斉藤タカ丸の不思議な夏休み茹だるように暑い8月。
世間では年々更新し続ける最高気温について、毎朝報道されている。斉藤タカ丸は、たった20日という短い夏休みの真っ只中だった。
「タカ丸、今日の最後のお客様は3時。カウンセリングだけ終わったら行ってきなさい」
父の声に、軽く頷いた。
汗を拭いながら、手にしていたカルテを端に寄せる。
地元の商店街の一角にある小さな美容室。
「美容室 斉藤」は、もう何十年もこの街で営業している。
凄腕の父を指名で来る常連客も多いが、最近は自分のコミュニケーション能力の高さを評価して訪れる若い女性客もちらほら増えてきた。
「髪、疲れてる感じしますね。最近、紫外線とか大丈夫でした?」
「えっ…あっ、あんまり気にしてなかった…!」
「でしたら、保湿のタイプを選んでみましょうか。豆乳成分が入ってて、仕上がりも軽いですよ」
「タカ丸くん、優しい〜!じゃあ、それで!」
誰かの髪に触れたり、話を聞いたり、提案したりするこの時間が好きだ。
うまくいかない日もあるけれど、「あ、この人に喜んでもらえたかも」と思えた時の感覚は、きっと一生忘れないと思う。
けれど、夢に向かう道のりは楽なものではない。
中学卒業と同時に、父のツテで海外で美容師の修行をさせてもらっていた。日本に戻って、いざ美容師免許を取得しようと思っていたのに。美容師免許は国家試験を受けなければいけないことが発覚して絶望。
タカ丸は現在、三年制美容専門学校に通う専門3年生。
まだ、美容師免許を取得していないから、父の店の手伝いはお客さんのカウンセリングやスパ・シャンプーの提供、ドリンクや雑誌といったサービスなど。早く誰かの髪を整えて笑顔にしたい。そんな期待が膨らむばかり。
現在通っている専門学校は高卒資格がなくても入れる専門学校だった。こんな事なら、専門学校の入学条件に高卒資格を入れて欲しかったものだと事実を知ったその日は嘆いていた。
しかし、そんな戯言を吐く前に手を動かさなければ何も進まない。
だから俺は、専門学校に通いながら、父の店の手伝いをしながら、通信制高校に通うことを決意した。
美容専門学校の実技とレポート課題。
通信制高校の試験対策。
そして、こうして店に立つ日々。
やることは山ほどある。
だけど
「この努力は、俺の未来のためだもんね」
鏡の前で笑うお客さんを見て、ぽつりとそう呟く。
なんだか肩の力が、スッと抜けた気がした。
今年の冬には国家試験を受けることになる大事な年。
友人と遊ぶ時間もろくに取れないけれど、今は純粋にこの多忙の日々を楽しむことができている。
追いつくためではなく、自分の未来を自分で掴むための道を歩いている実感があるから。
この夏を頑張れたら、
きっと来年は、少しだけ違う自分に出会える気がする。
閉店作業を終えると、時計は午後3時52分を指していた。
暑さは残っているが、湿気を含んだ風が吹き始めている。
この時間になると、いつも目的地も定めずに街を散歩した。
その時間に、自分のやるべきこと、やれること、やりたいこと。
いろんな未来について考えを整理する時間が心地よかった。
今日も街を歩く。
いつもの道。
いつもの商店街。
喧騒と、自転車のブレーキ音と、たまに鳴る猫の声。
けれど、この時間になると、通りが少しずつ静かになってくる。
活気があった昼とは打って変わって、熱気と一緒に街が少しずつ”影”へと移ろっていく感じ。
それは、子供の頃からどこか不思議に思っていたことだった。
夕方という時間帯は、明るいのにどこか怖くて、けれど少しだけ何かに呼ばれているような気もして。
ふと立ち止まる。
気づけば、妙に静かっだった。
そこには誰もいない。
昼間には賑やかだった八百屋も。シャッターが半分閉まっていて、呼び込みの声は聞こえない。
うるさい蝉の音も、子供の笑い声も聞こえない。
おかしい。
今日は、誰も、いない?
「……?」
あまりにも静かすぎる。
閉店時間にはまだ早すぎる時間であり、店員が誰一人としていない状況が違和感の正体なのだろうか。
それとも、風の音ひとつしないことか。
蝉の声、動物の鳴き声もしない。
まるで、今この場で自分以外の時間が止まってしまったような。
瞬きをした瞬間、風が止んだ。
そして、同時に景色が一転した。
慌てて後ろを振り返るが、そこは自分の知らない道だった。
さっきまで見えていた商店街も自転車も何もない、時代劇で見るような自然に囲まれた道並。
その通りの先には、さっきまで見えなかった建物がある。
古びた木造の校舎。
どこかで見たことのある風景。
でも、覚えていない。
懐かしいような、怖いような。
頭の奥が、少しだけ痛む。
何だかふいに、泣きたくなった。
その時だった。
「ようやく、会えましたね」
低く、穏やかな声が背後から聞こえた。
振り向くと、そこには見知らぬ、けれど、どこか見覚えのある青年が立っていた。
いつの日か、確か小学生の時に歴史館の展示で見たような衣装。現代にいては、少し悪目立ちするような装い。
藤色の忍び装束を身に纏った、ふわふわとした長い髪を一つに結んだ青年。
正直、こんな浮世離れした人にあったことがあれば忘れることはそうないと思うが、どうにも思い出せなかった。
輪郭は確かに”そこにいる”のに、どこか現実味がなかった。
真夏の陽炎みたいに、漣のように、その姿はわずかに揺れている。
「…誰?」
口から漏れた問いは、思ったよりも小さかった。
息を呑むのと同時に、心臓が”やめておけ”と警告を鳴らす。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
「俺の名前は、久々知兵助です」
名前の響きが、胸の奥を軽く叩いた。どこかで、聞いたことがあるような優しい響き。
けれど、思い出そうとすればするほど、霧が濃くなるように靄がかかった。
「あなたは、斉藤タカ丸さんですよね?」
「…そう、だけど」
「よかった。探していたんです、あなたを」
彼はそう言うと、ほんのわずかだけ、口元を和らげた。
心からの笑顔というより、安心したような、胸を撫で下ろしたような表情。
その仕草に、俺の中の警戒心が少し緩んだ気がした。
「ここ、見覚え…ありませんか?」
そう言って、久々知は木造校舎に視線を向ける。
「どこか、懐かしくないですか」
「…うん。……懐かしい、って言って良いのかわからないけど」
答えながら、自分でも不思議だった。
来たことなんてない。見たこともない。それなのに、胸の奥がざわついて、思い出しそうで、届かなくて。
「…ここに何かあるの?」
「さぁ。俺も、まだ全部わかっているわけじゃないんです」
「え、そうなの?」
久々知は首を横に言った。
その態度に、嘘が混ざっているようには思えない。
「でも…きっと、あなたにしか見えないものがあるのではないかと思って」
「俺にしか?」
「はい。だから、来てくれたのかなって思ってます」
どこまでも優しく、どこまでも曖昧。
けれど、否定も押し付けもしないその話し方は、妙に馴染むものがある。
沈黙が流れる。
蝉の声も、車の音も、どこにもなかった。
「案内するってわけじゃないけど、」
久々知がこちらを振り返って、優しく微笑む
「俺も、行こうと思っていたところなんです。よかったら、一緒にどうですか」
そう言って、俺の少し前を歩き出す。
その背中は、どこか懐かしくて、柔らかくて。
昔、誰かの背中を見ていた記憶があるような、そんな気がした。
扉を押すと、木の匂いがした。
教室の中には夕陽が差し込み、風がすうっと抜けていく。
久々知くんは、振り返らない。
けれど、俺の呼吸の速さにそっと歩幅を合わせるように、ゆっくり進んでいく。
きっと、ここで何かが始まる。
けれど今は、ただ隣に、誰かがいることが嬉しかった。
きぃ、と木の扉が音を立て、足元を踏むたびに床板がみしっ、と鳴る。
それはどこか懐かしようで、けれど明らかに”今ではない”音だった。
教室の中は、奇妙なほど整っていた。畳の机。竹で編んだ掲示板。端には”委員会日誌”らしき冊子が重ねられ、壁際には使い古された硯箱と筆があった。
「忍術学園、って言ってたっけ」
ぽつりと呟いてみる。
でも、その名前は脳に引っかかるのに、胸の奥の居場所感がぐるぐると混ざり合う。
「来たことあるのかな、ここ」
久々知くんは隣で黙っている。
けれど、その沈黙は居心地が悪いものではなかった。
問いに答えるでもなく、導くでもなく、ただ、言葉を探す時間をそっと受け止めてくれるような沈黙。
「俺、あんまり記憶力がいい方じゃないからさ。もしかして、どこかの文化財見学とか…いや、でも、そんなんじゃないよな」
窓の外の夕暮れは、また明日も暑くなると言わんばかりに眩しく目を刺激する。けれど、普段とは違って蝉の声が聞こえない。
目を凝らすと教室の廊下には薄く、風のようなものが流れていた。
誇りではない、霧とも違う。ただ、何かが流れている気配。
先ほどからずっと続く、妙な違和感。ジリジリと纏わり付く焦燥感。
まるで時間が止まっているような。
「タカ丸さん、先ほどからずっと気になりませんか?…この空間、全く音が聞こえない」
言われてみれば、外の音も、床の軋みも。全てが必要以上に静かすぎる。
息をする自分の音だけが、やけの大きく感じた。
「音がないのに、空気が動いている…?…もしかして、他にも誰かいるの…?」
そう呟いた時、背中にすっと冷たいものが這い上がった。
恐怖と言うよりも、視線を感じるような気配。
誰かに見られている。けれど、誰もいない。
廊下の先に目をやると、障子の奥、板張りの廊下の向こうに、ふわりと紙が舞い上がった。
白くて、小さな短冊。教室の前で風鈴のように揺れて、すぐにまた静かに落ちる。
「…風もないのに、動いた………」
「行ってみますか」
久々知くんは俺を見て、少しだけ首を傾けた。
無理強いはしない。けれど、誘っているわけでもない。
ただ「貴方がいくなら、俺も行きます」と、そう言ってくれているようだった。
俺は一瞬だけ迷って、それでも小さく頷いた。
歩き出す。
廊下の先へ。さっき紙が揺れた場所へ。足音が吸い込まれていく。木の床が静かに鳴る。
誰かが、居る。
そんな気がしてならなかった。
誰かが、俺を待っている。でもそれは、温かいものじゃないかもしれない。
懐かしいようで、でも、どこか苦しい。
一つの記憶の端に指先が触れたような感覚。
廊下の先に、風が吹いた気がした。
そこでふと、誰かの影が曲がり角の向こうに動いた気がした。
白い…?それとも、菫色の…忍び装束?
「あの、…ねぇ、今の、見た?」
「えぇ。人影、ですよね」
久々知くんも目を細め、その表情には緊張がある。
でも、どこか懐かしそうでもあった。
「もしかしたら、ここの”誰か”かもしれませんね」
「”誰か”って、生徒…?」
「さぁ、俺も、まだそこまでは…」
ふと、風が吹く。
短冊がまた一枚、俺の足元に舞い降りた。
拾い上げると、そこには墨でこう書かれていた。
『あそびましょう?』
思わず息を呑んでしまった。
けれど、その隣から短冊を覗き込んだ久々知くんがぽつりと呟いた。
「遊ぶっていう割には、あまり楽しそうじゃ、なさそうですよね」
彼の言葉に、思わず苦笑がこぼれる。
本の少しだけ、肩の力が抜けたような気がしたその直後。
「…タカ丸さ〜ん?」
どこか間延びしたゆるい声が、校舎の奥から響いてきた。
それは、音がないはずの空間で、妙に鮮やかにくっきりと響いていた。
懐かしい、けれども得体が知れない。ゆるくて、優しそうで、だけど何かだ変だ。
その声の主が、角の向こうで待っている。笑っているのかもしれない。でもそれが、怖い。
「タカ丸さ〜ん」
再び聞こえてきたその声は、さっきより近くて耳にまとわりつくように。
のんびりしていて、底が読めない。けれどどこか、執着じみた響きがあった。
曲がり角の先、障子の向こう側に気配がある。近づくにつれ、空気が湿っていく。
それは、夏の湿気とは別の、じっとりとした焦燥感の正体。
「誰…?」
小さく呟いた俺の声に、障子の向こうからにゅっと何かが突き出された。
白くて、俺より小さいのに、どこか力強さを感じる手。
障子の桟をつかむと、ゆっくりと音もなく障子が開いた。
そこにいたのは、久々知くんと同じだけど菫色の忍び装束を着た、年若い少年のような姿の人だった。
髪は灰色で束間のあるウェーブがかかっていて可愛らしい。手には木材で作られた農業用の大きなスコップのようなものを持っている。顔は笑っている、けれどその目は笑っていない。ギョロリとした黒目がちの瞳が、じっと俺を見つめている。
「タカ丸さん、こんなところで何してるんですか?迷子になっちゃったんですか?相変わらずですね」
「えっ、と、あの、君は…?」
「え〜?忘れちゃったんですか?僕ですよ、4年い組の綾部喜八郎。こっちは踏鋤の踏子ちゃん。ね、知ってるでしょう?」
確かに、どこかで聞いたような…気がする。
でも記憶は、やっぱり霧がかかったまま。
「タカ丸さんはまだ、思い出せないんですね」
喜八郎の声色が、ほんの僅かに変わる。
くすくすと喉の奥で笑いながら、ひとつ、またひとつと俺に近づいてくる。
「ま、いいですけどぉ。タカ丸さんって、そういうとこありますもんね。意外にマイペースで、鈍感で、誰かの思いに気づかないっていうか、気づかないようにしてるっていうか」
その言葉の刃先が、不意に鋭くなる。けれど笑顔はそのまま。
「綾部」
久々知くんが声をかけた。その瞬間、空気がピシリと凍った。
「うわ~、久々知先輩いたんですか~?ぜ~んぜん気付きませんでしたぁ~」
喜八郎の口元が、にぃ、と吊り上がる。
けれど、目だけは全く笑っていない。
「久々知先輩も、タカ丸さんに思い出させに来たんですか?」
「俺は、」
久々知くんは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「俺は、タカ丸さんの隣にいるだけだ」
「へぇ~、それって、隣にいる権利がまだあるって思ってるってことですか~?」
「喜八郎。お願い、やめて…」
思わず、間に入った。自分でもなぜ止めたのかわからない。
でも、久々知くんのその一言が、どこか痛々しく感じたんだ。
「そうですよね、タカ丸さんはまだ思い出していないんですよね。じゃあ、今日は…遊びの時間にしましょう」
そういうと、喜八郎は勢いよく背をむけ、廊下の先へ駆け出す。
「タカ丸さん、こっちです。着いてきてくださ~い」
その足取りは、妙に軽やかで、無邪気。だけど、足元にはぽっかりと開いた落とし穴がいくつも見える。
どうにもその穴が危険だと、普通ではないと、頭の中で警鐘が鳴っているような気がしたが聞こえないふりをした。
一歩、踏み出そうと思ったその時。久々知くんが、そっと俺の腕を引いた。
「タカ丸さん、気をつけてください。綾部言うの遊びは、普通じゃないかもしれません」
「うん。でも、行かなくちゃ。なんとなく、そんな気がする」
足元に注意しながら、ゆっくりと喜八郎の誘う方向へと歩き出した。
「ね~タカ丸さん、こっちですよ~?」
喜八郎の声が廊下の奥から響いていた。
その足音は不思議と軽く、まるで音を立てない。
けれど、足元をよく見ると、床の板があちこち不自然に浮いている。
一歩でも間違いたら、落ちる。
直感的にそう分かる。いや、きっと落ちてしまったら自力では戻れない。
「遊びましょうよ~。久々に、あの時みたいに」
何の”時”なのか。
思い出せないまま、必死にその声を見失わないように追いかける。
久々知くんが後ろで小さく言う。
「綾部の罠は、多分”記憶を揺らす”ためのものです」
「…罠って、落とし穴のこと?」
「それだけじゃない。多分、言葉とか仕草とか…そういったものまで、使えるものは全部使ってくると思いますよ。あいつなりに」
「なりに?」
「…優しさの、つもりだってことです」
久々知くんの口調には、どこか少し距離があった。
けれど、それは怒っているわけでも、拒絶しているわけでもなくて。
あいつは昔からそ言ういう奴だ。と、静かに理解している響きだった。
意味がわからなくて、注意力が散った瞬間。
途端に視界がぐにゃりと揺れ、足元の木版がぐん、と沈んだ。
「あっ……!」
足を踏み外した。瞬間、視界が真っ暗になる。一瞬だけ、ふわっと宙を漂った感覚ののち、ズドン、とどこか井戸の底のような場所に落ちていた。
ジメジメと湿った土。壁には掘った跡のような踏鋤の爪痕がいくつもある。
頭の上では、喜八郎がしゃがんでこちらを見下ろしていた。
「や~っぱり引っかかりましたねぇ、落とし穴」
悪戯っぽく笑う喜八郎。
けれど、その声の中にほんの一瞬だけ滲むような感情が見えた。
するりと穴の中に降りてきた喜八郎は、すっと俺の目の前にしゃがんだ。
落とし穴の中は、暗くて、狭くて、喜八郎との距離が物理的に縮む。
「…タカ丸さんって、いつも黙ってるじゃないですか。苦しそうにしてても、相談とかしてくれなくて」
何をいっているのか理解できなくて、返事ができなかった。
俺は喜八郎と初めて出会って、初めて会話をしたのに。彼が一体、俺に誰を重ねているのか。
でも、その口調も、声も、目も、あまりに鮮やかで、記憶の奥の、誰かと話していた夏の日の空気と、ぴったり重なる気がした。
「僕、知ってたんですよ。タカ丸さんが、久々知先輩のことで悩んでるって」
一気に胸がぎゅうっと締め付けられる気がした。
俺が久々知くんのことで悩んでいるなんて、俺は今日、初めて久々知くんと出会ったのに。
「でも、何もできなかった。ずっと近くにいたのに、何も。…気づいてました?タカ丸さん、久々知先輩のことで頭がいっぱいだし、どこか空回りなこともあって。僕たち四年生と一緒にいても、別のどこかを見ていたんですよ。その時の、滝夜叉丸たちの表情、見たことありましたか?」
四年生。滝夜叉丸。知っているようで、知らない単語。
喜八郎の言葉には、””タカ丸さん”を責めているようで、心配や優しさが含まれているような気がした。
「だから、怒ってます。そうなってしまったタカ丸さんにも。タカ丸さんを奪った挙句、悩ませている久々知先輩にも。だって、僕にとって自由にできる空間を奪っていったんですから」
喜八郎の声が、ぽつりと漏れた。
そこにあったのは、怒りでも皮肉でもない。
後悔だった。
「だからせめて、声をかけて遊んでもらおうと考えました。優しい、っていってくれたんですよ、昔。タカ丸さんが。喜八郎の罠が面白いって、笑ってくれたから。だから…もっと、何かできるんじゃないかと思ってみたかったんですけどね。出過ぎた真似でしたね」
まるで、迷子の子供が母親を探すような声色だった。
喜八郎の手から、白い短冊がひらりと落ちてくる。
そこには墨でこう書かれていた。
『自分を助けられないまま、あなたに笑ってもらいたかった』
その言葉を読んだ瞬間、今度こそ胸の奥がぎゅうっと締め付けられたのが分かった。
どうしようもなく、目の前のこの少年を抱きしめてあげたい衝動。
それと、何かを思い出しかけた。
けれど、それはまだ、霧の中。
その時
「タカ丸さん!!」
上から、久々知くんの手が差し出された。
「もう、戻らないと…このは長くいると、記憶が深く沈んでしまいます!」
差し伸べられた久々知くんの手を取った瞬間。土壁がずるりと崩れ、井戸の空間がざわめいた。
喜八郎が、ほんの一瞬だけ笑って呟く。
「思い出したら、また仲良くしてくださいね。まだちゃんと、伝えてないから」
その声が残響のように響いた直後、僕の視界はぶつりと切り替わった。
次の瞬間には、再び木の校舎の廊下に立っていた。
久々知くんが、すぐ横で息を整えている。
「大丈夫、ですか」
「うん…なんか、変な夢みたいだった」
けど。
ふと、手元を見た。そこには、さっき拾った短冊がまだ残っていた。
その文字の癖も、名前も、何もない。
けれど、不思議と安心する字体だった。
鐘の音が聞こえた。
はっと顔を上げた時、あれほど古びた木の香りを漂わせていた忍術学園の廊下が、まるで幻だったようになくなっていた。
目の前には、もうただの商店街が広がっていた。
電柱の隙間に見える空は、茜色から群青色へと移り変わっていく。
町並みは、あまりにも静かで、あまりにも普通だった。
蝉の鳴き声が聞こえる。
それでも、久々知くんはそこにいた。
「なん、だったんだろう…」
「まだ、時間はあります。急がずとも、ゆっくり理解していきましょう」
「その口ぶりだと、久々知くんは何か知っているの…?」
「知らないと言えば嘘になりますが、全てを説明できるほどは知っていないですよ」
「…そっか」
急に動き出した町の時間に体が追いつきそうにない。
なぜ、突然街の時間が止まり、忍術学園が現れたのか。
なぜ、綾部喜八郎だという少年が俺を知っていたのか。
なぜ、久々知くんが俺のそばで寄り添ってくれていて、君が誰なのか。
わからないことが多すぎて、頭がクラクラする。
とにかく今日はもう、何も考えずに休んでしまいたかった。
「あの………」
不意に、道端にいた女の子が声をかけてきた。
「え、あ、どうしたの…?」
「お兄さん、大丈夫?一人でぶつぶついってるけど、どこか具合悪いの?」
「え……」
唐突に投げかけられた疑問に頭がおいつかず、その場でショートしてしまう。
すると、その子の母親らしき人物が慌てて少女の手を引き、慌てて謝罪をすると去って行ってしまった。
その時、やっと俺は確信した。
久々知くんの姿は、他人には見えていないんだ。
「あの……やっぱり、久々知くんって幽霊、とか?」
「………俺にも、よくわかりません」
「でも、他の人には見えていないんでしょ?」
「かもしれませんね。でも、タカ丸さんには見えているでしょう?」
久々知くんはそう言うと、静かに微笑んだ
風が吹く。
豆腐屋の暖簾がふわりと揺れ、どこからか夕食の匂いが流れてくる。
夏の匂い。人の暮らし。でも、その空気の中に久々知くんは溶け込んでいない。
「これは、夢なのかな…なんだか、変な感じ」
そっと呟きながら、足を一歩、家の方角へ向けた。
久々知くんは、特に何も言わずに隣を歩いてくる。
振り返ってみても、足音も影もちゃんとある。
触れられる気さえするのに、誰にも見えていない。
それは、怖いものとはまた違っていて、何故か安心感を与える”不思議”だった。
「ねぇ、久々知くん。俺たち、どこかで出会っていたのかな…そうだったら、いいなぁ」
君のことを、知ってみたい。
初めましてなのに、いつも寄り添ってくれていたみたいな不思議な感覚。
もし、この温かい優しさの正体が、俺たちはどこかで出会っていて再会したものだとしたら素敵だと思うんだ。
「俺たちは、遠い昔にもう出会っていますよ……あなたが思い出した後も、そう思っていてくれたら嬉しいです」
その言葉に、何故か心が強く揺れた。
鼓動が、いつもより一拍だけ速い。
日が沈む頃の温度が、肌がまとわりつくように感じる。
家の着く頃には、町はすっかり夜の顔になっていた。
外灯の下で、久々知くんは立ち止まる。
「では、また」
そのまま、ふっと身を翻すと、久々知くんの姿は路地裏の影に吸い込まれていった。
流石は忍者の格好をしているだけあるなぁと、他人事のようにぼんやりと考える。
まるで、最初から居なかったように俺だけがその場に残った。
でも、確かに話して、歩いて、差し出された手を握って、あの学園に行った。
「ただいま」
「タカ丸、おかえり。今日は随分と遅かったじゃないか」
「うん、ちょっとだけ遠くまで」
「日が沈むのが遅いとはいえ、暗いことに変わりはない。気をつけなさい」
「分かってるよ、ありがとう」
夕飯を済ませて、シャワーを浴びながらながら今日の出来事を振り返る。
これはきっと、夢じゃない。夢じゃないけれど、現実と地続きでもない。
だけど、どちらでもない場所に確かに何かがある気がしたんだ。
浴室の鏡に映る自分の顔はどこか疲れていて、けれど、少しだけ晴れた目をしていた。
「また、明日も会えるかな」
自分に言い聞かせるように、おまじないを唱えるように、少しの希望を織り交ぜて。
明日もまた、誰かが俺を待っている気がして。
今日は一度、休んでしまおう。
カランコロン。
翌日の午前、開店時間から少し立った頃。
美容室斉藤のドアの風鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
受付から顔を出した瞬間、そこに立っていた高校生と目が合ってピタリと動きが止まった。
ボサボサの髪。癖がついてうねっており、耳も襟足も隠れている。
制服ではなく、古着のTシャツにジーンズ。
無頓着な佇まいに反して、顔立ちは整っている。
そしてもう一度、手元の予約表の名前を確認して再度彼に向き合う。
「…ご予約の、綾部さん…で、よろしいですか?」
「あ、は~い、綾部で~す」
どこかで見た事あるとか、そんなレベルじゃない。
だって、彼の面影は昨日見た綾部喜八郎と酷似している。
けれども、昨日とはどこか様子が違う。
「お待たせしました、こちらのカウンセリングテーブルへどうぞ」
「どうも~」
間延びした返し方は、間違いなく昨日の様子そのもの。
もしかして、本当に似ているだけの別人なのだろうか、いやでも、名前も全く同じでこんなに似ているなんて、とぐるぐる思考を回しながらも、的確に作業を進めていく。
「本日は、どういったご要望ですか?」
「いや~、クラスメイトに怒られて来たんですよ~。”お前は人間としての最低限が欠けている!”とか”中身のポテンシャルが無駄死にしてる”とか。髪くらい整えろって、めっちゃキレられて…」
「…もしかして、それって滝夜叉丸じゃ……」
「え?あ、そうですけど…なんで知ってるんですか?」
「…え、あ、その…友人に似た話をした人が居て…なんとなく似てるのかもって」
「ふ~ん、ま、どうでもいいですけど」
カウンセリングシートに名前を書いてもらいながら、ふとその筆跡にも心が揺れる。
柔らかく、少し力の抜けた文字。昨日、見た短冊の文字と、少し似ていた。
「じゃあ、今日はどうしますか?カットとトリートメントですか?」
「え~、じゃあ……タカ丸さん、のおまかせで。さっぱりしたいです~」
「了解です。では、髪質診させてもらいますね~」
そっと手で髪に触れる。
指に触れる毛先が、何故だかとても懐かしかった。
それだけで、心が少しだけ落ち着きを取り戻してくる。
「…タカ丸さんって、手つき柔らかいですねぇ。なんか…落ち着きます」
「ありがとうございます…お客さんが落ち着ける空間を作りたくて」
「へ~……なんか、いいですね。懐かしい感じします」
「…え?」
「なんか…前にも、こんな会話をして、安心したことあったかもなぁって。夢かもしれないですけど~」
その言葉に、一瞬だけ手が止まった。
思わず、彼の横顔を見てしまう。
けれど、喜八郎はまるで気づいていない様子で、天井の照明をボーッと眺めている。
「…もしかして、昨日って変な夢とか、見ませんでしたか…?」
「夢ぇ?…う~ん、見たような、見てないような…あ。でも、なんかいつもより沢山穴を掘ったような気がします。ま、起きたら何もなくて、あ~夢かって感じで」
「…」
「でも、不思議と…嫌な感じはしませんでしたよ。むしろ…なんか、大切な人と会ってた気がするんですけど…誰だったかなぁ」
それを聞いて、胸にじんわりと熱が広がる。
それはまるで、昨日の続きを誰かが教えてくれるような感覚だった。
同時に、久々知くんが昨日言っていた言葉が、ふと胸に響く。
『でも、タカ丸さんには見えてるでしょう?』
やっぱり、夢じゃない。
そんな確信にも似た気持ちが、そっと心に宿る。
今ここにいる喜八郎は、昨日の彼とは別人かもしれない。
けれど、想いの芯はどこかでちゃんと繋がっている気がしたんだ。
カットが終わり、髪を乾かして整えると、鏡の中の喜八郎は思わず目を丸くした。
「わ、誰これ…ちょっとイケメンになっちゃったじゃないですか~」
「ふふ、元がいいんですよ」
「それほどでも~…て、あ。滝夜叉丸に見せたら絶対にうるさい…”その調子で服もなんとかしろ!”とか絶対言ってくる…」
鏡越しに、彼の笑顔が映る。
それは、落とし穴の中で泣きそうに笑っていた喜八郎とは違って、ずっと今を生きている人間の、まっすぐな笑顔だった。
帰り際、見送りに出ると、喜八郎はドアの前に立ち止まって、ぼそっと言った。
「…また、来てもいいですか?」
「もちろん、お待ちしてます!」
「…じゃあ、また来ます。次は…なんか、もうちょっとちゃんとした服できます~」
そう言って去っていく背中が、どこか名残惜しいような、あたたかいような。
風が吹く。
不思議な一週間の、二日目の始まりだった。