【望月】玲夜の母親が亡くなった後の話母親が亡くなり、お見舞いに誰も来なくなってから、
玲夜は急激に反応を失いはじめた。
言語機能の鈍化、食欲の喪失、不眠。
精神的な崩壊が、想定より早く始まっている。
「やぁ、気分はどうかな、玲夜くん」
声をかける。玲夜の視線がわずかに揺れる。
反応はある、聞こえている。
「ちょっといいかな」
手を伸ばした瞬間だった。
玲夜の身体が跳ね上がり、激しい拒絶の動きを見せる。
「うわあぁぁっ!」
突然の悲鳴と、振るわれた腕。
僕の手首に軽く当たった衝撃とともに、玲夜の表情が歪む。
「やだ……やだっ……ママやめて……!」
フラッシュバック。
感情の抑制が効かなくなり、過去の記憶が意識の表層に出てきている。
「玲夜くん! ごめん、ごめんね。大丈夫だから」
すぐに声色を変える。
穏やかで、柔らかく、安心させる“声”を意識する。
この反応を長引かせるのは得策ではない。
玲夜はしばらくの間、泣き叫んでいた。
過呼吸の傾向は見られたが、失神や痙攣はない。
生体的リスクは低いと判断し、声が止むまで傍で見守った。
_______
やがて、涙が尽きたように、玲夜の反応が収まっていく。
僕は黙って身体を支え、ベッドを少し起こした。
脇に体温計を差し込み、数値を確認する。
「……少し、熱があるね」
「……う…」
うめくような声。言語ではなく、生理的な反応。
「薬、飲めるかな?」
うなずき。自発的な応答。
認知は完全に失われていない。
僕はカートから薬を取り出し、必要な量を口に運んだ。
服薬完了。嚥下確認、問題なし。
「いい子だね」
本来であれば、ここで部屋を出るのが通例だ。
「僕はそろそろ戻るよ。玲夜くん、おやすみ」
ベッドから離れ、ドアに向かう。
しかし、背後から小さな声が聞こえた。
「……せんせ……い……いかないで……」
……感情が戻ってきている。
「……っ」
振り返ると、玲夜がこちらを見ていた。
涙の残る目。震える指先。
壊れる前の被験体が、最後にすがる表情。
「……ひとり……やだ……」
その言葉に、僕は心を動かされなかった。
ただ、理解はした。
このまま放置すれば、精神状態が崩壊する。
被験体の維持優先。現段階での破損は損失だ。
「……そっか。ひとりは、怖いよね」
隣に腰を下ろし、手を差し出しながら視線を合わせる。
「今夜はここにいるよ。君が眠るまで」
玲夜は迷いながらも、手を差し出してきた。
僕はそれを包み込む。
骨格の形、皮膚の温度、握力。異常なし。
「……せんせいの手……あったかい……」
「玲夜くんの手も、ちゃんとあたたかいよ」
あたたかい、というのは嘘だ。
むしろ冷たかった。
だが、あたたかいと告げる方が、彼の心を安定させる。
「……ねぇ……せんせい……」
「ん?」
「……どこにも……いかないでね……」
その声は、かすかだった。
だが、強かった。
僕はその願いに、ただ笑顔を浮かべて答える。
「うん。どこにも行かないよ、玲夜くん」
……君が、壊れてしまわないようにね。