目の前のイーゼルに乗った一枚の絵。
かりかりと、複数の線が重なって一本の線になる。描画材の濃淡で生み出されたその絵は、不思議とどこかで見たことのある人物画だった。
「…あれー、おかしいな」
一成は、かりかりと頬を掻く。手についた汚れが、頬を黒く汚す。それでも一成は厭わずに、その手で目元を覆った。
「……モデル、決めてないんだけどなあ」
はぁとため息をついてその場に座り込む。手の隙間からもう一度絵を見ても、その人物にはどこか知っている面影がある。
「これ…スランプ的な? ははっ、それってまじまじにやばくね??」
さっぱりとした短髪と、目鼻立ちのはっきりとした所謂役者顔。
こんな容姿で思い浮かぶのは、彼しかいない。
「でもこれ、スランプというより」
蹲る一成の足元には、似たような人物の絵が書きかけのまま何枚も重なり落ちていた。
◇
人物画を描く。
それが、いま一成が進めている作品のテーマであった。テーマと言っても、誰をどのような状況でどのように描くかまでは決めていない。それでも、人物画を描かねばと、一成は空いた時間があればその課題に自ら取り組んでいた。
まだ肌寒い風が、開けた窓から吹き込む。
作品制作のためにと借りた倉庫には、乱雑に画材や資料が積まれている。
その中心で、一成はイーゼルに向かって座っていた。
「うーん」
一成は、窓を閉めようと立ち上がる。
つい先日までは漸く暖かくなったと思っていたのに、数日後にはこの寒さ。少しだけ通りの悪い鼻先を鳴らして、一成は窓を閉めた。
かたかたと鳴る窓を背に、一成は窓際に寄りかかる。そこから倉庫を見ると、相当に部屋を汚してしまったことに気付く。
一成は、誰に見せるわけでも無いのに大袈裟に眉を顰めて肩を落とした。
「ひぇ〜…」
情けない声を吐き出して、口をキュッと結ぶ。
別に明確な締切も目標もない作業ではあるが、ここまで手が進まないと困ったものだった。
「スランプとはまた違うんだけどなぁ」
抱えているデザイン等は順調だ。インスピレーションが止まることもなく、むしろ冴えたデザインが浮かんでくるほどだ。
だが、この人物画だけがどうにも手が進まない。
「これじゃ、人物画より肖像画だよねん」
ずるずるとその場に座り込むと、机から足元に飛ばされてきた紙を取る。
胸像画のような、人物の胸上の絵。
顔を支える首、肩、胸は、しっかりとした筋肉が描かれている。体格の良い、爽やかな青年の絵。どこからどう見ても、これは“彼”にしか見えない。
「タクスだよねぇ」
一成はため息をついた。
何度、何枚描いてもこの繰り返し。
意識していないのに、気付けば彼の顔を描いている。そんなはずないと思っても、どこか面影を持たせてしまうのだった。
「どうしよっかな〜」
どうもこうもないことは知っている。
一成は立ち上がって、イーゼルの前に向かう。そして椅子に腰掛けると、一呼吸とって、続きを描き始めた。
◇
「それ俺か?」
がたりと音を立てて椅子から転げ落ちる。一成が振り返れば、そこには丞が立っている。
「おい、大丈夫か」
丞に手を差し伸ばされて、一成は逃げるように腰をあげる。だが、思わず手を置いたイーゼルがその重みに耐えかねてぐらりと揺れた。
そしてそのまま、なす術なく再び体勢を崩した。
「わ!」
「っ…三好!」
反射的に目を瞑る。ばたんとイーゼルの倒れる音が派手に鳴る。
だが不思議と、身を打つ感覚は無かった。むしろ、何かに支えられている。一成が恐る恐る目を開ければ、丞の片腕に支えられている。
そして、丞の反対の手には、あの絵が掴まれていた。
「あ…えっと」
「大丈夫か?」
「……も、もち?」
慌てて自力で立ち上がって、身なりを整える。心配そうな丞の顔に、一成は思わず顔を背けた。
「た、タクス、あの…絵…」
一成の声に、丞は思い出したように手元の絵を持ち上げた。差し出された絵を一成は受け取ろうと手を伸ばした。
「タクス…?」
だが、一成が絵を手にしたのに関わらず、丞はじっとその手を離さない。それどころか、絵をまじまじと見つめている。
ぐいと一成が引っ張るが、丞の力強い腕はびくともしない。そのうち、絵が破れてしまうと一成は諦める。
「その…」
一成が丞を覗き込むと、丞は考えるように視線をちらちら動かし、それから一成を見据えた。
「描くところ、見てていいか」
「え?」
「続き」
絵を持つ丞の親指が、すりと表面をなぞる。
射抜くようにまっすぐと見つめる丞の瞳に、一成はごくりと唾を飲んだ。