんなキスだった。
「何かと思えばそんなことを企んでいたのか」
アキラの突拍子もない行動にほんの少し驚いたようにピンクの瞳が揺れたが、ブラッドはすぐに冷静さを取り戻したようだった。
「わ、悪かったよ……」
自分から仕掛けたくせにあまりに稚拙すぎて、アキラは視線を逸らした。なんとなく癪に触るのは、対抗心を燃やしたくなるのは、スマートにできない自分が悔しいから。そんな自分ではこの目の前の男にはかなわない、釣り合わない。そんな気持ちがするからだった。
いつになくしおらしい態度のアキラに何か考えることがあったのか、ブラッドはふむ、と軽くもらした。
「相手が物を持っている時に一方的に仕掛けるのは感心しないな」
こぼれたらどうする、とブラッドは片手に持っていた自分のカップを脇に置いた。言われてみればそうだ。あれだけ強引に迫って事なきを得たのはひとえにブラッドの鍛えられた体幹のおかげかもしれなかった。
「それに、眼鏡にぶつかった。歯や鼻にもぶつからないように気をつけろ」
「だから、そのやり方がわかんなかったんだっつーの……」
ややあって、なるほど、とでも言いたいのかブラッドが微笑む。不敵なような、どこか面白がっているような笑みだった。しかしそれもすぐにどこか真剣な表情に変わった。
「いいか、両手でこの端を持って……」
目眩がしそうな程端正な顔がアキラに近づき、軽く目が伏せられる。眼鏡のフレームの、ブラッド自身の指が添えられたところにアキラの手が重ねられ、ゆっくりと、邪魔なそれを引き抜く。
「そうだ」
どこか満足そうな声と共に伏せられたまつ毛に、いつかのキスを思い出す。そうだった、初めてキスした時も、こうやってゆっくりと顔が近づいてきて教えられたことを思い出す。そんなことを思い出しながら、アキラは顔を傾けて静かにキスした。
目の前のこの男にきっとこれからも教えられていく。教えられたことで、自分ができていく。余白が埋まっていく。そんな予感と共に、やっと触れられた柔らかい感触が、アキラの胸をいっぱいにした。